|| 手から伝わるぬくもり
|| 笑ってよ
|| お弁当持ってピクニック
|| 天体観測
|| 雨宿り
|| 川原の土手で
|| 掃除をしよう!
|| あなたにモーニングコールを
|| 甘いコーヒー
|| 平凡だけどこの上なく贅沢な時間
title by [ キミの記憶、ボクの記憶 ]
|| 手から伝わる温もり
誰かが言ってたんだ。
誰かの温もりがなければすぐに冷えてしまう、それはまるで心のようだと。
「…おまえ、手ぇ繋ぐの好きだよな」
警視庁からの帰り道。
事件明けの新一を迎えに来た快斗は、当然のように新一と手を繋いでいる。
それを少しも嫌だと感じない自分にどーよと思いつつも、暖かいその手を離そうなんて気は少しも起きない新一だけれど。
すると快斗は、見てる方が恥ずかしくなるような笑顔で言った。
「これはね、新一の心を温めてるんだよ」
「へ?」
小首を傾げる新一の手に快斗が優しく口付ける。
「手は心なんだよ。人と人が初めて触れ合うのは手だろ?そうやって、他人の心と触れ合うんだよ」
たとえば握手が友好の証であるように、握手も交わせない人とは決して心も通じないのだ。
言われてみればそうだと、新一は納得した。
「それに、手ってすぐに冷えちゃうだろ?しかも、一度冷えるとなかなか温まんないし」
「そうか?擦り合わせたりポケットに突っ込んどきゃ温まるぞ」
「んー…確かにそれでも温まるけどさ」
快斗が急に立ち止まる。
自然、手を繋いでいた新一も立ち止まる。
すると、徐に新一の手を両手でそっと包み込み、まるで命を吹き込むように、はあ、と暖かい息を吹きかけた。
くすぐったさと気恥ずかしさで、新一は顔が熱くなるのを感じた。
「こうやって誰かに温めてもらった方が、ずっと温まらない?」
トクトクと早まる鼓動に気付いているのか、快斗は悪戯な笑みで見上げてくる。
…なんだか悔しい。
確かに、温められてしまった。
手どころか顔も身体も、――心ごと。
見事に温まってしまった。
「心って、自分ひとりじゃなかなか温められないだろ。それと同じで、手も、自分ひとりで温めるより誰かに温めてもらった方が、ずっとずっと温まるんだ」
だから俺は、こうしていつも新一の心を温めてるんだよ。
そう言って笑う快斗に、新一も笑いながら「サンキュ」と返した。
――本当は。
キミが、俺を温めてくれているんだ。
俺が、キミに温めてもらっているんだ。
俺の心を温められるのは、キミの手から伝わるその温もりだけなのだから。
▲
|| 笑ってよ
快斗の恋人は寝相が悪い。
そんなこと、一緒に暮らし始めた初日に判明した事実だったけれど。
快斗は殴られた頬を押さえながら、顔をしかめてうんうん唸っている新一をじろりと見遣った。
うっすらと浮かぶ涙は、豪快に殴られた所為だ。
本当なら叩き起こして文句のひとつでも言ってやりたいところだが、今夜が事件明けで、新一がとても疲れていることを考えれば、所詮新一第一主義の快斗がそんなことできるはずもなく。
「…どんな夢見てんだよ」
むしろ、魘されている新一を心配する有様だった。
飛んできた困ったさんな腕を甲斐甲斐しく布団の中におさめ、快斗は新一の顔をじっと見つめる。
新一はしかめっ面してても可愛いなあ、なんて思いながら。ふわりと優しく髪を梳いてやれば、眉間の皺がほんの少し薄まった。
(…お?)
