今にも漏れてしまいそうな欠伸を噛み殺しながら、二限目の講義を受けるべく教室のドアを開け、彼は一瞬入る場所を間違えたかと疑ってしまった。
 普段は遠くから通学している者は眠たい一限目の授業を終え、眠気を引きずったまま二限目を迎えるのだが、今日に限ってがやがやと騒がしい。
 並べられた椅子に腰掛けながら、それぞれが友人たちと何やら話をして盛り上がっていた。
 朝っぱらからこの異様なテンションの高さは何事だろうか。
 けれど、やはり遠距離通学でたった今大学に着いたばかりの彼がその理由を知るはずもなかった。


「よぉ、今中。」


 と、吃驚して扉に支えていた彼に唐突に声がかかった。
 とはいえそれは聞き慣れた友人の声で、今中と呼ばれた青年は不思議そうに首を傾げながらも友人の隣へと腰掛ける。


「何の騒ぎだ?」
「ああ、なんか編入生が居たらしいぜ。俺もよく知らねぇけど、そいつがすげぇ奴みたいなんだ。」


 すげぇ奴?と今中は更に首を傾げる。


「なんでも学長に無理矢理入学を取り付けたとか。」
「なにぃ?そんなのアリか?」
「それがな、そいつの入試結果が凄くてさ。なんと全科目満点らしいぜ!」


 どうだ驚いたか!と、自分のことでもないのに得意げに話す友人に今中は苦笑した。
 確かにそれ自体は凄いことだと思うが、あくまで前例がなければ、である。
 自分には絶対にできないことでも、ごく身近にそんなことをやってのけた友人のいる今中にとって、彼らほど驚くことではなかった。


 レベルの高い難関大学と言われるこの東都大の入試で、全科目満点を取った新入生。
 それは、以前はマスコミなどにも多く取り上げられていた、多分国内で最も有名だろう探偵、工藤新一だった。
 彼が有名になった原因は2つある。
 ひとつは世界的に有名な推理作家を父に持ち、日本の男性を虜にした女優を母に持つという話題性。
 そしてもうひとつは、僅か16歳にして誰にも劣らない探偵としての能力の高さを見事に発揮させたからだ。
 その能力が警視庁の敏腕警部に強く買われ、一時は新聞の第一面を占めることも珍しくはなかった。
 だがどういうわけか、最近の彼はマスコミの前に姿を見せることをひどく嫌っている。
 その影響かどうかは知らないが、入試で彼が全科目満点を取ったことを知る者はいなかった。
 新入生総代も、彼は自ら辞退している。
 今中がそれを知っているのは単にここの学長がたまたま両親の知り合いだと言うことと、件の名探偵とも仲が良いためである。


「ま、何でもいいや。こんだけ騒いでるっつーことはそいつ、こっちに来るんだろ?それより工藤はまだ来てねぇのか?」


 今中がぐるりと構内を見渡す。
 あちこちに集まっては熱心に話し込んでいる彼らの話題がひとつなのだと思うと、なんともおかしな光景だ。
 これでは時間になって教授が入ってきても、まるで授業にならないだろう。
 編入生の話題で盛り上がるなんて中学生みたいだが、今中にとっては結構どうでも良かったりする。
 そんなまだ会ったこともない人物よりも、今中が気になるのは姿の見えない友人のことだった。
 用事だ体調不良だと度々授業を抜けることの多い新一にとって、この水曜日の二限は出ないと拙い授業なのだ。
 いつもなら先に来て場所を確保してくれている彼が見えないということは、今日は欠席なのだろうか。
 それでは代返でもしてやるかと、そう思って尋ねた今中だったが、返ってきた答えは意外なもので。


「いや、工藤は来てねぇよ。それにその編入生は工学部に入るらしいぜ。」
「工学部ぅ?」
「俺もよく判ンねぇんだけど。しかもさ、そいつ――――」


彼がそう言いかけたとき、いきなりざわめきが教室内を駆け抜けた。
















>> iconoclasm...















