ところどころが焦げ付きボロボロになった服。
幾筋も入った切り傷から玉のように浮き出す血。
不気味に歪んだ、敗北者の卑屈な笑み。
それに突きつけられた、憎しみの鉛玉の込められた拳銃。
引き金にかけられた指に次第に力が込められていくのを見た瞬間、体が動いていた。
「やめろ、キッド――!」
●○名探偵の恋愛事情○●
キッドの衣装を脱ぎ去った快斗と新一が、お互いを庇うようにしてここへ辿り着いたのは、日が沈んで随分と経ってからだった。
東都の外れにある十四階建てマンションの最上階フロア。
そこは嘗て盗一が仕事のためにと用意していた隠れ家のひとつで、現在では快斗が活用していた。
怪盗キッドが盗一から寺井、寺井から快斗へと受け継がれた時、寺井から各地に点在する隠れ家などを知らされ、その中から快斗はよく好んでこの部屋を使っていた。
好んで、と言っても、特別な理由があってのことではない。
ただ東都に近く、それでいて中心地からは外れているこのマンションが絶好のポイントだったというだけだ。
怪盗キッドを継いだ時から快斗の体には日増しに傷痕が増えていく。
時間を掛ければ癒えるものもあれば、生涯消えることのない傷もたくさんある。
たかだか高校生の子供などには思いも寄らぬほど巨悪な組織と対峙しているのだから、それも仕方ないことだった。
そんな時、たとえ勘付かれていたとしても己が父の裏の顔を継いだことを知らせていない母のもとへ帰るわけにはいかず、快斗はまずこの隠れ家へと身を隠していた。
それ故にこの場所は快斗にとってあまり良い感情を持てるような場所ではなかった。
……新一と出逢うまでは。
小学生ほどの子供に姿を変えられても、己と同じように持てる力の全てで組織へと闘いを挑んだ新一。
似た境遇の中、ふたりの天才が出逢ったのは或いは必然だったのかも知れない。
快斗は己でも信じられないほどの急速度で新一へと心奪われていった。
クラスメイトの探偵など足元にも及ばないその人間の深さに。
それはきっと、彼が江戸川コナンという存在にならなければ得られなかったものだと思う。
人間というのはどんなに綺麗でいようとしても、汚さというものを味わわなければ真の美しさは得られないものだ。
新一は名探偵として多くの人々に認められてきた。
けれどそれは頭脳が先行しての評価に過ぎない。
真に探偵としての深い矜持を持てたのは、コナンとしての苦汁を味わったからなのだ。
快斗はそう思った。
そんなものは汚れた人間の都合のいい解釈だと思われてもよかった。
工藤新一に出逢えた、それが快斗にとっての救いだったから。
それから幾つもの対峙と駆け引き、混迷と覚悟をもって、ふたりは互いの手を取った。
同じ目的を持つ者として、己のプライドをへし折ってでも何を優先すべきなのか、それをふたりで選んだのだ。
怪盗も探偵も関係なく、同等の力を持つ者として認め、互いの背中を預けて組織に闘いを挑んだ。
それからふたりして多くの傷を得た。
得たものといえばそればかりかも知れない。
その度にこの隠れ家へと戻っては、互いの傷を互いに癒して。
苦しいはずの闘いが、それでも苦しいばかりではなくなって。
この場所もいつの間にか快斗にとって新一の傷を癒してくれる大事な空間へと変わっていた。
そして全てに終止符を打とうとしたこの日――
快斗の目の前に父親の敵が現れたのだった。
「…なんで、止めた。」
全ての感情を押し殺した静かな声だった。
抑揚のない声は別に畏怖を与えようとしてのものではなく、ただ暴走しそうな感情を抑え込む唯一の手段であった。
聡い彼はそれを判っているはず、なのに。
「あのまま殺してたらお前は絶対後悔した。」
まるで煽るようにそんなことを言うから、頭にカッと血が昇った。
心が叫ぶ。
お前に俺の何が判るんだ、と。
「後悔なんかするもんか!あいつは親父の仇だったんだ…!」
傍らに佇んでいた新一の肩を掴んで、思い切り壁に叩きつける。
衝撃に息を詰め顔をしかめる新一に、それでもこの時ばかりは快斗にも手加減なんてしてやる余裕はなくて。
最後の最後まで逃げ続けた男――
黒羽盗一を殺したと明言した、自らをスネイクと名乗った男を、忘れたことなどなかった。
何が何でも探し出してやると決めていた。
