Yの悲劇
『彼』に恋してしまう者は大勢いた。
『彼』は、その見た目はもちろんのこと、一見冷徹な印象を抱かれがちだが実際は愛嬌たっぷりのその性格こそ、なにより愛されていた。
テレビや新聞で見る大胆かつ堂々とした『彼』からは想像もつかないが、実際は少し人見知りをするところがあったりだとか、打ち解ければひどくあどけない素顔を見せてくれたりだとか。しっかりしているかと思えば妙なところで抜けていたりと、とにかく、『彼』と少しでも話す機会を得られた者なら、その魅力に魅せられない者など存在しないほどだった。
だから、『彼』と同じゼミに決まったとき、自分の頭のデキに本気で涙するほどに喜んだ。なにせ『彼』の選んだゼミときたら、成績上位者、それも内申含め教授の眼鏡に敵う者でなければ取れないというゼミだったのだから、その数少ない枠に入り込めた自分はとても強運だったのだと、『彼』こと工藤新一に懸想している山田荘太朗(米花町在住)は思った。
しかし、山田はすぐに己の悲運を嘆くことにもなった。なぜならその時にはすでに強力なライバルがおり、しかもそのライバルは思い人の一番の親友という、とても自分が敵う相手ではなかったからだ。
ライバルの名は、黒羽快斗。
……自分なんぞがライバルを名乗るのもおこがましいほど、これまた世界中の人々を魅了する人気絶頂の天才マジシャンである。
実は東都大学に三位の成績で入学を果たしたこの山田荘太朗。同率首位に立った黒羽快斗と工藤新一はそれぞれ「帰国が間に合わないかも知れない」、「警察に攫われてしまうかも知れない」という不安要素を抱えていたため、心配性の学長により第三の新入生総代候補として実は原稿を預けられていたため、入学式では工藤新一の隣に座るという栄光を掴んでいたりして。
その時から、にこりと笑いかけながら「よろしく」と挨拶された時から、山田は恋に落ちた。ちなみに初恋だ。青春は全て勉強に捧げてきたので、これまで恋愛をしたこともなかった。
だと言うのに、式の途中で現れ、同じく工藤新一の隣に座った黒羽快斗は、それまで面識もなかったというのに、入学式のその日の内に随分と彼と親しくなったようで、それ以来いつ見ても必ず二人セットという状況だった。
スタートは同じだったはずなのに、この差は如何に。
そんな己の悲劇を、山田は同じゼミを取った親友――吉田勇次郎に切々と訴えた。居酒屋のカウンターで。
「俺ってカワイソーだと思うだろ、ユージ!」
「そうだな、お前は世界一不憫で気の毒で哀れな男だよ、ショータ」
「ひでー! そこまで言うか!」
既にアルコールの回りきった山田と、まるで素面の吉田。ちなみに山田は焼酎の水割り一杯、吉田はビール六杯だ。こちらはこちらで正反対なコンビということで、東都大でも結構有名な二人だったりするのだが。
山田が工藤新一に片思いしていることを知っていた吉田は、これでも友人の恋を応援するためにいろいろと努力してきたのだ。外では酒を飲まないことで有名な工藤新一を、『ゼミの親睦会』という名目でどうにか連れ出すために、あえて本人のいないときに黒羽経由で話が伝わるようにしてみたり。その貴重なチャンスになんとかお近づきになろうと頑張る友人のために、一緒になって食いついてみたり。
結果、工藤新一が如何に手強い相手かを思い知っただけに終わった。一緒にいた女の子たちにも筒抜けするほどあからさまにかました山田のアタックを、彼は華麗にスルーしてみせたのだ。その手腕にはもう脱帽するしかない。
「まあ諦めろ、ショータ。そもそもお前には高嶺の花だったんだよ」
「んな簡単に諦められっかよ、チクショー」
うわあん、と泣き真似(マジ泣きかも知れない)をする山田の肩を、吉田は慰めるようにぽんぽんと叩いてやった。
山田とて本当は望みがないことなど分かっているのだろう。あのゼミの飲み会の日に見せた黒羽の迫力笑顔は恐ろしすぎた。彼が如何に工藤新一に惚れ抜いているかを知るには、あの笑みだけで十分過ぎた。その黒羽に山田が敵うかと言えば……答えは言わずもがな、である。
そもそもにして、心理学部にはある噂がまことしやかに囁かれていた。その噂がどこから出たのか、誰が言い出したのか、今となっては誰にも分からない。しかし今ではその噂は最早純然たる事実として認識されていた。
即ち――黒羽快斗の本命は工藤新一である、と。
黒羽は工藤同様恐ろしいまでにモテる男で、彼の周りには常に女性の姿があった。当然、いろんな女性と付き合っていたが、そのどれも長続きしなかった。その理由は、黒羽と付き合って別れた女の証言によってすぐに知れた。
曰く、黒羽君にはずっと片思い中の本命がいるから。
それを聞いたとき、誰もが思ったのだ。それなら黒羽の本命は工藤だろう、と。
元彼女の証言によれば、黒羽にとっての最優先事項は常に工藤であったらしい。たとえデート中だろうと工藤からの誘いがかかれば飛んでいってしまうし、逆に工藤といるときはどんな理由で呼び出しても決して応えてくれないのだとか。
それだけでも黒羽の本命が誰かなどすぐに知れようものだが、吉田的に最も有力な説はこれだ。
――つーかあの黒羽に片思いさせられる人間なんて、この世で工藤くらいじゃないか?