 ざわめきに誘われるように視線を向けた先には新一と、そして噂の編入生が立っていた。
 何を話しているのかここからでは聞こえないが、何か説明でもしているのだろう新一の半歩後ろを頷きながら歩いてくる青年。
 青年と呼ぶにはまだあどけなさが抜けきっていないが、人好きのする愛嬌のある笑みは充分に美形と呼ばれる容貌をしている。
 しかも驚くことに、その容姿は新一とそっくりだった。
 違うと言えばおさまりの悪そうな髪が好き勝手に跳ねていることぐらいだろうか。
 けれどクールで繊細なイメージがある新一に対して、青年のくるくる変わる表情が時折見せる悪戯な目は、およそ新一とは正反対な性質を持っているように思わせた。


 そして何より驚きなのはその青年が、今、日本に限らず世界的に有名になりつつある新進気鋭の人気若手マジシャン、黒羽快斗だったからだ。
 なるほど、これでは誰もが噂もしたくなるわけだ。
 快斗はマジックの腕はもちろんその見目の好さも手伝って、若年層から老人まで、男女に関係なく幅広いファンを抱えている。
 この東都大の中にもマジシャン黒羽快斗のファンは大勢いるのだ。


 けれど、いきなり登場した快斗に構内の誰もが驚愕する中、今中はもっと別のことに驚いていた。


「――快斗!?」


 がたっ、と椅子を鳴らしながら立ち上がる。
 その音と声に反応して新一と快斗がこちらを振り返った。
 快斗が目を瞠り、新一が彼と今中を見比べる。
 やがて先に状況を呑み込めたらしい快斗が楽しげな笑みを浮かべると、新一と共に今中の座っている席までやって来た。


「泰介じゃん。久しぶり♪」
「久しぶりじゃねぇよ。編入生ってお前だったのか。…まぁ、確かにお前だったら全科目満点ぐらい取れるよな。」
「とーぜん♪俺、あったまいーもんv」


 そう言った快斗がニッと浮かべた笑みは、嫌みったらしい台詞の割りにどうにも憎めないものだった。
 言葉以上の意味を含まない素直な笑みはなぜか嫌いになれないのだ。


 と、それまで黙っていた新一がそこで漸く口を挟む。


「今中、こいつと知り合いだったんだ?」
「ああ、高校からの知り合いなんだ。」
「そうそう、悪友だよなv」


 彼、今中泰介は江古田高校出身で、快斗とは実は高校の三年間ずっと同じクラスだったクラスメートである。
 快斗は頭がいいクセにサボるのが大好きな問題児だったのだが、実は今中もそのクチで、高校時代はふたりして何かと悪戯をしては担任を悩ませたものだった。
 彼は父親が病院の院長、母親が正看護士という医者の家系に生まれ、自らも医者になるべく幼い頃から教育を受けていたため非常に頭がよかった。
 けれど学校の友人と馬鹿をやるのが大好きな彼は、自他共に認めるお祭り男である快斗といつの間にか“悪友”となっていたのだ。


「悪友って…なんか想像つかねーな。快斗なら判るんだけど。」


 新一、ひでぇ!と嘆いている快斗を無視して、眉を寄せ怪訝そうに覗き込んでくる新一に、今中は苦笑しながらふと湧いた疑問をそのまま口にした。


「つーか、工藤と快斗が知り合いって言う方が俺は驚きだけど?」


 快斗とは高校の三年間ずっと――と言っても快斗が渡米している間を除く――連んできた今中だが、工藤新一と知り合いだなどということは聞いたことがなかった。
 お調子者の快斗のことだから、探偵として有名すぎるほどに有名な新一と知り合ったならひと言ぐらい話していてもいいものなのに。
 けれど話はもちろん、一緒にいるところを見たことすらないと今中は首を傾げたのだが。


「――俺と快斗は、今日が初対面だよ。」


 新一が笑みを浮かべる。
 その笑みを間近に見た今中は数秒、呼吸を止めた。
 今中だけではない、周りで三人の会話を盗み聞きしていた者、遠くから眺めていた者も息を呑んでいる。


 編入生へと向けられていた視線が、いつの間にか新一へと注がれていた。


「まぁそれで、悪ぃんだけど二限目出れそうにないから代返頼みに来たんだよ、俺。」
「え?…あ、あぁ。構わないけど…」
「サンキュ。また今度昼飯奢るから。」


 それだけ言い残すと、教授が来る前にさっさと新一は快斗を連れて出て行ってしまった。
 どうやら彼らが戻ってきた理由は自分に代返を頼むためらしいと思い至った今中は、けれどなぜか新一が言うようにふたりが今日知り合ったばかりの関係とは思えなかった。
 ふたりの出て行ってしまった扉をぼんやりと眺めながらそんなことを考えていると、くいくいと後ろから服の裾を抓まれて我に返る。
 振り向けば、いつの間にか存在すら忘れていた友人の姿。
 ぽっかりと口を開けている様子はなんとも情けないが、理由が理由だけに誰にも責められないだろう。
 何せ、そこら中に似たような顔があるのだから。


