「心配しなくても直るわよ、貴方の腕。」


 それまでずっと白馬とレオナルドの護衛をしていたベルモットは、そう言ってふたりのもとへと歩み寄った。
 新一がこれ以上ないほどに目を見開き、信じられないとばかりに彼女を見つめる。
 それを優しく受け止めて、ベルモットはそっと新一の涙を指で掬い上げた。


「見て…彼の血、止まってるでしょ?」


 慌てて見遣れば、確かに撃たれたはずの脇腹からの出血は止まっている。
 白いスーツは深紅に染まっているが、恐る恐ると止血していた手を外してみても、新たな血が流れ出ることはない。
 キッドもこれには驚いているのか、新一の顔を茫然と見つめた。
 ベルモットが小さく声を立てて笑う。


「貴方は新一に治癒されたのよ。」

「治癒?」


 キッドは何も特別なことはしていないと怪訝そうな視線を向ける。
 確かにキッドの血は止まり、腕の痛みですら一秒ごとに引いていっている感覚はするが…
 泣く新一をただ抱き締めていただけ。
 その温もりをより近くで感じていられるよう、ただ抱き締めていただけだ。

 そして、ふと気付く。
 蒼い炎を湛えた瞳で泣いている彼に。


「……涙、か…?」


 その通り、とベルモットが肯定する。
 そうして、何とも形容しがたい表情で言った。


「パンドラの涙はどんな傷も癒せるのよ。」


 それ故に、終わりなき悲劇が繰り返されるのだ。
















◆◆◆ 蒼天使 ◆◆◆
















 詳しい事情をほとんど知らされていなかった新一は、訳が解らないとふたりの会話に耳を峙てていたが、次第にキッドの傷が癒えていくことにひどく安堵していた。
 彼を失ってしまうのではないかという恐怖感はもう消え去っている。
 だというのに、なぜか新一の涙が止まることはなかった。
 新一の意志などお構いなしに次から次へと流れ出ていく涙が、雫となって落ちていく。
 それがキッドの体で弾ける度に、キッドの体に出来たどんな小さな傷でもたちまち癒えていくのだ。
 理由も何も解らなかったが、新一はキッドの折れた右腕をそっと両手に握りしめると、まるで祈るように額に押し当てた。
 こぼれる涙がキッドの指に、掌に、腕に、落ちて弾けては消えていく。
 涙の弾けた先からだんだんと淡い光に包まれていくその光景は、ひどく神秘的であった。


「――工藤君。」


 不意に声を掛けられ、握りしめていたキッドの腕をそのままに新一が振り返る。
 茫然と佇む白馬とレオナルドの姿が見え、新一は曖昧に笑うことしか出来なかった。
 キッドと自分、そしてベルモットという3人の不思議な繋がりを知られたからには、もう日本で安穏と探偵を続けることも出来ないだろう。
 けれどそれを少しも悔やんでいない自分がいることも確かだ。
 “護られる”のではなく“共に闘う”ことが、新一の望みなのだから。


「…騙したような形になって、悪かったな。」


 新一の顔に苦笑が浮かぶ。
 白馬がキッドをずっと追い続けていたことはもちろんよく知っていた。
 犯罪者でありながらクラスメートという特殊な存在である彼を、或いは特別な存在だと思っているだろうことも、よく知っていた。
 それを知りながら黙っていたことは……騙したと言っても過言ではないのだ。

 けれど、そのことについて償うつもりは毛頭ない。


「もう俺には関わるな。」

「!」

「俺に関わればいつか命を落とすことになる…」


 白馬とは長い付き合いでもなければ、深い付き合いがあった訳でもないけれど。
 死なせたくないと、思う。
 人のことに勝手に首を突っ込んで、勝手に身を滅ぼしていく……
 そんな、どこか自分に似た危うさを持つ彼を、新一は自分で自覚している以上にずっと大事に思っていた。

 知り合って間もない新一を護ると言った白馬。
 正直、護られるほど弱くはないと新一は腹を立てた。
 けれど、“弱い”から護るのではなく“大事”だから護るのだと快斗に言われ、そんなちっぽけな怒りなどとうになくなってしまった。

 白馬を巻き込みたくないと思う。
 彼には自分がいるこの世界とは関係ない、平穏な世界で生きていて欲しい。
 そしてその白馬の相棒であるレオナルドにも平穏に暮らしていて欲しいと思うのだ。
 自分と関わらないことで彼らの平穏が護られるなら、新一は躊躇わず彼らとの繋がりを断つだろう。
 新一を“護る”と言った彼らの気持ちも今なら解る。
 白馬もレオナルドも新一の大事な友人だ。
 だからこそ、新一も今、彼らを護りたいと思うのだ。


