判定Zを食らった日






 黒羽快斗は高校二年生の時から恋をしている。
 所謂『初恋』で、『片思い』というやつだ。
 それを知れば誰もが口を揃えて「有り得ない」と首を振るだろう。
 なぜなら黒羽快斗という男が『初恋』なんてものをこの年まで後生大事に取っておくとも、『片思い』なんて甘酸っぱい関係で満足するとも全く思っていないからだ。
 彼らが揃って口にする黒羽快斗像とはこうだ――顔よし、スタイルよし、運動神経よし、頭脳はこれまた一段と飛び抜けてよし、性格だって明るく気さくで面白く、なにより自他ともに認める『女好き』。
 と言っても特別女性関係が華やかだとか、彼女の遍歴が凄いというわけではない。
 なのに快斗がそんな印象を持たれる理由は、普段から平気で女子のスカートを捲ったり気障な台詞で担任教師を骨抜きにしたりと、性に対して開放的だからだった。
 けれど、実際、快斗はもう一年以上ただ一人の人に思いを募らせている。しかしいくら強運の持ち主である快斗でも、この相手にだけは思い切って告白しよう、などという気にはなれずにいた。
 なぜなら相手はどこにでもいる普通の女の子ではなく、世間から名探偵と褒めそやされ、日本警察どころかFBIやCIAにまで頼りにされる存在で、その上自分と同じ性別の持ち主なのだから。
 そう、快斗が恋した相手は男だった。
 自他ともに認める『女好き』が本気の恋をしたのは、なぜか男――工藤新一だったのだ。
 とは言っても、始めから彼に心奪われたわけではない。俗に言う『一目惚れ』のように、出会った瞬間に脳内で教会の鐘の幻聴が響いたわけもなく、それどころか冷や汗ダラダラ心臓バクバクの、それはそれは最低な出会いだった。けれどそのせいで『彼』という存在が快斗の中に強くインプットされたことは紛れもない事実だった。
 江戸川コナン――出会った当初はそんなあからさまな偽名を名乗った探偵に、快斗は強い興味を抱いた。
 その時には既に敬愛する中森警部、そしてやや鬱陶しいが白馬探偵がキッドのライバルとして存在したわけだが、彼の存在はただ一度の対決で彼らを飛び越え、キッドの好敵手たる役をかっ攫っていった。
 彼との対決は、どこか微笑ましくなるような中森との対決とも、それなりに楽しめる白馬との対決とも違う。互いに持てる力を出し尽くした、正真正銘の真剣勝負だ。こう言ってはなんだが、中森や白馬相手では持て余していた能力を思う存分発揮することができるのだ。それは快斗に今まで感じたことのない充足感を与えた。
 そして事件を通して見えてきた探偵の姿に、快斗は次第に好意を持つようになった。
 マジック関連のオフ会でたまたま出会したとき、彼は高熱の体を押して、燃え盛る橋を躊躇いなく渡ってきた。それまで白馬探という探偵の影響もあり、探偵というものはどこか高圧的で斜に構えたような冷めたものという印象が強かったのだが、彼は違った。既に起こった悲劇を冷徹に推理する、そんな探偵としての一面を持ちながら、悲劇を起こすまいと必死に駆ける熱さを併せ持った探偵。揺るぎない慧眼で事件を見事解決させた傍ら、「止めることができなかった」と零された呟きとともに垣間見えた探偵の決して冷たくはない心。
 その瞬間、彼は怪盗キッドが唯一認める『名探偵』となった。そうと知るはずもない探偵には分かるはずもないただの自己満足、けれど、それは敵である怪盗から贈れる最高の賛辞だ。
 そして――運命のあの事件。
 怪盗キッドが狙うビッグジュエルとは無関係のインペリアル・イースター・エッグを標的に定めたのは、世紀末の魔術師たる香坂喜市に敬意を表してのことだった。言うなれば快斗の気紛れである。しかしその気紛れが後に己の人生を左右するほどの出来事を招くことになるなどとは、その時は夢にも思わなかった。

