最初はそれでも胸が痛かった。

 呆れたように溜息をついたり、笑っていたりしたけれど。

 気持ちを捨てることがこんなにも難しいことだと思わなかった。



 それは私が世間から隔離された場所に居たからかも知れない。

 こんな感情を持ったのは、外に出ることが出来たから。

 外に出て、風を感じ、空気を吸うことが出来たから。



 そしてそれが出来るようになったのは、居場所を作ってくれたあなたのおかげ。

 居場所を守ってくれたあなたのおかげ。

 呼吸をするのと同じぐらい自然に好意を持った。



 けれどあなたの隣りを歩く人は、私が気持ちを伝える前に決まってしまった。

 すごく幸せそうに見えたから、これで良いと思ったの。

 だけど。

 それでも最初は、胸が痛かったのよ
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[ heart break ]
















「灰原、おはよう」

「おはよ、哀ちゃんv」



 珍しく指定した時間にやってきた来客に少し驚いて。

 けれど付き添うようにしてやってきた快斗を見て納得した。



「ご苦労様、黒羽君」

「いえいえ。新一の体は俺にとっても大事だからね」



 今日は月に一度の定期検診の日。

 何度言っても忘れてしまう自己管理に疎い探偵のために、哀は快斗に新一を連れてくるように頼んでいたことを思い出す。

 組織のクスリから解放されてからも、その後の何かしらの変化にすぐに気付けるように定期的に検査をしている。



「そんなに気にしなくても大丈夫だって。自分の体のことぐらいわかるのに」

「あら。一人じゃまともに食事も摂らない人の言うことを信用するわけないでしょう」

「……一日二日食べなくたって、死なねーよ」

「新一の場合、一日二日じゃないじゃん!」

「そういうのを不健康というのよ」



 阿笠邸の地下室の診察台に横になった新一の脈をとる。

 慣れた手つきでもくもくと診察をしていく。



「まあ俺がいる間は安心してよ、新一v」

「良い奥さんもらったわね」



 哀の言葉に抗議しようと新一は飛び起きたけれど、じっとしなさいと額を叩かれてしぶしぶ横になる。

 隣で傍観していた快斗は吹き出して笑い出した。

 そんな快斗を新一は恨めしそうに睨み付ける。



「奥さんってより、ただの家政婦だよな……」

「ひでぇ!新一、俺のことそんなふうに見てた訳!?」



 新一は何も言わずにやりと笑い、快斗は文句を言っているけれど、その顔は笑っていた。

 そんな二人の顔を見て、哀もなんだか楽しくなって笑みを浮かべた。



 ほんとに幸せそうね。

 喧嘩するほど仲が良いということかしら。



 どこか胸の奥がチクンとした気がして、苦笑に変わる。

 まだこの気持ちは残っていたのか、と。



「……哀ちゃん、どうかした?」

「いいえ。なんでもないわ」



 苦笑を噛み消すと、いつもの無表情でさらりと答える。

 どうにも頭の良い人は、怪盗も探偵も科学者も、ポーカーフェイスがうまいらしい。

 血液採取のために捲った袖をもとに戻すと、



「終わりよ。お疲れさま。」

「サンキュ」

「黒羽くんのおかげかしらね、前より体調が良いぐらいだわ」

「まかせてよv」



 にっこり笑った快斗につられて、哀も笑顔を返す。



「そろそろお昼だよな…哀ちゃん、一緒に食べない?」

「あら。お邪魔じゃないのかしら」

「俺特製のおいしーい御飯食べれるよ?」

「それなら呼ばれようかしら」



 やった、と喜ぶ快斗と新一に連れられて、工藤邸へと向かった。









 しばらくすると、リビングに快斗の料理の食欲を誘う匂いが広がった。

 料理をするのは快斗で、食器類は新一と哀が並べた。

 今日は暑いし、お昼だからあっさりした軽めのものを…と言って出された料理は、とてもおいしかった。



「さすがね、黒羽君。とても美味しいわ」

「そいつはドウモvやっぱマジシャンは手先も器用だからね〜v」



 愛情もたっぷり籠もってますから、と快斗が言う。

 少し照れたのか、新一はそれを隠そうとからかいを込めてぼそりと言った。



「やっぱ家政婦だな……」

「おい、せめて奥さんにしろよ」

「やだね、こんな妻」



 二人のやりとりが面白くて、無表情で食事を平らげる哀の内心は笑っていた。



「ふーん。まあ良いよ、新一が俺の奥さんだから」

「なっ」

「まあ普通そうでしょうね」

「灰原までっ」

「でしょvv」



 しかめっ面で怒鳴る新一の顔は心なし赤い。



 まだ子供の姿だったあの頃に、彼のこんな顔は見たことがない、と思った。

 怒ってるのに幸せそうな顔。

 照れた顔なんて、まず見れなかったわね。

 それを見せれるのは、やっぱり『特別な人』だからかしら…?