「い、今の、工藤だよな…?」
「…そうだと思うけど。」
「なんか…」


 口を開き、言い淀む。
 彼の言いたいことが今中にはよく判った。


「――工藤って、あんなに凄い奴だったっけ?」


 そう。凄い、としか言い表せない。
 あの笑みは格好いいとか、綺麗とか、そんな安っぽい言葉だけでは言えないのだ。


 確かに、初めて新入生の中にあの工藤新一がいると聞いた時は誰もが驚いたものだった。
 工藤新一とは有名な小説家の父を持ち、これまた有名な女優の母を持ち、本人も探偵などという非日常の世界にいる人だと思っていた。
 けれど実際に同じ大学に通い付き合ってみると、どこにでもいる学生となんら変わらない男だった。
 それが皆が最初に抱いた工藤新一の印象である。
 表面上では「有名人と言っても実際はこんなものだろう」と思っていても、内心は結構ガッカリしていた者も少なくない。
 どんなに“救世主”だなどと呼ばれようとも彼も人の子であることに違いはないのだが、何か自分たちにはない特別なものを持っているのではないかと、密かな期待のようなものを抱いていたのだ。
 かくいう今中も、己の勝手なイメージを押付けたりこそしないが、拍子抜けしたのは事実である。


 それがどうだろう?
 新一はただ笑っただけだ。
 なのに、その笑みにまるで吸い込まれるように惹きつけられた。
 格好いいなんてものではなく、綺麗なんてものでもなく、あの笑みは“凄い”としか言いようがない。


 それはまさに名探偵と呼ばれた彼の持つ、凄まじいまでに鮮烈な存在感――引力。


「…なんか、初めて工藤が“名探偵”に見えた気がする。」


 友人の呟きに、今中は無言で頷いた。




















* * *


 殊更人通りの少ない道を選んで歩きながら新一は隣でクツクツと笑い続けている男を一瞥した。
 何がそんなに楽しいのか、快斗は先ほどからずっと笑い続けている。
 理由に予想がつくもののいい加減鬱陶しくなった新一は不機嫌気味に口を開いた。


「いつまで笑ってんだよ。」
「いやぁ、名探偵ってば役者でも食っていけたんじゃねぇかと思って。」
「…俺は今も昔も探偵だ。」
「そりゃそうだけどさ。」


 ニッ、と悪戯な視線を寄越した快斗は漸く笑いがおさまったのか、うんと小さく伸びをする。
 もう五月に入ろうというこの時期に吹き抜ける風は暖かくも冷たくもなく、ふたりの頬を優しく撫でていく。
 その心地よさにほんの少し目を細めて、快斗は同じように目を細めている新一をこっそりと盗み見た。


 自分とそっくりと称される、けれどどこまでも似ていない人。
 ほっそりとした体つきは一見華奢なようにも見えるが、そこには驚くほど強靱な力が秘められている。
 そう、それこそ――警察ですら手出し不可能と思われていた巨大組織を壊滅させてしまえるほどの。
 新一が工藤新一としていられなかった潜伏期間を子供の姿で乗り切ってみせた演技力、度胸、そして強かさ。
 それにはいつも感服させられる。
 そして今もまた、こうしてからかってはいるけれど、内心ではこれ以上ないほどに感服させられていた。


 驚愕に声も出ないと言った様子の友人、そして他の学生たちの顔を思い浮かべる。
 その表情が雄弁に物語っていた――果たして工藤新一とはこんな男だったろうか、と。
 新一は江戸川コナンという仮面から解放されてから後、工藤新一としてもまた別の仮面を被り続けていたのだ。
 それは快斗との約束でもある。
 確実な勝利を手にし、ふたりが本当の姿で出逢えるようにと、それまでは表だった活動をせずに自分たちの存在を隠すこと。
 そうして新一はそれを見事にやり遂げた。


 新一の本来の性質は“光”だ。
 けれど今日、あの桜並木の下で再会を果たすまでの新一の気配は、驚くほどにその形を潜めていた。
 光どころか蝋燭の頼りない炎よりも心許ない、それ。
 その姿を今まで見せられてきた彼らはさぞ彼の突然の変化に戸惑わされたことだろう。


