『……信じろと言う方が、無理な話だわ。』
押し潰されそうなプレッシャーを意志の力でねじ伏せながら、哀は自分を悠然と見下ろす女にそう言った。 とても見慣れた、けれど二度と見たくなかったその人。 平穏というぬるま湯に浸る内に鈍ったとばかり思っていた嗅覚は、それでも彼女の中の闇を嗅ぎ分ける。 未だ闇に近い場所を、或いは闇そのものの中を歩いているのだろう。 哀の目前に立つのは……ベルモット。
『別に信じて欲しくて来た訳じゃないのよ。そんな不毛なことのためじゃないの。』
ここは阿笠宅だ。 居間には博士が居るし、少年探偵団も遊びに来ている。 哀がいるのは地下の研究室兼治療室であり、そこへ突然、優作の変装をして平然と彼女が現われたのだった。
油断は出来ない。 今にも逃げ出したい衝動に駆られながら、哀は必死にそれを抑えた。 博士が居る。子供たちも居る。 今、この女に対応出来るのは哀しかいなかった。
『…なら、どういうつもり?』
突然現われた彼女が言ったこと……
“天使の命が危ないわ。助けに行くから、薬を頂戴。”
天使とは、薬を寄越せと言うからには十中八九新一のことだろう。 けれど、そもそもなぜ彼女が生きていて、黒の組織を潰した彼を助けたがるのか。 恨みこそ抱いても助ける必要がどこにあるのか。 到底、信じろと言う方が無理だった。
けれど哀は信じざるを得ない証拠を突きつけられる。
『“白き衣”は“天使”を助けるために在る……それだけのことよ。』
ぐいと押し広げられた彼女の白い胸元には、丸い痣がくっきりと浮かび上がっていた。
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◆◆◆ 蒼天使 ◆◆◆
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彼女は被っていたマスクを剥ぎ取った。 びりびりと破れ、志保だったはずの顔が一瞬にして別の顔となる。 そこに現われたのは紛れもないアメリカの大女優クリス・ヴィンヤードであり……つまり、ベルモットであった。
「さすがね。ミスターハクバはこれで騙せたというのに。」
羽織っていた白衣を脱ぎ捨てる。 怪盗キッドのように一瞬にして、というわけにはいかないが、それでも先ほどとは体型ですら違って見えた。 流石は組織一の変装の名人と言われるだけのことはある。 が、感心している場合ではなかった。
組織壊滅のその瞬間、生死を確認出来なかったのはジンだけではない。 ウォッカや他数名はジン同様に行方を眩ませている。 けれど……彼女は死んだはずだった。 目の前で、瓦礫に呑まれていったはずだったのに……
「なぜ生きてる――って顔ね?」
クス、と笑みを零しながらベルモットが歩み寄る。
「目の前で、瓦礫と化した組織のビルの下敷きになったはずなのに?」
「…」
新一はもう随分と楽になった体を起きあがらせると、注入されていた点滴の管を素早く引き抜いた。 手荒く抜いたせいでうっすらと血が滲むが、新一の視界には入らない。 患者服に着替えさせられているのが動きにくかったが、それでも巧みにベルモットとの間を取る。 けれど、ベルモットは途中でぴたりと動きを止めたのだった。 浮かべた笑みに、どこか昏い哀しみを湛えて言う。
「貴方が、そうしたのよ。」
「――え?」
ベルモットは徐に胸元を掴むと、ぐいと広げて見せた。 くっきりと白い肌に浮かび上がっているのは、硬貨より少し大きめの丸い痣。 新一は彼女の行動を怪訝そうに見遣った。
「“白き衣に守られし蒼き月の御子、其の身に蒼き命の炎を宿さん”」
鼓膜に響く、流れるような言葉の羅列。 その不思議な音に惹きつけられながら、それでも新一は警戒心を解こうとはしなかった。
