彼、黒羽快斗が消えて思い知ったのは。


 工藤新一は、こんなにもよく笑う人だったんだってこと……















Sleeping Beauty















「…博士、ちょっとコーヒー、温かったみたい。入れなおして来るわ。」


 お昼の休憩にと思って入れたコーヒーは、志保の予想に反して随分と温くなってしまった。
 これもそれもどれも、みんな、志保の気苦労から来るものだけれど、そんなことを志保が認めるはずもなく。
 入れ直すと言って立ち上がりかけた志保に、新一は笑いながら良いよ、と言った。


「大丈夫、飲めないことないし。勿体ないだろ?」
「……工藤君が、構わないなら。」
「俺は平気だからさ。博士も良いだろ?」


 新一の問いかけに博士も「構わんよ」とだけ返した。
 その様子を横目にチラリと見て、こっそりと溜息をつく。

 本当に、こんなにも良く笑う人だったのね……。

 黒羽快斗と関わりだして、同居しだして。
 もう随分と時間がたつから、そんなことも忘れていた。
 工藤新一は、以前はもっと笑う人だったということを。


(そう……感情を隠した、愛想笑いを。四六時中張り付けてたわ……)


 コナンとして周りを偽る生活を続けた所為で、世の中をうまく渡ることばかり覚えてしまったから。
 素直に怒ったり泣いたり、我侭を言うことを忘れてしまった。
 人の感情には敏感で、偽った言葉を言おうものならすぐに咎めてくるくせに。
 自分は全くその中身を見せようとはしなかったのがら、質が悪いのだ。

 けれど快斗と暮らしだして、新一は感情を素直に表に出すことに躊躇いを感じなくなった。
 昔の、組織などという闇の中の闇の部分を知る以前の彼に戻ることが出来た。
 気に入らないことがあれば怒るし、涙は見せないけれど哀しむこともするし、何より我侭を口にするようになった。
 それは、些細なことだったけれど。

 例えばこんな風に、コーヒーの味にうるさい彼は、本音ではもっと熱いのを飲みたかったはずだから。
 再び笑うことばかりしかしなくなってしまった彼に、志保は寂しさとやるせなさと…少しの怒りを感じていた。


(暗示が何だって言うのよ。貴方達、好きあってたんでしょ?それなら、そんな大事なことをそんなに簡単に忘れるんじゃないわよ。)


 それは無理な話かも知れないけれど、そう思わずには居られなかった。

 勝手な思いで大事な人の大事な記憶を奪って、尻尾を巻いて逃げ出した男。
 記憶を奪われ、すっかり人の好いだけの人形に……生きた屍になってしまった男。
 そのふたり分の心痛を、何もかも知ってる志保だけがひとりで背負うことになったのだ。
 それぐらいの愚痴は、仕方ないと思いたかった。

 どうせ、私には。


「こんなことぐらいしか出来ないわ……」


 笑うだけの人形を、お昼のお茶に誘ってコーヒーを出し。
 警察の呼び出しにフラつく彼を叱咤して、生活を見守って。
 けれど、それだけだ。
 それ以上のものは与えられないし、彼もまた自分から与えられることは望んでいないから。
 彼の中に棲むのは……棲むことを赦されたのは……逃げてしまった、男だけ。


「志保、どうしたんだ?」
「え?」


 独り言のつもりで呟いた声を、どうやら聞かれてしまったらしい。
 しまった…と思いながらも、そんなことはおくびにも出さない顔で、なんでもないわよと返した。

 聞かないで欲しい、応えられないから。
 生きた屍になってしまった貴方が、これ以上壊れてしまうのは見ていられない。
 私の中に閉じこめた真実を知って、貴方がどういう行動に出るのか。
 それを知るのは、怖いのよ。










* * *


 その日、新一は志保と買い物に出る約束をしていた。
 快斗が消えてから、自然とあまり外に出ることのなくなった新一に、付き添いという名目を付けて連れ出すために。
 けれど授業中に警部から呼び出しがかかり、隣町まで事件の捜査に駆り出されていたのだった。

 新一の慧眼により事件は瞬く間に解決し、犯人も無事確保されたが。
 志保との待ち合わせ時間までに待ち合わせ場所に行くのは無理だと判断し、電話をした。
 事件とあらば飛んでいってしまう新一に呆れこそしたが、それが彼という人なんだとよく知っている志保は特に文句も言わなかった。
 隣町にいるのならと、そこに最近出来たショッピング・モールでも巡ろうかと提案したのは、志保。
 新一も快諾し、ふたりはそのまま隣町……江古田で再び待ち合わせの約束を交わした。