 友達よりも家族よりも、誰よりも自分の側にいてくれる人を、見つけたからかしら。



 考えに耽っていた哀の思考を、快斗の言葉が引き戻す。



「哀ちゃん、ご馳走様で良いのかな?」

「…ええ、有り難う。私も手伝うわ」

「お客さんなんだから良いのに」

「良いのよ」



 自分の食器を持って台所へと行き、流し台に食器を入れる。

 快斗と新一の二人分の食器を持った快斗が台所に来て、洗い始める。



「俺が洗うから、哀ちゃんは拭いてってくれる?」

「ええ」



 食器を受け取って丁寧に拭き、食器棚へとしまっていく。

 ふと視線を遣れば、使い込まれたお揃いのマグカップが視界に入った。

 コップの底に刻まれた黒い線を見れば、コーヒー用のマグカップだとわかる。

 このカップで何度も二人でコーヒーを飲んでいるのだろう。



 二人だけの時間。

 コーヒーを飲んで、喋って、笑って。

 一緒に眠って、一緒に起きて。

 そうやって隣りに居るのだろう。



 ふっ、と儚いような笑みがこぼれた。



「哀ちゃん………?」

「ごめんなさい。なんでもないのよ」



 すぐさま笑みを払って、次の食器へと手を伸ばす。

 けれど、快斗の言葉が哀の動きを奪った。



「………………ごめんね。」



 はっとして哀は俯いていた顔を上げた。

 そこには同じように儚げに笑う快斗の顔がある。

 なんだか泣きそうにも見えて、驚いた。



「……なにを、謝るの?」

「君の気持ちを……俺が潰してしまったから。」



 あの、チクンとする胸の痛みが再び哀を襲った。



「………………バカね。なんであなたが泣きそうな顔をしているのよ」

「痛いほど気持ちがわかるからだよ。俺じゃなきゃ君の気持ちはわかれないよ」



 止めていた手を再び動かして、快斗は続けた。



「気持ちを測ることなんて出来ないから、より強くあいつのことを想ってたのはどっちかなんて知らない。でも、俺も哀ちゃんもきっと精一杯であいつを想ってた。だから、同じぐらいその先にある未来に、希望と……恐怖があったはずだ」

「…………そうね。」

「新一は俺を受け入れてくれたけど、もし受け入れられなかったらどうなったかわからない。だから、哀ちゃんの気持ちがわかるんだよ」



 水の滴る音と食器のぶつかり合う音の中で、不思議と快斗の声は澄んで聞こえた。

 心に無遠慮にずかずかと響く、声。

 響く先から暖かくなっていく気がした。

 胸の痛みももう感じない。



「バカね。それなら尚更、謝らないで頂戴」

「………ごめん」



 謝るなと言った途端に謝った快斗に苦笑する。

 その顔にはもう儚げな色はない。



「最初はね。最初は、胸が痛かったわ。それで知ったの。私、自分でも知らない間にそんなに……想ってたんだって。だけどあなたたちがあんまり幸せそうだから、いつの間にかそんなことどうでも良くなったわ。二人が笑っていることが、私にとっても嬉しかったの」

「哀ちゃん……。」

「別に気持ちを捨てた訳じゃないわ。気持ちが……変わったのよ。彼一人だけに向かっていた気持ちが、あなたたち二人に向かうようになっただけ」



 食器を拭いながら、目を閉じて満面の笑みを浮かべている哀の顔を快斗は見た。

 その言葉が嘘なんかじゃなく、強がりなんかでもなく。

 本心から紡がれる言葉なのだと感じた。



「だから謝ったりしないで頂戴。潰れてなんかいないわ。形を変えて、ちゃんとここにあるのよ」



 閉じていた瞳を開けて鮮やかに笑った哀に、快斗は一瞬息を呑んだ。



「………うん。わかった」

「そう。それならさっさと片づけましょ」



 いつもの哀に戻った彼女に安堵して、快斗は再び手を動かす。

 すると、新一がひょっこり顔を出した。



「なぁ、まだか?やっぱその……俺も手伝おうか?」



 そんな新一を見て、二人は視線を交わすとそれぞれクスクスと笑い出す。

 新一はわけがわからないといった様子で眉をひそめた。



「なに、お前らどうかしたのか?…変だぞ?」



 洗い物を終えて手を拭いた快斗は、笑いを堪えながら新一の髪をくしゃりと撫でる。



「良いんだよ、新一は知らなくて。俺と哀ちゃんとの秘密のオハナシなんだからv」

「はぁ?なんだそれ……」

「気にしないで。そんな大したことじゃないから」

「えぇーっ。大事なことじゃん、哀ちゃん」

「そうかしら?」



 クスクス笑ってキッチンを後にする。

 なんだよと聞いてくる新一には何も答えてやらずに、快斗もキッチンを出る。

 午後の明るい日差しが部屋の中に降り注いで、室内で楽しげに笑う3人を照らし出した。





 もうバレたって構わない。

 気持ちは変化し、切ないものから暖かいものへとなったから。

 あなたたちといるだけで、笑える自分になったから。

 心を苛む痛みは、きっともうない。










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