「私の胸にあるこの印は、白き衣であるという証。そして、白き衣は蒼き月の御子を護るために存在する。」
ベルモットの手にはナイフが輝く。 新一が思わず身構えた時、
「そして蒼き月の御子とは、其の瞳に蒼き炎を宿す……貴方のことよ。」
彼女の手にしていたナイフは、意外にも彼女自身を傷付けたのだった ス、と腕に入った、赤い一本の筋。 血が溢れ、肘を伝ってぽたりぽたりと床を染めていく。 新一は不可解なその行動に眉を寄せながら、ベルモットの言葉を反芻していた。
蒼き炎を宿す瞳。 他でもない、自分の特殊な瞳のことを言っているのだ。 なぜ、彼女が知っているのか。 幼馴染みや隣家の博士、主治医である哀ですら知らないはずだというのに。 けれど新一は、彼女を見て瞠目したきり何の言葉も発することが出来なくなった。
「そうでしょ?…私を、不老不死にしたのだから。」
いつの間にか出血の止まっている腕。 それどころか、血で汚れてはいるが怪我の痕が全くない。 彼女が袖で腕を拭えば、そこには綺麗な肌があるだけだった。
「そんな…」
「貴方の治癒能力が作用した結果よ。おかげで、瓦礫の下に埋もれても死ねなかったわ。」
「俺の治癒能力、だと…?」
彼女が御子によって授けられたものは治癒能力だけだった。 けれどその能力の高さゆえに、それは起こった。
負傷し、正常な状態でなくなった細胞を、その人の意志に関係なく削除し再生する。 一定期間が経ち、老朽化した細胞もまた然り。 そうして内も外も常に“正しい状態”に強制的に治癒され、結果、不老不死となってしまった。 精神が衰えることもなければ肉体が衰えることもない。 常にその時のその姿を“正しい状態”とされるのだ。
ゆえに、彼女は年を取らない。 怪我を負ってもなお、高すぎる治癒能力のために死ぬこともない。 その胸に“月”を持つ“白き衣”にして、不老不死。 この長い年月、彼女はずっと捜していたのだ。
蒼き月の御子……蒼天使を。
「貴方は永遠をもたらす“パンドラ”をその身に持って生まれた、月の御子よ。」
「月の御子…?パンドラ、だと?」
「有希子も甘い。まだ何にも話してないのね。話せば立ち直れないとでも思ってるのかしら。」
知らぬ間に、その背に勝手に背負わされることになった運命。 その重みに耐えきれず、倒れてしまうとでも思っているのだろうか。
「そんなに柔じゃない。その程度じゃ崩れないわ。真実を知って尚、それに立ち向かう意志と強さを持ってる。」
時間を奪われて。 高校生として、探偵として、何食わぬ人生を送っていくはずだったのが、突然崩れて。 それでも尚、屈することのなかった高貴な魂。
たった一点の光が、周りに広がる闇を払拭しようとした姿を忘れたか。
「貴方は自分が思うよりずっと過酷な運命の中に立ってるわ。何より辛いのは、そこに他人も巻き込んでしまうこと。それでも、真実を受け入れる?」
ベルモットが新一の側へと歩み寄る。 不思議と、なんの抵抗も感じなかった。 今まで感じていた押し潰されそうなプレッシャーも、肌を粟立たせる殺気も。 何も感じず、ただ、彼女が歩み寄るのを新一はじっと見つめていた。
知らなかったわけではないのだ。 優作や有希子が何かを隠していることも。 何かを必死で探っている哀も。 笑顔を見せながら、常に警戒している白牙も。
今までより必死な様子でパンドラを探し、まるで護り包み込むような笑みを向ける――快斗も。
それぞれが必死に、何かひとつの目的を成し遂げようとしている。 それに気付かなかったわけじゃない。 ただ、必死で隠そうとしているからこそ聞けなかった。 自分の周りにいる奴は、どいつもこいつも人のことを優先するから。 誰のためかなんて、聞かなくてもわかっていたから。 話して貰えるまで待とうなんて殊勝なことを、珍しくも思っていたのだけれど。