 キッドと小さな探偵との対決のはずが、呼んでもいないのに勝手に参戦してきた国際指名手配犯、スコーピオンの乱入によって事態は連続殺人事件となり、移動途中の豪華客船の中でまず第一の殺人が起きた。その時にはキッドの狙撃から何者かの存在を嗅ぎつけていた探偵は、それを探るべく仲間に連絡を取った。命を狙われた当人たる自分は当然知る権利があると、密かに探偵の後をつけた快斗は、二人の会話を盗聴して眉をひそめた。
 ――しんいち?
 江戸川コナンという名が偽名くさいとは思っていたが、もしやそれが彼の本名なのか。
 浮かんだ疑問を解消すべく、こちらも仲間に連絡を取ってみれば、調べてもらうまでもなく答えが返ってきた。
「『しんいち』という名前の探偵、ですか? それなら、かなり有名な高校生探偵で工藤新一という方がおりますが」
「高校生? ……小学生、じゃなくて?」
「はい。確か坊ちゃまと同い年だったかと。そう言えば以前はよく新聞に載っていましたが、最近は見かけませんなあ」
 その言葉が決定打だった。
 消えた探偵。その探偵と同じ名を持ち、偽名を名乗る大人びた子供。いや、あれを『大人びた』なんて言葉で形容するなんて生温すぎる。
 最早疑いようがなかった。
 江戸川コナンは、工藤新一だった。
 真実を知り、けれど予想外に入手してしまったそのカードを使うつもりは快斗にはなかった。高校生が小学生になるなんてどんな絡繰りだと気にはなっても、今はそれどころじゃなかったし、そもそも快斗は謎を究明しなければ気が済まない探偵とは違う。少し考えれば分かる、肉体が若返るような人間がいれば喉から手が出るほど欲しがる輩がわんさかといるのだ、だからこそ探偵も偽名を名乗っているのだろう。それを無理矢理暴けば、下手をしたら探偵は未来を失う。それは殺人にも等しい行為だ。そんな真似を、子供の味方である怪盗キッドがするわけにはいかない。
 だから快斗は、そのカードの存在を一旦忘れることにした。
 けれど探偵は、どこまで行っても探偵だった。
 誰も解けなかった絡繰りを次々と解き、隠された秘密をどんどん暴いていく。宝探しに夢中になる子供より質が悪いのは、決して冷静さを失わないところだろうか。大掛かりな仕掛けに目を奪われる大人たちを余所に、殺人犯がこの中にいると疑わない探偵の目は、鋭く周囲を警戒して。
 銃を持った殺人鬼を前に滔々と己の推理を披露する様子は、既にどこかがイカレているのではないかとさえ思う。ただ、彼がなんの勝算もなくそんな無謀な真似をするとは微塵も思わなかったけれど。
 案の定、探偵の黒縁眼鏡には防弾加工が施されていたわけだが、しかし最後の最後で気を抜くのは本気で勘弁してくれ、と思った。崩れてくる柱の下敷きになりかけた探偵を見て、快斗は本気で寿命が縮まるかと思った。もちろん、この稀代の魔術師が助け損ねるなんて失態を演じるはずがなかったが。
 そして――その瞬間は訪れた。
 軽い脳震盪を起こして気絶した探偵と、同じく気絶したスコーピオンを抱えて城を脱出した快斗は、白鳥に化けた手前、スコーピオンである浦思青蘭を警察署まで連行しようとその場を後にしようとした。
 その背中に、声をかけられた。
「やっぱりオメー、生きてたんだな」