「迷惑かけちまったけど……サンキュ。」


 バタバタと階段を駆け上ってくる数人の足音に、キッドがすっと立ち上がる。
 折れたはずの右腕をぎゅっと握りしめ動くことを確認すると、新一の手を掴んで引き寄せた。
 何の抵抗もなくキッドの胸の中へと収まった新一は、相変わらず苦笑を浮かべたままだ。


「ここは私が引き受けるから、キッドは新一をあそこに。」

「OK!ヘマしないでよ。」

「…誰に向かって言ってるのかしら?」


 ふふ、と楽しげに笑う彼女にキッドも笑みを返し、新一を促して屋上の端へと立つ。


「新一。しっかり掴まってて。」


 返事の変わりに新一はキッドの背中へとまわした腕にぐっと力を入れる。
 いつの間にか涙は止まっていたが、久しぶりに泣いた所為か、瞳の奧がジンと痛むような気がした。
 そうして、今まさに白い鳥が飛び立とうと言う時。


「…黒羽、君…」


 白馬の掠れたような声に呼び止められる。
 そのまま聞こえなかったフリをして飛び立っても良かったのだけれど……
 キッドは瞳を閉じてひとつ呼吸をすると、ゆっくりと振り返った。


「白馬。」


 怪盗を装わない、白馬のよく知っているもうひとりの自分の声で。


「俺、お前が大っ嫌いだった。いつもいつも突っかかってくるし、はっきり言って鬱陶しかった。」

「君、は、やはり…っ」


 初めての、キッドと快斗が同一人物であると認めるようなその発言に白馬が驚く。
 けれどキッドは……快斗は、少しもそれを気にすることなく。


「でもさ。誰も見つけてくれないもうひとりの俺を見つけてくれたことは、嬉しかったんだ。」


 装うことに疲れた日もあった。
 罪悪感に潰されそうになった日も、数え切れないほど、あった。


「でも、そんな俺を立ち上がらせたのは新一と……お前だ。」

「僕が…?」

「お前はいつも真っ直ぐぶつかってきた。…負けらんねぇ、と思ったのかもしれない。」


 いつからか解らなくなりかけていた“自分”というものに、いつだって気付かせてくれた。
 気障な怪盗紳士でも、愛想の良い高校生でもなく。
 白馬は、いつでも“黒羽快斗”にぶつかって来たから。


「俺はお前が嫌いだ。でも、絶対死なせたくない。巻き込みたくない。だから……」


 こちら側の人間には絶対になるな。

 翼を広げ、鳥が飛び立つ。
 白馬は茫然と遠ざかっていくその姿を見つめていた。
 振り返った彼が見せた表情が網膜に焼き付いている。
 不適に笑っていながら……紫紺の瞳に浮かんでいたのは、驚くほど真摯な色。


「………僕は、君の力には……なれないんでしょうか…?」


 追い求めたのは、捕まえたかったからではなく。
 暴きたかったわけでもなく。
 いつも何かを護ろうと必死に立ち向かう彼の力になりたいと、望んだだけ。










* * *


 快斗に連れて来られたのは、リヨンの郊外に建てられた、古びていながらもしっかりとしたアルカイックな邸宅だった。
 ここはベルモットがまだシャロン・ヴィンヤードという女優として過ごしていた時期に購入したもので、彼女の死後も未だヴィンヤード家が所有しているらしい。
 工藤家同様にいくつもある別荘のうちのひとつと言うことだ。
 ホテルなどとは違い切り離された個別の空間であるため、他人の干渉を気にする必要もない。

 そうして快斗は、ここへ着くなり適当に見繕った寝室のベッドへと押し倒され、服を剥がれていた。


「新一、もう平気だってばっ」

「五月蠅い。ちゃんと見るまで納得しねぇ!」


 怪盗の白い装束を強引に脱がし、アレスに撃ち抜かれたはずの脇腹を確かめる。
 けれどそこには銃痕すら残っておらず、綺麗なものだった。
 漸く気が済んだのか、新一がほっと安堵の息を吐いた。


「あんな真似、二度とするんじゃねぇぞ…」


 快斗の右手をぎゅっと握りしめながら言う。
 庇われたのだと、撃たれたのだと気付いた時、まるで生きた心地がしなかったのだ。
 自分の肩を貫かれた時よりも、強い痛みが新一を襲った。