「泰介も気の毒にな…」


 快斗は新一と今中が友人だと知り、彼の苦労をこっそり笑った。


「…ンだよ、それ。」


 と、聞かれる予定ではなかった小さな呟きを聞き咎められ突慳貪な声を返されるが、快斗は慌てるどころか不貞不貞しくも口端を持ち上げながら言うのだ。


「あいつも厄介な奴を友人にしたもんだな、ってね。新一に振り回されてたのかと思うと可哀想v」
「バーロー、別に振り回してなんかいねーよ。」
「そう?でも新一、泰介にも“病弱”って言ってんだろ?ああ見えてあいつ、随分心配性なんだぜ。」

 まぁ、トップシークレットだから仕方ないだろうけど。


 新一は事件でしばしば抗議を休むことがあるけれど、大学側にはそれは体調不良を理由として認めて貰っている。
 新一が警察と関わりがあることは決して漏らしていない。
 そして馴染みの警部にも己の名を決して出さないことを条件に協力をしている。
 新一の存在は一部の関係者にしか漏らしていないし、その関係者も彼のことは決して名前で呼ばないようにしている。
 新一の警戒は非常に徹底していた。


 けれど新一はどうやら快斗の「振り回している」という言葉が気にくわなかったらしく、ムッとむくれるとそっぽを向いてしまった。
 それに快斗は小さく苦笑して。


「怒んなよ。…そのおかげで、今の俺とお前があるんだから。」


 そう言って、新一の手をそっと引く。
 二限目には使われないはずの講堂の前まで来て、しっかりとかけられていた鍵を怪盗の手際の良さで一瞬のうちに取り外した。
 あまりの素早さに呆れを通り越して感心してしまっている探偵に悪戯が成功したような笑みを向け、手を掴んだまま中へと体を滑り込ませる。
 中は講壇を中心に扇形に広がるつくりで、講壇を見下ろす形で階段のようになっている席の最前列に新一を座らせた。


「…それでは勝利と、変わらず探偵であり続けるという夢を勝ち取った稀代の名探偵殿へ、私の掴み取った夢をご覧に入れましょう。」




 講壇の前に凛然と佇んでいた快斗が、見惚れるほど洗練された動きで優雅に腰を折る。
 それは夜を自由に飛び回る白い怪盗を彷彿とさせるようで、それでいてまた別の気配を纏っている。
 新一は、これが“黒羽快斗”なのだとどこかで思った。


 怪盗と同じハッと人を惹きつける何か表現しがたい引力を有し、人を寄せ付けない怜悧な気配を持つ。
 怪盗キッドは間違いなく快斗の一部だった。
 けれどそれと同時に、怪盗とはまた別の人懐こい気安さを感じさせる。
 この矛盾していて曖昧な存在こそ黒羽快斗という存在なのだろう。


 新一の口角が上がる。
 面白いと、その顔には書いてあった。


「大事な二限をサボったんだからな。楽しませろよ?」




 別に、約していたわけではないのだけれど。
 再会を果たしたならきっと見せてやろうと、見せてもらおうと、互いに思っていた。
 まだ白い衣装を脱ぎ捨てることはできないけれど、快斗がずっと願ってきた夢。


 ――父にも負けないマジシャンとなること。


 一度は諦めかけた。
 罪人となる道を選んだ時、その資格は失ったものと思っていた。
 けれど、新一が免罪符をくれた。


 怪盗キッドであることは生涯消えない罪だ。
 けれど罪を償う術は何もひとつではないのだ、と。
 怪盗として誰かを苦しめた分、いやそれ以上に、人々の顔に笑みを咲かせること。
 そしてどんなに苦しもうと、その道から逃げ出さないこと。
 それが――新一から与えられた快斗への罰。


 快斗の口許にも笑みが浮かぶ。
 漸く夢への第一歩がここから始まるのだ。
 新一に――快斗の全てを根こそぎ奪っていったこの探偵に、己の今の姿を見せること。


「最高の魔法をもって、貴方の心を魅了しましょう。」


 そしてその全てを、根こそぎ奪ってしまおうか。



 ふたり以外存在しない講堂に束の間、魔術師のマジックショーが開かれた。





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---------------- アトガキ --------------
お久しぶりです(爆)
当初「overthrow」というタイトルで開始したこのお話なんですが、
急遽「iconoclasm」に変更致しました。
今回、散々タイトルには悩まされました…
どれもイマイチぴったり来ないんだもん(>_<)
そしてこのお話は「petalscape」の後のお話ですが同じ日の話であります。
事件の要請で遅刻した上、快斗のマジックを見るためサボる新一…
最低!でもそんなところが最高!笑

iconoclasm = 偶像破壊