もうひと撫ですれば、更に眉間の皺が薄くなる。
なんだかちょっと楽しくなって、快斗は午前四時過ぎの明け方に、名探偵の髪をひたすら梳き続けていた。
すると、しかめっ面だったはずの新一の額には、やがて皺ひとつなくなった。
(おもしれーv やっぱコイツ、猫だなv)
ふと何かを思いついたように口角を吊り上げる。
快斗は以前、下らない夢を見て思わず寝ながら笑ってしまった自分を、新一に爆笑されたことがある。
笑われたことのある人なら分かるだろうが、あれはあれで結構恥ずかしいのだ。
その時のことを思い出し、快斗はにやりと笑った。
髪を梳いてしかめっ面が戻るなら、もっと彼の好きなことをすれば新一を笑わせることができるかも知れない。
ついでに携帯のカメラか何かに激写しておけば、後で新一をからかうネタにもなる。
すっかり目の覚めてしまった快斗は、いそいそと携帯電話を取りに行った。
とりあえずとばかりに、快斗は新一の身体を抱き寄せてみた。
とは言え、それは普段から寝る時にやっていることなのであまり期待していなかったのだが、抱き寄せられた新一の表情は全くと言っていいほど変わらなかった。
快斗は思わずムッとする。
恋人の腕に抱かれて表情ひとつ変えないとはナニゴトだ!と。
新一に言わせれば、それは習慣となっている言わば当然のことで、今更喜ぶほどのことでもないのだが。
次に快斗は、抱き寄せた新一の首元に顔を埋め、その項をぺろりと舐めてみた。
首から肩にかけてのところは新一の最も敏感なところである。
けれど。
「…っ、…」
軽く体を震わせた新一は、逆に再び眉間に皺を寄せてしまった。
あれ?と快斗は首を傾げる。
だが普通に考えれば、性感帯を刺激されれば顔を強張らせるのが当然だろう。
それに思い当たった快斗は、新一の弱いところを刺激するという手段を断念した。
眠っている新一に悪戯を仕掛けるのもそれはそれで楽しいが、今回の目的はあくまで新一を笑わせることだ。
よくよく考えて、快斗は触覚ではなく聴覚を刺激する作戦に切り替えた。
「大好きだよ、しんいち」
耳元で優しく囁いてみる。
その吐息の温かさに、新一はくすぐったそうに首を竦める。
「しんいち、大好き…愛してるよ…」
快斗は何度も何度も囁き、眠りに就いた彼の深層に沈んだ意識に呼び掛けた。
けれど、微かに唸った新一は快斗に擦り寄ってくるばかりで、その顔が微笑むことはなかった。
快斗はなんだか寂しくなってきた。
眠っているとは言え、こんなに側近くで恋人が睦言を囁いているのに、新一はちっとも笑ってくれない。
よもやこの囁きが快斗のものであることも分かっていないのではないか。
(…駄目だよ。夢の中だって、俺以外の奴を見てたら承知しないからな…)
「快斗、快斗、快斗、快斗…」
快斗は拗ねたように唇を尖らせると、今度は自分の名前を新一の耳元に囁き始めた。
夢だろうと何だろうと、新一は自分だけを見つめていてくれなければならない、と。
途中からすっかり目的が変わってしまった快斗がただひたすらに自分の名を囁き続けていると、背中を向けていた新一がころんと寝返りを打った。
そして――
「…かい、…と…」
「っ、…!」
快斗は思わず口を押さえた。
危うく飛び出そうになった叫びを死に物狂いで呑み込む。
いっそ噴けるものなら噴いてしまいたいと、真っ赤になった顔からは今にも火が出そうな勢いだった。
全く、ほんとに、この男は不意打ちで必殺パンチをお見舞いしてくれる。
自分の名前を呼んだっきり、未だその笑顔のまま無邪気に寝転けている新一に、快斗は真っ赤な顔のまま溜息を吐いた。
快斗の最愛の恋人は、恋人の愛の囁きよりも、恋人の名前ひとつでこんなにも殺人的笑顔を浮かべてくれるのだ。
頬にくらった今夜の一撃もこの笑顔でチャラにしてあげようと、快斗は持っていた携帯のカメラにちゃっかり激写すると、いそいそと新一を抱き直して目を瞑った。
▲
|| お弁当持ってピクニック
「お花見行かない?」
「ヤダ」
たった一コンマの逡巡もなく却下され、言われるだろうと思っていた快斗が、それでも思わず漏らしてしまった溜息に罪はないだろう。
