『快斗――ぉ!』 短い腕をうんと伸ばし、雲ひとつない快晴にも負けない晴れやかな笑顔で駆けてくる小さな子供。 放っておけば膝裏にタックルをかましてくる子供に向き直り、快斗は飛び込んできた勢いのまま子供を抱き上げた。 『どうした、新一?』 『父さんが快斗を呼んで来いって!』 『お使いか、偉いな』 快斗が褒めれば、新一は頬を紅潮させながら恥ずかしそうに口を噤んでしまった。 この子供――新一は、五歳年下のはとこで、あの推理作家工藤優作と元大女優藤峯有希子の息子だった。 普通、はとこともなれば親戚同士の付き合いも疎遠になりそうなものだが、快斗の父盗一は従兄弟の有希子を非常に可愛がっていたため、工藤家と黒羽家の交流は未だに続けられているのだ。 しかも盗一と有希子は、幼い頃は兄弟かと見紛われるほどよく似ていたため、父親似の快斗と母親似の新一もこれまた兄弟のようによく似ていた。 その上、快斗も新一も一人っ子。 自然、兄弟のいない寂しさなど感じる暇もないほど二人は一緒にいることが多かった。 そして小学校三年生に上がった快斗は、今年四歳になったばかりの新一の面倒をよく見ていた。 『優作おじさん、なんの話だろうな』 『さあ?なんか変な顔してたけど…』 新一の手を引きながら歩いていた快斗は不意に足を止めた。 新一が不思議そうに首を傾げながら快斗を覗き込む。 その目が少し怯えたように瞠られたことに、快斗は気付くことができなかった。 |
Revive in the memory |
懐かしい豪勢な門を目の前に、快斗は感慨深そうに溜息を吐いた。 この豪邸の前に立つのはいったい何年ぶりだろう。 確か九歳の時を最後に海外へ渡ってしまったのだから、大学生となった今、まるまる十年ぶりということになる。 ――十年。 決して短くない時間だ。 その十年の溝を埋めることはきっと難しい。 けれど、この数年の経験から言えば、何事も成せば成るものだ。 快斗は深く息を吸い込んで、決心が鈍らないうちにさっさとインターホンを押した。 『…はい』 数秒の間のあと家主が出た。 十年ぶりに聞いた彼の声はもうすっかり成長した少年のものになっていて、けれど少し神経質っぽいところが変わってなくて、快斗はほんの少し嬉しくなった。 「黒羽です。優作さんに頼まれて、今日から住み込みで家庭教師をさせて貰いに来ました」 『…空いてるから、入って』 言われて、快斗は門を押して邸内へと入った。 ひとり暮らしだと聞いていたから、もっと庭も荒れ果てているのかと思ったけれど、意外と綺麗に手入れされている。 きっと定期的に庭師にでも来てもらっているのだろう。 快斗は特別景色を楽しむでもなく玄関の前に立つと、やや緊張しながらノブに回した手に力を込めた。 この玄関の向こうに彼がいる。 十年ぶりに帰ってきた自分をどんな顔で迎えてくれるだろうか。 けれど、思い切って扉を開けた快斗は拍子抜けしてしまった。 そこには迎えどころか人の姿すら見当らなかった。 ただどこまでも人の気配の薄い廊下が寒々と広がっている。 快斗は思わず顔をしかめた。 この十年間、快斗は彼と全く音信を取らなかった。 と言うのも自分を取り巻く環境が急激に変化したためそうせざるを得なかったのだ。 その後の彼がどうしているのかなど快斗は全く知らなかったけれど、彼のことだから元気にやっているものと思っていた。 彼は両親に溺愛されていたし、真っ直ぐで真っ白な子供だったし、人を惹きつける力があるのか、いつも彼の周りには誰か人がいたから。 けれど、この家を見る限り、その考えを改めなければならなかった。 人の気配の薄い家。閑散とした廊下。音のない、空虚な空間。 「――新一」 どこにいるのと声を出しても、まるでそんな囁きさえ異物であるように、しんとした空気に霧散させられる。 快斗は昔の記憶を頼りにリビングを覗き、そこにいないと今度は彼の私室に向かった。 階段を上がり、二つほど連なった客間を過ぎて、ちょうど突き当たりに位置する木彫の扉の前に立つ。 微かだが、ここには人の気配があった。 