「はあ、はあ、はあ…」 降りそそぐ雨とぬかるんだ泥道に行く手を阻まれながら、それでも彼は懸命に走った。 濡れそぼった服に体温を奪われ、寒さに震える身体は青白くなっている。 疾うに限界を超えた四肢には倒れる度に付けた傷痕があちこちにある。 それでも、走った。 何かに脅えるように、何かから逃げるように。 何かを――誰かを――求めるように。 |
−逆さ吊りの神− |
機械じみた一定のリズムでキーを打つ音だけが響いていた室内に、コンコン、と扉を叩く音が響いた。 周りを囲うように並べられた四つのキーボードを目を瞑ったままたった二本の腕で操っていた志保は、突然の来訪者に動じることなくどうぞ、と招き入れた。 抑揚のないその声はどことなく人間らしさが欠けているようにも感じられる。 扉を開けた萩原は、中央の機械とリンクしたまま装置に深く腰掛けている志保を見て、軽く肩を竦めた。 「ダイブ中だったのか」 「…何の用?」 「悪いな。うちの悪戯小僧、来てねーか?」 「さあね。今度は何をしたの?」 「この間の報告書を出せって班長が煩くてね。早く出せっつったのにまだ出してねーそうだ」 全く、誰に似たんだが… ぶつぶつと文句を吐く萩原に、その怠け癖は隊長譲りでしょう、と志保は呆れたように眉を寄せた。 快斗が特別機動隊の隊長補佐になったのは三年前だが、それまでこの男は、自分の報告書を全て補佐に書かせていたという救いようのない怠け者なのだ。 まあ、さすがに十歳も年下の子供にそんなことを強要するほど腐ってはいなかったようだが、手本にすべき身近にいた大人がこれでは、早くに父親を亡くした快斗が怠け癖を持ってしまったのも仕方ないだろう。 「ま、あいつ見かけたらそう言っといてくれよ」 お邪魔さま、そう言って萩原はさっさと部屋を後にした。 志保は仕事の邪魔をされることを何より嫌うのだ。 それでも追い出されずに済んだのは、萩原が特別機動隊の隊長という肩書きを持つからだろう。 特別機動隊は機動班内に編成された特別なチームだが、実際はひとつの班としても何ら遜色ないほど独立している。 その隊長である萩原は他の班の班長と肩を並べていると言っても過言ではないのだ。 如何に彼女が鉄の女の異名を誇るWGOの支部長でも、仕事に私情を挟んで任務に支障を来すような真似をするほど傲慢ではない。 だが、仕事中は部外者の侵入を一切許さない彼女にも、たったひとりだけ例外がある。 それは―― 「出てらっしゃい。いるんでしょ? 黒羽君」 のっそりと黒い影が立ち上がったかと思うと、キッドを胸に抱えた快斗が苦笑いを浮かべながら姿を現した。 「気付いてたの?」 「当たり前でしょ。他の場所ならまだしも、ここではこの子たちの目を誤魔化したぐらいじゃ私は騙せないわよ」 言いながら志保は冷たい機械たちを優しく撫でた。 この施設内はもちろんのこと、特にこの部屋には数多くのセンサーが仕掛けられている。 その全ての目を欺くことなど能力者であってもそうそうできることではない。 彼だから、あらゆる力という力を全て無効化することのできる快斗だからこそ、光の屈折や温度の変化、重力でさえも操り、機械の目を欺くことができるのだ。 だが、相手は宮野志保。 たとえ半身を機械で補った不完全な姿でも、半分は生身の人間である彼女にも第六感が与えられている。 他の場所ならまだしも、彼女のテリトリーとでも言うべきこの空間では、いくら快斗でも彼女の第六感を欺くことはできない。 「本気で見つかりたくなければ、完璧に気配を断つことね」 今の貴方は気配がただ漏れよ、と鼻で笑われ、快斗は苦笑を更に深めた。 「気付いてたんなら何で萩原さんに言わなかったの?」 確かに志保は快斗に甘い。 この部屋への侵入のように、他者には決して許さないことでも、快斗だけは大目に見てくれることがある。 だがそれはあくまでプライベートの話であり、任務において甘やかされたことは一度もない。 それどころか人一倍容赦がないくらいだ。 その彼女が報告書未提出で上司から逃げ回る快斗を庇うなんて、と首を傾げる快斗に、けれど志保は何でもないことのように言った。 