「…なんでって、聞いてもいい?」
「俺が人混み嫌いだってよく知ってるだろ?」
何を今更、と本を読みながら心ここに在らずで答える新一に、新たな溜息がひとつ。
確かにそれは言われるまでもなく知っていたことなのだが、世間は現在春真っ盛り、桜も綺麗なお花見シーズンなのである。
日本人は皆桜が好きだ。桜は日本の国花だし、春を代表する花でもある。
だが彼らとは別の理由で、快斗にとっても桜は特別な花だった。
地に根を張り、力強く枝を伸ばし、そうかと思えば驚くほど可憐で淡く美しい花を咲かせる。
そしてそれはたった一週間ほどで散ってしまうという儚い命。
それはまるで、力強さと儚さを併せ持ったこの探偵のようで、快斗は桜には人一倍強い思い入れがあるのだった。
けれど、これほどすげなく断わられてはとりつくしまもない。
至極残念そうに引き下がった快斗の背中を、新一はちらりと横目で見遣った。
その翌日の深夜未明。
快斗はいつものようにタキシードを着込み、シルクハットにマントを纏って、とある展望ビルの屋上に立っていた。
今日も今日とて危険な副業に精を出していた快斗だが、相変わらずの警部と張り合いのない探偵を適当にあしらって、手に入れた獲物を月へと翳す。
それが望んだものである可能性はとても低かったから、違っていても別段落胆はない。
それでもちょっぴり機嫌が悪く見えるのは、快斗のお誘いをことごとく却下してくれる恋人の所為だった。
人混みが無理なら、桜と言わないまでもせめて散歩に行こう、と。
けれど新一は「用事があるから無理!」と言ったきり、部屋に閉じこもってしまったのだ。
いつもならもう少し粘る快斗も、キッドの予告日ともなれば下準備が必要なため、そうも言っていられない。
仕方なく工藤邸を後にし、現在に至るわけである。
「…別にどうしても桜が見たいってわけじゃないから、いいけどね」
ただ自分の好きなものを彼にも見せてあげたかった、それだけだから、と。
ひとりごちた言葉に、思わぬ声が返った。
「なんだ、来て損した」
「!」
吃驚して振り向けば、そこには確かに新一がいた。
「し、しんいちさん?こちらで何を…」
「おまえが花見花見ってうるせーから、わざわざ弁当持って来てやったんじゃねーか。この時間なら人混みも気にならねーしな」
「弁当って…新一が作ったの?」
「他に誰が作るんだよ」
呆れた顔で溜息する探偵に、快斗は自分が今キッドの格好をしていることも忘れて飛びついた。
「スゲー感激…!」
新一の右手には二人分の夜食を詰めた弁当が提げられている。
昼間新一が言っていた用事とはこのことだったのだろう。
けれど、わざわざ弁当を作ってくれたことも勿論嬉しい快斗だが、何より自分のためにこうして来てくれたことが嬉しかったのだ。
「夜桜だからって文句言うなよ?」
「言わないよ!ほんとは新一がいればそれだけでいいんだから」
「ばーろ」
欲の薄い奴、と言って笑う新一に笑い返しながら、それはチガウと快斗は思った。
快斗は自分がどれほど欲深いかよく知っている。
ただそれは特定の、工藤新一という存在に対してのみ発動するものだから、端から見れば分かりにくいのだろう。
「さて」
と言って、快斗はいつものように怪盗から黒羽快斗へと早変わりした。
その鮮やかな手腕は変わることなく新一の目を楽しませる。
「じゃあ、桜の下でお花見しよっかv」
「おー」
肌寒い風に熱を奪われないよう、快斗は新一の手を握る。
それをしっかり握り返してくれる幸せに酔いながら、二人は真夜中の宴へと繰り出したのだった。
▲
|| 天体観測
ある日の深夜。
夜遅くまで地下の研究室にこもって研究に没頭していた志保は、気分転換でもしようと自分で煎れたコーヒーを手に庭に出て、奇妙な光景を見た。
「…工藤君?」
呼び掛ければ、彼はすぐにこちらに気付いた。
「よお。こんな時間に珍しいな」
「…一体そんなところで何をしてるのか、聞いてもいいかしら?」
と言うのも、新一は工藤邸の屋根の上に毛布一枚引っ張り出して、寝間着姿のまま座り込んでいた。
風邪を引くでしょうなんて叱るよりも、こんな住宅街でそんな不審な行動をしている探偵の頭の方がよっぽど心配になってしまう。