探し出し、捕まえて、盗一の仇を討ってやると思っていた。
それでも、快斗にあの男を殺すつもりなどなかった。
怪盗キッドという犯罪者になる道を選んだ快斗だが、人を傷付けることだけは決してしまいと。
盗一を殺した組織の奴らのような愚行は決して犯すまいと、決めていた。
快斗はただ盗一が怪盗となった真相を突き止めたいと思っていただけなのだ。
それなのに。
あの男が言ったあの言葉だけはどうしても赦せなかった。
怪盗キッドではない黒羽盗一という存在を汚したあの言葉だけは、赦すわけにはいかなかったのだ。
それなのに新一は――止めた。
「そんな綺麗に生きれないよ…」
壁に押付けた新一の肩に、縋るように快斗は顔を埋める。
「人間は、みんなが新一みたいに強いわけじゃない。もっとずっと弱くて、もっとずっと汚いんだ。
腹の底から人を殺したいなんて衝動、新一には判んねぇよ…っ」
新一の柔らかい肩に痛いほど快斗の指が食い込んだ。
けれど新一は痛みに僅かに顔を歪めるものの、その手を振りほどこうとはしなかった。
ただ、少しも揺るがない瞳がじっと快斗だけを見つめている。
やがて僅かに顔を俯け背けると、左右に下ろされていた腕を持ち上げ快斗の背を抱き締めた。
その力の強さに驚き快斗が顔を上げる。
けれど俯いている新一の表情を読みとることはできず、快斗はその顔を覗き込もうとして……
「…判ンねぇよ。」
ぽつり、もれた言葉に動きを止めた。
「お前の気持ちなんて判んねぇ。お前のことなんて判んねぇ。俺の知ってるお前なんて、百ある中の十にも満たねぇよ。」
その突き放した言草に、言い出した快斗の方が辛くなってしまう。
もとは相容れぬ仲だったとはいえ、ひとつの目的のために手を取り合ってきたと言うのに。
まして――ただの協力者以上の感情を、計らずしも抱いてしまった相手だというのに。
まるでお前なんか知らないと突き放されたようで、快斗はぐっと下唇を噛み締めた。
けれど。
「でも、十だっていいじゃねぇか。」
「――え?」
「殺人なんて生臭ぇことするには、お前は優しすぎるんだよ…」
新一が顔を上げる。
その目は相も変わらず真っ直ぐに快斗を射抜く。
快斗の心までを、射抜く。
突き刺さったそれは、どんなに足掻いても抜けることはなく。
言葉は新たな矢となって快斗を縫い止めていく。
「あの男が死のうが、そんなのは俺の知ったことじゃねぇ。ただ――お前が壊れるとこだけは見たくねぇんだ。」
罪を暴く探偵が。
犯罪を見逃さない探偵が。
殺人をどうでもいいと、そんなことより硝子玉のように壊れやすい犯罪者の心が心配なのだと、言っている。
それほどまでの想いを向けられている。
こんなことがあるのだろうか。
「――っ!!」
骨が軋むほど強く掻き抱いた。
筋肉が、神経が、悲鳴を上げるほどに抱き締めた。
互いの胸が触れ合って、心臓の音ですらぴったりと重なり合うほどに密着して。
このまま溶け合ってひとつになるんじゃないかと思うほど抱き締めて。
それからそっと、けれど逃さない力強さで、快斗を揺るがすその柔らかい唇を己のそれで塞いだ。
吃驚して、ただでさえ大きな目を新一が見開いている。
今までにない近さで見るその瞳は限りなく蒼く、長めの睫毛が影を落としている。
「……ぃ、と…」
――もう、止められそうになかった。
* * *
窓の外はもう日が昇り始めている。
否――もう正午を過ぎているのだから、傾き始めている、と言った方が正しいかも知れない。
とにかく。
朝寝をすることはあっても昼を越すことなど滅多にない快斗が目覚めたのは、お昼時も疾うに過ぎた午後二時であった。
どうしてそんなことになったかなんて思い出すまでもない。
目が覚めて隣を凝視したきり固まってしまった快斗は、己のとんでもない犯行に軽く五分は思考を凍らせた。
ベッドもない簡素な隠れ家。
申し訳程度にひかれた、お世辞にも布団とは呼べない毛布。
それにくるまり、更に己の腕の中にすっぽりと収まっていた――全裸の新一。
毛布から覗く新一の綺麗な肌に散った赤い鬱血痕の数々を見るまでもなく、昨夜のコトをまざまざと思い出した快斗は、赤くなったり青くなったりと大変だった。
(ヤバ…俺、新一になんてこと…!)