「俺は、何からも逃げない。」
そんな奴らを巻き込んでしまうというのなら。
「運命だろうが何だろうが、受け入れてやるさ。」
「…OK。」
不適に笑った、敵であったはずの女。 何の因果か、自分を護る“白き衣”と呼ばれる者のひとりらしい。 そうしておそらく……パンドラを探すあの白い怪盗も、そのひとりなのだろう。
自分を護ると言った快斗。 怪我をさせたくないと、一緒に戦いたいと言った、快斗。 一体いつから知っていたのだろうかと思う。 自分の運命を、そして彼の運命を。 ひとりで――或いは白牙もそうなのかも知れないが――その運命を背負おうとしたのだろうか。 だとすれば相当な馬鹿だと、新一は眉を寄せた。
この体の中にあるらしい、命の石。 それを巡って失われた尊い命。 恨まれても仕方のない身の上で、なのにそんな自分を護ると言った快斗。 どれだけの葛藤がそこにあっただろうか。
そんなことも知らずにのうのうと暮らしていたのかと思うと、新一はとても自分を赦せなかった。 ギリと噛み締めた口内にじわりと血の味がしはじめた頃。
突如として鳴り響いた凄まじい爆音に、病院全体が揺さぶられたのだった。
* * *
『何事です!?』
白馬とレオナルドは素早く立ち上がると、直ぐさまふたりして扉を潜り廊下へと抜けた。 院内だというのに、中は騒然としている。 各部屋から患者や見舞客が顔を出し、口々に何事かと囁きあっている。 が、この中で正確に状況を知る者は少ないらしく、誰もそれに答えを返せないでいた。
『レオ!今のは爆弾ですか?』
『ああ、間違いない。それも結構な量の火薬を使ってやがるな。』
レオナルドは元爆弾処理班に所属していたこともあり、爆弾の知識にかけてはプロフェッショナルだ。 爆音と爆発の規模、建物への影響などからどの種類の爆弾かを弾き出していく。 けれどそれよりも脳裏を過ぎるのは……
『…彼、でしょうか。』
『ま、このタイミングじゃそうだろうな。』
新一が怪我を負った今、最も狙いやすいのはこの時をおいて他にない。 爆弾は或いは、彼なりの宣戦布告のつもりなのか。
とにかく、第二弾がないとも限らない。 爆発現場を捜そうとした時、患者のひとりが叫ぶ声を聞いた。
『見ろ、屋上から火が出てるぞォ!』
ふたりは確認しあうまでもなく駆け出す。 向かうのは、屋上へと続く非常階段だ。 立ち入り禁止の札も鍵も全て無視して、勢いよく扉を打ち開ける。 するとそこには煙が充満していて、あちこちに火がついていた。 無惨に砕け散り、跡形もなくなった給水塔。 残骸がふたりの足下へと転がっている。
『火は少ない……これぐらいならすぐ消し止められますね。』
『ああ、消防隊も誰かが呼んでるだろう。』
遠くでサイレンが聞こえる。 直に消防隊や警察が駆けつけるはずだ。 二発目がないとも限らないと、ふたりは口を覆いながら辺りを見回したが…
『心配しなくてももう爆弾はねぇよ。』
音もなく、気配もなく。 いつのまにそこに居たのか、背後から聞こえた声にぎょっとして振り返った。 一気に間合いを取り、身構える。 レオナルドの位置を気にしながら、白馬は声の主、アレスへと向き直った。
『また、貴方ですか。』
『そう邪険にすんなよ。もっとスマートに呼び出したかったんだが、名探偵のおかげでどうにも巧くいかなくってな。』
そう言ってアレスは如何にも面倒そうに肩を竦めた。 切れ長のグレーの瞳が印象的な、長身の男。 左のこめかみに切り傷が二筋、淡い色の短い髪。 昼の、まだ日も高いこの時間に、堂々と刑事の前へと姿を現せてみせる。 捕まえられるものなら捕まえてみろと、まるで警察を弄んでいるかのようだ。 否、実際、彼にとっては遊戯にすぎないのかも知れないが。
