涼しげな風と綺麗な星月夜に誘われるまま、家を出た。 人工の風なんかよりずっと心地よい風に吹かれて、暑さに参っていた体が少しだけ軽くなる。 真夏であるだけあって夜と言ってもそれほど涼しくはないけれど、それでも家にいたくなかった。 だって。 「……キツイ、よなぁ…」 ぽつりとこぼして、空を見上げる。 真っ白な月が、これでもかと言うほど綺麗に輝いていた。 そうして、ふっと口元に笑みを浮かべる。 こんな月を見ていると、思い出すことがある。 うんと昔に、何度となく足を運んだ場所のこと。 誰も知らない、自分だけの“ヒミツのバショ”というやつだ。 子供の頃はその言葉だけで嬉しくて楽しくて、一番の親友にしか教えなかった。 「そういや、もう随分と行ってねぇよな。」 探偵と名乗るようになってからは、事件だ捜査だと忙しくてそれどころではなかった。 それより以前は、探偵になるための知識を増やすことに必死で。 両親について日本を離れたのをキッカケに、そこには一度も足を運んでいなかった。 行く当てもなく歩いていた足を、新一はその場所へと向ける。 久しぶりに行ってみようか、と。 |
真夏の夜の夢。 |
さわさわとさざめく葉ずれの音を聞きながら、脳裏にしっかりと描かれたままの道を歩く。 道と言っても、他の誰にもわからないだろう。 何度も何度も通ったからこそ、体で覚えることが出来たのだ。 雑草が生えた山道は歩きにくかったけれど、取り戻したこの姿ではどうってことはない。 そうして漸く辿り着いた。 暫く来ない間にすっかり変わってしまっただろうかと心配したけれど、そこは以前のままの姿で。 木々の間にぽっかりと広がる草地。 そこには黄色い野花が咲き誇り、以前と変わらない優しい香りを放っていて。 「変わらないな…」 そう、呟きをもらしていた。 その時。 「誰だ?」 すぐさま答えるように返ってきた声に驚いて、新一はあたりを見渡す。 自分以外に、こんな夜にこんな場所へと来るような人がいるとは思わなかったのだ。 少し警戒しながらきょろ、と当たりを見渡すと…… 花の中から上半身だけを起こした人物が、驚いて瞠目していた。 その人の顔を見て、新一も同じように目を瞠る。 「……快斗?」 「……新一?」 それは、もう何年も顔を合わせていない幼馴染みだった。 彼とは顔も声もそっくりで、よく双子だと周りの大人たちから可愛がられていた。 その懐かしい人に驚きこそしたけれど、新一は嬉しそうに笑うと快斗のもとへと駆け寄った。 「すっげー久しぶりだなっ」 そのまま隣に腰掛けて、何年ぶりかの快斗の顔をしげしげと眺める。 最後に見たのは新一が日本を離れた8歳の時だから、実に10年ぶりの顔合わせだ。 10年はさすがに長いようで、彼も高校生らしくなっていたけれど、すぐに彼だとわかった。 なぜなら、この場所を知っているのは、この場所を教えた新一の一番の親友とは、快斗なのだから。 「久しぶり……元気だった?」 「ああ、ちょっと前までは新聞にもよく載ってたんだぜ。知らねぇ?」 「知ってるよ。でも暫く見なかったし、最近は全然じゃん?」 「あー…ちょっと訳ありで、控えてるんだ。」 「ふぅん?」 さすがに、実は小学生になってました、なんて普通の人からすればただの夢物語を話すのは躊躇われた。 快斗を相手にばかにされることはないだろうけれど、進んで人に話したい話ではない。 危険は去ったとは言え、知らないに越したことはない裏の世界の出来事なのだし。 「でも吃驚したー。まさか快斗がここに居るとは思わなかったからさ。」 快斗の隣に新一はゴロンと横になる。 野花が顔の直ぐ横で、香りが一段と濃くなった。 そうやって花の中に身を沈めながら、ぽっかり浮かぶ白い月を眩しそうに見つめる。 月に見とれていた新一は、その顔を静かに見つめる快斗に気付かない。 「……俺も、お前がまだここを覚えてるとは思わなかったな。」 「俺が忘れるわけないだろ?ここを見つけたのは俺だし、昔はいつもここに来てたし。」 ここは静かで、綺麗で、まるで夢の世界のようで。 昔から自分の周りが騒がしかったせいか、ここはとても心地良い場所だった。 「でもさ、全然来なかっただろ?」 「ん?」 「知らないだろ、新一。俺、今でもしょっちゅうここに来るんだぜ。」 ここは、特別な場所だから。 それは言葉にはせずに、自分の心の内だけに留めて。 快斗は、覗き込むように新一へと笑って見せた。 それを新一は驚いたように見遣って、次いで苦笑を浮かべる。 「最近は忙しくってさ。」 「だろうなぁ。なんたって“日本警察の救世主”らしいじゃん?」 「げー、救世主なんてガラじゃねーよー。」 くつくつと笑いながら、それでも新一はどこか寂しそうな笑顔を浮かべていた。 それに気付いていたけれど、快斗は何も言わない。 