こちらの足音は聞こえているだろうに、出迎えどころかドアを開ける気すらないらしく、中の気配は身じろぎひとつしようとしない。 快斗は仕方なく、溜息ひとつ零したあと、ゆっくりと扉を開けた。 ベッドの縁に重ねたクッションの上に深く背を預け、両足を投げ出した格好で手に本を持った彼――工藤新一が、不機嫌そうに視線だけをちらと動かしてこちらを見た。 「…しん、」 「――顔なんかとっくに忘れちまったけど、あんたが黒羽快斗?」 名前を呼ぼうとした声を遮られ、言われたその台詞に快斗は愕然とした。 ――忘れた? 新一が、俺を? 「父さんから聞いてるよ。今日から住み込みで働く家庭教師だろ」 部屋は空いてる客間を好きに使ったらいい。 食事、洗濯、掃除、その他の面倒は一切見ないから、自分のことは自分でやれ。 給料は毎月二十五日払い、生活費を差し引いて月謝三万、授業は火・木の晩と土曜の午後…… ひどく義務的な内容ばかりつらつらと述べる新一に、快斗は焦りのような苛立ちのような感覚を覚えた。 確かに、十年も前に仲の良かったはとこのことなど覚えていないかも知れない。 九歳だった快斗が当たり前のように新一を覚えていても、新一は当時まだたった四歳だったのだ。 名前どころか顔すらうろ覚えだったとしても不思議じゃない。 けれど――… 「…そっか。まあ、今更十年前の話されても困るよな。おまえももう十四だし、いつまでも親戚の兄貴と遊んでる年じゃないもんな」 快斗は苦笑を浮かべて、とりあえず荷ほどきしてくる、と言って新一の部屋を後にした。 そのまますぐ隣の部屋のドアノブに手を掛けたが、躊躇ってもうひとつ隣の部屋のドアノブを回した。 十年の溝は大きい。 今し方そう思ったところだと言うのに、その大きさに初っ端から躓いてしまった。 忘れたと言われた。 嘘だと否定したかったのに、…できなかった。 自分たちはただのはとこじゃなかった。 友達より近く、兄弟より強く、家族より深く、信頼しあっていた。 けれど、その信頼を先に裏切ったのは自分なのだ。 彼はいつも一生懸命に自分の後ろを追いかけてきた。 小さい足で、五年先を生きる自分に追いつこうと必死だった。 どんなに頑張っても追いつけるはずはなかったけれど、快斗はそれが嬉しかったし、時には歩調を緩めて手を差し伸べてやったりもした。 その子供をひとり置き去りにした自分が今更なにを言ったところで、ただ虚しい戯言にしかならなかった。 * * * 新一は決して頭が悪いわけではない。 ある意味偏ってはいるけれど知識は豊富だし、たまに快斗をもはっとさせるような論理展開をしてみせたりもする。 だが、成績は悪い。 それはなぜかと言うと、本人によれば―― 「わざとに決まってんだろ、そんなの」 もちろん快斗ががっくりと肩を落としたのは言うまでもない。 新一が言うには、自分が小学生の頃から仕事だ遊びだと海外を飛び回っている両親に対する反抗らしい。 成績表に綺麗に並んだ4の数字がそれを物語っている。 これが五段階評価なら別段問題ないのだが、生憎帝丹中学は十段階評価で成績が出されるのだ。 普通の両親なら息子の成績がオール4だと知れば心配して塾へ行かすだの家庭教師を雇うだのするのが当然だろう。 けれど、工藤夫妻は普通ではなかった。 オール4というあからさまな数字を笑い飛ばすと、自分たちで息子を監督するどころか住み込みの家庭教師を雇ってしまったのだ。 これでは新一の反抗も空回りである。 そんなこんなで、もともとオール10を取ってもおかしくない頭脳を持っている新一に教えることはあまりなく、快斗がただの住み込み家政夫状態になって一ヶ月が経とうとしていた。 その日の晩は快斗が夕食を作った。 もとい、その日の晩も快斗が夕食を作った。 越してきた初日に思い知ったことだが、新一には生活能力というものが全く備わっていない。 空っぽの冷蔵庫、書斎以外に手入れの行き届いていない邸内、週に一度やってくる庭師が手入れする以外には水も撒かれていない庭。 