「――…って、知ってたか?」 翻る白いマント。 どこか寂しげな眼差し。 そして、風に揺れるクローバー。 探偵はその言葉に自分の全てを懸けた。 「いつか真実を手に入れたら、この始まりの地で、きっと――…」 |
promised clover ― 枯れない約束 ― |
街を彩る赤と緑、ショーウインドウに並べられたポインセチア。 陽気な音楽にどこか浮き足だった人々。 どこもかしこもクリスマス一色に染まったこの日、12月24日に、新一はひとり浮かない顔で窓の外を眺めていた。 ここ数年続く暖冬のせいか、今年はまだ一度も雪を見ていない。 今日も今日とて雪などとても降りそうにないいい天気で、残念ながらホワイトクリスマスにはなりそうになかった。 新一にしてみれば、寒くなくていいじゃねーか、なんて現実じみた感想しか持ち合わせていないのだが。 所詮探偵なんて現実主義者でなければなれないのかも知れない。 そんな下らないことを考えていると、子供たちのひどく浮かれた声が聞こえてきた。 「サンタさん、今夜来てくれるんだよね♪歩美、逢ってみたーい!」 「でも、夜遅くまで起きてる悪い子のところには来てくれないんですよね…」 「バーカ、サンタを見るよりプレゼント貰う方が大事に決まってんじゃねーか!」 「…元太君はどうせうな重でもお願いしたんでしょう」 「光彦君はなにをお願いしたの?」 「僕はですね…」 くすりと、新一は思わず笑みを漏らした。 サンタクロースが存在すると信じている子供たちが微笑ましかった。 そう言えば自分は何歳頃までサンタクロースの存在を信じていただろうか。 両親も自分も無信教だが、お祭り好きの彼らがこんなおいしい行事を放っておくはずもなく、幼気な子供相手に随分手の込んだ芝居を打たれたものだ。 その懲りすぎた演出のせいで、不自然さを感じた新一は自力で犯人、もといサンタに扮した父親を突き止めてしまったのだが。 小学校に上がる頃にはもうサンタに関する世間一般の認識を理解していた気がする。 今思っても、なんとも可愛げのない子供だった。 「――コナン君?」 と、不思議そうに自分を覗き込んでいる歩美に気付き、新一は慌てて体を引いた。 「な、なに?」 「どうかしたの?ずっと呼んでるのに、コナン君全然気付いてくれないんだもん」 「あはは…ちょっと考え事してて…」 笑って誤魔化しながら、心中で舌打ちする。 そうだ。 今の自分は工藤新一ではない。 江戸川コナンという、小学一年生の子供なのだ。 小さくなってすぐの頃こそ慣れない名前に反応できないこともあったが、今ではもうすっかり慣れたはずだった。 それが、最近になってまた、自分がコナンであることを忘れてしまいそうになるようになった。 原因は分かっている。 ――彼≠ェ、あまりに普通に接するから。 だから、まるで工藤新一に戻ったような錯覚を起こしてしまうのだ。 この手もこの足も、何もかも彼≠ニは釣り合わない姿のままだと言うのに。 「ねぇ、コナン君はサンタさんに何をお願いしたの?」 歩美の質問に、元太や光彦も興味深そうに聞き耳を立てている。 普段クールで大人びている江戸川コナンの欲しいものとは何か、みんな気になるのだろう。 けれど、新一はそんな彼らの期待に応えず、軽く肩を竦めながらつまらなさそうに言った。 「俺は何ももらわねぇよ」 「えー!なんでっ?」 素直に驚きながら歩美が詰め寄る。 コナンはもらわないんじゃなくてもらえねんだよな、などと元太が嬉しそうに茶化すが、あながち外れてもいない。 新一にしては珍しく、どこか自嘲めいた笑みを浮かべながら言った。 「…欲しいものがないだけだよ」 人から与えてもらって満足できるような温い願望など持ち合わせていない。 あるのは、身も心も灼け焦げて、悪くすれば命すら危ぶむような切望だけ。 だから、この日に願うことはただひとつ。 ――奇跡。 それこそが、今最も新一の必要としているものだった。 居候している毛利家には寄らず、新一は真っ直ぐ阿笠邸に向かった。 以前は小学生から束の間高校生に戻れる息抜きの場所として訪れていた阿笠邸だが、今ではここに来ない日の方が少ないくらいだ。 その理由は、同級生の灰原哀の様子を見に来るためだった。 「あいつは?」 「相変わらず、地下の研究室にこもりっきりじゃよ」 迎えに出てくる阿笠博士の表情を見れば聞くまでもないことだとは思いながらも、新一はいつもと同じ質問を繰り返す。 それに対する博士の返答も代わり映えのしないものだった。 新一は博士と二、三言葉を交わし、地下の階段を降りた。 以前は博士の研究室だったそこは、いつの間にか哀の研究室に変わっている。 組織の研究室ほど充実した設備はないが、哀はこの研究室でAPTX4869の解毒剤の開発を行っていた。 けれど、近頃の彼女が地下にこもりきっている理由は他にあった。 ドアノブの回る音が微かに響く。 こちらの存在にはとうに気付いているだろうに、だからこそだろう、哀は振り返ろうともしない。 新一も特に気にすることなく、一週間前と比べてずっと散らかった室内を見回した。 哀はここ数日間ずっと学校を病欠していた。 理由は風邪。 けれどそれは阿笠が学校側に対する言い訳として言っているだけで、実際はこの通り四六時中パソコンに向かいっぱなしなのだ。 まるで何かに取り憑かれたように研究に没頭している。 「あまり根詰めすぎるなよ」 溜息とともにもれた囁きに哀の肩がぴくりと揺れた。 けれどキーボードを打つ指が止まったのも一瞬で、すぐに再開すると、哀は突慳貪に言い放った。 「…放っといて」 「顔色悪いぞ。ちゃんと寝てないだろ。おまえがそんなだから博士も心配して…」 「――そんな悠長なこと言ってる場合じゃないでしょう!?」 小さな拳を思い切り叩きつけ、哀は立ち上がりざまにこちらを振り仰いだ。 反動で椅子が転がるが、そんなものはどちらの気にも留まらなかった。 憎しみすら込められているような哀の瞳を、新一はただ静かに見返している。 「怒るなよ」 「…っ、わかってるわよ。これはただの八つ当たりだわ。責められるべきはあなたじゃなく、私だもの」 「…そういうことを言ってるんじゃない」 「いいえ、私にはそれだけよ」 下唇を噛み締め、椅子を起きあがらせると、哀は何事もなかったかのように再びパソコンに向き直った。 彼女が素直に言うことを聞くようなたまじゃないことは分かっていたが、予想と全く違わない反応に、新一は再び出そうになった溜息をすんでで堪えた。 毎日似たような遣り取りを繰り返せばこれぐらいのことは新一でなくとも容易く予想できるだろう。 哀は普段はクールに見えて、一度自分を見失うと手がつけられなくなる。 とは言え、放っておけば彼女はいくらでも無茶をするだろう。 ただでさえこの一週間必要な睡眠を摂っていないのに、これ以上無理をすると言うのなら、こちらも別の手段に訴えるしかない。 「…大丈夫なの」 と、届くか届かないか微妙な囁きが聞こえ、新一は苦笑を浮かべた。 切り捨てたはずの罪悪感が少しだけ顔を覗かせる。 「この通りさ。そんなに焦らなくていい」 「…いいえ」 「少し寝ろよ」 「いいえ、嫌よ。