白馬は込み上げる嫌悪感を押しのけて、アレスに向かって言った。
『なぜ貴方はこんなことを?』
それは、彼が常に犯人たちへと問いかけてきたことだ。 犯罪を犯すからには理由がある。 人によってモノはそれぞれだが、皆、何かを護るために罪を犯すのだ。 自分を護るため。誰かを護るため。 それは或いは人ではなく、目には見えない、心や誇りだったりもする。
けれど白馬には、目の前のこの男に“護るべき何か”を見つけることが出来なかった。
私怨からでもなく、どうして他人に頼まれたというだけで人を殺めることが出来るのか。 それが解らないと、問いかけたのだが。
『これはゲームだからさ。生きるか死ぬか、俺と俺以外の奴の存在を懸けて行われる究極のゲームなのさ。』
返ってくる答えは、どこまでも救いようがない。
『…そんなことのためにレオの命を?』
『人間なんて山ほど居るんだぜ。ひとりふたり減ったところで何も変わらねぇ。他の奴は知らん顔だ。』
昏い笑みを口元に浮かべながらアレスが言う。 そこに在るのはただ狂気ばかりで、白馬に理解出来るはずもなかった。 この男との会話には何の意義もないのだ。
『依頼したのは誰ですか?』
『依頼人の名は言えねぇな。これでも守秘義務ってのは守ってるもんでね。』
まあそれも、仕事が終わるまでの話だが。
『ただ、昔そいつにしょっ引かれたらしいな。根に持ってるんだろ。』
『ということは、前科のある誰か…』
『ま、そんなもんに興味ねぇよ。』
ぴくりと、白馬が反応した。 そんな興味のない、つまらないターゲットにこの何週間をも費やした理由。 考えるまでもない。 ゲームの対戦相手が新一だからだ。
『……工藤君を殺す気ですか。』
白馬の気配がにわかに殺気立つ。 今、彼は漸く目覚めたところで、まだ休養していなければならないのだ。 理不尽な理由でこんな場所へは呼び出せない。 もちろん、肩を撃たれているのにこの上怪我を負わせるなど以ての外だった。
『なぜ工藤君を…!』
『そんなもん決まってる。楽しいからさ。』
『『!』』
レオナルドが走り出す。 それまでふたりの会話を傍聴していた彼だが、その台詞は赦せなかったのだ。
『この野郎…!』
『レ、レオ!』
胸元に隠し持っていた拳銃を素早く掴み取り、慣れた仕草で相手の眉間へと照準を合わせる。 引き金にかけた指をギリギリの理性で保ち、レオナルドが叫んだ。
『俺が標的なら俺だけを殺れ!他の奴を巻き込むんじゃねぇ!』
『良いだろう。冥土の土産に相手をしてやる。』
対するアレスは、銃器らしき武器は手にしていない。 なんとも無防備な体勢で、睨み付けるレオナルドを悠然と見返す。 レオナルドの脳裏に、国際犯罪者アレスの情報が巡った。
銃器のプロフェッショナル。 刃物での犯行もある。 毒殺、爆弾なども使用する知能犯。
そして――体術のスペシャリスト。
まるで死角はないが、それでも。 何もせずに護られるだけの、情けない男で終わりたくはないから。
『殺れるもんなら殺ってみろ――!』
どこかから、風を切り裂くような音がした。
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あ゛ーなんだかうまく書けません。 伝わってるでしょうか??ベル姐さんは白き衣のひとりであります。
そしてタイトルの蒼天使とは、つまりベル姐さんが新ちゃんのことをそう呼んでるってことなんですねー。
アレスもちらっと出てきて…彼の過去もチラッとどこかで書きたいもんですね。
03.10.28.
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