『愛してます。』
もっと囁け。
『明日の夜、またお逢いしましょう。』
嫌だと言ったら来ないつもりか。
『貴方が堕ちるまで諦めませんよ。』
俺がお前に捕まるわけがないだろう。
だから。
……ずっと俺を、追いかけ続けろ。
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●○ 確保不能の名探偵 ○●
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「こんばんは、名探偵。」
しっかりとかけられていたはずの鍵を器用に開け、今夜も白い鳥は現われた。
翼をたたみ、音もなくするりと部屋に入り込む。
白いスーツにシルクハットという相変わらずの出立の怪盗は、そう言って家主に優雅な礼をした。
すでにベッドで寝る体制に入っていた家主……工藤新一は、煩わしげにぴくりと眉を動かす。
「…そんなに捕まりたいんなら自主でもしろ。」
「とんでもない。」
起きあがるつもりすらないという新一の様子にキッドは笑みだけで応え、ベッドへと歩み寄る。
「私は貴方を捕まえたいんですよ。」
世紀の大怪盗を相手に、興味がないなどと言ってくれる貴方を。
月明かりを浴びて、怪盗の白い装束が眩しく輝き…
その輝きに新一が瞳を眇めた時を見計らって、怪盗は屈み込み、新一へと顔を寄せた。
徐に近づく怪盗の唇が、新一のそれと重なろうとした瞬間。
「…野暮ですね、名探偵。」
「こそ泥が何言ってやがる。」
枕の下に入れられていた右手を掴み、引きずり出す。
そこにしっかりと握られた携帯電話は、まさに通報される寸前という状態だった。
キッドは妖艶に笑ってみせて。
「まだ、貴方は私には堕ちてきて下さらないようだ……」
やんわりと右の手首を戒めたまま、額に小さく口付ける。
シーツの中から出された蹴りを身軽に避けて、怪盗は窓際に立った。
窓に手をかけ、月を背中に立っている怪盗の、凛とした気配が空気を伝って肌にぶつかる。
新一はベッドから半身を起こしたまま睨み付けた。
「またお逢いしましょう、名探偵。必ず…堕としてみせますよ。」
来たとき同様、音もなく窓から飛び立った白い鳥。
まるで夜空に浮かぶ白い月のように、闇に溶け込むことの出来ない、鳥。
その姿を睨むように眺めた後。
ぽつりと漏れた言葉は、探偵の本音。
「絶対に、堕ちてなんてやらない。」
* * *
いつからかと言われても、もう思い出すことも出来ない。
鮮やかに、見事なまでに。
名探偵と謳われた人の意識を奪った怪盗は、とっくに彼にとって必要不可欠な存在になってしまっていた。
夜の静寂の中、背後にふわりと舞い降りた白い鳥。
音などまるでしないのに、そこにいるだけで鮮烈なまでの存在感が誇示していた。
一目で感じた。
この怪盗が、特別な存在であることを。
その瞬間から“怪盗キッド”は“ただのこそ泥”ではなくなり、興味を抱かずには居られない存在となってしまった。
狙った獲物は逃さない、確保不能の怪盗紳士。
…そのくせ、盗んだ獲物はすぐに返してしまい、義賊とも愉快犯とも言われている。
そう、彼は、盗んだ獲物は返してしまう。
興味がなくなってしまうのか、或いは簡単に盗むことが出来ないスリルを味わいたいのか…
どちらにしても、盗まれれば返される。
つまり。
捕まって…堕ちてしまえば、キッドの自分に対する興味もなくなってしまうかも知れない。
囁く言葉が嘘だとしても。
駆け引きのための偽りであったとしても。
(あいつがいなきゃ、駄目なんだ。)
だから俺は。
狙った獲物は逃さない怪盗の、唯一確保不能の探偵になってやる。
…ずっと、追い続けていられる存在で、い続けてやる。