「彼も気付いてたからよ」 「――うそっ?」 「馬鹿ね。仕事中の私に彼があんなこと頼むわけないでしょ。あれは隠れてた貴方に向けて言った言葉よ」 「…ちぇ。そう言われたら、出さないわけにいかないじゃん」 快斗は拗ねたように頬を膨らませた。 うまく逃げていたつもりが、実は逃げ道を作ってもらっていたとあっては面白くない。 萩原も志保も快斗のそういった性格をよく理解しているからこういう手段を取っているのだが、それに気付いているのかいないのか、快斗はつまらなさそうに背伸びをしながら、 「そんじゃぱぱっと書いて来よっかな」 な、と腕の中のキッドに話しかける。 そのまま部屋を後にしようとする快斗を、志保は呼び止めた。 「黒羽君。報告書を出したくない理由でもあるの?」 快斗はもともと悪戯好きで、義務や規則に縛られたがらない自由奔放な子供だった。 けれどWGOの特別機動隊副隊長の肩書きを掲げるからには、規則を守り責任を持って義務を果たさなければならない。 それが分からないほど快斗ももう子供ではない。 それでも報告書の提出を拒みたいほどの理由があるのかと、志保は思ったのだが。 ノブに手を掛けたまま快斗が振り返る。 口元に浮かんだ笑みは、十年以上もともに生きてきた志保にさえ見抜けない、ポーカーフェイスだった。 「別に、面倒だっただけ。気にしないで♪」 オシゴト頑張ってね。 笑いながらぴらぴらと手を振る快斗が扉の向こうに消えると、室内には再び静寂が戻った。 いつもなら落ち着くはずのその静寂に、志保は苦々しく溜息を吐く。 「…気にしないで、ね」 志保が快斗と初めて会ったのは、彼がまだたったの五歳かそこらの子供だった頃だ。 以来、家族のいなかった志保は快斗をまるで弟のように育てて来た。 それは彼の父親が死んでからも変わらず、誰よりも快斗を理解しているという自負が志保にはあった。 けれどその自信は近頃めっきりどこかへ隠れてしまっていた。 三年前、機動班から特別機動隊に移籍した快斗が副隊長の任を負ってからと言うもの、快斗の心はどこか遠くへ行ってしまった。 相変わらず笑顔は絶えないし人懐っこく悪戯好きなところも変わらないけれど、時折驚くほど大人びた顔をするようになった。 原因は分かっている。 特別機動隊に移り、組織の能力者と接触を重ねるうちに、父親の死の真相を知ってしまったのだろう。 だが、快斗はそんな素振りを少しも見せない。 昔から秘密主義なところはあったけれど、近頃ではそれが目に見えて著しくなっている。 「いつになったら話してくれるの…?」 全てを話してくれなんて無茶は言わない。 ただ、誰より側近くにいた志保にさえ話せない本音を、いったい誰に話せると言うのか。 このまま本音を抱え込んでいけば、いずれ彼は壊れてしまうのではないか。 志保には何よりそれが気掛かりでならなかった。 * * * あれほど提出を渋っていた報告書をものの三十分ほどで作成し、さっさと提出を済ませた快斗は、いつものように地上への道を歩いていた。 もちろん任務外のことなので外出許可など下りていないが、快斗の放浪癖は今に始まったことではない。 そのため支部長である志保の計らいで擬態化スーツの常時携帯を条件に偵察という特命を与えられた快斗は、実質的に自由な外出を容認されているようなものだった。 そもそもなぜ快斗はそうまでして外に出たがるのか。 それは、WGOが世界政府の公認機関とは名ばかりの、まるで監獄のような場所だからだった。 WGOの関係者はそれだけで優待され、どんな国への出入国もフリーパスでありながら、その存在は世間に知られていない極秘機関だ。 そんな自分たちが堂々と看板を下げるわけにはいかず、施設そのものは全て地下に造られている。 そしてこの巨大な地下施設にはここで働く者全てに個室が設けられており、快斗のように任務で地上に上がらなければならない機動班を除き、大概の能力者は一生の殆どの時間をこの施設内で過ごす。 