「ごめんなさい、待たせたかしら。」
「いや、早い方だろ。先に約束破ったのは俺だからさ。」
「そう?じゃ、行きましょうか。」


 志保は軽く流して、新一を促す。
 これ以上、彼に愛想をまかれるのは気に入らないから。
 例えそれが、ごく自然な態度であっても。

 彼氏彼女の間柄でもないからドキドキするわけではないが、それでも少しでも新一の気晴らしになれば良いと思った。
 そしてそれは新一も同じらしく、とても落ち着いた雰囲気で歩いていた。

 ふたりにとってお互いの存在は、色恋のような艶めかしいものじゃなくて。
 家族のように暖かいものでもなくて。
 けれど、そこに居ないといけないものだった。
 理由もなく必要とし、必要とされる存在。

 それは、或いは共犯めいた思考からくるものかもしれない。
 けれどそうと言い切ってしまうにはひどく居心地が良く……少しも罪悪感などというものは存在しないのだ。
 この関係を、どちらも言葉にはしないけれど、気に入っている。

 と、交差点に差し掛かったとき。
 志保の心臓が、まるで電気ショックでも与えられたかのように、ドキリと跳ね上がった。
 見知った、あまりにも良く知った、知りすぎていた……けれど何も知らなかった男の顔が、見えたから。

 息を呑みそうになる自分を必死におさえて、この微妙な空気の変化を、隣を歩く新一に悟られまいとした。


(な…んで、こんなところに、黒羽君が…?)


 新一が気付くわけはない。
 彼は遠く離れた場所を……数十メートルは離れた場所を歩いている。
 隣には、可愛らしい少女が付き添っていて。

 …こんな邂逅は、誰も気付かない。
 ただ遭いたくないと願い、遭いたいと願っていたから、見つけてしまっただけ。

 だけど。
 これは、あんまりだ。


(その、隣の子は、誰よ……!)


 工藤君をこんなにしておいて、彼女のかわりに隣を歩くはずの彼をこんなにしておいて!
 悠々とこんなところを歩いているなんて、許せない…!

 それでも志保はポーカーフェイスを保ち続け、快斗が行き過ぎるのを待つ。
 そう、新一にだけは、気付かれてはならないから。
 万が一気付いてしまったら、どうなってしまうのかわからない。
 漸く姿が見えなくなった頃、志保は思わず安堵の息をつきそうになって堪えた。
 慧眼を持つ彼には、そんな仕草でさえ気付かれてしまうだろうから。

 なんとか自然を繕って、志保は隣を歩く新一を振り仰ぎ……瞠目した。


「…工藤君?貴方……何を泣いてるの?」
「え?」


 そう、彼は泣いていた。
 まるで気付かないほど自然に、けれどその頬には透明な滴が伝い……


「あ、れ?なんだこれ……なんで、俺?」


 志保は深く深く胸を抉られるような心地を体感した。

 これは、彼の心が流させた涙なのだ。
 記憶を封じられ、怒ることも泣くことも赦されなくなった彼の心が、無意識に流させた涙。
 どうしてそんなことをと罵ることも出来ず。
 良いから帰ってこいと伝えることも出来ず。
 それでも心の目でとらえた、懐かしい姿を見て……どうしようもない感情が溢れ出した結果。

 とても透明で綺麗なそれは、工藤新一が初めて見せた涙だった。










* * *


 その日の夜。
 志保はいつものように夕食に誘おうと、工藤邸のチャイムを鳴らした。

 快斗が消えてからこっち、新一の食生活はほとんど志保と博士に頼りっぱなしであった。
 事件となれば食どころか寝ですら忘れる彼を、放っておくわけにいかなかったのだ。
 過保護と呼ばれようが、いつか倒れてしまう不安に耐えるよりはマシ。

 けれど今夜に限って、いくらチャイムを鳴らしても、新一は一向に姿を現わさない。
 また警視庁に呼び出しでもくらったのか。
 しかしその案は却下した。
 昼間呼び出しを喰らったばかりでさすがにそれはないだろう。

 では、なぜ。
 考えても自分は探偵ではないし、慧眼でもない。
 志保はさっさとスペアキーを取り出すと、お邪魔しますと言って上がり込んだ。

 夜の七時をまわった邸内は、灯りはついてなく、シンとしている。
 やはり居ないのかも知れないと思ったが、念のためにと捜してみることにした。

 捜索には大した時間は必要なかった。
 件の人物は、悠々とソファに寝転がり、呆れることに眠りこけていたのだから。


(…全く、寝るんなら部屋に行きなさいよ……。)


