「…ごめんなさい、良く聞こえなかったわ。もう一度言ってくれる?」

 志保は飲みかけていたコーヒーカップを静かにテーブルへと置いた。
 心なし目が据わっているが、目の前の少年はまるで気にした様子もなく砂糖たっぷりの紅茶を美味そうに啜っている。
 彼女をこれほどに驚かせることが出来るのは、世界広しと言えどふたりしかいないだろう。
 そのふたりの内のひとりの名前は、黒羽快斗。
 癖毛と瞳の色を除けば日本警察の救世主とまで言われる探偵と瓜二つの彼は、裏稼業に怪盗を営むだけあって、やはり普通ではないのかも知れない。
 とにかく志保は、今の快斗の発言を出来れば聞かなかったことにしたかったのだが……
 やはり人生、そう甘くないようで。

「うん。だからね、俺たち恋人同士なんだよ。」










●○阿笠邸の隣家事情○●










 つい2ヶ月前までは小学生をしていた。
 死を覚悟して飲んだ劇薬が、幸か不幸か、奇跡を起こして彼女を手枷から解放してくれたのだ。
 今でこそそれを幸福だと思えるのは、他でもない工藤新一のおかげである。
 志保は決して口にすることはなかったが、新一に、してもしきれない感謝をしていた。
 時には穢れない彼へ、憧れとも恋心ともつかない感情を抱いたことすらあった。
 が、だからと言って今までの何が変わるわけもなく。
 相変わらずどこか抜けている、頼れるようで頼りない探偵に仕方ないわねと溜息を吐く日々が続いていた。
 ただ変わったのは、同じ“共犯者”という同胞が増えたこと。
 自分と同じように罪に手を染めながら、彼と同じように穢れない清廉さを持った不思議な少年。
 志保は新一同様に、その少年、快斗のことをとても大事にしていた。
 阿笠と共に過ごす穏やかな時間とは別格に、ふたりと過ごす気ままな時間が好きだった。
 或いは“共犯”という名目からくる安心感かも知れないが、理由などどうでも良いと思えるほどにふたりを特別に思い、ふたりもまた志保を特別に思っていた。
 そして新一と快斗も、互いを特別に思っていることはその様子からすぐにわかったのだが。



「……恋人?」
「そ。新一は俺の彼氏で、俺は新一の彼氏ってこと。」

 わかる?と小首を傾げる様はひどく可愛らしいというのに、言ってることは結構強烈だ。
 志保はなんだか視界が歪むような気がしたが、必死に気を取り直すと頭の中で今の言葉を反芻した。
 恋人同士。つまり、相思の間柄にある、ということ。
 普段、新一を見る快斗の瞳がとても暖かいことを志保は知ってる。
 そしてまた自分が見る新一への眼差しも同じものであることも、よく知っていた。
 それは憧れているものを、宝を、宝よりもっと大事な……まるで命を見守るような眼差しだ。
 つまり、志保と快斗は、“新一への想い”という点では同じモノを抱えている。
 志保はその“想い”を決して伝えようとは思わなかったから、一方通行であった。
 快斗もまた一方通行な“想い”を抱えていくのだろうと思っていた。
 ひどく自分と似ている人だから。
 けれどそれがいつの間にか、新一からも同じ“想い”を返されていたとは。
 全くいつもと変わらない生活を送っているふたりからは、勘の鋭い志保にもそれを見抜くことが出来なかったのだ。
 けれど、だからと言って、伝えるはずのなかったそれに対する嫉妬や羨望を感じることもなく。

「いつからなの?」

 すんなりと受け入れることが出来た。

「俺が惚れたのはずぅっと前だけど、恋人になったのは組織戦の後だよ。」
「ふぅん…つまり、行方を眩ませてたあの二日の間に何かあったってこと?」
「うっ。鋭い、志保ちゃん…」

 苦笑いを浮かべる快斗に、志保は当たり前でしょうと不適に笑う。
 なにせ、組織を壊滅させた三大勢力の一角を担っていたのは志保なのだ。
 キッドを頭とした影から攻撃する勢力、新一を頭とした警察などの公共機関を操る勢力、そして志保を頭とした情報処理に徹した勢力。
 キッド、新一、そして自分の存在ですら情報操作で巧みに隠してきた志保にとって、その程度の推測なら容易だ。