ここで働く者も含め能力者は全て管理班に管理され、班長各の誰かに許可を貰わなければ外出もできない。 言うなればここは、能力犯罪の取締りという名目のもとに政府によって掻き集められた、政府にとって都合のいい能力者の管理施設なのだ。 君たちは選ばれた存在なんだ。 彼らは決まってそう言う。 確かに神がかった特殊能力を持ちながら一般人の中にうまく溶け込むことは容易ではない。 しかしだからと言って、彼らの言葉を真に受けて施設の中に引きこもるなど、快斗にはとても理解できなかった。 「おや、坊ちゃま、お出掛けですか?」 カランカラン、と扉を開けると同時にベルが鳴り響く。 閑散とした店内でひとりカウンターに腰掛けていた初老の男は、店の奥から現れた快斗に微笑みながらそう言った。 「せめてお仕事ですかって聞いてくれよ、寺井ちゃん。それじゃ俺がいつもさぼってるみたいじゃん」 「これは失礼しました」 寺井はそう言いながら、きっとまた明日も同じことを言うのだ。 彼は人の良さそうな顔をしてなかなかに食えない男だった。 ここはブルーパロット。 この男、寺井黄之助が経営しているビリヤード店だ。 昼を少し過ぎたばかりというこの時間帯ではまだ何の賑わいもないが、これでも毎日顔を覗かせる常連客などで夕方になればそこそこ賑わってくる。 そしてこの何の変哲もないビリヤード店こそが、実は極秘機関WGO日本支部の地下施設への入り口であった。 言わば、寺井は日本支部のゲートを守る番人なのだ。 その彼が快斗のことを「坊ちゃま」と呼ぶには理由がある。 今でこそこんな定年後の老人が趣味で開いているような店のオーナーに落ち着いている寺井だが、彼がまだ現役だった頃は、快斗の父とともにWGOを支える双肩を担っていた男なのだ。 当時WGOの長官であった父を彼は副官として支えてくれた。 そしてその頃の名残で、上司の息子だった快斗のことを寺井は未だに坊ちゃまと呼ぶのだった。 ブルーパロットの扉を潜り、いつものように人通りの少ない道を歩きながら、快斗は志保に言われた言葉を思い起こしていた。 なぜ報告書を提出しないのか。 面倒だったから。確かにそうなのだが、理由はそれだけではなかった。 自分でもうまく言えないのだが、おそらくあの日のできごとをどう書いていいのか分からなかったのだ。 あの日―― 十二使徒のひとり、ジンと呼ばれた黒尽くめの男と接触した日に、快斗が見たもうひとりの存在。 ありのままを書けばいいと思うだろう。 あそこまでジンを追いつめておきながら取り逃がしたのは、あの場にもうひとり別の何者かが現れたからだと。 けれど、あの存在を書き表す術を快斗は持ち合わせていなかった。 あの日の光景を思い出すだけで胸が騒ぎ、思考が絡まる。 こんなことは初めてだった。 結局快斗は報告書に第三者の存在を書かなかった。 否、書けなかったのだ。 あんな穴だらけの報告書では突き返されるかも知れないが、その時はその時だと、快斗は半ば投げ遣りな気分で提出したのだった。 と、快斗の上着の中に入っていたキッドが突然暴れ出したかと思うと、懐から飛び出した。 「――キッド!」 快斗が呼び止めるが、キッドは見向きもせずに飛び去っていく。 慌ててその後を追いながら首に下げていたゴーグルを嵌め、快斗は本部にいる志保と回線を繋いだ。 「志保ちゃん、キッドが動いた! この付近の地図を転送して!」 『…了解』 脳裏に声が響くと同時に、レンズに地図の詳細画像が流れ込んでくる。 素早く快斗の居場所を突き止めた志保が、付近の地図のデータを快斗の映像受信装置に転送してくれたのだ。 快斗は志保に送ってもらった地図で現在地を確認しながら、キッドを見失わないよう人混みの中を掻き分けていく。 キッドはWGOでも有名な鳩だった。 五年前、怪我をして物陰に隠れるように蹲っていたところを快斗に拾われた。 それ以来快斗の相棒としてずっとともに過ごしてきた。 任務の時でさえ快斗はキッドを連れ歩いた。 本来なら任務中は邪魔になるからと忠告されそうなものだが、キッドは特別だった。 