むしろ、とうとう常識を捨てたのかと疑っていたのだが。
「天体観測」
なんて言葉が返ってきて、志保はちょっと驚いた。
天体観測と言っても、双眼鏡も何も手にしていない新一はただぼんやり空を見上げているだけだ。
今夜は確かに良く晴れていて、東都の夜空にも肉眼で見えるほど綺麗な星が出ている。
だが、見えるか見えないか以前の問題で、この男の口からはたしてそんなロマンチックな言葉が出てくるとは思わなかったのだ。
この、究極のリアリストの口から。
「…宮野。言いたいことがあるなら口で言え」
思わず、何か胡散臭いものでも見るように半眼で見上げていた志保に、新一は口元を引きつらせながらそう言った。
「別に、凶器と血と人の死体が大好きな探偵さんが、急に星を愛でるようになったからと言って、私に迷惑さえかけなければ何だっていいわよ」
もとより、この探偵や彼の恋人である怪盗の奇行にいちいち付き合っていたら、身体がいくつあっても足りやしない。
そう言う自身も充分奇人である自覚など、もちろん志保には欠片もなかった。
「で、甲斐甲斐しい貴方の奥さんはどうしたの?」
小うるさい小姑みたいな(失礼)あの男が、新一をこんな薄着で寒空の下に放り出しておくはずがない。
すると、
「夜のオシゴト」
と言って、新一はまたぼんやりと空を見上げた。
ああ。
そう言えば昼間、テレビから流れるニュースがあの怪盗の名を連呼していたような気がする。
研究の邪魔だからと、まだ見たがる阿笠が抗議するのも無視して電源を切ってやったことを思い出した。
なるほど、それで天体観測かと、志保は呆れたように溜息を吐いた。
全く、本当に、このばかっぷるに付き合わされるのはとても疲れる。
「…大丈夫よ」
ほんの少し冷めてしまったコーヒーを飲みながら、志保は冷たい声で、それでも暖かい言葉を紡いだ。
「大丈夫。貴方が平気なら、何も心配することはないわ」
だから、星になんか願わなくたって、絶対に大丈夫よ。
思わず顔を歪めた新一が、今にも俯いてしまいそうになった時、唐突に彼の携帯が鳴った。
慌てて通話に出る彼の口から、怒りと安堵の怒声が飛び出すのを、苦笑を浮かべながら見守った。
全く、本当に、――放っておけないから、疲れる。
連日「怪盗キッド、狙撃」のニュースを流していたテレビを憎たらしく思いながら、何より二日も連絡を寄越さなかった怪盗本人に、「帰ってきたらしっかりお灸を据えておかなきゃね…」と、志保は底意地の悪い笑みを浮かべた。
▲
|| 雨宿り
近頃、梅雨でもないのに雨の日が多い。
別に雨が嫌いというわけではないが、出掛けなければならない用事がある日は、できることなら晴れてもらいたいと思う。
でも、今日ばかりは雨でよかったと快斗は心底思った。
もしも天に神さまがいて、涙を流していると言うのなら、もう暫く彼のために泣いてあげて欲しい。
――なんて、傲慢な願いだと思うけれど。
「…あれ。いつからそこにいたの?」
頭から足の先まで、まるで水に浸かったようにびしょ濡れの快斗は、ぽかんと口を開けながら間抜けな声を上げた。
別にザーザー降りというわけでもないのに、たっぷり水を含んだ髪は重く彼の肌に貼り付いている。
似たような格好で、新一は苦笑を噛み殺しながら溜息を吐いた。
「ばーろ。おまえが気付かなかっただけで、ずっとここにいたよ」
吃驚眼が泣き笑いのような顔になる。
そっか。
小さな呟きがどうにも切なかった。
「親父が死んだ日も、こんな雨の日だった」
「ああ」
「命の重さは、…変わらないんだね」
「…ああ」
泥で汚れた手の中には色とりどりの花が握られている。
それは、今日、永遠の眠りについた小さな小鳩のための手向けの花だ。
彼は卵から孵った時から病弱だった。
そう遠くもないいつか、死んでしまうことは分かっていた。
それでも。
たった二週間の命でしかなかったけど、それでも。
「…寂しいね」
「…そうだな」
新一は快斗のびしゃびしゃの髪をくしゃりと撫でた。
今日が雨でよかった。
別に泣き顔を見られたくないとか、そういうことじゃなく。