 あの時。
 新一は組織の存在に勘付いていたFBIと日本警察を伴って、組織の要となる幹部連中、そして組織を束ねていた頭の人物を捕えた。
 末端の人員まで一斉逮捕することは難しいと思われたが、組織のネットワークに侵入した志保によって工作員のデータは既に手に入れていたため、それについての問題もなかった。
 ただひとつ、キッドのことだけが新一の気掛かりだった。
 ひとつの善行で多くの悪行が精算されるはずもなく、キッドが見つかれば彼までも逮捕されかねない。
 新一は組織の幹部たちが逮捕されると、警部や総監には黙って直ぐさまその場を抜け出した。
 そうしてそのまま二日間も行方を眩まし、連絡も付かず、志保や両親や西の探偵、警視庁やFBIにまで心配をかけさせたのだった。

「あの後何事もなかったように帰ってきた時は、ふたりとも心底殺してやろうかと思ったわ。」
「えへ…勘弁してくださぃ;」

 そう、まるで何事もなかったように帰ってきたのだ。
 まさかあの時からふたりがそんな関係だったとは、さすがの志保も気付くことが出来なかった。

「別に隠すつもりもなかったんだけどね。大っぴらにするつもりもないけどさ。」
「なら、何で今更になって言ってきたのかしら?」

 さすがに大っぴらに出来ることではないだろう。
 まあ、そんなこと気にするような肝の小さい人間でもないだろうけれど。
 志保は漸く落ち着いたとでも言うように飲みかけていたカップを再び口元へと運ぶ。
 些か回想が長すぎたようで冷めてしまったが、まあ飲めないほどでもない。
 甘みのないブラックをこくり、と一口飲み込んだところで、

「志保ちゃんに牽制しとこうと思って。」

 悪びれもなく宣った台詞に思わず吹き出しかける。
 なんとか堪えたそれが逆に気管支に入り込み、志保は咳を繰り返した。

「…ッ…、牽制、ですって?」
「うん。もう大丈夫?」
「平気よ。そんなことより、どうして私に牽制しようなんて気になったのか話してもらいたいわね。」

 再び志保の目が据わる。
 その顔にはありありと“ふざけるな”な五文字が浮かび上がっていた。
 けれど、背後に氷点下の冷気を背負っていても、この男には通じないらしい。
 なにせ相手はあの怪盗で、いくら奇跡の薬を生み出した志保だとしても、自らが奇跡のような男には敵わないようだった。
 ただ快斗はまるで子供のように唇を尖らせながら、拗ねた素振りで素っ気なく返す。

「だって、志保ちゃんだし。」

 だってとは何だ、だってとは。
 そんな言葉が喉まで競り上がり、けれど声にして喋るのもばからしくて志保は言うのを断念した。
 大体にして理由が意味不明だ。
 志保ちゃんだから、と言われても志保にはなんのことかサッパリである。
 だから志保は、目の前で紅茶を啜っているのはその名の通りのただの“子供”なのだと思おうとした。
 そうして快斗は、聞かれてもいないのに説明し始めるのだった。

「俺にとっての最強のライバルは、蘭ちゃんでも西の探偵でも、増してあの超強力な工藤夫妻でもなくて。志保ちゃんなんだよ。」

 意外なその台詞に、志保が僅かに目を見開く。

「志保ちゃんは多分、新一の気持ちを一番わかってあげられてると思う。」
「そんなのは貴方だって、」
「例えば。体を小さくさせられた苦痛、心的外傷なんかは俺には解らない。」

 小学生の子供になってしまった苦痛、もどかしさ、苦しみ……
 そんなものは実際に自分が体験してみなければ理解出来るはずもない。
 “気持ちは解る”なんて言葉は、おこがましくて口にすることすら出来ないのだ。

「それに、志保ちゃんはかなりのイイオンナなんだよ。」
「なに寝ぼけたこと言ってるの。」
「ほらぁ〜。そうやって否定するけど、顔良し頭良し性格良しの三拍子にプラスアルファまでついてちゃ、さすがの俺でも牽制したくなるってね。」
「何よ、そのプラスアルファって?」
「わかんない?」

 やっぱり自覚が足りないよねぇ。

「これは新一にも言えるんだけど、人を惹きつける“何か”を持ってるんだよ。」
「“何か”って?」
「それが解らないから余計に惹かれるんだって。」

 クスクス笑う快斗に志保は眉を寄せた。
 快斗の言うプラスアルファな“何か”なら、快斗だとて持っているのに。

「それなら貴方だって同じでしょう。」
「へ?」
「貴方だって、その良いのか悪いのか紙一重な頭脳の他にも人を惹きつける“何か”がある、って言ってるのよ。」
「…志保ちゃんてば、毒舌。。」