まだ何も――っ」 ――…何も。 その先の言葉は紡がれることなく、哀のキーボードを打つ手が崩れ落ちた。 脳が事態を認識する間もなく意識が眠りにつく。 支えのなくなった体が机にぶつかる寸前、差し出された手がしっかりとその体を受け止めた。 その左手首には、照準器の開いた腕時計型麻酔銃。 哀の首には麻酔針が刺さっていた。 「悪ぃな、灰原…」 でもおまえには感謝してるんだぜ? 細い腕で、それでも新一は哀の体をしっかりと抱き上げた。 一週間以上も食事や睡眠をまともに摂らなかった人間の体など、コナンの姿でも容易く抱えられる。 もともと細かった哀だが、今では病的なほどに痩せてしまっていた。 「あ、哀君!?どうしたんじゃっ」 昏睡している哀を抱えて階段を上がっていると、心配で様子を伺っていたらしい博士が慌てて駆け寄ってきた。 「心配いらねーよ。言っても聞かないから、麻酔で眠らせたんだ」 「そ、そうか…わしゃてっきり過労で倒れでもしたのかと…」 「大して変わんねーよ」 普通なら一時間も経たないうちに切れるような麻酔だが、疲れ切った今の哀では目が覚めるのに少なくとも五、六時間はかかるだろう。 それでも全然足りないくらいだが、その間に少しでも休息を取ってくれればいい。 どうせ目が覚めたら疲れ切った体に無茶を言って再び地下にこもってしまうのだから。 博士と二人で哀をベッドに寝かせると、新一は阿笠邸を後にした。 いつもならこのまま毛利探偵事務所に向かうところだが、今日は違った。 下手に痕跡を残さないためにとあまり上がらないようにしていた自宅に、新一は入っていった。 人が住まなくなって久しい屋敷には埃っぽい空気と冷たい空気が充満している。 その中を、新一は自室へと向かった。 ベッドには、あの日――幼馴染みの毛利蘭とトロピカルランドへ行った日と同じシーツがかけられている。 無地に近い薄い水色のシーツ。 その上にそっと腰掛け、新一は握りしめていた右手をゆっくりと開いた。 赤と白のカプセル。 あの薬と同じ形なのは哀の自責の念の現れだろうか。 このたった一粒を造り出すのに、どれほどの労力と苦痛を彼女は噛み締めてきたのだろう。 その、小さな少女の思いがぎっしり詰まったカプセルの重みに、新一はきつく瞼を閉じた。 …目を覚ましたら、きっと彼女は怒るだろう。 否、怒るなんてものでは済みそうもない。 きっとそうされるのが一番苦手なのだとも知らずに、泣いてしまうかも知れない。 それでも新一がこうしてここにいるのは、他ならぬ自分の心が決めたことだからだ。 他の何を捨て置いても、これだけは譲れないのだと気付いてしまった。 だから。 「…後は頼んだぜ、博士」 目を開く。 口許に笑みを掃く。 躊躇いはない。 後悔もしない。 あるのはただ、覚悟と切望だけ。 こくりと飲み下されたカプセルが、やがて心臓を灼き尽くすような熱を生み出した。 * * * 冴え渡る真冬の空気を切り裂いて、まるで鳥のようにうまく風を捉えながら、怪盗は縦横無尽に夜空を舞った。 今夜も難なく手に入れた獲物が懐に微かな重みを与えている。 何もこんな日に予告しなくてもいいじゃないかと、家族や恋人のいる多くの関係者様方から恨みを買いそうだが、それはお互い様だ。 キッドだとて、24日と25日の限定公開のビッグジュエルさえ来日しなければ、今日のこの日に予告を出そうなどとは思わなかっただろう。 そうすれば、今頃は幼馴染みの少女が張り切って準備していたクリスマスパーティでご馳走にありついていたかも知れない。 だが、怪盗の表情は曇るどころか喜びに満ちていた。 いつもいつも奇抜な方法で逃走する怪盗を追ってこられる者はいない。 けれど、いつだって怪盗が気紛れのように羽を休めるその場所に、彼はいるから。 彼に逢えるのだと思えば、イブの犯行もさして悪くないと思えるほどには、怪盗は彼のことを気に入っていた。 小さな体に大人びた双眸。 犯罪者を前に少しも引けを取らない、あの気迫。 子供は、自らを江戸川コナンと名乗った。 けれどその正体が現在行方不明中の高校生探偵、工藤新一であることをキッドは知っていた。 きっかけなんてない。 強いて挙げるとすれば、それは少年と目があった瞬間、それこそが彼が工藤新一であると気付いた瞬間だった。 あんな目を持つものがこの世に二人といていいはずがないのだ。 あんな、魂を根こそぎ奪っておきながら、それでも足りないとばかりにこの心を激しく揺さぶる眼差し。 彼はキッドが唯一認めた人間なのだ。 無条件で大切に思う父や母、幼馴染みとは別に、自分と対等に立っていられる存在。 それが、工藤新一。 キッドは迷うことなく目的地へ降り立った。 そこに小さな探偵がいるのは当前だと疑いもせずに。 ――けれど。 「遅かったな、キッド」 いつものように背後から声を掛けられ、振り向いたキッドの視線の先にいたのは――工藤新一だった。 この寒空の下、大して着込みもせずにマフラーひとつで平然と立っている。 驚きのあまり声のでないキッドに、新一はなんの気負いもなく軽く右手を持ち上げてみせた。 「この姿でおまえに会うのは初めてだな。 初めまして、怪盗キッド。工藤新一、探偵だ…」 杯戸シティホテルの屋上での邂逅のように、新一はキッドに負けない不敵さで挨拶をしてみせる。 どこか自分と似た面差しの彼とちゃんと対面したのは、これが初めてだった。 「め、いたんてい、…いつの間に元に…?」 「ああ、ついさっきだ」 「さっきって…」 新一はなんでもないことのように言うが、彼が元の体に戻れば工藤新一が生きているとばれ、下手をすれば組織に見つかる可能性もある。 彼のことだから何かの理由があってのことだろうが、そんな体でふらふら表を出歩けば彼らに見つけて下さいと言っているようなものだ。 それに――… 過去、新一が何度か元の体に戻ったことがあるのは知っているけれど、それが彼の体に多大な負荷を与えているのは明らかだった。 新一は以前、自分でその時のことを、全身の骨が熔けて心臓が灼けるような痛みだと話してくれたことがある。 その時はことのついでのような口調だったけれど、強がりな彼がそんな風に言うのだから余程のことなのだろうとキッドは思った。 確かに、奇跡のような偶然で戻ってしまったこともあった。 けれど今の新一の口調はまるでそのことを予期していた者のそれだ。 なぜ新一はそんな危険を冒してまで元の体に戻ったのか。 けれど、そのことを問い質す間もなく新一は話を進めた。 「今日は用事があって来たんだよ」 「用事?」 「ああ。じゃなきゃ、誰もこんなイブの夜に来やしねぇよ」 自分で勝手に来たくせに、新一はうんざりしたように溜息を吐く。 それに茶々を入れる余裕もない怪盗に気付き、新一は口調を改めると静かに告げた。 「…できるなら、もっとこう、気の利いたシチュエーションでと思わなくもなかったんだけどな」 そう言った苦い笑みが妙に胸をざわめかす。 黒っぽい服を着込んだ彼。 コートも羽織らず、マフラーひとつで佇む彼。 