* * *
何気なく付けたテレビを見て、新一の動きがふと止まる。
映し出されたビル。
書かれている宝石の名前。
そして……『怪盗キッド』の文字。
つい昨日の犯行の獲物とされていた宝石は、見事怪盗に奪われ、そして今朝警視庁に届けられたと言う。
手元に戻って喜んでいる持ち主、そして捕まえることが出来ず悔しがっている警察。
それを脚色し、面白可笑しくインタビューするリポーター。
リポーターがにこやかに喋っていたが、新一はブツリと消してしまった。
その表情は、先ほどよりずっと不機嫌になっている。
あの気障な怪盗が、ことある毎に訪れては残していく言葉たち。
『愛してます。』
嘘なら聞きたくない。
本当ならもっと囁け。
『明日の夜、またお逢いしましょう。』
嫌だと言ったら来ないつもりか。
その程度なら二度と来なくて良い。
『貴方が堕ちるまで諦めませんよ。』
俺がお前に捕まるわけがないだろう。
だってお前は怪盗キッドだから。
捕まるわけにはいかないんだ。
そう、怪盗キッドだから…。
「堕ちろだって?冗談じゃねぇ。」
そんなこと、出来るわけがない…
「冗談じゃないんですけどね。」
誰にも聞き咎められないと思って呟かれた言葉に、意外にも声が返ってきて、新一は微かに肩を揺らした。
振り向かずともわかっていたから、新一は振り返ろうとはしなかった。
今の呟きを聞かれたのは、かなり不本意だ。
「…キッド。なんでお前が此処にいる。」
「冗談で探偵を口説くほど、私は酔狂じゃない。」
まだ昼の、日も高い時分である。
常なら彼が現われるのは夜だと決まっているのに、ここに居るのはどういう訳だろうか。
そう思って尋ねた新一の言葉はさらりと無視された。
変わりに返ってきた、科白。
振り返りかけた新一の瞳が、背後から覆い隠された。
「これまで何度囁きました?貴方のその耳に。愛してると、幾度となく囁きかけた。」
普段なら決して伝わることのない、直の体温。
新一はキッドが手袋をしていないということに気付いた。
振り払おうと思えば簡単に振り払えるはずの腕に、なぜか新一は抵抗できない。
…いや、しないだけだった。
この、怪盗キッドという男が紡ぐ言葉の魔法に。
かかってしまいたいと望むのは、新一自身。
何度となく囁かれる言葉。
「貴方は応えない。嫌とも良いとも言わない。返されるのは、拒絶だけ。」
流石の私も、どうしたら良いのかわからなくなりそうですよ。
呟かれた怪盗の、想像以上に切なげに沈んだ声。
自分の両目を塞いでいるキッドの手に、新一はそっと手を添えた。
背中にあたるキッドの胸から熱が伝わる。
思ったよりも暖かいそれに、新一は少しだけ。
ほんの、少しだけ。
…冷たい言葉を放つのに、躊躇ってしまった。
いつだってその腕の中を望んでいたのは、自分の方だから。
こんな風に捕まえられたら、抗えなくなる。
そんな声を聞かされたら。
本音を、こぼしたくなってしまう。
「……お前は、怪盗キッドじゃないのか。」
その問いかけの意図するところがわからず、キッドは沈黙した。
尚も新一は続ける。
どちらかというと独白に近く、答えなど期待していなかった。
「お前がキッドなら……俺は……」
逃げ続けなければならない。
追いかけ続けられる存在であるために。
興味を持たれるよう、簡単には手に入らない獲物もあるんだ、と。
だけど、この腕を、欲しいと。思ってしまった。
手に入れてしまえば返される宝石のように。
堕ちてしまえば……あとは興味がないと捨てられるだけ。
わかってるのに、わかってるけど。
……堕ちたい。
黙ってしまった新一の目を、キッドの手が解放した。
離した手をそのまま胸にまわすと、背後から抱き締められた。
