「快斗ったら!」
怒声とともに後頭部に衝撃が走り、快斗は思わず机に撃沈した。
涙目で見上げれば、眉を吊り上げた青子が見下ろしている。
「なにすんだよ」
「ぼけっとしてる快斗が悪いんでしょ!」
いつまでそうしてんのよ、と言う青子の言葉で、快斗は漸く既にもうホームルームが終わっていることに気付いた。
生徒たちも殆ど帰ってしまったらしく、教室内にはもう五、六人しかいない。
どうやらどこかへトリップしていたらしい自分に快斗はこっそり舌打ちした。
思ったよりも重症だ。
「快斗、ちゃんと覚えてるよね?」
「なにが?」
「だから、明日のバースデーパーティのことよ!」
まさか忘れてたの!?と声を上げる青子に、忘れるはずがないだろうと快斗は溜息を吐いた。
もう一週間以上前から「この日だけは空けておけ」としつこく言われていたのだ。
誕生日を明日に控えた今夜は実は怪盗キッドの予告日なのだが、どんなに下準備やら何やらに疲れていても、それを理由に断わることもできない。
まあ去年の青子の誕生日のように予告日とバッティングしなかっただけ有り難いと思うしかないだろう。
「ちゃんと覚えてるよ。六時に青子ん家だろ?」
「うん、そう!でも、ほんとにプレゼント何もいらないの?」
「しょうがねーだろ?欲しいもんがないんだから」
はっきり言って、黒羽家は裕福だ。
父がたんまり残した遺産で豪遊することもなく、地道にパートを続ける母と普通の生活を続けてきた快斗は、金銭面や生活必需品で困ったことがない。
それに、もともと物欲の薄い快斗にとって生活必需品以外にあまり欲しいものがないのだ。
服もパソコンもDVDも本も、あれば便利だがなくても生活できる。
どうせ欲しいと望むなら、どうしてもそれがなければ駄目なのだと思える唯一無二のものがいい。
そしてそうまでして望むものが快斗はひとつも思い浮かばなかった。
物にも遊びにも今はまるで興味がない。
もっと言うなら――全てがつまらない。
すると、青子が遠慮がちに言った。
「快斗、どうかしたの?ここんとこずっと変だよ。…青子、ちゃんと気付いてるんだから」
泣きそうな顔で本気で心配している青子。
どこか抜けていて、誰よりも純粋で、けれど大事なことだけはいつも見逃さない幼馴染み。
――ごめん。
心の中で謝りながら、快斗は「何でもねーよ」と言って笑った。
近頃、本気で余裕がなくなってきていた。
今までは聞き流せたはずの幼馴染みの罵倒や愚痴、クラスメートの探偵の尋問めいた会話にさえ、いちいち苛立っている。
自業自得だと、誰のせいでもないのだと分かっていながら、それでも口を吐いて出そうになる――
何も知らないクセに、と。
分かっている。
どうしたって自分がしていることは犯罪だし、どうしたって自分はそれを止められないのだ。
間違った方法かも知れない。
いつかこの罪を断罪される時がくるかも知れない。
でも、たとえ正しくなくても、いつか裁かれるとしても、自分はそれをやり遂げると決めたのだ。
そして決めたからにはそれを貫く。
けれど痛みを感じないわけじゃない。
罵られれば傷付くし、傷付けば立ち止まりそうにだってなる。
それでも後ろだけは振り向かないよう、ただひたすら前だけを見据え続けて…
いつの間にか錆び付いてしまった、心。
本当はちゃんと分かっているのだ。
世界は何ひとつ変わっていないと。
繰り返される日常は、掛け替えのない一瞬なのだと。
色褪せていくのは――…
自分自身。
「なんだ…?今日の警備はやけに手薄だな」
いつものように現場付近のビルの屋上から標的のある美術館を見下ろし、キッドは眉をひそめた。
いつも飛んでいる警察のヘリが見当らない。
パトカーの数は相変わらずだが、ヘリの轟音がないためにしんと静まりかえった空気が逆に落ち着かなかった。
こんな日に限って「今夜こそは!」と意気込む警部の声も聞こえてこない。