まるで吹き抜けていく風にこのまま吹き飛ばされてしまいそうな、或いは夜の闇に消えてしまいそうな、そんな儚さをキッドは感じた。 「思ったより時間はないらしい」 それは一体どういう意味なのか。 彼も自分も組織に命を狙われるという危険な立場ではあるけれど、それは今も昔も変わらない。 何か彼を追いつめるような事態が起きているのか。 だがキッドが入手している組織の情報では彼らにそんな動きは見られなかった。 では、何が彼を急き立てているのだろうか? 「こんな状況で口にするのは卑怯かも知れない。でも、どうしても嫌だったんだ。何も言わずに、何もせずに終わるのだけは」 終わるって、何が終わるんだ。 干涸らびた喉が引きつって声にならない。 なぜだろう、この先を聞いてはいけないような気がする。 まるで、今まで築いてきたもの全てが崩されてしまいそうな感覚。 聞きたくない。 キッドは耳を塞ぎたくなった。 彼が何を言おうとしているのか、本当は頭のどこかで気付いていた。 だからこそ、聞きたくない。 でも、だからこそ、聞かずにはいられない。 「キッド、俺はおまえのことが――…」 「駄目よ!!」 飛び起きた哀は、はあはあと短い呼吸を繰り返しながら何もない虚空へと手を伸ばした。 当然、掴みたかったものはその手の中にはなく、ただ虚しく空を掴む。 哀はすぐに現状が呑み込めず、暫く呆然とその手を見つめていた。 ここはどこだろう。 なぜ自分はこんなところにいるのか。 やがてここが見慣れた阿笠邸の寝室だと言うことに気付き、哀は漸く状況を理解した。 「…やられたっ」 哀の記憶は新一との会話の最中でぷつりと切れている。 一瞬で強制的に意識を失わせる方法など、そういくつもない。 博士が彼のために作ったあの麻酔銃を使われたのだ。 哀は泣きそうな顔で下唇を噛み締めると、すぐさまベッドから飛び降りた。 「あ、哀君!まだ寝てた方が…」 様子を見に来たらしい博士が擦れ違い様に声をかけるが、哀は返事も返さず地下の研究室へと駆け込んだ。 そのまま一目散にデスクに向かい、鍵の掛けてあった引き出しを引いた。 開けた覚えもないのに、抵抗なく引き出されたそれ。 「やっぱり持ち出されてる…!」 予想通り、そこに保管していたはずのカプセルはなくなっていた。 哀は悔しさや怒りで震える指をぎゅっと握りしめた。 なぜ。 同じ言葉がぐるぐると頭を巡る。 なぜ――何も言っていないのに、彼は気付いてしまったのか。 そこに仕舞われていたのはAPTX4869の解毒剤、それも試作品ではなく完成品だった。 何度もラットで実験し、哀が初めて完成を認めた薬。 けれど、彼は薬が完成していることを知らないはずだった。 なぜならそれは決定的な欠陥があるからこそ、完成を告げられなかったものなのだから。 薬は確かに完成した。 APTX4869の解毒剤とするならば、これ以上のものは今は存在しないだろう。 この薬を飲めば、退化した人間の身体を元通りにすることに何ら問題はない。 ただ、それを投与される人間の側に問題があったのだ。 実験を行ったラットはAPTX4869を投与される以前と全く変わりない状態にまで回復した。 細胞の増殖能力と自己治癒能力を高めさせる分、以前より頑丈になったくらいだ。 だが、薬の投与を何度か繰り返したラットは、個体差はあるが、およそ三回から六回の実験の間に、ことごとく死亡した。 APTX4869もその解毒剤も、変化時の苦痛を耐えうるだけの力を与えるために自己治癒能力を一時的に高めるが、何度も変化を繰り返したことによって免疫ができ、それがうまく機能しなくなってしまったのだ。 新一は既にもう何度も成長と逆成長を繰り返している。 自己治癒能力が機能しない状態で薬を飲めば、おそらく彼もラットと同じ結果となるだろう。 そのことに気付いた哀は、定期検診と偽って新一の身体の状態を調べた。 その結果は、哀にとって最悪のものであった。 緩やかに破壊されていく細胞。 細胞破壊を抑制するためのシグナルがうまく送られていなかったのだ。 その上、自己治癒能力も低下し始めている。 これではたとえ薬を投与せずとも細胞は死滅していくばかり、つまり――…。 自分の身体のことだからだろうか、新一はうすうす気付いていたらしく、検査結果を伝えてもあまり驚かなかった。 むしろ驚いていたのは自分や博士、そして彼の両親ばかりだった。 それどころか彼は「すぐに死ぬと決まったわけじゃないんだから焦らなくていい」などと言ったのだ。 哀は怒った。 何が「焦らなくていい」だ。 時間があるという保証などどこにあるのだ。 いつ死ぬかも分からない淵に立たされているのは他でもない新一自身だと言うのに、なぜそんなことが言えるのだ、と。 それでも返ってきたのは困ったような、宥めるような笑みばかりで… 「…博士、工藤君はどこ?」 自分について地下室まで降りてきた博士に、哀は自分の手をじっと睨み付けたまま振り返らずに尋ねた。 「新一なら君を寝かせた後すぐに隣に戻ったようじゃが…」 「今すぐ工藤君を見つけてちょうだい」 「哀君?」 「説明している時間はないの!早くしないと工藤君の命に関わるわ!」 哀の剣幕に圧され、博士は戸惑いながらも足早に工藤邸へと向かった。 おそらくもう手遅れだ。 あれから軽く五時間は経っているし、その間新一が薬を飲まずにただ持っている可能性はゼロに等しい。 それに、彼の居場所を突き止めることは不可能だろう。 引き出しに鍵を掛けなかったと言うことは、自分の犯行を隠す必要がなかったと言うことだ。 哀が目覚め、新一の犯行に気付き、居場所を突き止めるまでの時間を考えた上で、これ以上時間を稼ぐ必要がないから彼は鍵を掛けなかったのだ。 不可抗力とは言え、こんな時に安穏と眠っていた自分に哀は心底腹が立った。 それでも当然納得などできるはずもなく、新一の向かいそうな場所を必死で考えた。 そもそも彼はなぜ解毒剤を持ち出したのか。 明日突然死ぬかも知れない爆弾を抱えているのは確かだが、言い換えれば十年二十年と生きられるかも知れないのだ。 その間に彼が無事元の身体を取り戻せる可能性は決して低くない。 なのに、どうして彼は死ぬかも知れない危険を冒してまで元の身体に戻ろうとしているのか。 そうまでしてやり遂げたい何かがあったのか。 それを成し遂げる為に薬を飲んだとすれば、彼が向かった先は――? (…死んだら承知しないから…工藤君…) 机に落ちた水滴を拭い去り、哀は博士の後を追った。 がくりと膝の力が抜け、新一は引き寄せられるままに地に膝を着いた。 息が詰まる。 声が出ない。 まるで喉が塞がれてしまったかのように、ヒューヒューと情けない音が聞こえるだけ。 ぐらつく視界に逆らうこともできず、片手を地について漸く平衡を保っていられる状態だった。 「名探偵っ!」 突然倒れた新一を心配し、怪盗が足早に駆け寄ってくる。 普段鉄壁のポーカーフェイスを自慢としている男がなんとも情けない間抜け面を晒していて、そうさせたのが自分なのかと思うと、そんな場合でもないのに思わず笑ってしまった。 「うわ…っ、おまえ顔色悪すぎ…!」 そりゃそうだ。 