だって彼は、誰かに助けを求める人ではないと、知っているから。 ……自分からは、手を伸ばせないのだ。 「でも、忘れたことなんてなかったんだぜ。」 急に笑いをおさめると、新一がそんな言葉をもらした。 これには、快斗の方が驚いた。 「え…?覚えて、たんだ?」 「ああ。だって、ここは俺にとって特別な場所だから。」 まさに、先ほど自分が思っていたことをそのまま言葉にされて、快斗はさらに瞠目する。 それをどう取ったのか、新一が少し哀しそうに笑った。 「ずっと覚えてたんだ。でも、来なかった。なんでかわかるか?」 「いや……わかんねぇ。」 「……ここにはさ。お前しか連れてきたことないんだ。快斗にしか、教えなかった。」 快斗の鼓動が、少しだけ早くなる。 快斗は自分を見つめる新一の瞳を、食い入るように見つめ返した。 もしかしたら。 もしかしたら彼も、自分と同じ気持ちでいてくれたのかも知れない。 そう思うと、次の言葉が気になって、早く聞きたくて。 「なんで…?」 ちょっとだけ、声が震えていたかも知れない。 ほんの少しだけ、ポーカーフェイスを忘れて。 「俺の一番はいつだってお前だったから、他のヤツには教えたくなかったんだ。なんで来なかったのかは……お前が居ないと、つまんないだろ?」 新一は笑っているのに、なぜか哀しそうに見えて。 どうしようもなくて、快斗は、伸ばさないと決めたはずの手を伸ばしていた。 昔、ほんの小さな子供の頃、そうしていたように。 彼の背中にぎゅっと腕を回して、大事に大事に抱き締める。 ただ、今は……ほんの少し違う気持ちを、込めて。 「快斗?どうした?」 昔からそうしていたせいか、新一は照れくさそうにはしていたけれど、押し退けようとはしなかった。 それに気をよくして、快斗はじゃれ合うかのように新一にくっついたまま。 「なんか、嬉しい。」 「え?」 「俺もおんなじこと思ってたから、すっげぇ、嬉しい。」 ここは、新一に教えてもらった場所だから、特別。 ここは、新一と何度も来たから、特別。 ここは、ここには、新一の面影があるから……特別。 それから快斗は、抱き締めていた手を新一の頭に持っていくと、まるで父親がそうするように優しく撫でた。 まるであやすように撫でながら、そっと囁く。 「なぁ……何があった?」 その言葉に、びくりと新一の肩が揺れる。 快斗は心の動揺を宥めるように、抱き締めた手に力を込めた。 「別に、何にもねぇよ。」 少し不機嫌そうな新一の声。 「なんでそんなこと聞くんだよ。」 「新一がここに来たから。」 「…来ちゃ悪ぃか。」 「ううん。でも自分で言っただろ?俺が居ないから来なかったんだって。」 「それは……、」 それでも言い逃れようとする新一に、快斗はふっと笑いかけた。 からかうようなものじゃなくて、まるで恋人に見せるような暖かい笑顔で。 「なぁ、新一。これは夢だよ。一晩限りの夢なんだ。だから、夢の中なんだから、本音を教えてくれても良いだろ?」 だって、月はあんなに綺麗で。 花はこんなに咲き誇っていて。 ここに……俺たちがいて。 まるで、本当に夢の世界にいるみたいだろう? 「だからさ…俺に、新一の愚痴を聞かせてよ?」 そうして出来るなら、君をそこから助け出すための手助けを、させて欲しい。 新一はくしゃりと顔を歪ませると、快斗の首元に顔を埋めてしまう。 それでも抱き締める腕に抵抗はなくて。 やがて小さな声が、観念したようにぽつりと告げてよこした。 「別に……ほんとに何もないんだ。ただ、いつも通り学校へ行って、事件を解決させて、家に帰って……熱かったから、外に出たんだ。」 「うん。」 「……でも……もし、何かあるとしたら……」 新一が顔を上げた。 いつも自信に満ちているその顔は、今は頼りなく苦笑いを浮かべている。 「…寂しい、のかも、しれない…」 警部に呼び出されて、事件に行くのはいつものこと。 そこで事件を解決させるのも、いつものこと。 そうして……罵られるのも、いつものこと。 「“大事な人がいないから、そんなことが言えるんだ”って。そんなことない、大事な人はたくさんいるって、思った。」 でも、居ないんだ。 家に帰ったら、誰も居なくて。 部屋はただ静かで、冷たくて。 愕然とした。 ああ、俺は……ひとりなんだなって。 「そしたら、どうしても家に居たくなくて…思い浮かんだのがここで、……快斗、だった。」 そうして新一は、こんな愚痴こぼして悪い、などと言うのだ。 まるで情けないかのように、みっともないことのように言う新一に腹が立って。 快斗は自分の額を新一の額に、ゴツ、と痛々しい音がするほど強くぶつけた。 自分でやってて快斗も結構痛い。 新一にもかなり痛かったはずだろう。 