雨はきっと、道標だから。
空と地上を繋ぐ、道標だから。
だからこんなにも悲しく、こんなにも優しいのだ。
快斗は持っていた花を小さなお墓の上にそっと供えた。
「新一、びしょ濡れだね」
「おまえもな」
「俺、傘持って来てないし、風邪引いちゃうよ。どっかで雨宿りしよう」
ここは快斗が毎日にようにあの小鳩を連れてきた公園だ。
きょろ、と見渡せばすぐ側に小さな休憩所があった。
けれど、歩きだそうとした快斗を引き留めるように、新一が手を引いた。
「?しん、」
――いち。
言いかけた言葉を、新一の唇が奪い去る。
白くけぶる小雨の中、唐突に仕掛けられた口付けに驚いた快斗は、気付けば新一の胸に抱かれていた。
「どこかじゃ駄目だ。ココじゃなきゃ許さねえ」
どういう意味だろう、と快斗は首を傾げる。
けれど、ふと、押し付けられた頬に新一の熱を感じた。
それだけじゃない、鼻先を掠める匂いも、目に映る見慣れた制服も、何もかもが新一のものだ。
それだけで、ジンと滲みてゆく何か。
「――…っ」
嗚咽を噛み殺すように、快斗は新一の腕の中で泣いていた。
本当はずっと我慢していたのだと、自分でさえ気付いていなかったのに、彼はいつから気付いていたのだろう。
今までに多くの相棒を失ってきた。
父親でさえも、失った。
それなのに、何度この場面を迎えようと、決して慣れることはないのだ。
そして思い知らされる。
自分がどれほど多くの命に関わりながら生きているのかと。
「新一は、…いてね。ずっとここにいてね。俺が死ぬまで、…死んでも。ずっとずっと一緒にいてね…」
――なんて、馬鹿な願いだと思うけれど。
「いるさ。俺はずっとここにいて、全ての悲しみからおまえを守ってやる」
だから、泣きたくなったら、ここにおいで。
そんな風に言うものだから。
今日が雨でよかった。
雨はきっと、人の流す涙なのだ。
涙はきっと、悲しみを流す雨なのだ。
だから涙はこんなにも悲しく、雨はこんなにも優しいのだ。
▲
|| 川原の土手で
「あ、工藤君」
そう言って立ち止まった後輩刑事につられるように、佐藤美和子も足を止めた。
聞き込み帰りに二人してまったりと川原沿いの道を歩いていた高木が、佐藤を通り越して遠くの方を眺めている。
聞き慣れた名前に振り返って見れば、そこには警視庁お抱えの救世主さまが、何とも楽しげに走り回っている姿があった。
「あら、珍しいわね」
事件のない日は本にかじり付いている本の虫なのに。
佐藤の偽りない口振りに高木は苦笑する。
「一緒にいるのって、黒羽君ですかね」
「そうみたいね。有名人二人がこんなところで何してんだろ」
一方は高校生探偵として、もう一方は新進気鋭の若手マジシャンとして、どちらも全国区、世界レベルでファンを持っちゃってる有名人なのだが。
当の彼らにはあんまり自覚がないらしく、行く先々で挙がる黄色い声にもまるで頓着していないようで。
今度はいったい何をしているのかと見てみれば、探偵とマジシャンは川原の土手でひとつのサッカーボールをまるで子供のように追いかけ回していた。
探偵の足先で生き物のように跳ね回るボールを、マジシャンが負けじと奪い取る。
それを蹴り転がしながら、どこがゴールかも分からない土手を縦横無尽に駆け回る。
するとマジシャンの後にぴたりとついていた探偵が隙を見てボールを奪い返し、今度は逆方向へと走り出す。
蹴って、走って、追いかけて。
奪って、蹴って、また走って。
子供のように無邪気に駆け回るその姿に、二人の刑事は思わず笑みをこぼした。
普段、非日常的な場面で出くわすことの多い彼らだが、こうして見てみればまるでどこにでもいる普通の高校生だ。
時折「しまった!」やら「このやろー!」なんて声が聞こえてくるのもご愛敬。
「そういえば工藤君て、確かプロから声を掛けられるくらいサッカーがうまいんじゃなかったかな」
「えっ、プロから?凄いじゃない!」
「はい。でも、僕がなりたいのは探偵だからって断っちゃったそうですよ」
「勿体ない…でも、工藤君らしいわね」
サッカーはあくまで体力をつけるため、とか言いそうよね。