本当は歩くどころか立ってもいられないほど、体調は最悪なのだから。 上着を着ていないのは、寒さも感じられないほど身体が熱いから。 きっとこれが人の体温かと疑いたくなるほど発熱しているのだろう。 おかげでうまく頭が働かないし、気を抜けばすぐにでも気絶してしまいそうだ。 それでも意識を手放さずにいられるのはただ、意志の力。 本当はもう自分の身体がぼろぼろだと言うことも、本当はとっくに解毒剤が完成していたことも。 このガラクタのような身体を今一度使い物になるようにするために哀が研究室にこもっていたことも。 新一は全部知っていた。 知らないふりをしていたのはただ、自分の為に無茶をする彼女に掛ける言葉を見つけられなかった自分から逃げていただけ… 一月前に体重が激減したことも、一週間前に怪我した傷口が未だに塞がらないことも、三日前に血を吐いたことも、哀は知らない。 解毒剤を飲むために必要な体力はもう自分には残っていない。 分かっていた。 分かっていながら、それでも新一は薬を飲んだ。 なぜなら、新一にはどうしてもやっておきたいことがあったから。 それは組織を潰すことよりも、幼馴染みにただいまを言うよりも、もっとずっと馬鹿げていて、もっとずっと大事なこと。 平成のホームズとまで言われた探偵の、一世一代の大舞台。 「キ、ド…」 呼吸の合間に切れ切れになりながらも彼の名を呼べば、キッドは今にも泣きそうな表情を惜しげもなく見せた。 以前汐留のビルの屋上からわざと転げて見せた時も、彼は新一の演技に引っ掛かって、本気で心配しながら後を追ってきてくれた。 それだけではない、雪山で高熱に倒れた時も、炎に呑み込まれそうになった時も、いつだって彼はそうと分からないようこっそりと自分を助けてくれた。 犯罪者のくせに憎めないやつ。 その程度の認識だったのが、いつの間にか信頼し、どこか尊敬にも似た念を抱いていた。 そう、彼のためならこの命をやってもいいと思えるくらい、自分は彼のことを―― 「おまえ、凄い熱じゃねーか!」 「バーロ…んな心配そうな面してんじゃねーよ…。心配しなくても、用が済めばすぐ帰るから…」 「けど、名――」 言いかけた言葉の先を奪うように、新一は思いきり咳き込んだ。 右手を地面につきながら左手で口元を押さえる。 ぬるりとした嫌な感触が手に触れたと感じた次の瞬間には、抑えきれなかった血がぼたぼたと滴り落ちた。 キッドが目を瞠る。 漸く事態が呑み込めたようだ。 彼は新一同様、一を聞いて十を知る男だ。 新一が今どういう状態でなぜ元の身体に戻りこの場へ現れたのか、おそらく気付いてしまったに違いない。 責めるように見つめる瞳がその証。 「…おい、」 「――いいから聞け、キッド」 手の甲で血を拭いながらぴしゃりと言い放つ。 時間がないのだ。 次はもしかしたらないかも知れない。 だから、どうか、今は黙って聞いてくれ。 「いいか、キッド。疑うんじゃねえぞ。他の誰が疑っても、おまえだけは疑うな」 たとえ世界中の誰ひとり、おまえのことを認めてくれなくても。 「この俺が、おまえを信じてる。」 キッドの顔が歪む。 それは怒っているようにも、馬鹿にしているようにも、…今にも泣き出しそうにも、見えた。 哀に自分の身体の状態を知らされた時、真っ先に頭に浮かんだのは彼のことだった。 自分と同じように秘密を抱え、その秘密に押し潰されそうになりながら気丈に笑ってみせる、馬鹿な怪盗。 探偵と怪盗という立場でありながら、自分と彼とはひどく似た存在だった。 初めは傷の舐めあいだったのかも知れない。 それでも彼がいたからこそ、抱えきれないはずの秘密を抱えて立ち続けることができた。 そう気付いた時、ふと思ったのだ。 自分が消えれば彼はどうなるのだろう。 気丈な彼のことだ、素知らぬ顔で相も変わらず不敵な紳士を演じ続けるかも知れない。 或いは哀しみに暮れながら、愚かな探偵の仇を討つか。 けれど、なぜか彼は壊れてしまうような、そんな気がしたのだ。 気丈に振る舞う彼の内側が、子供の心のように脆く壊れやすいことに気付いてしまったから。 だから自分は今夜ここへ来ることを決めた。 幼馴染みも、両親も、友人たち、全ての守りたかった人たちを置いて、ただ彼に逢うためだけに。 そして、心底そうして良かったと思っている。 「頼むから、そんな泣きそうな顔、しないでくれ…」 そんな顔、おまえには似合わねーよ。 いつか逢えたかも知れない本当の姿になら、似合うのかも知れないけれど… 「おまえのことが…好きだったよ……怪盗、…キッ、……」 「工藤ォ――――っ!!!」 夜の東都をけたたましいサイレンの音が走り抜ける。 それは医者も、警察関係者も、報道陣も叩き起こして、日本中の人々を震撼させた。 行方を眩ましていた探偵が、24日の夜、米花中央市民病院に運び込まれたのだ。 哀がその病院へ駆けつけた時、手術室の前のベンチにはひとりの少年が座っていた。 両膝を立て、その膝の間に頭を埋めるようにして座っている、まだ年端もいかない少年。 彼が誰なのか哀には分からなかった。 だが幼馴染みの彼女がまだここにいないということは、彼こそが、新一が死ぬかも知れない危険を冒してでも逢いたかった相手に違いなかった。 「あいつ、血ぃ吐いたんだ」 あちこちに跳ねた髪が揺れ、少年が昏く翳った眼差しを向けた。 こちらに気付いていたのかと、哀は何も映さない、ただ虚空を見つめるような虚ろな瞳を見返した。 寒気を感じるのはなぜだろう。 ただ視線が合っただけなのに、近寄りがたいこの空気は何だろう。 彼は一体何者なのか。 哀がこくりと喉を鳴らすと、少年は獰猛な獣めいた目で哀を睨み付けながら言った。 「…あんたなんだろ?あいつの身体、こんなにしたのは…」 ドクリと、嫌な鼓動が鳴る。 彼は何を言っているのか。 「あいつ、信じられないくらい軽かったんだ…多分、臓器のいくつかがちゃんと元の大きさに戻らなかったんだろう。今頃医者は、あいつの腹の中の異常な光景に驚いてるだろうな…」 そう言って、口の端を歪める少年。 哀は確信した。 彼は工藤新一が江戸川コナンであったことを知っている。 そしておそらく、新一の身体を小さくした薬の制作者が自分であることも。 「あなた、誰なの?なぜ彼のことを知ってるの?」 新一の正体を知っているのは哀を含めてもたった五人しかいないはずだ。 そして彼らの全ては新一と親しい者だった。 だが、目の前の少年を哀は見たことがない。 しかもただ目が合っただけで寒気を感じるなんて、普通の人間相手ではありえないことだ。 すると少年は押し殺したような声で、 「…あまり関わらない方があんたの身のためだぜ」 とだけ言うと、再び膝の間に頭を埋めてしまった。 射殺すような視線が隠れ、哀は思わず詰めていた息を吐く。 哀にはまるで彼の吐息ひとつがあのジンのように怖ろしく感じられた。 けれど、ここで引くわけにはいかない。 彼が何者なのか、哀は知っておかなければならない。 まさかとは思うが、彼が組織の関係者でないとは言い切れないのだから。 「…誰なの」 カツンと、靴音が響く。 まるでそれだけが唯一の音のように、乾いた空気を震わせる。 