ちなみにこれは吉田の自説である。我ながらなんとも説得力のある説である。
「元気出せよ、ショータ。きっとすぐに次の恋が見つかるって」
「そんな、もう終わったみたいな言い方するなよな! 俺にだってまだ望みはあるだろ!」
「あるか?」
「あ、あるよ!」
いやないだろ、とは思ったが、そこは親友の誼みで黙っていてやる。
「まあ確かに、最近二人が一緒にいるところを見ないしな。喧嘩でもしたか?」
「そうなんだよ……心配だよな……」
落ち込んでなきゃいいけど、と呟く友人は、この機会につけこもうなどとは考えつきもしない、全く呆れるほどのお人好しである。そんな男だからこそ、見捨てることなくこうして付き合ってやっているのだが。
「じゃあ、まあ、景気づけに今度またゼミのメンバーで飲み会でもするか?」
「いやお前、喧嘩してるんだったら来てくれるわけが、」
「――あれ? 山田に吉田じゃねーか」
と、そこに現れたのはなんと工藤新一ではないか。
驚く吉田の隣で、山田はビシリと硬直してしまった。流石は勉強に青春を捧げた男、恋愛に関しては工藤に負けず劣らず奥手なのだった。
「よお、工藤。おまえも飲みに?」
なにも言えずにいる友人に代わって吉田が尋ねれば、工藤はとてとてと無防備に寄ってきて、吉田の隣に腰かけた。
「ああ、てか、待ち合わせかな。オメーらも二人で飲んでたのか?」
「そうそう、荘太朗君が落ち込んでるから慰めてやってんの。工藤もよかったら慰めてやってよ」
「へえ、山田が?」
身振りで山田の隣に座ってやるよう促せば、工藤は素直に席を立ちかけた。
しかしなにを思ったのか、山田はものすごい勢いで頭と両手をぶんぶんと振った。
「いい、いいから! 大丈夫! そこにいてくれ、工藤!」
「そうか?」
明らかに挙動のおかしい山田の態度にもなにも思うところはないのか、工藤はまたも大人しく浮かせかけた腰をストンと下ろした。そのままカウンターに向かってハイボールの水割りを注文している。
吉田は呆れながら山田を振り返った。
「お前、せっかくのチャンスを棒に振ってどうするんだ」
「だだだってここ心の準備が……!」
助けて、ユージ!