キッドの頭に嫌な予感が過ぎる。
そしてその予感は的中し、キッドの行く先々に警官が現れ、結局キッドは宝石を取れずにそのまま逃走した。
仕掛けて置いたはずのトラップはことごとく見つけられ、考えていたありとあらゆる逃走経路は先回りされ。
もともと臨機応変に対処できるよう「完璧」な計画なんてものは立てないのだが、IQ400の頭脳をフル稼動してやっとどうにか逃げることができた状態だ。
今もすぐ側でパトカーのサイレンが鳴り響き、どこに隠していたのかサーチライトを照らしながらヘリが飛んでいく。
今夜白馬が参戦すると言う情報は入っていなかった。
となると、今夜現場の指揮を執っているのは中森警部のはずである。
彼が参戦すると総監の息子である彼が指揮を執ることもあるが、どちらにしてもキッドは彼らの手口を既に把握していた。
白馬は慎重かつ冷静な男だが、警部はどちらかと言えば猪突猛進の熱血漢。
けれど、今日の警備はそのどちらのやり方とも違っていた。
何かもっと狡猾で、彼らよりずっと容赦がない。
そう、それは、まるで彼≠フようで――…
「――よう、キッド」
その瞬間、呼吸を忘れた。
ありえない。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
辿り着いたビルの屋上。
片手を上げ、まるで旧知の友人のような気安さで声を掛けるその人は――世間から消えて久しい名探偵、工藤新一。
月明かりを背に、相も変わらず小憎たらしいあの自信満々な笑みを浮かべている。
キッドはあまりの衝撃にポーカーフェイスを剥ぎ取られた。
「名探偵…生きてたのか…?」
「俺が死んだと思ってたのか?」
「だって、半年もどこで何を…」
呆然と呟けば、探偵の口元がニッ、と吊り上げられる。
「おまえがそれを聞くのか?」
それは、聞かれるまでもないことだった。
小さな探偵が外国にいる両親のもとへ帰ったのが半年前。
もちろんその正体が誰であるかを知っていたキッドは、組織の動きを監視すると言う建前で彼の行方を追っていた。
けれど日本を出た直後、江戸川コナンと言う存在は跡形もなく抹消されたのだ。
誰が何のために、なんて考えるまでもない。
おそらく彼が組織との決着を着けるため、そして工藤新一の姿を取り戻すため、彼自らコナンという存在を消したのだ。
以来キッドは秘密裏に、組織に勘付かれない程度に彼の行方を捜していた。
けれどどんなに調べたところで、工藤新一どころか江戸川コナンの情報すら掴めなかった。
そして気付けば半年という月日が経っていたのだ。
彼は生きている。
その確信はあった。
時折ニュースを騒がせる政財界の大物や大手企業の優秀な技術者、警察関係者たちの逮捕が、彼の戦いの経過を教えてくれた。
けれど、もしかしてという思いが消えることもなかった。
だって、あれだけ大きな組織なのだ。
数人の協力者、増して彼ひとりでどうにかできる相手ではない。
当然FBIやICPO、日本警察などの後ろ盾があったはずで、そうなるとこの逮捕劇が彼によるものなのか或いは警察によるものなのか、キッドには分からなかったのだ。
前者であれば彼は今尚裏で戦っているのだろうと思えるが、もし後者であったなら――…
考えたくもない。
それが、今こうして確かに自分の目の前に立っている。
やはり彼はずっと戦っていたのだ、と。
「…終わったのか?」
「ああ、漸く目処がついた。あとは警察の手に委ねても大丈夫だろう」
これでやっと「高校生」に戻れる、と言って笑う彼に、ふと違和感を感じた。
ズボンのポケットに突っ込まれた左手。
先ほど挙げられたのも左手だ。
彼はただだらりと下げられている右手ではなく、ポケットに突っ込まれていた左手をわざわざ出し、再びポケットに突っ込んだ。
(まさか、動かないのか…?)
