「工藤君。あなたには嫉妬って感情がないの?」


 午後の日差しと涼風の心地良いお昼時。
 芳しいコーヒーの香りとコクを味わいながら生々しい連続殺人事件の推理小説を楽しんでいた工藤新一は、突然の志保の言葉に目を瞬いた。


「は?嫉妬ぉ?」


 突然何を言い出すのか。
 向かいのソファに腰掛けながら新一と同じようにコーヒーを飲んでいた志保を怪訝そうに見遣って新一は尋ね返した。


「なんで急にそんな話になるんだ?」

「別に、疑問に思ったことを尋ねてみただけよ。だって――」


 志保がチラ、とソファの脇に置かれたスポーツバッグを見た。
 そのスポーツバッグの中にはぎっしりと必要なものが詰め込まれ、すぐにでも出掛けられる準備ができている。
 だと言うのに、せっかく用意されたそれも、今朝唐突に鳴った電話のせいで活用されることがないままそこに置き去りにされているのだ。

 本当ならこの週末、新一は恋人である黒羽快斗とふたりで出掛ける予定だった。
 ただでさえ探偵と怪盗という休日の不確定な副業を持つふたりは、ここ数日はすれ違ってばかりの毎日だった。
 だから、別に北海道だ海外だと遠出するわけではないが、久々にふたりっきりの休日を満喫するつもりだったのだ。
 けれどその予定も、いざ出掛けようという朝に掛かってきた快斗の幼馴染みからの電話で中止となってしまった。

 快斗の幼馴染み、中森青子の父親――中森銀三が倒れたと言うのだ。

 原因はなんてことない、ただの過労なのだが。
 ここ連日、怒濤のようにキッドの犯行が続いたためにとうとう体力に限界がきてしまったのだ。
 少なからず、というか全面的に快斗の責任であるだけに放っておくことができず、快斗は渋々慣れない看病にあたふたしている幼馴染みの援護に向かったのだった。


「黒羽君を取られて悔しくないの?」


 新一は先ほどから不機嫌どころか上機嫌気味に小説を読みふけっている。
 ページを捲る手つきも軽やかなところを見ると、名探偵の頭脳を満足させるだけのトリックが駆使されているのだろう。
 悔しがるどころか新一は読書に夢中だ。
 その様子は、はっきり言って今朝早くに叩き起こされた志保には面白くない。
 ただでさえ昨夜遅くまで研究室にこもっていたのに、ベッドに潜ったのは明け方近かった志保である。
 そのうえこと工藤新一に関してだけは全く抜け目のない彼の恋人に、自分がいない間に退屈しないようにとお守り役を押付けられたのだ。
 志保が不機嫌になるのも仕方ないだろう。

 けれど天下の工藤新一は自信たっぷりの笑みで言うのだ。


「だって、あいつは俺しか見てねぇもん」


 嫉妬なんかする必要がない。
 そう言わんばかりの口振りに、志保のこめかみにうっすらと青筋が立つ。
 無表情でコーヒーを飲下す志保は心中でこっそりと呟いた。


 ――ムカつくわ。















●○jealous lover○●















「はあぁぁ〜、つっかれたぁ〜!」


 紳士にあるまじき情けない奇声を上げながらソファに突っ伏した快斗に、新一は小説に向けていた視線を上げた。


「なんだ、快斗。もう平気なのか?」

「うん。もともと青子も不器用ってわけじゃないし、ショックで動転してただけだったから」

「ふぅん」


 じゃあ何でそんなに疲労困憊してるんだと疑問に思った新一だが、愚痴のようにぶつぶつと文句を言う快斗の言葉でその原因もすぐにわかった。


「さすがに間隔は狭すぎたかな、とは思うけどさ、俺の思い通りにビッグジュエルが来日してくれるわけじゃないんだから仕方ないじゃん!それなのに青子のヤツ、ずぅっっとキッドの悪口ばっかり言いやがるんだぜ!俺だって大好きな新一との大事な時間削ってるってのに!」 


 前半部分には納得できるが、後半部分は自業自得だろうと思う新一だ。
 父親の健康がかかっているのだから青子がキッドに対して怒る権利はあるだろう。
 そしてキッドである快斗にはそれを聞く義務があるのだ。