なぜならキッドは世界でまだ一羽しか発見されていない、能力を持った鳩だからだった。 確かに彼はいつも快斗の言葉を違えることなく理解してくれる頭のいい相棒だが、それだけでは能力を持っているとは言えない。 彼は、能力者を感知することのできる能力者なのだ。 キッドがこうして導くように飛んでゆく時、その先には必ず能力者がいる。 だから快斗は迷わずキッドの後を追っていく。 (でも…) 今日はいつもと何かが違う。 一心に翔るキッドの姿を目で追いながら、快斗は訝るように眉を寄せた。 頭のいい彼は快斗の限界速度も熟知しているはずだ。 だと言うのに今日の彼はどうしたことだろう、危うく見失ってしまいそうになるほどのギリギリの速度で飛んでいる。 まるで何かに急かされるように、まるで、早くそこへ行きたくて仕方ないとでも言うように。 それにつられ、次第に快斗の鼓動も早まってゆく。 いつの間にか入り込んだ狭い道を左に折れ、右に折れ、また左に折れ、更に左に折れ…… 「――うわっ!」 幾つめかの角を曲がった時、快斗は逆方向から同じく角に飛び込んできた何かにぶつかって盛大に転けてしまった。 どうやら膝の辺りにぶつかられたらしく、前のめりになった快斗は頭から突っ込みそうになったところを、前転の要領で両手の肘をクッションに一回転して起きあがる。 慌てて振り返れば、ぶつかった何かは幼い子供だった。 反動で塀に衝突したらしく、子供は右のこめかみから血を流しながら蹲っている。 「大丈夫か!」 頭を強打しているとしたら危ない。 けれど急いで駆け寄った快斗が肩を軽く叩きながら声を掛けると、子供はすぐに目を覚ました。 とりあえず意識があったことに安堵する。 子供が起きあがるのを見る限り、どうやら身体にも問題はなさそうだ。 ぱっちりと開かれた群青色の瞳がじっと見返してくる。 まだ六、七歳だろうか、子供らしい滑らかな肌には、よく見るといくつもの傷が付いていた。 今できただろう擦り傷に紛れ、明らかに古い傷痕がいくつもある。 「…おまえ、傷だらけじゃないか」 訝りながら声を掛ければ、子供はびくりと肩を揺らし、快斗に取られていた手を慌てて引っ込めた。 脅えるように顔をしかめている。 快斗はどうしたのかと問いかけようとして、けれど子供の表情を見てそれ以上言うのを止めた。 こんなにもはっきり聞かれたくないと態度で示されては、通りすがりの見ず知らずの他人が問い質すわけにもいかないだろう。 ただいつまでも地べたに座り込んでいるのもどうかと思い、助け起こそうと手を差しだした。 子供は暫くその手を疑わしげに眺めていたかと思うと、暫くした後、手を取る変わりに手の中へとぎゅっと何かを握らせた。 「…? なに?」 それは指輪だった。 幅一.五センチほどもある、鈍い金色の指輪。 よく見れば輪の内側に細かい文字のようなものがびっしりと刻まれている。 あらゆる言語を操ることのできる快斗にもとても解読できそうにない。 それでも分かることがひとつだけあった。 これが、触れているだけで何かを感じさせるような、そんな不思議な力を持った指輪だと言うこと。 まるで力そのものを凝縮し、それに指輪という形を持たせたかのようだ。 なぜこれを自分に託すのかと尋ねても子供は無言のままじっと見返すだけだ。 まるで懇願するような目で見つめられ、快斗は一層困惑する。 するといきなり立ち上がったかと思えば、子供はそのまま振り返らずに駆け出してしまった。 おい、その背中に声を投げるが、子供は一目散に走っていく。 わけも分からず快斗はその後を追おうとしたのだが―― パンッ、と響いた乾いた音と同時に子供の肩から血が噴き出し、その身体が傾いていくのを、快斗は目を見開いて眺めていた。 ざわっと快斗の肌が粟立ったのと、見失ったはずのキッドの羽ばたきが聞こえたのは、ほぼ同時だった。 狂ったように甲高い鳴き声を上げながら上空を旋回していたキッドが、子供を目掛けて急降下する。 キッドの真っ白い羽がぱらぱらと舞い散る向こう、子供が倒れているその更に向こうに、人影がひとつ。 