少年は顔を埋めたまま、ぴくりとも動かずにくぐもった声を返した。 「…来るな」 「答えて。あなたは何者なの」 「…それ以上近寄るな」 「いいえ、答えてくれるまで引き下がらないわ」 「…やめろ…」 「あなたは一体、」 「――来るなっつーのが分かんねえのかっ!!」 気付いた時には、哀の身体は壁に押し付けられていた。 息が詰まる。 それもそのはずで、哀の細い首を締め付けるように、少年の腕がぎりぎりと押し付けられていた。 真っ直ぐに睨み付けてくる目はまるで獣のようだ。 漸くまともに見た少年の顔は、どこか新一と似た面立ちをしていた。 「あいつは一度だってあんたを責めなかった。でも、俺は違う。もしあいつが死んだりしたら、俺はあんたを許さない…!」 その声が、震えていたからだろうか。 その顔が、今にも泣き出しそうだったからだろうか。 哀は抵抗することも忘れ、ただ――泣いていた。 苦しかった。 こんな状況になっても誰ひとり自分を責めてくれないことが、ずっと苦しかった。 新一がこんな身体になってしまったのは、他でもない自分が作り出した薬の所為だと言うのに。 新一はもちろん、彼の両親ですら哀のことを責めなかった。 それどころか、新一の身体を救うことができるのは君だけだからと頭まで下げられて… だから、真っ直ぐ新一のことだけを想い、それゆえに向けられる彼の憎しみの感情が、哀にとってはただひとつの救いのように感じられた。 けれど締め付けていた力が不意に弱まったかと思うと、少年は哀の身体を解放した。 急に入り込んだ酸素に肺が吃驚して軽い痙攣を起こす。 哀はげほげほと咳き込みながら、涙の滲んだ目で少年に尋ねた。 「どうして…?」 なぜ殺さないのかと、むしろ責めるように見つめる哀に、少年は視線を逸らしたまま呟いた。 「…だって、あいつが言ったんだ」 ――疑うな。 たとえ、世界中の誰ひとり、おまえのことを認めなくても。 たとえ、おまえ自身がおまえのことを信じられなくなっても。 忘れるな。 思い出せ。 どこにいても、何が起きても。 「あいつが、俺を信じてくれるって…!」 少年の手が再び哀の身体に伸びた。 けれどその手は哀の首ではなく、哀の背中へとまるで縋るように回されたのだった。 「工藤…死んじゃったら、どうしよう…っ」 哀の身体を抱き締めながら、少年は声を張り上げて泣いた。 それまで涙ひとつ流さなかった頬にとめどなく雫が伝う。 冷たく張りつめていた空気などどこかへ消え失せ、そこにはただ子供のように泣きわめく少年がいるだけだった。 哀は少年を抱き締めることも突き放すこともできないままただ立ち尽くした。 彼が何者かなど、もうどうでも良かった。 哀だとて元は組織の科学者なのだ。 たとえ彼が組織の関係者だろうと、新一のことを本気で気に掛けている彼をこの場から放り出す権利など哀にはない。 ただ、彼にも負けない声で叫ぶのだ。 (どうか、彼を私たちから取り上げないで…!) 望むものはただひとつ。 あの日死ぬはずだった彼の命を引き留めた奇跡を、どうかたったもう一度だけ―― バン、と。 唐突に扉が開いた。 医者と看護婦がぐるりと囲ったベッドを大慌てで引いて行く。 看護婦のひとりが何か言っている。 聞くことを拒否した脳が、唇の動きを読み取った。 コチラデハ工藤サンノ充分ナ治療ガデキナイノデ、大至急別ノ病院ニ移シマス。 唇が微かに動き、何かを呟く。 そんな、と言ったつもりだった。 頭が働かない。 耳鳴りがひどい。 何も聞こえてこない。 もう何も、聞きたく、ない。 「少しは休んだらどうなの?」 顔を見せるなり開口一番にそう言った女性に、快斗は苦笑を返した。 「休むも何も、まだ何もしてないし」 「これから舞台なんでしょ?ここ暫く公演続きで休みなしだったんだから、少しは横になりなさいって言ってるのよ」 「心配してくれてありがと、志保ちゃん」 持ってきた花を花瓶に生けながら、志保は素っ気なく「どういたしまして」とだけ返した。 ここは、今夜これから行われる黒羽快斗のジックショーの控え室だ。 開幕前のステージ裏はファンからの贈り物とメッセージカードで溢れ返っている。 その中にぽつりと置かれたパイプ椅子に腰掛けていた快斗に、関係者として志保が応援に駆けつけたのだ。 快斗は素直に喜んだ。 あの日以来、志保は快斗の掛け替えのない理解者となっていた。 そう、今日は12月24日――クリスマスイブなのだ。 あの日から、もう三年が過ぎた。 高校を卒業した快斗は大学には行かず、マジシャンとしての道を着実に歩んでいた。 ずっと続けていた危険な副業からは、一年前にFBIが組織の一斉検挙に成功して以来、手を洗っていた。 志保は組織壊滅後に自ら精製した解毒剤で元の姿に戻り、現在は阿笠博士の助手として研究を手伝う傍ら、医師免許を取得した。 全てはあの日から変わってしまった。 だが、今も変わらない想いを、快斗も志保も心の奥底に抱えている。 「…凄い数のプレゼントね」 「ああ…俺の分と、あいつの分まであるからね」 そう言って静かに笑う快斗に、志保はかける言葉を見つけられなかった。 快斗はマジシャンになるという夢を叶え、志保は組織の影に脅える必要のない生活を手に入れた。 けれど、本当の望みは叶えられなかった。 本当に側にいて欲しい人はいつもここにいない。 それどころか、この世のどこにももう彼はいなかった。 三年前の今日、彼は静かに眠りについた。 アメリカの病院に移送された彼は、そのまま目覚めることはなかったという。 それでも未だに彼の存在を忘れられない世界中の人々から、この日には数え切れない贈り物が届けられる。 たとえ受け取る相手がいなくても、無駄になるだけだとわかっていても。 多くの人々が彼のために、そして彼のことを想い続けるマジシャンに、祈りを込めたプレゼントを贈ってくれるのだ。 「ほんとに欲しいものがもらえるなら、子供みたいにサンタにお願いするのにな…」 「…馬鹿ね。そんなの、人に与えてもらうものじゃないでしょう」 「うん…そうだね…」 本当に欲しいものは、ただひとつ。 この日に願うことは、ただひとつ。 「観客が待ってるわよ。行ってらっしゃい、魔術師さん」 こくりと頷き、タキシードの皺を伸ばすと、快斗は舞台へと向かった。 あの頃とは正反対の漆黒の衣装を身に纏い、ステージに上がれば鼓膜が打ち破れんばかりの歓声が上がる。 その中にぽつりと空けられた席は、まるで快斗の心に空いた穴のように虚しく映った。 ステージ正面の特等席はいつも空席だった。 快斗はステージの中央に立つと、右手を前に軽く片膝を曲げながら優雅にお辞儀をした。 すると、前触れもなくどこからともなく現れては、鳩の群が一斉に飛び立った。 開幕の合図もなしに飛び出した鳩に観客は黄色い声を上げる。 その鳩たちによって天から降りそそぐのは、ガブリエル・ノエルと呼ばれるモスローズだ。 淡いアプリコットピンクの花弁がまるで薄く色づいた雪のように舞い落ちる光景はひどく幻想的で、そして――もの悲しい。 いつの間にか館内はしんと静まり返っていた。 