 大の男をひとり、志保には抱えて上がるのは無理だ。
 眠っている新一の頬を軽く叩いて覚醒を促す。


「工藤君、起きなさい。風邪引くわよ。」


 しかし新一は何の反応も示さなかった。
 なんとなく志保の中を、言いようのない寒気が走り抜ける。


「…ちょっと。私は面倒見ないわよ、風邪ひいたって。工藤君?」


 次第に焦ってくる気持ちがなんのせいなのかわからず、志保は新一を揺さぶったが……相変わらず反応はない。
 さすがにおかしいと気付く。
 組織との戦いを経て、人一倍、人の気配に鋭くなったのは、彼も同じ。
 その彼がここまでされて起きない理由とはなんだろうか?

 そして、思い出す。
 昼間の邂逅を。
 昼間の、涙を。


「…工藤君!?起きなさい、工藤君!!」


 肩を掴んで前後にガクガクと揺らしてみて。
 それでも何の反応も返ってこず、志保は愕然と暗いリビングを見つめた。

 恐れていたことが、起きてしまった。
 彼は、眠りに囚われたのだ。
 現実に生きることを苦と捉え、夢の中の世界を楽としてしまった。
 もう……起きないかも、知れない。


「…は、博士ッ!!」


 志保は靴を履くのも忘れて、阿笠邸へと駆け込んだ。










* * *


「志保君、少しは休んだらどうかね。」


 寝る間も惜しんで看病をする志保に、博士はやんわりと声をかけた。
 ただでさえ細い体は、以前より痩せて見える。
 おそらく彼女にかけられた心痛がそのまま表に出てきてしまったのだろう。

 諸々の事情を知らない博士だが、それでも今の新一の状況を見れば、志保がこうなってしまった理由には充分だった。


「ありがとう、博士。でもごめんなさいね…多分、もうちょっとだと思うの。」
「もうちょっと?もうちょっとで新一が目覚めるのか?」
「いえ、そうじゃないわ。」


 言葉にはせずににこりと笑うだけの志保に、それ以上の詮索は無用だと悟り、博士は口を噤んだ。

 もうちょっとだろうから。
 警察に規制をかけ、工藤新一の入院を厳重に秘密にした。
 けれど、どこかで繋がっている彼らのことだから……きっと気付くだろうと志保は思っていた。
 簡単に気付かれてはならない。
 気付けなかった自分の罪を、深く心に刻みつければ良い。
 そうして彼を目覚めさせ、記憶を奪った罪を精算した上で……また、あの笑顔を取り戻してくれたら。
 それで、良い。


(苦しんで苦しんで…彼の苦しみを少しでも理解出来たら。…全部水に流してあげるから。)


 私の苦痛も苦労も全部忘れてあげるから。
 だから、さっさと見つけなさい。

 数分前に、優作に状況の連絡を入れてくると席を外した博士を追うために、志保は部屋を出ようと扉を開けた。
 そこには。


「…あ……。」
「…黒羽、君。」


 たった今思っていたばかりの、快斗の姿。
 肩で呼吸をしていることから、かなり急いできたのだろうとはすぐにわかった。
 けれど、そんな簡単に。
 彼に逢わせるわけにはいかない。


「今頃なんの用かしら?まさか、お見舞いに来たなんて言うんじゃないでしょうね。」
「…わからない。ただ、あいつが入院してるって聞いたら…ここに来てた。」
「それも今頃、ね。彼が入院したのはもう二週間も前よ。大怪盗が聞いて呆れるわ。」


 わざと嘲るような口を利いて、彼の傷に潮を練り込むようなまねをして。
 思った通り、快斗の顔には傷付いた絶望の色が浮かんでいた。
 けれど言い返そうとはしない彼に、自分の罪をちゃんと痛感していることがわかって、志保はこっそりと安堵した。

 …まだ彼らは、やり直せる、と。


「ごめん。勝手なのはわかってる。でも、俺はあいつが生きてないと駄目なんだ。」


 ぽつりと呟かれた言葉に、志保はカッと頭に血が昇るのを感じた。
 知らないのだ、彼は。
 彼がいなかった間、新一がまるで……抜け殻のようだったことを。
 だから言ってしまったのだ、それを。