快斗はまず新一の食生活を潤し、誇りまみれの邸内を掃除し、元気のなかった草木に水を与えた。 近所付き合いも専ら快斗のお仕事だ。 おかげでただの居候だったはずの快斗が今では家主の新一よりも工藤邸の主らしくなっている。 今日も今日とて新一の食生活を改善させるべく快斗はせっせと夕食を作っていたのだが、テーブルに腰掛けテレビを見ながら夕食の完成を待っていた新一がぼそりと言った。 「…魚が食いてえ」 ネギを刻んでいた包丁の音がぴたりと止まる。 快斗の腕が中途半端な体勢で固まっている。 「この一ヶ月さっぱり食べてねえ。さんまの塩焼き、カレイの煮付け、鰹のたたき、ブリの照り焼き……」 「――し、しんいち…ソレの話は勘弁して…!」 快斗は今にも泣き出しそうな情けない顔で弱々しい声を出した。 快斗は魚が大の苦手なのである。 原因はわからないが小さい頃からずっと駄目で、見るのも触るのも、それどころか言葉を聞くだけで鳥肌が立つ。 それを見た新一は声を立てて笑った。 「冗談だよ。おまえにアレの料理は期待してねえ」 新一はくつくつと笑っている。 快斗はふと表情を改めた。 「――アレ?」 急に真顔になった快斗に新一は目を瞬き、継いではっと軽く息を呑んだかと思うと、ばつが悪そうに眉間に皺を寄せてぷいと顔を逸らしてしまった。 これはもう間違いない。 快斗は嬉しいような哀しいような、そんな顔で言った。 「…忘れたなんて、嘘だったんだ」 「…」 「俺の顔も名前も覚えてないのに、俺が魚嫌いだってことだけ覚えてるはずないもんな」 快斗は昔から魚が苦手だった。 名前を聞くだけで鳥肌を立ててしまう快斗のために、「魚」と呼ばずに「アレ」と呼ぶようにしてくれたのは幼い新一だった。 思わずそれを口にしてしまった新一が気まずそうな顔をしていることが何よりの証拠だ。 新一がどうしてそんな嘘を吐いたのかはわからないが、少なくとも快斗にとってはショックだった。 やがて、顔を背けたまま新一が呟いた。 「…だって、忘れたかったんだ」 え?と首を傾げた快斗を新一はキッと睨み付ける。 「十年も音信不通だった薄情者に振り回されるなんて、嫌だったんだ!」 快斗は言葉に詰まり、何も言うことができなかった。 新一がこの一ヶ月そんなことを思いながら過ごしていたなんて。 それに快斗は少しも気付いてあげることができなかったのだ。 たまに新一が黙り込む瞬間があることには気付いていたけれど、それにそんな深い思いが込められていたとは思いもしなくて…… 「――新一」 快斗の呼び掛けに新一は再び顔を背けてしまった。 快斗は料理を置いてキッチンを離れると、椅子に座った新一の後ろにまわってそっと目を覆った。 幼い頃、喧嘩をするといつもこうしていた。 相手の目を見ながらは言いにくい「ごめん」の言葉も、こうしていれば言うことができる。 そして目を開けた時にはいつだって快斗のマジックが新一の心を満たしてくれるのだ。 その懐かしい仕草を新一は無言で受け入れた。 仲直りをしてくれる意志はまだあるのだと、快斗は口元をほころばせた。 「覚えてるか?十年前のあの日、…親父が死んだ。いつものようにおまえと遊んでた俺を優作さんが呼び戻し、そう知らされた。あの日を最後に俺は日本を離れたんだ」 「…よく、覚えてるよ」 快斗を連れて戻ってみれば、優作におまえは出ていなさいと言われ、新一は渋々外に出た。 けれどどんな話なのか気になって、こっそり扉の外で聞き耳を立てていたのだ。 盗一が死んだ。 そう言った優作に驚いて、思わず側に立てかけてあった傘を倒してしまった。 怒られると思った新一がその場を逃げ出し、優作に連れられて戻った時にはもう快斗はいなかった。 新一はさよならを言うどころか、引き留めることもできなかったのだ。 自業自得だと言われてしまえばそれまでだが…… 触れた顔が自嘲に歪むのを感じて、快斗は緩く首を振った。 「違うよ。新一は悪くない。悪いのは、何も言わずにいなくなった俺なんだ」 さよならのひと言ぐらい言っていけば、こうして新一と啀み合うこともなかったのだろう。 