まさにその通りなのだが、もちろん佐藤はそんなことは知らなかった。
「でも、じゃあ、その工藤君といい勝負してる黒羽君もかなりうまいってこと?」
言われてみれば、お遊びにしては結構高度な気もする。
サッカーについては、ワールドカップの時ににわかファンになるぐらいの知識しか持ってない佐藤だが、そう言えば探偵はそのワールドカップを彷彿とさせるような、なかなかの動きをしている。
それについていけるマジシャンがさすがなのか。
けれど、
「あ…」
と再び声を挙げた高木に促され彼らを見遣ると。
「え?」
何やら、おかしな方向に動き出すサッカーボール。
しまった、とあからさまな表情を浮かべるマジシャン。
「てんめー、快斗っ、この俺を騙そうとはいい度胸じゃねーか!」
「あはは、ごめーんv」
いつの間にか二人は、ボールをそっちのけで追い駆けっこをしていた。
頭から湯気を出しながらマジシャンを追いかける探偵と、へらへらとしまりのない笑みを浮かべながら探偵に追いかけられているマジシャンと。
「「…」」
思わず無言でその様子を傍観していた二人の刑事は、揃って微妙な笑みを浮かべた。
絶対、今のはわざとだ。
騙そうと思えば本気で騙せる技量をマジシャンが持ってることも、見破ろうと思えば本気で見破れる慧眼を探偵が持っていることも、二人はよく知っている。
要するに、マジシャンが探偵をからかっていたのだ。
一瞬でも探偵が騙されたと言うことは、普通にプレーしても遜色ないほど、マジシャンのサッカーの腕もいいということだろう。
気付けば探偵に追いつかれたマジシャンがのし掛かった探偵に押しつぶされている。
土まみれになりながら、そんなことなど気にもしない彼らは、まるでじゃれ合う二匹の子猫のようだった。
「ほんと仲いいんだから、あの二人」
くすくす笑いながら、佐藤は「行くわよ、高木君」と高木に声を掛け歩き出す。
その後ろに続こうとした高木は、けれど。
「――!?」
踏み出した足が固まる。
吃驚しすぎてそのまま転けそうになったが、何とか踏みとどまった。
「高木君?何してんの、置いてっちゃうわよ」
その声に慌てて後を追うが、不審そうな佐藤に高木は曖昧な笑みを向けただけだった。
尚も訝しげな佐藤を誤魔化しつつ、高木は懸命に背後を振り返らないよう努めた。
――見て、しまった。
逃げ回り、追いつかれ、探偵に捕まったマジシャンが。
探偵に、キス、するのを。
「…!」
ぼっ、と高木の顔が赤くなる。
引き寄せられ、目を閉じた探偵。
顔を上げた瞬間の、微笑み。
ああ、どうしよう。
気付いちゃったよ、工藤君。
いつも君がその笑みを向けていたのは、黒羽君だったんだね。
▲
|| 掃除をしよう!
彼が家に来るまで、工藤邸は荒れ放題だった。
手入れのされていない庭。中身のない冷蔵庫。読んだら読みっぱなしの本。脱ぎ散らかされた服。
外面がよく割と几帳面なくせに、新一は変なところでだらしない。
その上自分の領域に他人が入ることを嫌うため、家政婦やヘルパーを雇うこともなかった。
そして極めつけが、江戸川コナンとなっていたあの潜伏期間。
家主にさえ見放された邸宅は、それはもう凄まじく荒れ果てていた。
その工藤邸を今の状態にまで復元したのは他でもない、快斗だった。
工藤邸に同居することになった快斗はまず、伸び放題だった植木を切り、芝生を整え、花を植え、水を撒いた。
そして冷蔵庫の中を満たし、台所を占拠し、不摂生な恋人の狂った食生活を改善した。
読みっぱなしになっていた本も今では読んだら元の場所に戻されるようになったし、洗濯物は遅くても二日以内に洗われるようになった。
朝になればカーテンが開けられ、リビングには日光が燦々と降り注ぐ。
夜にはふんわり花の香りがするシーツにくるまれて気持ちよく眠る。
疲れて帰ってきた時に迎えてくれる温かい料理、温かい笑顔。
それだけで体も心も温かくなることを、新一は知っている。
だから――
「…掃除を。しようと、思ってたんだよ」
疲れ切った表情でそう言った新一を前に、快斗は引きつった顔のまま固まっていた。
目の前には水浸しの床、割れた皿、破れたカーテン、ひっくり返ったゴミ箱、などなど。