 十人いれば十人ともが“良い”と答えるだろう頭脳をもって“紙一重”などと言えるのは、志保を置いて他にはいないだろう。
 ……否、彼の最愛の恋人も言うかも知れないが。

「まあ何にしても、そんなのは貴方の杞憂に過ぎないわ。」

 きっぱりと言い切った志保に快斗は怪訝そうな視線を向ける。
 志保が新一を大事にしてることは、おそらく本人以外なら誰でも知っていることだ。
 どんなに毒舌で言い負かしてばかりいても、どんなに冷たい態度であしらってばかりいても、全てはその視線が裏切っている。
 その瞳の柔らかさに気付いていないのは、自分に向けられる他者の感情にとことん疎い新一だけだった。
 けれど志保に言わせれば、それとこれは別問題なのだ。

「確かに、彼の魅力に惹かれていないと言えば嘘になるでしょうね。でも彼の恋人になれと言われたら……絶対にお断りよ。」
「…なんで?」
「嫌なものは嫌なのよ。誰があんな、一途で無鉄砲で危なっかしい…面倒なだけの男の恋人になりたがるのよ。」

 その、まるで歯に衣着せない志保の物言いに快斗が苦笑を零す。
 確かにその通りだと思い、けれどそんなところを愛しく思うから。
 おそらくそれは志保も同じなのだろうけれど。

「そんな物好きはひとりいれば充分よ。」

 そう笑った志保に、快斗も笑ってそうだねと返した。
 きっと志保は、言葉にする以上に新一のことを大切に思っている。
 けれど自分で言うとおり、新一の恋人になりたいなどとは欠片も思ってないのだろう。
 志保に優しい新一を見て、柄にもなく嫉妬してしまった自分に快斗は苦笑した。
 本当に大っぴらにするつもりなど快斗には全くなかったのだが……
 いつものようにコーヒーを飲んでる途中に、志保が読みたいと零した本を探しに行った新一に妬いてしまったのだ。
 何かをしている最中に別のことをやらされるのをひどく嫌う新一が、コーヒーを飲みながら話している最中だというのに自ら本を探しに行ったのだ。
 人一倍独占欲の強い快斗がこれに嫉妬してしまうのも仕方ない。

 そうして、まだ帰ってこない新一を待ちながら快斗が紅茶を口に含んだ瞬間。

「それで、やっぱり貴方が工藤君に抱かれるのかしら?」

 その台詞に、今度は快斗が吹き出す番だった。

「…ッゲホ、ゲホッ、…志保ちゃん!!」
「なに?」
「なに、じゃないよ!平然とンなこと言わないでよ、もうっ」

 涙目になった快斗が睨み付けるが、志保は平然と笑み返すだけである。
 なぜ彼女がそんなことを聞くのかは、ただの興味とちょっとした仕返し、それから……ほんの少しの意地悪のつもりだ。
 こうして睨み付けていても、快斗にはどこか憎めない愛想と可愛らしさがある。
 それに比べ工藤新一とは、かなりプライドの高い男だった。
 そんな彼が、たとえ恋人同士だからと言って“抱かれる”立場に立つには、男としてのプライドが邪魔するのではないか、と思ったのだ。

「なんで“やっぱり俺”なわけ?」
「彼に“可愛い”って言うには少し無理があるじゃない。それに彼、プライド高いでしょ。」
「まあね。でもそうだなぁ…やっぱり志保ちゃんに判断してもらおっかなv」

 そう快斗が答えた時、ようやく戻ってきた新一が姿を現わした。

「宮野ー、あったぜ。コレだろ?」

 右手に持ったベージュのハードカバーの本をひらひらと振る。
 たった一冊を見つけだすのに30分近く掛かったが、それでもまだ早いほうだ。

「この本俺も気に入ってたから、何度も読んでるせいでちょっとボロイけど。読む分には問題ねーから。」

 はい、と差し出された本を、志保は意味ありげな笑みで受け取った。
 その不自然な笑みに新一が眉を寄せる。
 が、快斗を窺ってみてもいつもと変わらない笑みを浮かべているだけで、何も解らなかった。