その人影を快斗はきつく睨み付けた。 上から下まで全身黒尽くめで、あの男――ジンを思い起こさせる銀髪を後頭部でひとつに括っている。 右目に片眼鏡を嵌めているため人相ははっきりとしないが、どうやら二十歳前後の青年のようだ。 左手に持ったベレッタが子供の肩を穿った凶器に間違いない。 男はおもむろに子供へと近寄った。 すると、子供の傍らに降り立ったキッドが鳴きながら羽を毛羽立たせ威嚇した。 「…その子に触るな」 快斗の微かな呟きが、確かな力をもって空気を震わせる。 そこで漸く気付いたとでも言うようにこちらを見遣った男に、快斗は声も低く問いかけた。 「その子に何の用だ」 「…お前には関係ない」 「いや、関係なら大有りさ」 言うが早いか、駆け出した快斗の足が男の右側頭部を狙う。 「俺がWGOの人間で、」 その蹴りをギリギリのところでかわし、男は子供から数歩退いた。 男の右目に嵌められていた片眼鏡が風圧で吹き飛ぶ。 「あんたが十二使徒である限り、な」 そこには、ベラクルスの十二使徒である証とも言うべき刻印――逆さ十字がしっかりと刻まれていた。 「…なるほど、WGOか」 見えないのか、男は右目を瞑ったまま嫌そうに顔を歪める。 快斗は子供を背に庇うようにその前に立ちはだかった。 ついこの間まではどんなに追ってもその影すら掴ませなかったと言うのに、ジンに続きこの男と、先日からやたらと組織の人間と接触している。 快斗としては願ったり叶ったりだが、そう喜んでもいられない。 組織の動きが活発化していると言うことは彼らの中で何かが起きているということだ。 その何かとはいったい何なのか。 あの存在と―― あの深い深い蒼玉の瞳を持った存在と、何か関わりがあるのだろうか…? 快斗はあれ以来ずっと、あの一分にも満たない邂逅のことを考えていた。 昼も夜も、時には任務の時でさえ。 それほどあの邂逅は快斗にとって衝撃的だった。 あれは何者なのか。本当に彼らの仲間なのか。 今、どこで、何をしているのか。 ――それは、目の前のこの男を捕らえて吐かせればいい。 そう思い快斗が身構えたその瞬間、キッドがけたたましい声を上げながらバサバサと翼を羽ばたかせた。 普段の彼からは想像も付かない行動に驚いて振り向けば、おびただしい量の血が地面を深紅に染め上げていた。 子供の肩から流れ出る血は留まるところを知らず、今も尚勢いを失うことなく溢れ出ている。 その紙よりも真っ白な血の気の失せた顔を見て、快斗の背筋をぞくりと寒気が走り抜けた。 一刻も早く救命措置をしなければこの子供は確実に死ぬ。 キッドがこんなにも落ち着きなく騒いでいるのは、子供の死を恐れているからに他ならなかった。 それは快斗も同様で、今にも鼓動を止めそうなこの子供を見ていると、わけも分からず息が詰まった。 人の死ぬ瞬間とはこんなにも怖ろしいものだったろうか。 快斗は躊躇うことなく血溜まりに飛び込むと、子供の肩を強く圧迫した。 出血が止まったかのように見えたのも数秒で、すぐにじわじわと血が溢れてくる。 快斗は唇を噛みしめると叫ぶように声を張り上げた。 「志保ちゃん! すぐに新出先生を呼んで!」 『…なにごと?』 「子供が死にそうなんだ! 事情は後で説明するから、早く…!」 『…OK。すぐに服部君を送るわ』 意識を集中する。 手の先、皮膚の触れるその先に全ての力を凝縮するイメージを作る。 傷口から溢れ出る血の流れを止めればいい。 そこに作用する力を無効化してしまえばいいのだ。 範囲の指定、さらに標的の指定。 こんな細かい制御など普段でさえままならないのに、この状況下でどれだけ言うことを聞いてくれるか分からない。 けれど、そんなことを言っていられる場合ではなかった。 一刻も早く止血し輸血を行わなければ子供は死んでしまう。 快斗がやらなければ、この子は死んでしまうのだ。 「死なせるもんかよ…!」 手の平が熱い。 心臓が有り得ない速さで鼓動を打っている。 額から噴き出す汗がまるで水でも被ったように流れ落ちる。 慣れないことに体中の機能が狂い出している。 