 新一は呆れたように溜息を吐き、それでもはにかんだような笑みを浮かべる。
 新一だって快斗との時間は大事なのだ。
 その時間を潰されて、志保にはああ言ったけれど実際は少し悔しくもあった。
 けれどそれを素直に言えるほど可愛い性格ではないのが工藤新一なのだ、が……



「俺より青子ちゃんを選んだクセによく言うぜ」



「――え?」

「…は!?」


 快斗が吃驚したように目を見開き新一を凝視している。
 新一もまた目を見開き、眉を寄せながら快斗を凝視した。


「し、しんいち?今…」

「…今、なんか言ったか?俺…」


 ぱちぱちと目を瞬いてみても普段の新一らしからぬあの発言がなくなるわけではない。
 けれど新一は気を取り直すようにわざとらしく一度手を叩くと、さっさと別の話題を切り出した。


「そ、そうだ快斗、中森警部はいつ頃現場復帰できそうなんだ?」

「えっ…えーと…多分次の予告の時には現場に戻るんじゃないかな…」

「そっか」

「うん。やっぱ警部がいないと調子狂うし、俺としても助かるよ」


 何度コケにされても挫折なんて言葉は知らないとばかりに突っ込んでくる中森警部だが、快斗にとってはあくまで憎めない隣人なのだ。
 さすが青子の父親なだけあって親子揃ってストレートに向かってきてくれるのが嬉しかったりもする。
 そんな家族愛のような感覚で言った快斗だったが、やはり今日の新一はどこかいつもと違うようで。



「んだよ、俺はいなくてもいいってのか」



「――へ?」

「!??」


 ばちんっ、と痛々しげな音を響かせながらもの凄い勢いで新一は己の口を押さえる。
 その目は混乱と動揺に見開かれている。
 が、何が何だか判らない以上快斗にもどうすることもできず、とりあえず無難な言葉をかけてみたのだが。


「しんいち、なんか今日、変なモンでも食った…?」


 口を押さえたままぷるぷると首を振る新一の体が、数秒後にびしりと固まった。
 見事に表情まで凍り付いている。
 そうかと思えば、突如くるりと方向転換して玄関へと駆け出した。


「宮野ぉぉぉ――――!!!」


 そんな情けない雄叫びを残して。
 ひとりぽつりと佇む快斗は新一の一連の動作を見て何事かを全て悟ってしまった。


「志保ちゃんたら、また新一に何かして…というか、新一が志保ちゃんの勘に障ることでもしたのかな」


 思わず溜息を吐く快斗だが、志保が新一の大事に関わることをするはずがないという絶対の信頼があるせいか、口許に苦笑いを浮かべるだけに留めたのだった。










 志保の耳に隣人の雄叫びが聞こえてきたのは、左腕にはめた腕時計を眺めながらそろそろね…と呟いたその直後だった。

 ちょっとした自白剤のようなものを混ぜ込んだカップケーキを新一に投与したのが二時間前。
 薬が作用し始める時間、幼馴染みの援護に向かった快斗が恋人欠乏症に陥って帰宅する時間、探偵と怪盗の頭脳が混乱しつつも原因を解明するまでの時間。
 その他諸々の時間を計算した結果、そろそろやってくる頃だろうと思ったのだが、まさに計算通りの展開に志保はうんざりと溜息を吐いた。