それはもう、漫画でも見ているんじゃないかというような惨状が広がっていた。
別に新一は洗濯機を回せば泡を噴かせたり、皿を洗えば割ったり、掃除機をかければカーテンを吸い込んで破ってしまうような不器っちょさんではない。
むしろ料理だって人並みにこなすし、掃除洗濯もひとりの時には普通にこなしていた。
それがなぜこんなことになってしまったのか。
それは、
「ごめんなさい、快斗お兄さん…」
「ほんっと悪ぃ!兄ちゃん!」
「わ、悪気はなかったんですが…すみませんでした…」
と言ってしゅんと項垂れている子供たち――少年探偵団の仕業だった。
「こいつらがたまたま博士んとこに遊びに来ててな。俺が家の掃除するっつったら、手伝ってくれるって言い出してさ。まぁ広い家だから人手はあった方が助かるってことで、…こうなったんだが」
風呂掃除をしていた元太が蛇口を閉め忘れ、床上浸水。
食器を仕舞おうとした歩美が転んで、皿破損。
窓を拭いていた光彦が転んだ拍子にカーテンを掴んで破き、更には近くにあった諸々のものをひっくり返した、などなど。
掃除どころか、これでは用事を増やしただけだと子供たちは真剣に落ち込んでいた。
それを見た快斗と新一は、互いに顔を見合わせて苦笑をこぼした。
「三人とも、手伝ってくれてありがとね。今回ちょっと失敗しちゃったけど、大事なのは誰かのために手伝ってあげたいって気持ちだから」
「そうそう。おめーらのおかげで、快斗がいなくても寂しくなかったしさ」
「…ほんと?」
恐る恐る顔を上げた歩美が泣きそうな顔で言う。
「おう。歩美も光彦も元太もサンキュな」
そう言ってくしゃりと頭を撫でれば、三人は途端に笑顔になった。
トラブルメーカーは相変わらずだが、この明るさがコナンや哀を支えてくれたのは確かだ。
そうして快斗を交えた五人は、今度はちゃんとした掃除に取りかかった。
「疲れてんのに悪いな」
「大丈夫だよ。疲れなんて、新一に会ったら吹っ飛んじまったしv」
「ばーろ」
くすくす笑って、二人は仲良く掃き掃除。
破れてしまったカーテンは思い切って新しいものに変えることにした。
濡れてしまった床は後日業者に来てもらうとして、取り敢えず元太と光彦に拭いて貰っている。
危ない硝子は大人二人が処理をして、歩美には庭の水撒きを頼んだ。
「でもなんで急に掃除なんかしようと思ったんだ?」
快斗が家事をしてれば手伝ってくれる新一だが、自分から積極的に動くことはあまりなかった。
なのにどうして?と首を傾げる快斗に、新一は悪戯っぽく笑って。
「だって自分のために綺麗にされた部屋って、なんか無言の愛情表現って感じで嬉しくねぇ?」
「!」
日本全国二十五カ所のマジックショーツアーと、その合間を縫って怪盗キッドのお仕事。
そんな大仕事を終えて漸く帰ってきた恋人に、その喜びを味わわせてやりたかった。
…まあ、今回は失敗してしまったのだが。
「まったく…嬉しいこと言ってくれるね」
「だろ?」
くすくす笑って、引き寄せられるままに瞼を閉じて。
久しぶりに感じる互いの温もりが体中に満ち足りるまで、瞼が開かれることはなかった。
▲
|| あなたにモーニングコールを
「いやいや、でも……やっぱり……いや、でもちょっと待てよ…」
「…どうしたんですか、高木さん?」
「――わああ!」
背後から掛けられた声に、高木は言葉通りに飛び上がった。
「く、工藤君!や、やあ…久しぶりだね」
必死に平静を装うものの、いちいちどもってる上に表情も硬い。
何かまずい場面にでもでくわしただろうか?と小首を傾げる名探偵・工藤新一に、高木は眉尻の下がった情けない顔を更に歪めた。
実は、先日川原で名探偵のキスシーンを目撃してしまってから、高木の様子はおかしい。と言うか、怪しい。
新一の顔を見るなり顔をゆでだこのように赤らめたり、プライベートな話題になりかけると慌てて軌道修正したり。
が、幸か不幸か、そんな挙動不審な姿を佐藤にはまだ見られていないため、理由を追及されることもなくこうして平和(?)な日々を送っていたのだが…
(そ、そうだ!工藤君になら相談できるかも…!)