それでも、血の流れは完全に止まってくれない。 悔しい。 役に立てない。 こんな力を持っていても、何もできない。 自分はまた――目の前の子供ひとり、助けられないのか。 「…くそォ――っ!」 快斗がそう叫んだ時、快斗の影がぐんと伸びた。 それまでじっとこちらの様子を傍観していた男が軽く目を眇める。 伸びた影の中から何か黒い塊がもぞもぞと動いていたかと思えば、やがて人の手が現れた。 骨張った浅黒い腕がぐっと地面を掴む。 己の異変に気付いた快斗が驚いたのは一瞬で、その腕をじっと見つめる。 すると、まるで水の中から勢いよく飛び出るかのように、影の中から人間が飛び出した。 日に焼けたような浅黒い肌に、かっきりした眉が印象的な、快斗と同じ年頃の少年。 「待たしたな、黒羽」 「――平次!」 突然現れた少年に答えようともせず、快斗は急かすように彼の名を呼んだ。 硬い表情で睨むように真っ直ぐ見つめてくる同僚に、服部平次は時間がないことを悟る。 「すぐ連れてったるわ。おまえは…あいつをどないかせぇ」 止血していた手を引き受けて傷口を圧迫しながら、服部はちらと横目で静かに佇んでいる男を見遣ると、すぐに来た時のように影の中へと飛び込んだ。 彼がいればすぐに新出のもとへあの子を連れて行ってくれるだろう。 快斗はひとつ息を吸い込むと、 「…あの子が殺れなくて残念だったな」 自分でも驚くほど冷たい声だった。 けれど男は怯みもせず、何を考えているのか、再び目を眇めただけだった。 血まみれの身体で佇む快斗と暫く無言で睨み合う。 漸く男が動いた時、何をするのかと思えば、男はくるりと踵を返して立ち去ろうとした。 快斗が慌てて後を追おうとすれば、立ち止まって軽く振り向いた男は、今にも射殺さんばかりの形相で快斗を睨め付けた。 「勘違いするなよ。逃がしてやると言ってるんだ。 …今すぐ死にたいなら、相手になるぞ」 男の声を通して吐き出される殺気に大気がびりびりと震えている。 まるで意志が形を持ったかのように男の周りが淀んで見える。 快斗の身体は縫いつけられたかのように動かない。 「何れ時が来る。その時まで、せいぜい残りの命を楽しむことだ…」 弾き飛ばしたはずの片眼鏡がいつの間にか男の右目に戻っている。 そう感じたのも束の間、男の姿は忽然と消えた。 唐突に、何の前触れもなく。 瞬きすらしていない視界の中から、一瞬にして消え去った。 快斗は目を瞠った。 自分の姿を見えなくさせる術はいくらかある。 たとえば快斗の着ている擬態化スーツにしても、周囲と擬態化することであたかも消えたかのように思わせることができる。 けれど、姿を消すことができる能力など聞いたことがなかった。 自分たちは超能力者ではなく、あくまで科学的根拠に基づいて力を発動させている。 それは、絶対に曲げることのできない真理が存在するからだ。 その曲げられないはずの真理すらねじ曲げる、掟破りの能力者。 あんな力は見たことがない。 そう思い、快斗は緩く首を振った。 もうひとりいるではないか、と。 あの時、吹き付ける風の強さに思わず目を閉じた快斗が再び目を開いた時、やはりあの存在も消えるようにいなくなっていた。 (奴らは…真理に逆らうことができるのか…?) バサバサと羽音をさせながらキッドが肩に留まった。 真っ白い羽は快斗同様赤く染まっている。 どうやら急いで本部に戻った方が良さそうだ。 快斗はキッドを懐に入れると、一旦思考を停止して、スーツのスイッチをオンにして駆け出した。 |
B / T / N |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ひとつお断りを入れておきますと、このお話にもオリキャラさまが出て来ます。 そして第一部第一話にして既にもう登場していらっしゃいます(笑) 苦手な方はどうぞさら〜りと読み流してやって下さいませv 個人的に。実は最強寺井ちゃんとか、阿笠博士とか、そういう設定が好きですvv (↑またビミョーな…) 06.01.22. |