バタバタと急に慌ただしくなった無数の足音を耳障りだと、新一はページを捲る手も止めずにぼんやりと考えていた。
 尋常ならぬこの事態にも、新一は少しも困惑することなく活字を目で追っていく。
 その追った活字を一度読むだけで頭に叩き込んでしまうと言うのだから、17歳の若さにして非凡な才を持つことは明らかであった。


 と、唐突に新一の部屋の扉が荒々しく開かれた。
 ノックもなしに無礼なことだと、少しも気にした風もなく振り返った新一に、自分の非礼も忘れ果てている女中が言った。



「新一様、大変です!ご当主様の容態が…っ」



 切羽詰まったその声に促されるままに、新一は来る時が来たのだと内心で眉をひそめた。





















【 月と黒薔薇 】




















「新一、おいで。」



 穏やかな、現工藤家の当主の声が言った。
 病床に伏しているとは思えない明快な発音で、愛息子を呼び寄せる。
 新一は呼ばれるままに父に近寄ると、ベッドの脇へと跪き、幾らか蒼白な父の顔を覗き込んだ。



「…とても元気そうに見えるのに。」



 ぽつりと零れた声に哀しんでいる様子はなく、見守るように周りに佇んでいる女中達が眉をひそめる。
 それを見て取った優作はこっそりと苦笑し、そうして新一の頭を優しく撫でた。
 声とは相反して、僅かばかり哀しみを湛えた瞳をしている。
 決して人に弱みを見せない頑固な息子は、父親の死の瀬戸際にも涙はくれないらしい。
 けれど、だからこそ、まだ17という若さの息子に、全てを託して逝くことが出来るのだ。



「お前と一緒で、私もずいぶんと頑固なんだよ。死ぬ間際だって笑ってるさ。」

「……冗談に聞こえないから嫌ですね。」



 むっと唇を尖らす彼に優作はくすくすと笑みを零す。
 どうして笑っていられるのかと困惑する女中たちを余所に、優作は新一の頭を優しく撫で続けていた。






 この、言葉では語らない父子の絆は、決して他の者には解るはずもないのだ。
 早くに母を亡くし、父の手ひとつで育てられてきた。
 新一はまったく手間の掛からない子供で、同時に彼女たちにとっては気味の悪い子供であった。
 物の覚えが早く一度覚えたことは二度と忘れないし、自分の立場というものを理解するのも早かった。


 工藤伯爵家の長男にしてひとり息子。
 つまり、この工藤家を継ぐのが自分であると、幼いながらに新一は自覚していたのだ。
 黙々と本を読み、教えられるまでもなく礼儀作法や多くの知識を自力で身につけた。
 剣術や馬術の飲み込みも早く、一年も学べば師を上回る実力となった。


 良く出来た、…出来すぎた、子供。
 そう周りから思われていると新一が気付くのに、長い時間はかからなかった。
 けれど、癇癪を起こすつもりも駄々をこねるつもりもなかった。
 幼い頃から頭の中に叩き込んでしまった礼儀が、新一にそうさせることを躊躇わせたのだ。


 当時、まだ新一が8歳のことであった。






「私の遺言はね……」



 唐突に、優作は手を止めると新一の頬へと手を添えて、言った。



「私の財産の全てを、お前に渡すよ。女中や執事たちも、良く気の付く良い者ばかりだ。好きなように使いなさい。」

「…財産など、寄付してしまえば良いでしょう。」

「そんなこと言うんじゃないよ。そうだね、ちょっとだけならしても良いけど、全部手放してしまっては勿体ないだろう?」



 せっかく私がここまで溜めてきたのだから。


 そう言って笑う優作に、半分本気だった新一も僅かに苦笑をもらした。
 父のことだから、本当に勿体ないと思っているのだろう、と。



「これからはお前が工藤家を継いで、伯爵として立派に領主様へ貢献するんだ。」



 と、これには執事が、差し出がましいと思いながらも進言した。



「優作様っ。新一様はまだ17歳で御座います。ご子息様を跡継ぎに召したいお気持ちは存じますが、親類の藤峰家にお頼みするのが……」

「いや、悪いが私は新一以外に頼むつもりはないよ。」



 執事の申し出をきっぱりと両断し、優作は下がっているよう視線で促す。
 初老の執事は命じられるままに引き下がったけれど、その顔は未だ納得していない様子だった。
 つくづく、息子の新一への信頼の薄さに、優作は溜息混じりの笑みを浮かべるしかない。
 これも私事より公儀を慮ってきた自分の失態なのだが、今更17年の年月で構築されてきたものをそう簡単に覆せるわけもない。
 ここからは、全てが新一の技量によるしかないだろう。