それどころかふわりと辺りを包み込む甘い香りに涙を流す者さえいる。 毎年12月24日にだけ行われる、開幕前のこのマジック。 これは、世紀のマジシャンが今は亡き探偵へ贈る手向けの花なのだ。 初めは、この美しいマジックの意味を知る者などいなかった。 けれどいつだったか、人気若手マジシャンの特集を組んだ雑誌が載せたモスローズの花言葉、「尊敬」と「崇拝」の文字を目にしてから、彼らはその意味を理解した。 これはクリスマスを祝うデモンストレーションなどではない。 探偵を尊敬していたマジシャンが、彼の冥福を祈るために花を手向けているのだと。 静やかに開幕されたマジックショーのオープニング。 やがてその静けさを拭い去るように鮮やかな魔法を紡ぎ出す魔術師に、観客は魅せられるまま胸を高鳴らせ夢中になった。 そして幕が下りる頃には、開幕前のあのしめやかさを覚えている者など誰もいないのだ。 ステージを降り舞台裏に下がった快斗は、何をするでもなくひとりパイプ椅子に腰を落ち着けていた。 いつもならスタッフや関係者たちと打ち上げだ何だと騒がしいのだが、この日だけは快斗の楽屋を訪れる者はいなかった。 スタッフたちも気を遣ってくれているのだ。 マネージャーを務める寺井もこの日だけはどんな賓客も通さないようにしてくれている。 それもそのはずだろう。 大事な人の命日に、それでもクリスマスを祝うため、己の心とは裏腹にこの魔術師は華麗で煌びやかなマジックを披露しているのだから。 ふと、たくさんの贈り物の中に特別豪華な花束があることに快斗は気付いた。 何とはなしに手に取ったメッセージカードには、工藤夫妻の名前が書かれていた。 三年前のあの日、快斗は自分の正体がばれるのも構わず、新一を連れて病院へ駆け込んだ。 キッドの衣装こそ着ていなかったけれど、事情を問い詰められれば、それまで全く接点のなかった快斗には言い逃れできなかっただろう。 だが、世間は探偵を看取った少年をただの古い友人だと認識している。 三年経った今も、亡くなった親友を忘れられないただのマジシャンだと思っている。 快斗の正体はばれなかったのだ。 なぜなら、あの工藤優作が快斗の身元を保証してくれたから。 優作は快斗の父、黒羽盗一のことを知っていた。 明確には言わなかったけれど、おそらく盗一が怪盗キッドであったことも知っていたのだろうと快斗は思っている。 だから彼は快斗のことを全面的に信用してくれたのだ。 あれから三年も経つと言うのに、彼らは毎年必ずこの日にメッセージ付きの花束を送ってくれる。 まるで、いつまでも死んだ者に囚われ続けている快斗を気遣うように。 分かっている。 彼はもういない。 それでも、もしかしたらと思わない日は一日もなかった。 だってこの目は見ていないのだ。 鼓動を止めた彼を、焼かれていく彼を、この目は何も見ていないのだ。 まるで礼儀程度に知らされた文字でしか知らないから、もしかしたらと、希望を抱かずにはいられなかった。 なのに、どうして。 ここに彼はいないのだろう――… 「…しんいち…」 コンコン、と扉を叩かれる音に、快斗はハッと顔を上げた。 目尻に溜まっていたものを慌てて拭う。 スタッフの誰かだろうかと思いながら扉を開けた快斗は、そこに立っていた見知らぬ人物に目を瞬いた。 黒のパンツスーツを着た金髪の外国人女性。 ローヒールだと言うのに目線は快斗と同じぐらいだ。 「…Hello. Did you want me?(こんにちは、何か御用ですか?)」 快斗が訝りつつも話しかければ、女性はなんとも流暢な日本語で答えた。 「こんにちは。突然ごめんなさいね。今日は誰も通せないとは伺っていたのだけど、どうしても渡したいものがあって」 「渡したいもの…?」 「これよ」 そう言って彼女が差し出したのは一本の四つ葉のクローバーだった。 摘み取られたばかりなのだろうか、まだ生き生きとした緑色をしている。 「実は、私の警護しているあるVIPが貴方の大ファンなの」 VIP?と快斗は首を傾げた。 観客の中でも特に護衛の必要な要人などが来賓する場合、ショーの責任者である快斗にも当然知らせがあるはずだが、今日のショーにそのような人物が来るとは聞いていない。 数人の芸能人がお忍びで来るという情報はあったが、外国からSPが付けられる程のVIPが来訪するなど初耳だった。 「VIPって、いったいどなたが?」 「Oh!It's a big big secret、お話できません!でも…」 思わず尋ねた快斗に、彼女は大仰に驚いてみせながら言った。 そして手にしていたクローバーを快斗の胸ポケットに差し込みながら、まるで内緒話でもするかのように声を潜めて囁いた。 「貴方ならこれを見ればきっと分かってくれるはずだと彼≠ェ言っていたわ」 そう言って彼女は悪戯に片目を瞑ってみせた。 そしてそのままくるりと踵を返すと、コツコツと廊下を歩いて行ってしまった。 残されたのは一本の四つ葉のクローバー。 快斗は胸ポケットからそれを取り出し、じっと見つめた。 わざわざ快斗のショーを見るために来日したのか、或いは来日中にスケジュールの合間を縫ってやって来たのか… どちらにしろ、その人物を割り出す手がかりはこの一本のクローバーだけ。 これを見れば分かるとはどういう意味なのか。 考え込む快斗の思考に、ふと、ある記憶が過ぎった。 ――…約束 (…約束?) そう、クローバーは約束だ。 自分は確かに、クローバーに約束≠ニいう記憶を持っている。 何気ない日常のどこかでその言葉を耳にしたはず。 ――…約束だって あれはいつだったか。 ――…約束だって、知ってたか? あれはどこだったか…… クローバーの意味が約束だって、知ってたか? はっと、顔を上げた。 不意に蘇った記憶。 思い出した。 あれは彼≠フ台詞だ。 まだ白い衣装を着ていた自分に、彼≠ェ教えてくれた。 自分にとって何よりも大事な人との記憶だと言うのに、忘れるなんてどうかしている。 「…名探偵?」 本当に彼なのだろうか。 快斗はにわかに信じられなかった。 だって彼は死んだのだ。 その死に顔を見ていなくても、快斗はもう何度も彼の墓石へと足を運んだ。 その土を掘り起こせば彼が眠っているのだと、狂った願望が浮かぶその度に何度も自分を戒めた。 たとえこの腕の中に彼の骨を抱き締めようと、もう二度と彼のあの烈しい眼差しを見ることはできないのだと。 それなのに。 嘘よりも嘘みたいな希望に、縋らずにはいられなくて。 快斗はクローバーを握りしめると、楽屋を抜け出しロビーへと駆け出した。 タキシードが乱れるのも、ファンに見つかるのも、気にしている余裕はない。 ただ、捜す。 この三年の間、ずっと捜し続けていた姿を。 「いるのか…?」 その問いに答える声はもちろんないけれど、快斗はもう、自分の感情を抑えることができなかった。 ドクドクと心臓が早鐘のように打ち付ける。 その音があまりに煩くて、観客の歓声も周囲の雑音も、少しも聞こえてこなかった。 まるでそれが命であるかのように、人混みに潰されないようクローバーをしっかりと抱えながら、群がる観客の合間をすり抜けていく。 