花も嵐も踏み越えろ






 人気のない摩天楼の一角。
 白い翼で夜空を駆けていた怪盗は、そこに佇む人影を見つけ僅かに瞠目した。
 その人は隠れるわけでもなく、かと言って存在を誇示してみせるわけでもなく、ただひっそりと佇んでいる。
 地上の雑踏からはるか遠いこんな場所では、その存在に気づく者などいないだろう。
 ただ一人――夜に生きる白い鳥を除いて。

 怪盗の口角がくいとつり上がる。
 興味本位で近づけば己の身を滅ぼしかねない相手だ。
 けれど、彼が何の意味もなくこんな場所にいるとも思えない。
 彼に限ってまさか今夜この場所を怪盗が通ることを知らないはずもあるまい。
 つまりはあちらも初めからこちらに用があっての御出陣と言うわけだ。
 こんな真夜中に保護者の目をかいくぐって抜け出してきただろう彼の努力を無碍にするのも気の毒だろう。

 怪盗はくるりと一度旋回すると、風に乗ってゆっくりと下降していった。















chapter 01 : Joker

















「――よう、ぼうず。今夜は花火は打ち上げねえのか?」

 相も変わらず夜目にも鮮やかな白い衣装を着込んだ怪盗は、夜の空気を微かに震わせながらひっそりとビルに降り立った。
 ついでのように紡がれた皮肉はさらりと無視して、コナンは殊更ゆっくりと振り返る。
 その光景は、まるでデジャヴのように二人の脳裏に蘇った。

 そう、ここは、かつてコナンとキッドが初めて顔を突き合わせて対峙した、あの杯戸シティホテルの屋上だった。

 コナンもキッドもあの頃と何一つ変わらない姿で、互いに無言で睨み合っている。
 ただひとつ変わったものと言えば――…

「…もう必要ねえだろ?」

 コナンの口元がニィとつり上がる。
 怪盗なんかよりもずっと凶悪な小学生に、キッドの笑みも深まる。
 コナンはこの男のことを誰より信頼していた。

 初めはただいけ好かない相手でしかなかった。
 目立つ衣装に派手なパフォーマンス、小馬鹿にしたような態度。
 宝石を盗んでは返し、なんの得にもならない厄介事に首を突っ込んでは何も言わずに姿を消す。
 今時わざわざ予告状なんてものを送ってくれるとは、なんて懐古趣味な泥棒だろう。
 コナンはその程度にしか思っていなかった。
 それが変わり始めたのはいつだったか。

 一番最初に疑問を感じたのは、おそらくインペリアル・イースターエッグの時だ。
 キッドは江戸川コナンが工藤新一だと気付いている素振りを見せながら、そのことには一切触れず、ただ暴かれそうだった謎を浚って姿を消した。
 或いはその時すでに気付いていたのかも知れない。
 コナンの抱える秘密は、決して開けてはならないパンドラの箱であると言うことに。

 …気付けばただの泥棒は、秘密の共有者になっていた。

 それから二人は何度も邂逅を重ねてきた。
 時には好敵手として、時には共犯者として。
 決して馴れ合いこそしなかったものの、コナンは彼を誰より認めていた。
 一見ただの愉快犯に見えて、けれどそれだけではない何かを何度も垣間見た。
 犯罪者でありながら決して輝きを失わない怪盗。
 それはまるで、夜空に浮かぶあの月のようで…

 けれど、コナンもキッドも何も言わなかった。
 二人ともただ、待った。
 ――時≠ェ来るのを。

「…ようやく時≠ェ来たってことか」
「ああ。覚悟はいいか?」
「そんなもん、とっくの昔にできてるさ」

 キッドはこつこつと歩み寄ると、躊躇いなく彼の前に跪いた。
 そしておもむろにその小さな手を取る。
 どんな時でも常に月の光を背負っていたはずの怪盗が、月光を正面から浴び、少しも惜しむことなく素顔を曝している。
 意外に若い――どこか自分と似た顔に目を眇めながらも、コナンはその手を振り払おうとはしなかった。