と、どこの乙メンかと頭を抱えたくなるようなことを言う友人にしがみつかれながら、吉田は乾いた笑みを浮かべた。俺は御簾かなにかか。
そんなこちらを見て、工藤は「オメーらほんとに仲いいよなー」と見当外れなことを言っている。
「珍しいな、工藤が外で飲むなんて。酒は苦手なんだろ?」
「苦手っていうか、いつ呼び出しがかかるか分かんねーから落ち着いて飲めないんだよな」
「今日は平気なのか?」
「ん、今行ってきたところだから流石に今日はもうないだろ?」
「あ、そういうこと」
はは、と思わず笑ってしまう。日本が誇る名探偵を呼び出さなければならないような凶悪犯罪が一日に何度も起きては大問題だ。
しかし、そういうことならば、これは滅多にないチャンスだった。この奥手の友人が少しは思い人と親密になれるかも知れない。
「なら工藤、ちょっと付き合えないか? ショータも大勢で騒いだ方が気も紛れるだろうし」
「俺? そうだな、あいつがいいって言うなら別に構わねーけど…」
「そういや誰かと待ち合わせてんだっけ。俺らも知ってるやつ?」
もしそうなら、そいつも巻き込んでしまえばいい。
そう思った吉田だったが。
「もちろん、よぉ――――く知ってるよな?」
なんて言葉とともに背後からずっしりと体重を掛けられ、吉田は思わず震え上がった。
聞き覚えのありすぎるその声は、できることなら今は一番聞きたくなかった声だ。
「か、…黒羽!」
工藤が微笑みながら迎え入れた人物は、当然といえば当然、黒羽快斗だった。
世にも恐ろしいモノに巻き付かれて、吉田は硬直した。
「お待たせ、新一。ユージたちと飲んでたんだ?」
「ああ、なんか山田が落ち込んでるらしくて、ちょっと付き合ってくれないかって頼まれたんだけど……いいか?」
ことり、と可愛らしく小首を傾げる新一。
しかしその眼福に脂下がる余裕など吉田にも山田にもあるはずはない。気のせいでなく背中がひんやりした。
「へーえ。流石はユージ、友だち思いだよな」
心なし一段と声も低くなったというのに、工藤は動じる様子もなく「そうだよな」と無邪気に笑っている。その鈍感ぶりに、吉田は気が遠くなった。
「そういうことなら付き合うよ。俺ととことん話し合おうじゃないか、ショータ?」
にっこりとあの迫力笑顔のオプションつきで話しかけられ、山田の顔は今や紙のように真っ白だった。
とことんって、それって、ショータが工藤を諦めるまでとことん説得という名の脅迫を続けるということか。
(つーかお前ら、喧嘩してるんじゃなかったのかよ!? 仲良く居酒屋で待ち合わせしてるなんて思わねーだろが!!)
誰にも聞かれないのをいいことに心中で喚きまくる吉田は、しかしこのままでは友人が再起不能になってしまうと、勇気を奮って黒羽に立ち向かった。
「いや、やっぱりショータのことは俺に任せてくれ。二人にも予定があるだろうから、悪いしな」
言葉もなくこくこくと何度も頷く山田。
「いやいや、そう遠慮するなよ。俺だってショータを心配してるんだから」
今度は小刻みに首を横に振る山田。
お前は小動物か、と心の中で突っ込みを入れながら、まるで戦力にならない山田に舌打ちしていると、今度はとんでもないところから奇襲攻撃を食らった。
「……お前ら、そんなに仲良かったっけ?」
どことなく拗ねたような声で、それとなく唇を尖らせた工藤が、なんだか恋人の不実を非難するような目でこちらを見ている。
吉田は眩暈がした。その、お前らの「ら」はいったいどこにかかるのか。自分か、それとも山田か。どちらにしてもとんだ勘違いである。
しかし同じ攻撃を食らったはずの黒羽は、眩暈どころか喜々として工藤に挑み掛かった。
「それって妬いてくれてんの? 新一」
「なっ、バーロー! 誰が妬くか!」
頬を上気させながらぷいと顔を背ける、その仕草に新たな眩暈を覚える。男のくせにこの可愛らしさはいったいどういうことなのか。そう見せようとしてしているわけではないからこそ、擽られてしまうのだろう。男心というやつを。
まだ道を踏み外したくない吉田はなんとか踏み止まったが、とっくに道を踏み外している男二人はそれぞれに全く素直な反応を見せていた。余程恥ずかしかったのか、手元の酒をがぶ飲みした上に新しい酒を注文する工藤を真っ赤な顔で(飲酒のためもとから真っ赤だが)凝視する山田と、幸せ絶頂と言わんばかりに破顔している黒羽と。全く以て、この場にいるのは工藤フリークばかりだった。
「大体、どうして俺が妬かなきゃなんねーんだよ」
「だって俺、新一が他のやつと話してるだけでめちゃくちゃ妬けるもん」