 けれどその点、優作は心配していなかった。
 公儀に偏った生活をしてきたけれど、息子のことはずっと気にかけてきたのだ。
 たとえ、同じ屋根の下に暮らしながら知ろうともしなかった女中たちが気付かなくとも、仕事先にいてすら息子を気にかけてきた優作にわからないはずもないのだ。
 この子が、どれほどに長けているか。
 おそらくその度量と手腕は自分すら凌駕するだろうことを、優作は知っている。
 他でもない新一に任せれば、例え表向きには侮られようとも、決して工藤家が傾くことはないはずだ。
 だからこそ、優作は新一以外の誰にも跡目を継がせる気はなかった。



「良いね、新一。父の最期の遺言を、決して違えてはならないよ。」

「……解りました。」



 伯爵の位などに、新一は少しも興味がなかった。
 礼儀を身につけ知識を身につけ、そうして眺めた世界は、何も知らなかった子供の頃に見た世界とは180度違っていた。
 大人同士の競い合いに薄汚れた、灰色の世界。
 白と黒ですらない、なんとも曖昧な、味気のない世界。


 そんなものよりは、下町で蔑まれながらも一日を必死に生き抜き、生きる喜びを子に伝えながら暮らす者たちを新一は好んだ。
 大きな声では言えないが、下町の飲み屋や娼館は新一の行きつけの場所であった。



「最期に、ひとつ、我侭を言ってもいいかい?」



 と、不意に優作が笑みを悪戯なものに変えて言った。
 新一はぱちぱち目を瞬いて、珍しい父の戯言に興味を持った。


 優作は最期と言ったが、まさにこれが最期だろうと新一は感じていた。
 先ほどより明らかに顔色の悪くなりつつある優作は、もう数分の命だろう。
 けれど、優作は宣言通りに笑みを浮かべていた。


 新一が頷くと、優作が手招きをする。
 怪訝そうに見遣りながらも耳を近づけると、優作が新一にだけ聞こえるよう、囁き声で何事かを呟いた。



「!」



 思わず眉を寄せる新一に、優作は相変わらず悪戯な笑みを浮かべている。
 新一は何か言いたげに視線を彷徨わせたあと……



「解りました、約束しますっ。」



 結局、頷いたのだった。
 それに満足そうに優作は笑うと、いよいよ苦しくなってきたのか、呼吸がやや荒れてきた。



「ご当主様!!」



 わっと、新一を押しのけるようにして取り囲んだ女中たち。
 新一はその無礼に怒ることもなく、すっと立ち上がる一歩後ろからその様子を眺めていた。
 けれど、優作が、



「…お前は、出て、なさい……」



 と言ったため、それも叶わずに新一は素直に部屋を辞し、そのまま自室へと戻っていった。
 まるで何も感じていない表情で部屋を出ていく新一をチラと眺めた女中が悔しげに唇を噛んだ。




































* * *


 部屋に戻ると、新一はすぐさまクローゼットから瓶を一本取り出して、本棚からグラスを取り出した。
 先ほど同様の無表情だが、些か機嫌でも悪いのだろうか、所作が幾分荒いようだ。


 外には下弦の月が浮かび、雲も少なく星が綺麗に瞬いている。
 カーテンの隙間からのぞき見えたその景色に気分を落ち着かせ、新一は瓶とグラスを手にバルコニーの扉を開けた。
 このままひとりで月見酒としゃれ込むつもりなのだ。
 バルコニーには、新一がここで過ごす時間が好きだと知った優作が用意したテーブルセットが置かれている。
 丸いティーテーブルがひとつに椅子がふたつという簡易なものだが、さすが伯爵家と言おうか、掘り出し物の骨董品である。
 いつもはひとりで使う新一だが、年に数回程度には優作と共に使っていたものだ。
 何を喋るでもなく、ただ、月を楽しんでいたのだけれど……。