「おまえが来るのをずっと待ってた」

 ぴりぴりと肌を伝う、心地よい緊張。
 コナンはふと目を伏せて。

「…俺も、おまえを待ってたよ」

 できることなら、自分ひとりで全てを終わらせたかった。
 誰も巻き込まず、誰にも気付かれず。
 けれど、それは無謀と呼ぶにもおこがましいほど愚かな思い上がりだ。
 警察関係者へのツテはどうにかなるとしても、どうしても自分の手足のように、自分が思うままに動いてくれる戦力がコナンには必要だった。
 灰原は確かに強力な戦力だが、如何せんメンタル面が弱い。
 モニター越しに対峙している間はいいが、直接対決するほど組織との戦いが過酷になればどうしても心に隙ができるだろう。
 だが、組織にはたとえ一瞬の隙だろうと与えたくないのだ。
 博士も両親も頼もしい協力者だが、コナンの思い通りに動けるとは思えない。

 そうなった時、思い浮かんだのはこの男――怪盗キッドだけだった。

 変幻自在の姿と星の数ほどの声を持ち、神出鬼没で正体不明、おまけに確保不能の大怪盗。
 いつかの日に操縦士のいない飛行機を陸に導いてくれたように、殺し屋に追われ川に転落した探偵を救い上げてくれたように。
 彼なら自分の思うように、いや、それ以上に動いてくれるだろうから。
 そして何より。
 彼になら、この背中を預けられると思ったから。

「おまえはジョーカーなんだ」

 ジョーカー?と首を傾げる怪盗に、コナンはそうだと頷く。

「掟破りの最高の切り札さ」

 それはあらゆるルールの外から攻撃を仕掛けることのできる、最強のカード。
 法に縛られず、時に罪に手を染めながらも何かを追い求めるこの男を言い表すのに、これ以上相応しい言葉もないだろうとコナンは思った。

 自分たちが戦おうとしているのは、裏社会に深く深く根を張っている巨大な犯罪組織なのだ。
 時には正攻法ではどうにもならないこともあるだろう。
 そうなった時、コナンひとりでは行動をかなり制限されてしまう。
 けれど、彼なら迷わず自分とともに戦ってくれるだろうという確信があった。
 そしてその信頼を、彼は決して裏切らないのだ。

「名探偵のお望みとあらば、その役目、喜んでお受けしましょう」

 月光がスポットライトのように怪盗を照らしている。
 その中ですっと立ち上がった怪盗は、口元に微笑を湛えながら優雅に腰を折った。
 それはまるで何かのショーのようだった。
 怪盗キッドという稀代のマジシャンが魅せる、魔法のステージ。
 その魔法から醒めやらぬ内に、けれど、と怪盗は言い添えた。

「だが、真の切り札は俺じゃない」

 ぱちんっと鳴った指の間に現れたのは、スペードのエースが描かれた一枚のカード。
 怪訝そうに眉をひそめるコナンへ、怪盗はそのカードを投げてみせた。
 ひらひらと足下に落ちたそれをコナンが拾い上げる。

「怪盗キッド、そして江戸川コナンと言う二枚の切り札に隠された真のジョーカー。
 それが――工藤新一だ」

 コナンは僅かに目を瞠った。
 拾い上げたカードはスペードのエースなどではなく、ジョーカーだったのだ。

「江戸川コナンはただの小学生だ。それが警察組織や怪盗キッドを動かすブレインだなんて、誰が考えつく?」

 面白いだろ、と笑う怪盗に、コナンの鼓動が乱れていく。

 対黒の組織プロジェクトの謎のジョーカー。
 キッドはそのレッドへリング――影武者になると言っているのだ。
 これほどの隠れ蓑など他にない。

「…危険な役だぞ」
「それこそ今更だな。おまえなら泣き寝入りするのか?」
「するわけねーだろ」
「だろ?俺だって同じことだよ」

 だからおまえは、思う存分暴れればいい。

「俺が、おまえの影武者になってやる」

 ドクリと、心臓が脈打った。
 その音を振り払うように、コナンはきつく怪盗を睨み付けた。

 彼の言葉は毒だ。
 コナンの心を揺さぶる呪文だ。
 危険なはずなのに。命懸けなのに。
 ――わくわくする、なんて。

 睨み付ける目はそのままに、コナンは口元に笑みを浮かべる。
 その笑みに応えるように、怪盗もまた似たような笑みを浮かべる。

「よろしくな、名探偵」

 そうして差し出された手を、コナンは迷うことなく握り返した。





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