 いつの間にか目を覚ました探偵が、半身だけを起こしてこちらを見上げていた。その手にはエッグが握られている。既にエッグに用のない快斗が返しておいたのだ。
 見破られているだろうと思っていた正体を言い当てられたところで慌てることもなく、快斗は嘯いた。
「誰の話をしているのかな?」
 白鳥の声でそう返してやれば、探偵は嫌そうに眉を寄せた。隠す気のない態度、だからと言って明かす気もさらさらない態度だ。
 しかし探偵がそれ以上突っ込んでくることはなかった。スコーピオンを連行する刑事役が必要なことは彼にも分かっているのだろう。
 踵を返した快斗に、またも探偵の声がかけられた。
「――白鳥刑事」
 怪盗の猿芝居に乗ることにしたらしい探偵は、思いも寄らないことを言った。
「助けてくれて、ありがとう」
 快斗は思わず目を瞬いた。よもやこの探偵の口からこれほど素直な謝辞が飛び出してくるとは思いもしなかったのだ。
「……まあ、無茶はほどほどにね」
 だから快斗もただ素直にそう返したのだが。
「僕のことじゃないよ。青蘭さんを――スコーピオンを助けてくれたでしょ。だから、ありがとう」
 その言葉にはますます首を傾げるしかなかった。
「なぜ彼女のお礼なんだい? 君は彼女に殺されかけたのに」
 すると探偵は、ひどく老成された目でふと笑った。中身が高校生であると知っている快斗から見ても大人びて見えるその表情、そんなものを、彼はどこで覚えてきたのか。
「――お前は、人を殺したことがあるか?」
 目を見開けば、探偵の笑みは自嘲に変わった。
「推理で追い詰めて犯人を死なせちまうような探偵は、殺人者と同じだ。オメーがいなきゃ、俺も彼女も死んでただろう。……俺は、まだまだ未熟だな」
 それは、過去に犯人を死なせてしまったことがあるということなのか。探偵の過去など、今日正体を知ったばかりの快斗が知るはずもなかった、けれど。
「窃盗は犯罪だ。でも俺は、人の命を大事にできる相手を尊敬する」
 だからサンキュ――と。
 自嘲を微笑に変えて向けてくる探偵に、快斗の胸は知らず熱くなった。
 自分がライバルと認める男に認められて嬉しい、なんて低次元な話ではない。それは快斗の根幹を揺るがせるほどの衝撃だった。
 今日までの快斗に、探偵が思うほど高尚な志があったわけではない。ただ肉親を奪われた痛みから、同じ思いを誰かにさせるわけにはいかないと思っていただけで、さもなくば復讐という大義名分を掲げて大した罪悪感もなく怪盗業を続けられるはずもない。
 その怪盗を、尊敬する、と。迷いなく言い切った探偵の信頼を、どうして裏切るような真似ができようか。
(ああもう……たまんねえな)
 今この時に決意する。自分は、決して人を傷つけない悪党でいよう。なにかが変わるわけじゃない、けれど志ひとつで心の在り方がまるで違う。
 自分は決して、この探偵の信頼を裏切ることはするまい。
「――傷だらけの名探偵」
 膝を突き、小さな探偵と同じ高さで目を合わせる。予想外の近さに吃驚したらしい探偵の煤で汚れた頬を指先で拭ってやりながら、快斗は不敵に笑いながら言った。
「昔のお前が、どれほど清廉潔白な探偵だったかなんて知らないけどな。傷だらけのお前も、俺は格好いいと思うぜ?」
 そう、この怪盗キッドの、ハートどころか全てを射止めてしまうほどには。