「バーロー、妬く必要なんかねーだろーが」
「……それって、妬く必要もないくらい俺のことが大好きってこと?」
黒羽の爆弾発言に、沈黙が落ちる。
気の毒なくらい真っ赤になった工藤は、零れ落ちそうなほどに目を見開いて黒羽を凝視した。
吉田と山田はただ固唾を呑んで二人を見守った。
「ね、新一?」
文字通り吉田に絡んでいた腕を解き、その手で先を促すように工藤の頬に触れながら、黒羽が強請る様な声で囁く。そして、乙女もかくやという様子で、戸惑いながらも頬染めて恥じらう工藤。
――なんだ、この甘ったるい空気は。
吉田は危うく意識を失いかけたが、同じく隣で脳内逃避している友人を見て、イカンイカンと首を振った。
これはあれか。もしかせずとも、そういうことなのか。もしそうなら友人は完全に失恋してしまったことになるが、だがしかし、これは最早疑う余地もないのではないか。
その証拠に、
「……分かってるくせに、聞くな」
などと、本人は濁したつもりだろうが、どう聞いても肯定でしかない返事をしているではないか。それを聞いた瞬間の黒羽の嬉しそうな顔ときたら、ファンの子が見たら幻滅――どころかファンの数が倍増しそうなくらい、とろけるような笑みだった。
その後の黒羽の行動は、実に現金なものだった。
最早ライバルですらなくなった山田には早々に興味を失ったようで、工藤の手を取って立ち上がらせると、左手に工藤の荷物を、右手に工藤の手を掴んで歩き出した。
「ちょっ、かい……黒羽!」
名前で呼びかけたところをわざわざ名字で呼び直す工藤は、それでなにかを隠せているつもりなのだろうか。なんだか余計にむず痒くなるだけなのだが。
「急にどうしたんだよ」
「帰る」
「はあ!? 山田はどうするんだよ」
「大丈夫だよ、ユージがどうにかしてくれるって」
「なんだそれ。さっきはとことん付き合うって言ってたくせに」
黒羽の無責任さに眉を寄せた工藤だったが、黒羽は少しも怯まなかった。
「だって、新一。昨日の今日だよ? 俺はずっと一緒にいたかったのに、警察のやつらに横取りされて、すっっっごく寂しかった。それでもちゃんと我慢したんだから、今からお前を独り占めしたっていいだろ?」
「……快斗……」
うっかり絆された工藤は、うっかり黒羽の名前を口走っていることにも気づいていない。
いったい昨日なにがあったというのか。気になるような、知りたくないような。いや、やっぱり知りたくない。恐ろしすぎる。
隣で真っ白に燃え尽きている山田には悪いが、もうなんでもいいからさっさと帰ってくれと、吉田は心底から思った。蜂蜜づけのバカップルになど、これ以上付き合っていられない。
しかし、敵は更なる爆弾を落としていった。
「それに、ショータならユージに任せておけば本当に大丈夫だよ。
だってユージのやつ、こう見えてショータにべた惚れなんだからさ」
――なにか今、幻聴が聞こえたような。
俺がショータにベタ惚れ?
そいつは初耳だ、知らなかった、と、思わず逃避しかけるが、工藤の「え…!」という驚きの声で慌てて我に返った。
「な、くろ、おま、なに、」
とんでもないことを言い出してくれた黒羽に詰め寄るが、衝撃のあまりに巧く言葉にならない。
その間にも黒羽のとんでも話はどんどん膨れ上がっていく。
「ああ、心配するなって、ユージ。男同士だろうが惚れちゃったもんは仕方ないもんな。俺も新一も応援するからさ! な、新一?」
「あ、ああ…! 大丈夫、俺も応援するよ」
「うんうん、お似合いの二人だもんな〜」
今や灰になってさらさらと風に飛ばされていく山田は、最早見る影もない。
援軍のいない中、とんでもない誤解を生んでくれた黒羽は「邪魔しちゃ悪いしそろそろ帰ろうか」などと要らぬ気を利かせて、工藤を引っ張っていく。
「じゃあな、吉田。応援、してるから。山田なら、きっとちゃんと考えてくれると思うから。頑張れよ」
そして真剣な顔でそんな捨て台詞を残して、工藤は黒羽に引っ張られて店を後にした。
残されたのは灰になった山田と、さらし者にされた自分と。
吉田はぶるぶると握った拳を震わせていたが、遂にプチリと頭の血管を切った。
「く、黒羽ァ――!」
覚えてろよ、ちくしょー!
なんとかの遠吠えが如く、悲痛な声は虚しく響き渡った。
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ふ、不憫な子たち…!(T_T)
告った翌日に警察に新一を持ってかれた快斗君は、とっても虫の居所が悪かった、というお話でした(笑)