けれど、それはできなかった。 他でもない快斗自身が、新一にさよならを言うことができなかったのだ。 本当はもう二度と日本に帰ってくるつもりはなかった。 それは父が死んだあの日に心に決めたことだった。 けれど快斗にとって新一に別れを告げることは、住み慣れた日本を離れることよりずっと難しいことだった。 だから、何も言わずに日本を離れた。 後悔なんてしない日はなかったけれど、もう会うこともないだろうと思っていたから。 なのに、こうして会ってしまえば、やっぱり彼は特別な存在だったのだと思い知らされる。 友達より近く、兄弟より強く、家族より深く、恋人より愛しい。 どうしてそうなったのかは分からない。 けれど、気付いたらそうなっていたのだ。 何も言わなくても、お互いに特別な存在だと理解していた。 これほど近く強く深く愛しく、互いのことを解せる人は他にいない。 快斗は新一の目を覆っていた手をどけた。 ゆっくりと開かれる目が真っ直ぐに快斗を射抜く。 今はあの頃のようにマジックを見せてあげることはできないけれど、あの頃と変わらない真摯な思いを込めて言った。 「ひとりにして、ごめん」 新一の顔が歪む。 プライドの高い新一は子供の頃から人前では滅多に泣かなかった。 唇を噛んで色んなものを堪えている新一が愛しくて、快斗はぎゅっと抱き締めた。 「…遅いんだよ、バーロ…」 悪態を付きながらも背中に回された腕が嬉しくて、快斗は新一が苦しいと言って暴れ出すまでずっと新一を抱き締めていた。 ようやく落ち着いて眠ってしまった新一を部屋に残し、快斗はリビングのソファでくつろいでいた。 昔はよくひとつの布団で丸くなって眠ったものだが、さすがに中学生ともなれば恥ずかしいらしく、快斗は部屋を追い出されてしまったのだ。 昔はあんなにべったりだったのになあと、どこか父親にも似た心境でコーヒーをすすっていた快斗は、不意に鳴りだした電話に慌てて出た。 はい、工藤です。 すっかり馴染んでしまったその言葉に返った声に、快斗は軽く驚いた。 『やあ、快斗君。私だ』 「――優作さんっ?」 電話の主は新一の父、工藤優作だった。 「急にどうされたんですか?」 『少し様子を聞かせてもらおうと思ってね。君を雇ってそろそろ一月が経つが、うまくやっているかい?』 「それが、十年の音信不通は新一をかなり怒らせてしまったようで…」 『それは仕方ない。だが、和解できたんだろう?』 「…やだなあ。この家、盗聴器でも付いてるんですか?」 『それぐらい、君の声を聞けば分かる』 笑いを含んだ優作の声に、やはりこの人には敵わないと思い知らされる。 父親を亡くした自分がこうして生きてこられたのは母や協力者たち、それにこの人がいてくれたからだ。 この売れっ子小説家はさすがに推理ものを書いているだけあって、まるで探偵のように鋭い洞察力を持っている。 たとえ顔が見えなくても声ひとつでこちらの心情など全て見通せるようだ。 『――君は、言わなかったんだね』 ふと真剣味を帯びた声に、快斗も表情を改める。 遠く離れた地にいるはずの相手に真っ直ぐ見つめられているような心地だ。 自然に口元が歪む。 快斗は先ほどとは別人のような笑みを浮かべ、言った。 「たとえ死んでも、この口は開きません」 冷たい声。冷徹な笑み。凍った瞳。 灼けるように烈しい、気配。 もう子供じゃないんだから。 そう新一は言った。 確かにその通りだと思う。 快斗は、もうあの頃の快斗ではなかった。 父が誇れる息子になろうと、母が頼れる息子になろうと、…新一を守れる人間になろうと足掻いていた頃の自分は、もういない。 今もそうなりたいと願う自分はいる。 ただ、心を貫くためならなんでもできるようになってしまっただけ。 文字通り、自分は冷たい人間になってしまったのだ。 「こんな男を彼の側に置いておけないと思われるなら、今の内に考え直された方が宜しいですよ」 快斗は流れるように淡々と言葉を紡ぐ。 けれど、 『――まだまだだね、快斗君』 ふっと、笑みすら含んだその言葉に、快斗は思わず眉を寄せた。 