快斗が漸く会場を抜け出たのは、あの外国人女性がちょうど車に乗り込もうとしていた時だった。 「待って!!!」 声の限りに快斗は叫んだ。 側にいたファンの女性たちが吃驚して固まるのも気にせずに。 けれど、その甲斐もなく、彼女の乗り込んだ車は快斗に気付かず走り出してしまった。 「待っ…!」 徐々に加速してゆく車。 ゆっくりと遠ざかって行く。 追いつけるはずもないのに、快斗は夢中でその車の後を追いかけた。 諦められるはずがなかった。 一日だって願わない日はなかった。 思い出す必要もないほど、狂おしいほどに、彼のことを想っていたのだ。 けれどどんなに追いかけたところでやはり距離は縮まることなく、やがて車は快斗の視界から消え去った。 諦めきれない感情が未練がましく身体を急き立てる。 いつの間にかタキシードは見る影もなく、だくだくに汗を掻いていた。 荒い呼吸を無理にねじ伏せながら、快斗は袖口で汗を拭った。 ナンバーは記憶している。 そこから車の持主をあらうことなど快斗にとっては雑作もないことだ。 けれど、仮に彼が生きていたとして、本気で自分に逢う気がないのなら、そんなものは滓ほどにも役に立たないだろう。 彼にはそうするだけの力がある。 それでも…と、快斗はクローバーをそっと握りしめた。 このクローバーは確かに自分の手の中にある。 約束≠ヘ、この手の中にあるのだ。 握りしめたクローバーだけが唯一の証。 彼は生きて、そして自分に逢いたいと思ってくれているのだと信じたい。 否―― (…疑わない) 自分に言い聞かせるように、心の中で反芻する。 疑わない。 そして、忘れない。 どこにいても、何が起きても。 世界中の誰ひとり、自分自身でさえ自分を信じられなくなっても。 (俺を信じてくれるおまえだけは、俺は絶対疑わない) 快斗はひとつ大きく息を吐くと、ゆっくりと踵を返し、会場へと足を向けた。 その目には確かな光が湛えられていた。 「本当にあれで良かったの――新一?」 自分の隣でモバイルパソコンを弄っている青年に、ジョディは不満そうに唇を尖らせながら問いかけた。 東洋人特有の幼さの残る顔をサングラスの奥に隠し、一生消えない傷痕を真っ黒のスーツで覆った彼は、世間では死んだとされる名探偵工藤新一。 新一は忙しなく動かしていた指を止めジョディに向き直ると、口元に微笑を浮かべながら言った。 「今、どうにも手が離せねーんだ」 「そんなの秀に任せればいいじゃない」 「彼にはもう別の任務を頼んじまったよ。それに、仕事に私事を差し挟むわけにはいかねーだろ」 真面目な顔でそう言った新一に、ジョディは不満ながら、それでも頷いた。 彼女だとて彼が忙しいのは重々承知している。 彼は他ならぬFBIの任務、それも組織に関わる危険な事件ばかりを担当しているのだから。 三年前の12月24日。 アメリカに渡った新一はそこで手術を受けた。 前代未聞の患者に、前代未聞の大手術。 失敗してもおかしくなかった手術は、けれど、見事に成功した。 それは、哀が解毒剤に耐え得る細胞組織の活性化を研究する一方で、工藤優作が息子のために手術医療の進展を押し進めていたからだった。 そうして新一はかなり危険な状態ではあったが何とか一命をとりとめ、翌日の25日には意識も戻った。 なのになぜ、工藤新一は死亡したとされたのか。 それは意識を取り戻した新一自身がそうすることを望み、また優作もそうすることを新一に勧めたからだ。 なぜなら、一命をとりとめたとは言え、新一にはまだもうひとつの問題が残っていた。 新一が病院に運ばれたことがニュースになったため、組織に工藤新一が生存していると知れてしまったのだ。 これでは助かったところで新一が彼らの標的になることは免れないし、新一に関わった周囲の人間にも危険が及ぶ。 そこで、新一は自分が死んだことにするという大胆な道を選んだのだ。 葛藤がなかったと言えば嘘になる。 たとえ戸籍の上で死のうとも組織を暴くことはできるし、むしろその方が都合がいいくらいだろう。 だが、戸籍を抹消されると言うことは、存在の証明を失うと言うことだ。 もう二度と友人たちとは逢えないかも知れないし、普通の生活も当然できなくなる。 もちろん探偵業も廃止だ。 そして―― 工藤新一の死という絶望を彼≠ノ突き付けなければならないことが、何より心苦しかった。 けれど、最終的に新一はこの道を選んだ。 それからの一年間はただひたすらリハビリの毎日だった。 その一方で、だいぶ渋ったけれど最終的に優作の協力を受け入れた新一は、組織壊滅のための準備を進めていた。 そして彼らが新一のもとを訪れたのは、新一がもう支えなしでも歩けるほどに回復した頃だった。 「…私たちを恨んでる?」 頬杖をついて窓の外を眺めていたジョディがふとそんな言葉を零した。 「まさか。なんで恨まなきゃならねーんだ?」 「だって…貴方をFBIに引き込んだのは私たちじゃない」 彼女は今でも時折思うのだ。 新一はあの時のことを恨んでいるのではないか――と。 それは二年前のことだ。 退院した新一は工藤家の別荘のひとつにまるで隠れるように住んでいた。 米花町にある洋館よりもさらに古びた洋館。 周辺の土地も工藤の私有地であったため、人の寄りつかないその洋館は丁度良い新一の隠れ家となっていた。 そこに、かつて何度か顔を突き合わせたことのあるジェームズ・ブラックが現れた。 両脇に二人のFBI捜査官――ジョディ・スターリングと赤井秀一を率いて。 彼らがそこを訪れた目的は、新一をFBIに引き込むことだった。 警察機関、中でもFBIは、対組織の捜査チームを編成し、長年黒の組織と対立してきた。 ところがそこへ突然謎のサードパーティ――第三者が現れた。 それはどの組織にも警察機関にも属さず、独自の方法で黒の組織に猛攻撃を仕掛けていた。 そんな情報を耳にした彼らは、その第三者の身元を調べるとともに、できることなら自分たちの力として吸収したいと考えたのだ。 そしてその第三者の正体を彼らに教えたのは、他ならぬ新一自身だった。 「あの時は、あの少年がまさか君だったなんて思いも寄らなかったよ…」 運転席に納まっていたジェームズが懐かしげに言った。 ベルモットの一件が切っ掛けとなり、彼らは江戸川コナンという少年と知り合った。 その時、ジェームズは「FBIにスカウトしたいぐらいだ」と彼に言ったことがあるが、あれは冗談などではなかった。 相手が小学一年生という子供でなければ、おそらく実際にスカウトしていただろう。 それほど、江戸川コナンは子供とは思えない知識と頭脳を備えた不思議な少年だった。 そして彼らは工藤新一に出会った。 本当は新一ともそれより前にニューヨークでニアミスをしていたのだが、その時は通り魔に扮したベルモットを間に、間接的な接触にしかならなかった。 だから彼らは江戸川コナンと工藤新一が同一人物であるなどという考えには少しも思い至らず、工藤新一のことを、ただ組織を一網打尽にするのに非常に有効な切り札であるとしか考えていなかった。 何の後ろ盾もなく組織に仇成すほどの実力者をFBIに引き込むことができれば、組織を瓦解させるための大きな戦力になる、と。 