「ほら新一、疲れただろ。コーヒー入れなおしてやるから座ってろよ。」
「ああ、サンキュ。」

 今度は快斗が席を立ち、リビングには新一と志保だけになる。
 受け取った本のページをパラパラと捲りながら、未だ笑みを浮かべている志保を不思議そうに新一は見遣った。

「…どうかしたのか?」
「どうかしたって、何が?」
「いや、宮野がそんな風に笑ってんの珍しいから…」
「あら。私が笑っちゃオカシイのかしら。」

 何が聞きたいのか解っているくせに、志保は言葉で新一を翻弄して遊んでいた。
 別にそういうつもりで言ったわけではない新一は言葉に詰まる。
 再び志保が楽しげに笑った時、コーヒーをいれなおした快斗がキッチンからひょっこり顔を出し、

「はい、アツアツだよぉ〜♪」

 そう言って新一の前に湯気の立ったコーヒーを置いて、隣へと座った。
 新一はそれ以上志保に追求する気にもなれず、快斗の入れてくれたコーヒーをこくりと飲む。
 それを眺めながら、快斗がニッと笑った。

「新一。」
「あんだ?」

 行儀悪くカップを銜えたまま返事をする新一の耳元へと、快斗は吐息が掛かるほど唇を寄せて。

「……愛してるよ。」

 そう囁いて、ペロリと舌を這わせた。



「…〜〜〜〜ッッ!!!」

 途端に、持っていたカップが新一の手から離れる。
 重力に従って落下するそれを、けれど怪盗の手が見事にキャッチして。
 固まった新一の顔は……面白いほどに紅くなっていた。

「なっ、なっ、なっ、」

 快斗に舐められたカ所を手で押えたまま、紅い顔で口をぱくぱくさせている。
 その様子はまさに“可愛い”という言葉以外には表現出来なくて……

「新一、やっぱ可愛い〜〜〜っ!!」

 そう宣いながら、快斗はぎゅうぅっと新一を抱き締めた。
 新一はただ茫然とそんな快斗と志保の顔を何度も見回す。
 にこにこと締まりのない顔をしている快斗とは反対に、呆れたような顔を見ている志保。
 新一の頭の中はすでに半パニック状態だった。

「快斗、なんで、ンなことっ」
「なに今更恥ずかしがってんの。いつも言ってるだろ?」
「そりゃ、言ってくれるけどっ」
「なら問題ないじゃん。」

 ねvと笑って、今度は唇に口付ける。
 新一は既にゆでだこ状態となってしまった顔を見られたくなくて、快斗の胸元へと顔を埋めてしまった。

「志保ちゃん、わかった?」
「……解らないはずないでしょう。」
「新一って普段はすっげー格好いいのに、俺の前だけでは可愛くもなるんだよv」

 恥ずかしさに顔を染める新一とは対照的に、恥ずかしげもなくそう宣う快斗。
 志保はただ呆れた顔を向けるばかりだ。

「…プライドとか、関係ないんだよ。」

 不意に真面目になった快斗。

「ふたりで、ふたりだからこそ出来る行為に、優劣なんてないんだから。」

 だから“プライドが邪魔する”なんて変でしょ?
 静かにそう言った快斗は心底幸せそうで。

「…そうね。」

 志保もまた嬉しげにそう答えるのだった。



「おめーら、何の話してるんだ?」

 ひとり蚊帳の外だった新一が、漸く火照りがおさまったのか、快斗の腕の中から出てきた。
 自分が居ない間に話していたことなのだろうが、そのことしか新一にはわからない。
 大体にして、新一にしか聞きとれない囁きだったとしても、人前で“愛してる”などと言われたことは初めてで。
 けれど快斗は悪びれた様子もなく。

「ん?俺とお前、どっちが抱かれるのかって話。」
「なっ!!?」

 露骨な単語に吃驚して、新一はぎょっと快斗を凝視した。
 それから急いで志保を見たが、彼女には変わった様子はなく。

「あ、あのっ、実はさ、宮野。俺たち、その…」

 新一は慌ててフォローしようと、しどろもどろに言葉を紡ぐ。
 志保はその、彼の名探偵とは思えない動揺っぷりにふぅと溜息を吐いて、ただひとこと。

「もう聞いたわよ。」

 ……爆笑する怪盗に、再び赤面した探偵から蹴りが炸裂したのは言うまでもない。




For 月花さま
地雷品。