「こんなものが計算できたって馬鹿らしいだけだわ…」


 と、悠長にソファへと腰掛けていた志保のもとに、真っ赤な顔をした新一が出迎えた阿笠を押しのけて駆け込んできた。


「宮野!おまえ、俺になにしやがった!」

「あら、名探偵ともあろう人が随分な愚問ね。答えは判ってるんでしょう?」

「やっぱりあのカップケーキだなっ」

「ええそうよ」


 あっさり頷いてみせた志保に、新一は思わず脱力してしまう。
 先ほどまでの勢いが見事に削がれ、なんとも弱々しい声で言った。


「…なに入れたんだよ」

「自白剤のようなものよ。素直じゃない探偵さんを少し素直にしてあげようかと思って」

「余計なことしやがって…それで、効果はいつ切れるんだ?」

「三日もすれば抜けるでしょ」

「三日ぁ!?」


 気の遠くなるような長さに新一は奇声を上げる。
 たった三日、されど三日。
 新一にとって三日という期間はあまりに長すぎた。
 しかも……


「タイミングが悪ぃ…」


 だがあまりに小さな声だったからか、志保はその呟きには気付かずに笑顔で最終判決を言い下した。


「嫉妬なんて感情、ないんでしょ?なら問題ないじゃない。せいぜい楽しんで」















* * *


 問題なら大有りだ。
 とは言え、今更反論してみたところでどう考えたって遅すぎる。
 新一はヘリの爆音と無線の音が飛び交う中、理性と本能の葛藤を繰り広げていた。


「今日こそはあのこそ泥をとっ捕まえてやる!」

 ――ぴく。


「ご安心を、もう彼に逃場はありません。この手に捕えたも同然です」

 ――ぴくぴく。


 口を開きかけては閉じ、立ち上がりかけては座り込む。
 彼らの発するひと言ひと言がいちいち気になり、新一はろくに警備にも参加できずにいた。

 今、新一を含む中森と白馬、そしておびただしい数の警官たちが警備しているのはとある美術館だ。
 あれから二日、中森はキッドの予告までにちゃっかり復活していた。
 中森の不在を理由に警備に駆り出された新一は、彼がいるならと帰ることもできる。
 もともとキッドの警備には関わらないようにしているのだから、強く引き留められることもないだろう。
 それなのにこうして現場に顔を出しては警備をするわけでも帰るわけでもなくここにいるのは、ひとえに志保に飲まされた薬のせいだった。


 ――嫉妬なんて感情、ないんでしょ?


 そんなわけがない。
 そんな人間は存在しない。
 嫉妬という感情は生まれたての赤ん坊が喜びや愛情よりも先に身につける感情だ。
 人より頭脳の発達が早かった新一だとてもちろんその感情を持っている。
 ただ隠しているだけなのだ。


「キッドだ――!」


 中森の怒声とガラスの砕ける音、警報装置のけたたましいサイレンが同時に響き渡る。
 暗闇に支配された室内に非常灯の僅かな灯りと月明かり。
 そして、それすらも彼の意志ではためくような純白のマント。
 シルクハットの下から見える口許にはシニカルな笑みが浮かび、慇懃無礼に警察を挑発する台詞が紡がれる。
 けれどその全ては新一の耳に入ってこなかった。

 キッドを指さす中森警部。
 一斉に駆け出す警官。
 ビッグジュエルを庇うように立ちはだかる白馬。





「   」





 喧騒に紛れ、吐息よりも微かな呟きは誰の耳にも届かずに霧散した。

 ――はず、だった。



 弾かれたようにこちらを振り仰いだ怪盗と視線が絡む。
 織りなすように取り囲む警官たちを飛び越えて、キッドは真っ直ぐに新一だけを見ていた。

 あんな呟きが聞こえたのだろうか。
 そんなはずはないと思う。
 けれど同時に彼なら、とも思う。


(…だめだ)


 これ以上ここにいてはいけない。
 これではキッドの仕事の邪魔になってしまう。
 新一はキッドを手伝いもしないが邪魔もしないと決めたのだ。
 ここから先のキッドの領域に足を踏み入れてはならない。

 けれど、なんの躊躇いもなく飛びかかろうとする警官たち。
 なんの気兼ねもなく捕まえると豪語する警部や探偵。
 新一の踏み込めない領域に真っ直ぐに飛び込んでいく、新一ではない、人。

 お前に触れていいのは、後にも先にも、俺だけなのに!