そんな何気ない仕草も見逃さなかったキッドの視線を受け、探偵は誇らしげに笑った。
それは戦い抜いた男の勝利の証だ。
「足さえ動けばどうにでもなる。ま、利き手が仕えねーのは不便だけどな」
どうやら右手は完璧に動かないらしく、彼は左手でごそごそと胸ポケットを漁ると、ハンカチにくるまれた宝石を取り出し、おもむろにそれを投げた。
「名探偵、これ…」
「おまえの今日の獲物だろ。仕方ないから持って来てやったんだ」
感謝しろ、なんて言いながらふんぞり返る探偵に、キッドは苦笑を隠せない。
探偵がそれでいいのか、なんて今更だ。
そして表情を改めた彼にキッドも苦笑を引っ込めた。
「俺の戦いは直終わる。でもおまえは、たとえ奴らがいなくなってもまだその衣装を脱ぐわけには行かないんだろ?」
「…ああ」
一体彼はどこまで知っているのか。
キッドの戦いはパンドラを見つけ破壊するまで終わらない。
そして彼はそれを手伝わないまでも、見て見ぬふりをしてくれると言うのだろう。
そう――キッドが江戸川コナンの正体について沈黙を守ったように。
キッドの顔にも自然と笑みが浮かぶ。
「それよりおまえ、最近暗号の手抜いてるだろ。しょうがねーから、気合い入れに来てやったんだ」
「名探偵自ら出向かれたんじゃ、次はもっと難解な暗号にしなきゃならねーな」
「当然だ。下らねー暗号だったらまたいじめに来てやるから覚悟しろ」
そう言った、いっそ凶悪なまでにカッコイイ探偵の笑み。
彼がまだ小さな子供の姿だった頃、キッドは幾度も彼と接触した。
それは偶然の邂逅であったり、時には自ら関わっていくこともあった。
最初はただ高度な頭脳戦を楽しめる好敵手ぐらいにしか思っていなかった相手が、自分と酷似した存在であると気付いたのはいつだったか。
その小さな腕に抱えきれないほどの秘密を抱え、押し潰されそうな危険を背負い。
けれど絶対に立ち止まらない背中に、逸らされない瞳に、キッドは心奪われた。
彼はキッドの憧れだった。
彼はキッドの世界そのものだった。
彼の笑みひとつで色付いていく世界。
大地も、海も、空も、太陽も。
彼がいなければ全て灰色だったものが輝きを取り戻し、世界に光が溢れてゆく。
朽ちかけていた世界が、息を吹き返す。
「ああ、そうだ」
何かを思いだしたように声を上げ、探偵が今度は上着の外ポケットをごそごそと漁った。
そして取り出した何かを同じようにキッドに向かって投げる。
受け取ったキッドは、自分の右手におさまったものを見て首を傾げた。
「…鍵?」
「そ。俺ん家の鍵」
銀色に輝くそれは確かに鍵だった。
しかも彼が言うには彼の家の鍵らしい。
なぜそんなものを自分に渡すのか。
疑問が顔に出ていたらしいキッドに、探偵は楽しそうに言った。
「俺はこれから暫く探偵業を休業する。と言っても難事件があれば目暮警部から内密に依頼されるし、奴らに関わる情報は全て俺のもとに報告される。大まかな指揮権はICPOに預けたけど、緻密な計画は俺が立てることになってるからな」
暗に、彼が未だ組織壊滅プロジェクトから抜けきってはいないことを仄めかしている。
組織の情報の全てが彼のもとに報告されると言うことはそういうことだ。
おそらくこれまでの計画のほとんどは彼が組み立てたものなのだろう。
彼は警察機構が手に入れた世界最強のブレインだ。
「つまり、おまえは俺から奴らに関する情報を手に入れればいいんだ。でも俺は忙しいからな。そうそうおまえの現場になんか来られねえ。だからおまえが会いに来い。ただし、そんな格好で来られても迷惑だ。来るならソレ使って堂々と入ってこい」
そうすりゃコーヒーくらいは入れてやるぜ?
そう言った探偵に、ああやはり彼には敵わないと、両手で鍵をぎゅっと握りしめたキッドはとても嬉しそうに微笑んだ。
彼もキッドも、自分の戦いに誰かを巻き込むつもりはない。
それはお互いに対しても同じことだ。
この探偵を相手に力不足などとは思わないが、それでも「力を合わせて一緒に戦おう」なんて言われたら、自分はさっさと踵を返していただろう。
だが彼はキッドの戦いに首を突っ込むことはせず、ただ「情報をやるから勝手に戦え」と言っているのだ。
そして「さっさと終わらせろ」、と。
端から見れば冷たく見えるかも知れないけれど、キッドにとってはそれが何よりの優しさだった。
「…ありがとう、名探偵」
素直に告げれば、満足そうに彼が頷く。
それだけを言いに来たのか、じゃあなと言って踵を返した探偵は非常口に入る手前でふと立ち止まった。
そして顔だけ振り返って、ひと言。
「ハッピーバースデイ、大泥棒」
そのままぱたんと閉じた非常扉の向こうへと消える。
一瞬きょとんと目を瞬いたキッドは、次の瞬間には破顔していた。
この鍵がプレゼントだとでも言うのだろうか。
それとも――自分は生きているからと、朽ちかけていた怪盗の世界を蘇らせてくれたことなのか。
ああもうほんと、俺は君には敵わないんだ。
ねえ、俺は、君の世界に足を踏み入れてもいいんですか。
黒羽快斗として、君に逢いに行っていいんですか。
俺の世界はつまらないものばかりで。
だけど君がいるだけで、世界はこんなにも完璧になるんです。
――ああなんて、素晴らしい世界。
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