ずっと近く感じる温もりの中で、キッドが囁く。
「…今の俺はキッドじゃないよ……だから嘘吐く理由もないし、名探偵を還す必要もない。」
ガラリと変わった口調。
抱きついたキッドのふわふわの癖毛が、頬にあたってくすぐったい。
そこで漸く、キッドがシルクハットをつけていないことに気付く。
手袋のされていない手。
いつもと違う黒い袖が見えている。
新一は徐に振り返った。
「…初めまして。俺は黒羽快斗。アイツがなかなか工藤を堕とさないから、我慢出来なくて俺が来ちゃったよ。」
「くろば…かいと……」
紫の不思議な瞳とぶつかる。
その中には確かに白い怪盗の冷涼さを孕んでいるのに、同時に暖かさも滲んでいて。
快斗は腕の中で新一の体をくるりとまわすと、向き合うようにして抱き締めなおした。
両腕が腰にがっちりと回され、戒められる。
必然的に、新一はその瞳から視線を逸らすことが出来なくなった。
「愛してる。何度でも言う。信じてくれるまで、信じてくれても。何度でも逢いに来るし、拒まれたって諦めない。
…そして捕まえたら、絶対に離さない。」
宝石なんかとは違うから。
ただ光るだけ、綺麗なだけの宝石なんかじゃない。
気に入らなければ悪態を吐くし、ムカつけば蹴ったりもする。
……けれど抱き締めれば暖かいし、見つめれば見つめ返してくれる。
稀代の大怪盗を困らせる、確保不能の名探偵を。
捕まえたなら、一生離してなんかやらない。
「だから。ここに。……堕ちてくれない…?」
ぎゅっと腕に力を込める。
逃がさないように、逃げれないように。
「俺は……」
俺は。
いつだって、こいつが欲しかった。
警察の、野次馬の、そして…自分の視線を奪って止まない、鮮やかな魔法を生み出す腕に。
聞かされる度に魂を揺さぶられる、甘い囁きに。
まるで誓いのように、幾度となく奪われかけた口付けに。
…いつだって、堕ちたかった。
だから、自然と。
新一は自分の唇を、キッドのそれに重ねていた。
目を閉じていた新一には、驚きに見開かれるキッドの顔は映らない。
驚いた顔がまるで幸せに満たされるかのように、嬉しげに変わったのを、知らない。
キッドは自らも目を瞑ると、新一の唇を貪るようにキスをする。
新一から仕掛けたはずのキスは、いつの間にかその主導権をキッドに奪われていた。
「…んっ」
息苦しさに、酸素を求めて薄く開かれた口内に、快斗は迷わず侵入し。
びっくりして奧へ隠れてしまった新一を探り当て、絡め取る。
歯列をなぞるように蹂躙すれば、新一が震えているのが伝わってきた。
縋るようにして背中にまわされた腕が、軽く爪を立てる。
キッドは新一の舌を吸い上げ、どちらのものともつかない唾液を垂下した。
うっすらと瞳をあければ、新一の熱の籠もった蒼い瞳が見上げていて。
苦しさのためか目尻に涙をためていて、名残惜しかったが仕方なくキッドは唇を離した。
肩で息をして、快斗の肩に頭を預けながら呼吸をしている新一を抱き締めながら。
「……今のを、返事と思っても良いのかな…」
自信なさげにぽつりと呟いたキッドの言葉に、新一はのろのろと顔を上げた。
うっすらと上気して赤く染まった頬で、照れくさそうに視線を彷徨わせ…
ふ…と息を吐くと、キッドの目をじろりと睨み付けて言った。
「…あんなの、他の誰ともやんねーよ。」
解れ、ばか。
嬉しげに細められる瞳を見て、ふたりは再びどちらからともなく目を瞑った。
『愛してます。』
…もっと囁け。
『明日の夜、またお逢いしましょう。』
…いつでも来ればいい。
『貴方が堕ちるまで諦めませんよ。』
……もう、堕ちてる。
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