工藤の別荘に招き入れられ、新一から諸々の事情を聞き、コナンと新一が同一人物であると知った時の彼らの驚きは相当なものだった。 よもや人間の肉体が縮むなどということが現実に有り得るなんて、にわかに信じられなかった。 しかし、江戸川コナンが工藤新一だったというなら、あの知識量も推理力も頷ける。 彼らは改めて工藤新一をFBIにスカウトした。 だが、新一は彼らの要求を拒んだのだった。 『奴らに命を狙われている僕は、貴方がたにとってみれば爆弾のようなもの…この大事な時にわざわざ地雷を抱え込む必要はないでしょう』 そう言った新一の瞳は、独りで戦う者の強さと孤独を内包していた。 高が十九かそこらの子供が、まるで老獪な大人のようなものの言い方をする。 少なくとも聞いていて快いものではなかった。 だから、不意に込み上げてきた怒りにまかせて、気付いた時にはジョディの手が新一の頬を張り上げていた。 今思えば好意の裏返しだったのかも知れない。 「…二人には感謝してるよ」 え?と聞き返すジョディに、新一はただ曖昧な笑みを向けた。 自分という存在の消滅は思った以上の重圧を新一に与えた。 一年に及ぶリハビリ生活にもうんざりしていたのだろう。 新一はひどく疲れていた。 自分もまたただの人間だと言うことを新一は疾うに理解していた。 「俺はもうここから抜け出せない。でもそれは俺の意志でとどまってるんだ。誰も恨んだりなんかしないさ」 それに、と新一が口角を吊り上げる。 「一番欲しいものさえ手に入るなら、後のことは大した問題じゃない」 その笑みがあまりにも自信に溢れていたからだろう、ジョディは自分の心配はただの杞憂でしかないのだと溜息を吐いた。 「それで、その欲しいものはちゃんと来るんでしょうね?」 「ああ。あいつは絶対来る」 「凄い自信ね。何か根拠でもあるの?」 「――あいつがこの俺を忘れるわけないだろ?」 その声には、いっそ憎らしいほどの自信が溢れていた。 三年前に死んだはずの人間との約束を果たしにのこのこやって来る馬鹿が果たしているのだろうか。 けれどそれは愚問だと、ジョディは思った。 初めて見た黒羽快斗の――怪盗キッドのマジック。 華やかで、鮮やかで、けれど隠しきれない哀しみが切ないくらいに溢れていた。 あの彼が新一のことを忘れているとは思えない。 無我夢中で車を追いかけてきた彼の目は、確かに新一を見つめていた。 (罪な子よね、ほんとに…) 「ボス、すみませんが時計台に向かってもらえます?」 「――仕方ないな」 「へ?」 「ほら、貸して。仕事が終わってからタクシーで、なんて悠長なこと言ってたら、彼が可哀想でしょ?今頃息を切らせながら時計台に向かってるわよ」 ジョディはひったくるようにパソコンを新一から奪うと、楽しそうに片目を瞑ってみせた。 新一はちょっとだけ吃驚したように目を瞬かせたかと思うと、ついで照れたようにはにかんだ。 これだから放っておけないと、ジョディはくしゃりと新一の頭を撫でた。 彼は、普段はその慧眼と巧みな話術で犯罪者も警察も手玉に取るFBIのジョーカーでありながら、時折無垢な子供のように笑う。 たとえこの戦場から降りることが許されなくとも、この笑顔だけは守ってあげたい。 「きっちり捕まえて来るのよ!」 車を降りた新一にジョディが声を掛けた。 有り難う、そう言って駆けていく新一の後ろ姿を心配そうに眺めていると、車を動かしながらジェームズが言った。 「大丈夫。サンタクロースはいい子のところには必ずやって来るものだ」 その言葉にジョディは嬉しそうに笑った。 カンカンカン… 階段を駆け上る靴音が聞こえる。 こんなイブの夜に、吹きさらしの時計台に登ろうなんて物好きはまずいない。 そう―― こんな夜にこんな場所にやって来るのは、どこかの探偵とのちっぽけな約束を忘れずにいてくれた、どこかの怪盗ぐらいのものだろう。 その足音が、躊躇うように扉の前で止まった。 この先に何があるのか、或いは何もないのか、まるでそれを恐れているかのように。 自然と笑みが浮かんだ。 たったそれだけのことが、彼の想いの強さを語っているようで、ひどくくすぐったい気持ちになった。 けれど、彼を安心させてやろうとドアノブへ伸ばした己の手が震えていることに気付き、驚いた。 自分もまた、この先にあるものに微かな恐れを抱いていたのだ。 この長い長い三年の間、一度も彼の姿を見なかった。 あえて見ないようにして来たのだ。 今日だって、ほんの少しバックミラーを覗くだけで、追いかけてくる彼の姿を見ることができただろう。 なのにそうしなかったのは、もし見てしまえばどうしようもなく逢いたくなってしまうだろう自分に気付いていたから。 そしてそれと相反して、堪えようもない不安がこの胸に内在していると気付きたくなかったから。 素直に再開を喜ぶには、自分はあまりに彼を、そして自分自身を傷付けすぎた。 震えは徐々に広がってゆき、やがて足にまで伝わってきた。 扉を開けようにも足が動かない。 手が、届かない。 彼が自分を忘れるはずはないと豪語したその自信が、嘘のように萎んでいく。 逢えない時間があまりに長すぎたのだ。 一日だって無駄な日を過ごした覚えはないけれど、三年という月日は人の心を変えるには充分すぎた。 もしこの先に彼がいなかったら、自分はどうしたらいいのだろう。 たとえこの先に彼がいたとして、酷い仕打ちをした自分を、どうして受け入れてくれるなどと思えるだろう。 ――けれど。 目を閉じる。 口元に笑みを掃く。 躊躇いはしなかった。後悔もしなかった。 自分は彼を信じている。 それだけが、この身体を奮い立たせる力の源… その時、夜の静寂を打ち崩すように、耳を劈くような轟音が響き渡った。 それは零時を告げる鐘の音。 聖夜を告げる、鐘の音。 そう、今日はクリスマスなのだ。 その音に背を押されるように、勢いよく扉を開けた。 はあはあと忙しない呼吸を全身で繰り返している青年。 この寒さの中、額にはいくつもの汗が浮き出ている。 馴染みのない顔。 けれど、よく知っている顔。 手紙を出した覚えはないけれど。 靴下を下げた覚えもないけれど。 漸く今、一番欲しかったものを手に入れた。 おまえの目に映った俺は、ちゃんと微笑っているだろうか…? 「…ただいま、かいと」 この言葉を君に伝えるため、僕は戦いに行くのだ。 TOP |
Merry Christmas!! ということで、今年はなんとかクリスマス話をアップすることができました。 思えば、こんなネタを去年から丸一年も暖めてた私って…! しかも大した話でもないのにやたらと長い…。 本当はこの話、死にネタにするかどうかかなり迷ったのですが、やはりハッピーエンド主義を曲げることはできませんでした。 今回はあえて再開した後の二人の会話を一切書きませんでした。 そこはもう腐女子の皆さまの妄想で埋めてくださいませvv この設定は自分でもちょっと気に入ってるので、できれば未来編とか過去編とか書きたいなあと思いつつ… 皆さま、よいお年をお過ごし下さいv |