「…生きた屍にしといてよく言うわ。」
「え?…どういうこと?」
「…貴方に教えてどうなるというの?」
「志保ちゃん!教えて!!」


 全く解りませんって顔じゃないのね。
 ただ勘違いしてるみたいだけど…。

 きっと、今の彼の状態だと思ったのだろうけれど、実際はこうなる前の彼のことなのだ。
 起きて、御飯を食べて、学校へ行き、事件を解決して。
 にっこり笑ってうまく人をあしらう、それだけの生活。


(考えられる?あの、いつも心底楽しそうな工藤君しか知らない貴方には、きっとわからないでしょうね。)


 でも、どんなに腹が立っても、彼の本音を引き出すことが出来るのは、この男だけなのだ。
 その歯がゆさに唇を噛む。


「…彼、どうして入院してるのか知ってる?」
「…ううん。入院してるっていうのも、今聞いたばかり。」
「そう。口止めしたのは私だもの、知らなくて当然よね。許せないけど。」


 知りませんでしたじゃ赦されないこと。
 もし彼が『眠る』だけじゃなかったら、一体あなたはどうしたんでしょうね?

 でも、そうじゃないから。
 貴方はちゃんと気付いたから。
 工藤君も生きてるから。
 過ちを過ちと認めて、それを糧に先に進むことの出来る貴方達だから。

 でも、これぐらいの意地悪はさせてもらうわよ……


「大したことはないわ、眠ってるだけよ。……ただし、起きることはないけど。」
「そ、れって…何か、怪我でもしたの…?」
「いいえ。本当に眠ってるだけ、どこも体は悪くないわ。点滴してる分、普段より栄養補給も充分なくらいよ。」
「じゃあなんで…」
「わかってるのはひとつだけよ。貴方の、所為だわ。」


 傷付いた表情。

 思い知ったのだろう、彼が『眠って』しまった理由を。
 そして自分の行動の根本からの間違いに。
 やってはいけないことをした、これが、あなたの罰。


「二週間前…覚えてるでしょ?交差点ですれ違ったのを。」
「…うん。あの時は偶然だったんだ。」
「あの時、彼。……何も覚えてないはずなのに、それでも……泣いたの。涙を流してたわ。…初めて見た。」
「新、一が?」


 泣くことを知らない人だったのに。
 涙ですら、貴方に関われば……流すことが出来るのよ、工藤君は。
 そのことの重大さに、いい加減気付いたらどうなの。


「その直ぐ後よ、彼が家で倒れてたの。まるで眠るように。だから初めは家で様子を見たわ。でも、ちっとも起きなくて…入院することになったのよ。」


 つい、その時の恐怖を思いだしてしまい、志保は涙が滲みそうになるのを堪えた。
 泣いちゃいけない、まだ。
 だって彼は、まだ目覚めるとは限らないから……

 なのに。


「ごめん。ごめんなさい、志保ちゃん。」
「私に謝らないで…っ」


 貴方が、そんな風に謝ったりするから…!

 堪えてきた今までのもの全てが、熱い滴となって志保の頬を流れ出す。
 本当はずっと、きつかった。
 偽りの笑顔を向けられるのも。
 隠された真実を、ひとりで抱えているのも。
 死んだように眠る彼を、目覚めるかもわからない彼を、ずっと見続けているのも…!

 ひとしきり泣いた後、志保は快斗からそっと体を離した。
 もう充分だから。
 彼は充分、自分の罪を自覚し…そして志保の言葉によって罰を受けただろうから。

 だから、早く工藤君のもとに行ってあげて…。


「貴方が側に居ても彼が目を覚まさなかったら、二度と、顔すら見せてあげないわ。」
「…うん。新一を、連れ戻してくるよ。」
「……絶対よ。」
「うん。覚悟は決めてある。」


 どんな覚悟だか知らないけれど、その顔を見て安心した。
 …そんなことは、言ってあげないれど。

 でも本当に、彼を起こせなければ。
 貴方から彼の隣りに立つ権利を、何がなんでも奪ってあげる。

 だからきっと、彼の目を覚まさせてあげて。
 辛くても逃げることが出来ない現実に。
 貴方が側にいれば、現実もなかなか悪くないと……思ってくれるはずだから。

 志保は涙を拭いながら、博士を追うためにその場を後にした。
 そしてしばらく、博士の広い胸の中で……涙を流した。





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サイドS…は、実は新一じゃなくて志保ちゃんです。
新一は記憶封じられちゃってるわけだから。彼に語らせるとウザイことになる。笑。
切ない話になっただろうか…?
とにかく、志保ちゃんが辛辣ですが。厳しい主治医サマですので、見逃して…!
快斗も新一も愛しちゃってるゆえの、態度なんです。