厳つい先輩や同僚にはとても相談などできないが、この名探偵ならきっと素晴らしいアドバイスをくれるだろう。
それに…彼ならアレがアレでアレだし…ごにょごにょ。
…こほん。
高木はひとつ咳払いをして、それから遠慮がちに口を開いた。
「あ、あの、工藤君…少し相談があるんだけど、時間あるかな?」
「え?僕にですか?」
「うん…できれば君に聞いてもらいたいんだけど…」
「大丈夫ですよ。今日は資料を見せてもらいに来ただけですし、特別急ぎでもありませんから」
「ほんとかい!?」
ぱあっ、と表情を輝かせる高木に新一が苦笑をこぼす。
コナンの時からそうなのだが、なぜか放っておけない人だと思われている高木だ。
ふたりは人目を避けて、少し遠い休憩室に向かった。
「じ、実はね」
高木は二人分のコーヒーを買い、ひとつを新一に渡すと、相変わらずどもりながら話し出した。
「実は、あの、佐藤さんが…その、雨に弱いらしくて」
「雨、ですか?」
なんだか話の矛先がよく分からなくて新一がまたもや首を傾げる。
気付いているのかいないのか、高木は話すことにいっぱいいっぱいで、じっとコーヒーを睨み付けていた。
「ほら、雨の日って空が曇ってるだろう?だから朝になっても気付かないみたいで」
「ああ、なるほど。今は特に梅雨ですし、雨が苦手な人じゃなくても体がだるいですよね」
「そうなんだ!工藤君、分かってくれるかい?」
同意を示してくれた新一に高木は勢いづいた。
「それでね、いつもならお母さんが起こしてくれるそうなんだけど、明日から一週間、ご近所の友だちと慰安旅行に出かけちゃうらしいんだ。それでその間、ちゃんと起きれるか心配だって、佐藤さんが…」
ああそうか、と新一が頷く。漸く話の矛先が見えた。
要するに、困っている佐藤をどうにかして手助けしたい、という相談なのだろう。
「高木さんが電話で起こしてあげたらいいじゃないですか。高木さんは平気なんでしょう、雨?」
「う、うん。でも、その…僕なんかが電話してもいいと思う?」
所謂、モーニングコールだ。
そんな、まるでべったべたに甘ったるい蜂蜜カップルがするようなことを、自分なんかがあの佐藤さんにしていいものなのか。
またもや八の字眉毛になっている高木に、新一はしっかりと頷いた。
「もちろんですよ。高木さんは佐藤さんの恋人でしょう?」
途端、高木の顔がぼんっ!と茹で上がった。
確かに確かに、何度かキスもしたし、きちんとしたこ…恋人、なんだけども!
それでも、あの一課のアイドルである佐藤さんにこの自分が…?
なんだかひとりでぐるぐるしている高木に、新一は安心させるように微笑んだ。
「大丈夫ですよ。恋人からの電話って嬉しいものじゃないですか?まあ、佐藤さんは僕と似たタイプだから、素直に嬉しいとは言わないかも知れませんが…」
確かに、佐藤さんなら「なによー用事もないのにかけてくるんじゃないわよ」くらい言いそうだ。…いや、絶対言う。
そして思いきり落ち込むのだろう、と肩を落とす高木は、ふと思いついたことを尋ねた。
「じゃあ、工藤君も黒羽君にモーニングコールしたりするの?」
「まあ、時々は…」
と、言いかけた新一の動きが止まる。
「あっ」
と、気付いた高木の動きも止まる。
すると先ほどの高木に負けず劣らず、新一の顔が朱に染め上がった。
「た、高木さん…?」
珍しくどもる新一に、さすがにこれは誤魔化せないよなと、高木は腹を括った。
「ごめん…実はこの間、ふたりが…その…キ、キスしてるのを見ちゃって…」
「!?」
「ごめんね…見るつもりはなかったんだけど…」
気の毒なくらい真っ赤な顔で眉を下げ唇を引き結びながら見上げてくる新一の表情は、いっそ凶悪なほどに可愛らしい。
あの名探偵が、現場ではいつも凛と佇み毅然と犯人に立ち向かう名探偵が、これほどに動揺し、赤面している。
が、不可抗力とは言え見られたくなかっただろう場面を見てしまった罪悪感の方が遥かに強く、高木はがっくりと項垂れた。
すると、新一はまだ火照りの残る顔で、それでも首を振った。
「いいんです。別に隠してるわけじゃないし」
「そうなの?」
「だって、あいつを思う気持ちに疚しいところなんてひとつもありませんから」
きっぱりと言い切った新一に高木は目を丸くした。
てっきり、新一は恋人が誰かを隠していると思っていたのだ。
仮にも同性が恋人であるわけだし、あまり大っぴらにできることでもないだろう。
けれど、そんなことはなんでもないのだと笑う新一はちょっと格好良かった。
「そっか。黒羽君は幸せものだね」
「はい。だから高木さんも、堂々と佐藤さんに電話したらいいと思いますよ」
最初の話を忘れかけていた高木は再び慌てふためくが、よくよく考えれば佐藤と似たタイプの新一も電話をもらえると嬉しいと言うのだから、思ったよりイケるかも知れない、と思い直した。
「…うん。頑張ってみるよ。ありがとう、工藤君」
いえ、と言って首を振る新一に、そう言えば資料を借りに来ていたことを思いだし、高木は引き留めてしまったことを詫びながら別れを告げた。
去り際、
「あ、黒羽君とのこと、言いふらすようなことはしないから安心してね」
と言った高木に、新一は再び赤面させられるはめになった。
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