『私が何のために君を新一の家庭教師にしたと思うんだい?』 「…昔仲の良かったはとこが家庭教師につけば、新一の反抗的態度も和らぐと思われたからじゃないんですか」 『ふふ、やっぱりまだまだ甘いね』 すっかり優作のペースに引き込まれている。 そう気付いていても、今更自分のペースに引き戻すことなど、この人相手にできるはずもなかった。 ただ優作が何を言いたいのかが気になって無言でその先を促す。 優作はたっぷり五秒ほど間を空けて、言った。 『新一が反抗していた理由は、君がいなくなってしまったからなんだよ』 快斗は目を瞬いた。 『君がいなくなってからと言うもの、あの子はさっぱり手がつけられなくなってね。暫くロスに定住すると決まった時も、散々こっちに連れて来ようと画策してはみたんだが、全然言うことを聞かなかった。多分、海外に渡ることが君を追いかけるようで嫌だったんだろう。或いは、いずれ日本に帰ってくるかも知れない君を待っていたかったのかも知れない。どちらにしろ、君が理由であることに違いはない』 いくら道楽な親と言っても、まだ十四歳の息子と遠く離れた地で過ごしていて心配しないはずがない。 それが分からないほど新一も子供ではない。 けれど、新一はそれを分かった上で、それでも日本を離れる気はないと、中学生の子供とは思えないほど毅然と言い放ったのだ。 そこまでして貫こうとしている息子の気持ちを、優作も有希子も無下に扱うわけにはいかなかった。 『だから、私たちはここから、あの子にできることは何でもしてあげようと決めたんだ』 かつて二人を引き離したのは優作自身だ。 あの時はそれが最善の策で、唯一の策だった。 事情を知る者が聞けば、十人が十人とも同意を示すだろう。 けれど、優作はその事情を新一に話すわけにはいかなかった。 そしてきっと、新一はその事情を知ったところで、理解はできても決して納得はしないだろう。 子供だからというわけではない。 たとえ大人であっても、己の心ひとつでどんな理屈も通せないことがある。 新一にとって快斗はまさにそういう存在だったのだ。 『君がなんであっても構わない。私は君の選んだ道を否定したりしない。できる限りの協力もする。だが、何も言わずひとりで抱え込むあの子ももう見たくない。 ――分かってくれるかい?快斗君』 快斗は受話器を耳に当てたまま目を瞑った。 遅いんだよ、バーロ。 そう言った彼の声は少し震えていた。 新一は決して自分の弱味を見せようとしない。 けれど今にも溢れそうなものを堪えるのに必死で、頑なに閉じこめられていた感情があの時僅かに露出した。 それが嬉しくて。切なくて。 ――苦しくて。 快斗は目を開けた。 「俺はもう逃げません。でも、新一を俺の問題に巻き込むつもりもありません」 『分かってるよ。それは私たちも望むところじゃない。そのための協力は惜しまないつもりだ』 「ありがとうございます」 快斗の顔にようやく笑みが戻った。 先ほどまでの冷えた笑みではなく、昔のように屈託のない笑みで。 それが声で伝わったのだろうか、優作も明るい声で「どういたしまして」と返した。 時計を見ればもう一時になる。 あまり遅くまで起きていると新一が気にして起きてしまうかも知れない。 快斗が別れを切り出すと、優作はおやすみとともにまるで明日の天気でも告げるように軽快に爆弾発言をかました。 『そうそう、私の本の影響かは知らないが、どうやらあの子は探偵になりたいらしいんだ。ばれないようくれぐれも気を付けなさい』 それじゃあまた電話するよ。 優作はそれだけ言うと、一方的に電話を切ってしまった。 快斗は受話器を片手に暫し呆然と立ち尽くす。 やがてようやく優作の言葉を処理できた時、快斗は思わず声に出していた。 「…怪盗と探偵がひとつ屋根の下だってえ?」 十年という溝をようやく埋めたというのに、また新たな問題が浮き彫りになるなんて。 快斗はこの先の波瀾万丈な生活を思い、なんとも複雑な溜息を吐いたのだった。 |