いてぇ、と唸りながらほんの少し涙目になってる新一の目を睨みながら、快斗は言った。 「なんでもないことみたいに言うな!みっともないなんて思うな!」 「?快斗?」 「あのなぁ。誰だってそんなこと言われたら痛いんだよ。傷つくんだよ。それが当たり前なんだ。」 ふう、とひとつ溜息を吐いて。 ぶつけた額をさすってやりながら。 「オデコ、痛かったろ?おんなじようにお前の心も傷ついたんだから。こうやって、撫でてやんなきゃダメだろ?」 「……っ」 途端、なんだか情けないかたちでくしゃりと歪んだ顔を、快斗は心底愛しいと思う。 新一の心が傷付いてることなんて、快斗にはすぐにわかった。 だって快斗は、新一のことを誰よりも大事にしているのだから。 誰よりも想って、誰よりも……愛してるのだから。 「夢で良いから。今だけは、俺に甘えてな?」 「……悪ぃ…。」 「あのなぁ、こういう時はアリガトウって言うの!」 「ああ…サンキュ、快斗。」 快斗はにっこり笑って、ドウイタシマシテ♪と返した。 熱いはずなのに、なぜか快斗の腕の中は気持ちよくて。 暖かいと思えるほど、居心地が良くて。 新一は久しぶりに逢った大事な親友の、久しぶりの腕の中で、久しぶりに肩の力を抜くことが出来た。 それはまだまだ熱い、真夏の夜の夢--------------。 * * * ピンポーーンと、軽快なチャイムの音が鳴り響く。 新一は日曜の朝の惰眠を貪っていたのだが、その音に無理矢理覚醒させられてしまった。 まだ眠い目を擦りながらなんとか起き上がり、寝乱れた衣服と髪を整えると、まるで寝起きとは思えない素振りで扉を開いた。 ……誰か確認しないあたり、少し寝ぼけていたのかも知れない。 けれど新一の寝ぼけ眼は、 「よ!おはよう、新一!」 という声とともに現われた人物に、これ以上ないほど見開かれていた。 それは、昨日顔を合わせたばかりの、幼馴染みにしてはとこである新一の親友、黒羽快斗だった。 「かいと!?」 「ん、なに?相変わらず朝弱いみたいだね、新一。」 完璧なポーカーフェイスを被っているはずの新一に、快斗はまるで当たり前のように言ってくる。 それにも驚くのだが、今は、それよりも…… 「な、なんでお前がここに…」 「やだなぁ。俺が新一の家を忘れるはずないだろ?」 「いや、そうじゃなくて!」 「ん?」 「なんでお前が俺ん家に来るんだよっ」 昨日の、弱音を吐いてしまった気恥ずかしさからか、新一はそう抗議したのだけれど。 「おや?平成のホームズが、まさかわからないとは言わないだろ?」 「はぁ??」 快斗はさっさと家の中へと上がり込むと、楽しそうに笑って新一の顔を覗き込む。 その瞳には、悪戯な色がありありと浮かんでいて。 「だって、人間は毎日寝るんだぜ。それで毎日夢を見るんだ。だから毎日、これからはいつでも新一の愚痴を聞いてあげるんだよ♪」 その台詞に呆気にとられた新一は、次の瞬間には顔を真っ赤にして、ふざけんな!と叫んでいた。 ただでさえ恥ずかしいところを見られてしまったのに、これ以上恥を晒すわけにはいかない! 「毎日ってなんだ、毎日って!まさかお前…」 「そう、そのまさか♪これからはここに居候するから、宜しくな、新一!」 「勝手に決めんな、コラ!」 「もう母さんに言って来ちゃったし、優作さんにも許可もらってるもんね〜♪」 「おまっ、昨日の今日で…!?」 なんとも手回しが早い。 そのへんは腐っても怪盗キッド、ぬかりなどあるはずもない。 まあそれは、まだ新一の知らないことだけれど。 「良いじゃん、新一。一緒に暮らそうよ?」 からかいを引っ込めて真剣になった快斗に、新一はうっと詰まった。 だって、嫌がってはいるけれど、本当は。 「新一が帰ってきたらオカエリって言ってあげる。出てく時はいってらっしゃいって言うし、疲れた時は暖かい御飯を作って待ってる。」 「……快斗…」 「だから、ね?俺にも言ってね?」 なんだかずるい、と思いながらも、新一は嬉しいと思ってしまうのだ。 欲しいモノが手に入る。 家に帰ったら、誰かが居て。 熱いときは部屋を冷やして、寒いときは部屋を暖めて、待っていてくれる誰か。 そうして、オカエリと言ってもらえる、歓び。 それになにより、それを言ってくれるのが快斗だと言うなら。 「…わぁったよ。」 仏頂面の下に嬉しさを隠して、ぷいと顔を背けながら新一は快斗を受け入れるのだった。 ありがと〜vvと抱きついてくる快斗に膨れながらも、なんだか楽しくなってくる。 家に帰れば、快斗の笑顔が待っているのだから。 真夏の夜の夢は覚めてしまったけれど、迎えた現は悪くない。 「新一から接触して来たんだ。俺はもう、我慢しないぜ?」 まだ眠かったのか、すっかりソファの上で眠ってしまった新一の髪を梳いて、快斗はふっと笑みを浮かべた。 |