「キッ――」


 名前を呼び終わるよりも先にキッドは新一の目の前にいた。
 間にいた警官を一瞬で飛び越え、覆い被さるように新一を抱き締める。
 偽りのない微笑に紫紺の瞳が細められ、耳に吹き込むようにして囁いた。



「お前しか見えてねぇって、言っただろ…?」



 くらり。
 眩暈がする。
 ここが人前だとか、怪盗の奇行に警部たちが目を見開いているとか。
 普段なら優先すべきことも全部どうでもよくなって、新一はキッドの背に腕を回すとマントをぎゅっと掴んだ。
 そしてそのまま、暗く暖かい夢の中へと溶け込んでいく。
 やがて全く力の抜けきった新一の体を抱き上げるとキッドは警部へと振り返った。


「予告通り、至上のアクアマリンを頂いていきますよ」

「な…っ、お前の獲物はまだ僕の手の中だぞっ」

「私の獲物は初めからそんなものではありません、白馬探偵」


 非常灯の中で美しい輝きを放つ宝石を必死に庇う白馬をキッドは鼻で嗤う。


「この瞼の裏に隠れた至上の蒼玉…それに勝る宝玉は存在しないのですよ」


 澄み切った水のように美しく、果てのない海よりも深い、蒼。
 アクアマリンに込められた意味も、人々の祈りも、まるでこの人のためにあるようだとキッドは思う。
 夜の中でいっそう輝きを増すこの宝石は、暗闇に迷い込んだ子羊を照らす希望の光だ。


「それでは、ご機嫌よう…」


 非常灯に照らされていた室内が目が眩むほどの明るさに包まれる。
 暗闇から急激な光に刺激され、誰もが一瞬の隙を作らずにはいられない。
 その一瞬で、怪盗は獲物である探偵を連れて忽然と姿を消して見せた。
 後に残ったのは低く呻く警官と、悔しげに顔を歪めた警部と探偵だった。















* * *


「楽しめたかしら?」


 麻酔で眠らせた新一をベッドに寝かせ、快斗がキッドの衣装を脱ぎ捨てた時、来訪者は扉に寄りかかり意地の悪い笑みを浮かべていた。


「やっぱり志保ちゃんが原因か…」

「あら、工藤君は何も言わなかったの?」

「新一が言うわけないじゃん」


 それもそうねと、あどけない顔で寝息を立てている新一を見て思う。
 いくら気を許した相手とは言え、一時は巨大組織を相手に闘っていた探偵があっさり薬を投与されるとはとんだ失態だ。
 あのプライドの高い新一が、恋人であり好敵手である快斗に言えるわけがない。


「ま、大体は想像できるけどね」

「普段見せない工藤君の嫉妬心が見れて良かったじゃない」


 今日で三日、そろそろ薬の効果も消える。
 そうすればまた普段のクールな新一に戻ってしまうだろうと思って言った志保だが、快斗は苦笑して首を振った。


「志保ちゃん、新一はね、俺よりずっと嫉妬深いんだよ」


 志保は器用にも片眉を持ち上げる。


「俺は独占欲が強いから新一より見えやすいのかも知れないけど、新一は嫉妬心が強いんだ」

「…独占欲と嫉妬はイコールで繋げられると思うけど」

「同一線上にあるとは思うけど、新一は妬いても独占しようとはしないんだよ」

「黒羽君より大人ってことかしら?」

「…まぁ、そんな感じ」


 むっ、と拗ねたようにむくれる快斗に志保は口角を上げた。


「それが志保ちゃんの薬のおかげで、普段は抑え込んでる独占欲まで出て来ちゃったんだろうね」


 快斗は幸せそうに新一のさらさらの髪を梳く。
 それがこそばかったのか、新一はくすぐったそうに寝返りを打った。


「あんまり新一を苛めないでね、志保ちゃん」

「さあ、それは貴方たち次第ね」

「…怖いなぁ」


 快斗は楽しそうにクスクス笑う。
 なんだかんだ言って、普段聞けない新一の本音が聞けたのは単純に嬉しかった。
 言われなければわからない、なんて言わないけれど、やはり自分たちは言葉を交わすことのできる動物だ。
 たまには言葉だって欲しくなる。
 ましてあんなことを言われれば――


「たまにはこういうのも悪くないね」


 警視庁お抱えの探偵としては大変だろうけど、と、明日事情聴取にと呼び出されたことを知った新一がどんな顔をするのかを考え、快斗は悪戯に笑った。










俺のもんに触んじゃねぇ


 名探偵の言質、確かに捕らせて頂きましたよ?




For 海月さま
リンク記念贈呈品。