もう随分と長い間、片思いの辛さを噛み締めてきた。
それでも新一から離れることなど耐えられないと思った快斗は、ずっとこの気持ちを隠していくつもりだったのだ。
だと言うのに。
昨夜は長期に渡って闘い続けてきた組織との決着が漸くつき、お互いの感情が高潮していたのかも知れない。
仇である男のことで新一と口論になり、それが元で思いがけず嬉しい言葉を聞かされた快斗は我慢の限界を超えてしまったのだ。
今まで抑え付けてきたものが一気に爆発してしまった。
その結果、無理矢理新一を抱いてしまったのだが……
うぅ、と新一の口から苦しそうな声がもれた。
見ればいつの間にか目を覚ました新一が体を起こそうとして、全く力の入らない下半身にうめき声を上げたのだった。
それもそのはずだ。
昨夜はさすがにやりすぎたという自覚が快斗にもある。
なんせ一度吹き飛んでしまった快斗の自制心はなかなか修復されず、結局明け方まで新一を解放できなかったのだから。
「…かいと…」
のろのろとした動作で新一が泣きはらして赤くなってしまった目を向けてくる。
快斗はそれを直視することができなかった。
謝って済むことじゃないことぐらい判ってる。
同性に、それも無理矢理抱かれたなんて事実、新一が許すはずがない。
けれど謝らずにはいられなくて。
「――ごめん。」
ぱんっ、と左頬が鳴る。
鈍った思考と比例するように少し遅れて伝わる痛覚。
顔を赤くしながら目尻を吊り上げた新一の顔が視界に入り、快斗は己の頬が叩かれたのだと気付いた。
気付けば、随分と痛い。
おそらく遠慮も容赦もなく叩かれただろう左頬はずきずきと鈍痛を訴えていた。
新一が再び右手を振り上げる。
手形がくっきりと残るほど思い切り叩いたというのに、まだ殴り足りないようだ。
当然だと、快斗は思った。
そうして思う。
もう――何もなかった昔のような関係には戻れないのだろう、と。
新一は怒っていて。
顔を赤くして、振り上げた手が震えるほどに怒っていて。
けれど。
「謝んなきゃなんねーことしたのかよ!」
その怒りは、昨夜の快斗への怒りではなかった。
「俺は嫌じゃなかった。だから、受け入れた。お前の悔しさも苛立ちも当然だと思ったし、それに――
お前が、好きって、言ったから…っ」
眩む思考の端で思い出す。
昨夜。
痛みに顔を歪めながら、漏れ出そうな悲鳴を必死に噛み締めながら、それでも。
新一は必死に受け入れてくれていた。
己の名を呼ぶことはあっても、一度として嫌だ≠ニは言わなかった。
それが哀しくて。…愛しくて。
抱きながら、快斗は何度となく新一の耳元へ囁いた。
好きだ、と。
「俺は嫌じゃなかった。俺はそれで良かったんだ。お前が俺を好きなら、お前に抱かれることなんて、少しも嫌じゃなかったのに!」
「しん…、」
「謝るってことは、お前は後悔してるってことだよな!!」
怒鳴っているはずなのに、なぜか快斗には新一が今にも泣き出しそうに見えた。
工藤新一という男は人一倍プライドが高くて、頑固で、変なところで我慢強くて、人前で涙なんて絶対見せない男なのに。
その新一が、快斗のひと言でこんなにも傷付いていて。
たったそれだけのことなのに。
それがこんなにも嬉しいなんて。
「――後悔なんかしねぇ。」
新一を抱いたのはどうしようもなく好きだったからだ。
彼と手を組むようになってから、ただ遠くから見ていた時から、毎日積み重ねてきたこの思いを気の迷いなどとは言わせない。
そんな半端な思いではこの探偵を相手にこうして言葉を交わすことすらできないだろう。
だって、己にはそれしかないのだ。
犯罪者の匂いが染みついた己の、唯一綺麗なままの部分。
彼を想う心だけが、眩しすぎる彼の光にも埋もれない、己の中の光。
「好きだよ。」
月の下では舌が回るはずの怪盗が、なんとも可笑しいぐらいにシンプルな告白だった。
快斗の突然の告白に行き場をなくした新一の右手を取り、快斗はそっと甲に口付ける。
勢いを削がれた新一はそれでもまだ納得のいかない顔で言った。
「じゃあなんでごめん≠ネんて…」
「そりゃ、新一の意志を無視して無理矢理抱いちまったから。」
気持ちが高ぶってて、新一の了解なんて得てる余裕なかったんだよ。
すると新一は驚いたように瞬いて、ついで鼻の頭に皺を寄せた。
不機嫌そうな表情は、けれどただの照れ隠しだと判る。
目元にうっすらと浮かぶ赤みが、普段はクールな探偵を目一杯可愛らしく見せていた。
「バーロォ、俺の意志なんか…あんだけ受け入れてやったんだから、気付けよなっ」
ばちん、と大して痛くもない平手打ちが打ち込まれたけれど、快斗は嬉しそうに表情を崩しただけだった。