 が、とにかく、今日も同じく月見をしようとバルコニーへ出た新一だったが、そこへ先客があることに気付いた。
 先客というにはややおかしな格好の、さらに言うなら見たこともない人ではあったけれど。


 椅子のひとつに腰掛けた、右腕の袖を二の腕当たりまでぐいと捲り上げているひとりの男。
 顔は、片目に眼鏡をつけていて、定かではない。
 テーブルの上には白いハットが乗せてあり、こちらの出現に相手も驚いているのか、その格好のまま固まっている。
 見れば、右肘の内側辺りがぬれぬれと血に光っていた。
 おそらく怪我を負い、ここを治療の場と拝借したのだろうが、彼の予想を裏切り家人がバルコニーに出てきてしまったというところだろう。


 その、血に濡れた、いかにも怪しいタキシード姿の男を、けれど新一は無視した。
 無言で椅子のもう片方に腰掛けると、瓶をテーブルに置き栓を抜いてグラスに満たす。
 この図々しい客に酒を勧めるつもりもなかったので、新一は注いだ酒を一気に呷った。



「…何も仰ることはないのですか?」



 新一の予想を裏切って、意外に若い男の声が言った。



「別に、居るだけだし良いんじゃねぇ?」



 全く気のない様子で新一が応えた。
 その、伯爵家の家人とは思えないぞんざいな態度に、男の方が拍子抜けしたようだった。



「はぁ…変わった方ですねぇ。」

「ここの者はみんなそう思ってるよ。」



 そう言って、新一は二杯目の酒を相変わらずの仕草でぐいと飲み干す。



「見たトコ動脈近辺やってるみたいだから、後できちんと医者行った方が良いぜ。」



 グラスをテーブルに置き様、新一がそんなことを言うものだから、男が驚きに目を瞠った。



「…貴方は医者ですか?」

「違うな。」

「では…なぜ一目でそのようなことが解るんです。」



 確かに、男の傷の状態はその通りだった。
 男は少なからず常人よりは医学に精通している者で、自分の傷の危険度はよくわかっていた。
 けれどどうしようもない状況下で、とりあえずはと応急処置をしていたに過ぎない。
 一目には出血が激しいわけでもなく危険性も低く見えるだろうが、動脈近くまで傷が及んでいるため、正直に言えば危ない。
 それを、たった一目で見抜ける者が医者でないと言うのなら。



「別に、本、読んだだけだし。」



 つまらなさそうに言う新一に、男がさらに瞠目した。
 けれどすぐに不適な笑みを浮かべると……



「なるほど。とんだ朴念仁でしたか。」



 くつくつと楽しげな笑みをもらしながら、男がそんなことを言った。
 その台詞に、新一が微かに目を眇めた。



「私を見ても、驚きも歓びもしない。とんだ世間知らずのお坊ちゃんかと思いましたが……随分と頭が切れるようですね。」

「別に、お前が誰だろうと俺には関係ないからさ。ああ、でも…」



 新一が不意に黙り、次いでニヤリと口端を上げた。
 彼の周りの空気が、気怠げなものから一気に鮮やかになる。
 その変化に男は驚き、次いで新一の顔を見て、一瞬、動作を忘れた。