 あの日、彼に全てを持って行かれた。残ったのは焦がれるような思いだけだった。
 やがて世界は彼を中心に回り始め、気づけば一年が経っていた。そして一年もの間彼に恋い焦がれた結果、快斗は立場も性別も全ての障害を飛び越え、彼に告白することを決意した。
 ただし、それにはひとつだけ条件をつけた。
 ――探偵が真実の姿を取り戻したら。
 それは好敵手としての立場を惜しむ自身への猶予であり、命を賭して戦っている彼への配慮であった。
 そして快斗が三年生に進級してしばらく経った頃、彼はようやく工藤新一となって戻ってきた。しかも真っ先に自分のもとへと駆けつけてくれた。だから快斗は一世一代の大告白をしたのだ。
 だと言うのに、この探偵ときたら。

『バーロー、男同士で好きなんて、照れんじゃねーかよ。そりゃ、俺だってお前のことはこれでも気に入ってんだぜ? お前が怪盗なんてもんしてなきゃ、たぶんスッゲー気の合うダチにでもなれたんじゃねーかって思っちまうくらいにはな。でも俺は探偵だから、そのケジメはつけなくちゃならねえ。だから悪ぃけど、お前と遊んでやれるのは現場でだけだ』

 その瞬間、目の前が真っ暗になった。
 頷いてはもらえないかも知れない、それどころか断られるかも知れない、もっと悪くすれば気持ち悪がられるかも知れない、と、まるで希望のない結末ばかりを思い描いていた快斗だが、流石にこんな答えは予想していなかった。
 断られるどころか、探偵は快斗の告白にすら気づいていなかった。今時こんなベタな勘違いがあるだろうかと、快斗は呆然とした。
 いや、言葉が悪かったのかも知れない。「愛している」ぐらい言えば、流石に彼も気づいたかも知れない。
 だがこの探偵なら、気障な怪盗の洒落たジョーク、ぐらいにしか思わないような気がする。いや、間違いない。
 要するに、快斗を新一の恋愛対象として判定するなら、『A』も『B』も『C』も飛び越えて、遥か底辺の『Z』というところか。最早大気圏を通り越して銀河の彼方だ。可能性のなさに思わず泣きたくなった。
 けれど、快斗を地獄に引きずり落とすのもこの探偵なら、そこから引き上げてくれるのもまた彼だった。
『……いつかお前が表舞台に立つときが来るなら、その時は、ひとりの観客としてお前のマジックを素直に楽しんでみたいと、心からそう思うよ』
 そう、静かにささやく彼。
 工藤新一は巨大な犯罪組織との戦いという、普通の高校生には有り得ない経験を経て、より大人物へと成長していた。その過程でなにを知ったのか。「いつか表舞台に立つときが来るなら」なんて、そんな風に怪盗の未来を話すなど、「自分の手で捕まえてやる」と豪語していた頃の彼では有り得なかったことだ。
 だが、恋愛の情は欠片もなくとも、親愛の情なら少なからず抱いてくれているらしい相手のそんな言葉に、快斗は容易く乗せられた。
 もともと志していたマジシャンという夢、それを実現させるのはパンドラを見つけて組織をぶっ潰してからだと、長期戦になることを半ば諦めて受け入れかけていた快斗だが、もうそんな悠長なことは言っていられない。彼が見に来てくれるというなら――日常での接触を許してくれるというのならば、そうするだけだ。
 ――絶対に、年内に組織壊滅。んで、パンドラ粉砕。
 命懸けになるだろうはずの作戦を一瞬で決定し、快斗は拳を握った。
 まずはとにかく恋愛対象にならなければ意味がない。この鈍感探偵に自分を意識させるのは至難の業だろうが、どうせ諦めることもできないのだ。だったらもうとことんまでこの恋に付き合ってやるしかない。
 そしてその日から、快斗の涙ぐましいまでの努力の日々が始まったのだった。



「――だっつーのに、新一ってばいつまでも俺のこと親友、親友って。恋に落ちるより理解する方が後ってあたりが、ほんと新一らしいよな」
 愚痴まじりの惚気を延々と聞かされ、恋人であるはずの新一は赤い顔で快斗を睨みつけた。
 冬も深まり、恋人の温もりが恋しいこの季節、見事思い人の心を手に入れた快斗は、工藤邸のリビングで二人きりの聖夜を存分に楽しんでいた。照明を落としたリビングでキラキラと光るツリーがとても綺麗だ。
「だから、全然気づかなかったことは謝ってんじゃねーか。そもそもお前だって、キッドだって気づいて欲しかったなら自分から言えばよかっただろ」
「言えば、告白にも気づいてくれたの?」
「……う」
 告白を告白とさえ認識できていなかったのだ、快斗がキッドだったと知ったところで、新一が自力で気づくことはなかっただろう。
 床に座り込んだ背中を自分と毛布ですっぽりと抱き込んだ快斗は、腕の中でうーうーと唸る新一にくすりと笑みを零した。
 あの日の絶望が嘘のように、今の快斗は満たされている。けれど、満腹になる日などきっと一生来ないのだろう。
「……新一」
「なんだ?」
「新一が、好きなんだ」
「ああ……ちゃんと分かってる」
 もぞもぞと毛布から出てきた右手が、あやすように頭を撫でる。そんななにげないことに胸が熱くなる。
「好きだよ。大好きだ」
「ああ」
「大好き」
「分かってるって…」
「好き。新一が、好き」

「――ああもう、何度も言うな!」

 勢いよく体を起こした恋人は、真っ赤になった顔でなんとか睨みつけながら怒鳴った。

「俺だって快斗を、あ、あ、愛してるんだからな!」

 そう言ってビシッと指を突き付けてくる恋人に、快斗は感情のままに破顔すると、満面の笑みで飛びついた。



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