「明日からはそうも言ってられないんだっけ。」



 そう言って笑う新一の艶やかさに、いやがおうにも惹きつけられてしまう。
 男は初めての感覚に戸惑うどころか、実に楽しげに新一を眺めていた。



「今、話題の怪盗紳士がお相手とあっちゃあ、捕まえなくちゃ忠義に反する、てか。」



 けれどそう言った後、新一はすぐにいや、と首を振ると、再びつまらなそうに空に浮かぶ月を眺めた。
 そして、



「今夜は駄目だ、気分が乗らない。」



 ぽつりと呟いた。
 これを聞いた怪盗が、おやと片眉を持ち上げて言った。



「何か嫌なことでもあったんですか?」

「別にー。ま、普段からバーボンをがぶ飲みするほど酒好きじゃねーけど。」

「え!?割らずに飲んでんのか!?」

「あ?…そーだけど。」



 急に口調の変わった怪盗を訝しく思いながらも頷く新一に、怪盗は勢いよく瓶を奪い取ると、自分が不審者であるということも忘れて怒鳴りつけた。



「馬鹿野郎!ガキのうちからこんなことしてたら、肝臓悪くするぞ!」



 きょとんとしている新一に、怪盗は憮然として言う。



「俺は医者の息子だからな。許せねーんだよ、あんたみたいな馬鹿は。」

「は…?お前、医者の息子なのか…?」

「そうだよっ。それもただの医者じゃねぇ、超名医の息子だぜっ」



 ふん、とご機嫌ななめらしい怪盗の鼻息に、けれど新一は笑みが浮かぶばかりで。
 くすくすと笑い出した新一を睨み付けた怪盗だったが、逆に何も言えなくなってしまった。
 笑う新一の目尻から、幾筋もの涙が流れている。



「ばーろ、お前が変なこと言うから、笑いすぎて涙出るだろ。」



 新一はそう言ったけれど、本当はそうでないことなど、怪盗にはわかっていた。
 彼の周りを取り囲む空気の微妙な変化に、初めて会ったばかりの怪盗が、なぜか気付くことが出来たのだ。


 父親以外に、気を許すことの出来なかった新一。
 その父親にすら、気を許しきることの出来なかった新一。
 だというのに、会ったばかりのこの怪盗は、わけもわからない理由で新一の心配をしてみせたりするのだ。
 犯罪者が自らの正体をばらすようなことを口走り、それすら気に止めずに怒鳴りつけてくれる。


 そんな無防備な接触が、かつてあっただろうか。


 たとえば。
 父・優作に取り入れられたくて、気にしてもいないのに構いたがる女中だとか。
 見られるのも嫌気がさすあからさまな視線をなげかけてくる下男だとか。
 そんなくすんだ世界にあって、いつしか自分ですら色褪せてしまっていたのだろうか。


 白にもなれない、黒にもなれない、そんな、曖昧な人間。



「お前は、白いよなぁ。」



 ぽつりと言った言葉に、怪盗がえ?と聞き返す。



「義賊、だっけ。」

「まぁそうなってるな。」

「なんでそんなことしてるんだ?」



 聞かれた怪盗が、ニヤリと笑って。



「ただの敵討ちさ。」



 いとも容易く、瞳には昏い私怨を燃やしながら、怪盗が言い放つ。
 衣装の白さに隠れるように混在する黒に、新一はハタと気付いた。



「俺を白いと言ったけど、俺はほんとは黒いんだよ。」



 白と、黒。
 混ざり合えば、味気ない、ただの灰色となってしまう。
 けれど、この男は。



「お前は黒くて白いよ。溶け合ってないんだ。白と黒が、くっきりと別れてその中に在る。」



 驚き顔になった怪盗が、相好を崩してそれに応える。



「あんたは、白でも黒でもないな。…色がないんだ。」

「え?」

「解るか?透明なんだ。つまり、相手の色を映すんだよ。」



 そんなことは考えたこともなかったと、新一は茫然とした顔を向けた。



「なら俺は、いつになったら自分の色を持てるんだ?」



 言った新一に、今度は怪盗が笑う番だった。










 相手の姿を映す、鏡。

 それは時に残酷でもある。

 なぜなら怪盗には、彼は黒く見えたからだ。

 つまりは、自分が黒いのだ、と。

 己の姿を映す、残酷な、鏡。

 それはまるで薔薇の刺のように美しく、そして鋭く傷付ける。



 ……月下の黒薔薇。



 怪盗は彼のことを、密かにそう名付けたのであった。






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やってしまいました、貴族モノ……。
いつか書くぞ書くぞと、大した知識もないのに暖めてきたこのネタ。
下地としては、由貴センセの「カインシリーズ」を使わせて頂いてます。
が、敢えて「パロディ」としなかったのは、全く違う話だからです。
要は、軍人だの貴族だのにメロメローな管理人による
ゲテモノ小説ということです、はい。
同趣向の方、宜しくねvv

さて、今回なんとも尻切れな最後となっておりますが。
これは多分、シリーズものの頭となる話です。
や、連載抱えすぎてるから敢えて明言しませんが。
そんな感じですので、のちのちふたりの関係も発展するやも…?
つか時間が経てば発展するんだけどね(笑)
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03.10.12.