 或いは無意識かも知れないが、快斗が手や指先にかなり気を遣っていたことを新一は知っている。
 白牙や新一としょっちゅう喧嘩をするくせに、快斗は一度として殴ったり叩いたりしたことはなかった。
 手はマジシャンの命。
 基盤であり、それがなければ夢を魅せることなど出来ない。

 そんな大事な腕を折られるなど……そんなこと、二度と赦しはしない。


「…新一こそ。」


 ぐいと腕を引かれ、新一の視界が180度回転する。
 快斗に跨るようにして抑えこんでいた新一は、快斗によって天井を仰がされていた。
 のし掛かる快斗を怒ろうとして、けれどズキリと走った痛みに声を奪われる。
 気付けば、苦渋に眉を寄せた快斗が、新一の肩の傷口を優しく指でなぞっていた。


「こんな傷つけやがって。新一の体…傷だらけじゃん…」


 脇腹の銃痕。
 スコッチに付けられたナイフの傷痕。
 そして、肩の銃痕。
 一生消えない傷が、体のあちこちにつけられている。

 治癒能力を持つ月の御子だが、生命力は強くとも自らを治癒する力はないのだ。


「その上アレスにばらしちまった。もっともっと傷が増えることになる。…お前ばっかりっ」


 押し倒したまま、快斗が新一の体をきつくきつく抱き締める。
 肩の傷に響いたけれど、新一はその腕を振りほどこうとは思わなかった。

 アレスに撃たれ、病院のベッドで目を覚ました時。
 新一の脳裏に真っ先に浮かんだのは快斗のことだった。
 今ここに居ないはずの快斗の存在を感じ、そして……逢いたいと思った。
 それはパンドラの見えない鎖に繋がれていたからかも知れない。
 けれど、これだけは。
 この腕を求めた気持ちだけは、そうではないと言える。


(……ほんと、冗談じゃねぇよ…)


 鬱陶しいとばかり思っていたのに。


(お前にこうされてんの、好きかも知れないなんて。)


 抱き締めて抱き締められる、安心感。
 何よりもその存在を近くで感じられる瞬間。
 直接伝わる熱。鼓動。気持ち。


「…俺ばっかりじゃねぇよ。」


 自分を想う快斗の気持ちが、痛いほど伝わってくる。


「お前、俺と一緒に闘うんだろ?闘ってくれるんだろ…?」

「当たり前だ!嫌だっつってもそうするって、前にも言っただろ?」

「じゃあ、俺だけじゃねぇよ…」

 ……俺と一緒に、傷ついてくれるんだろう?


 眼前にあるのは暗闇だ。
 一寸先ですら見えない、暗闇だ。
 もしかしたら直ぐそこにあるかも知れず、ずっとずっと先にあるかも知れない、終わり。
 けれど。


「…良いよ。新一と同じ傷なら、いくらでも受けてやる。」


 きっと多くの傷を抱えることになる。
 数え切れないほどの傷を、その身に受けることになるだろう。
 それは肉体的なものであったり精神的なものであったりと様々だ。
 けれど、運命に流されるだけの、傷付いて泣くだけの人にはなれないから。
 逆らわずには、いわれないから。

 どこまでも、貴方とともに堕ちて行く。










* * *


 それは実に簡単だ。
 まるで演奏家が音を奏でるように、彼女にはソレをすることが出来る。
 手を翳し、心で命じるだけ。



 我 ガ 声 ハ 神 ノ 言 霊 ナ リ



 絶対の命令。
 紡がれるその言葉に、否応なしに従わされる、神の言葉。


「破却せよ。」


 途端、体の中で何かがはじけ飛ぶ。
 ふとつに分かれ、さらにふたつに分かれ……
 そうして、気付けば原子にも満たない粒子となる。
 分けられたそれが再構築されることはまず有り得ない。

 糸の切れた傀儡人形のように倒れ込むふたつの影を見て、ベルモットは悠然と微笑んだ。


「彼の障壁となるモノは、何であろうと取り除くわ。」


 白い鳥がそうであるように。
 白い牙がそうであるように。

 姿を持たない白い影である自分もまた、彼のために、非情になる。



 弾けたのは、記憶。





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あれ…終わらなかった(笑)
あと一話にて終わります、「蒼天使」。
ちなみに最後の「彼女」とはベル姐さんのことです。
ベル姐さん、めちゃめちゃ怪しいですね。笑。
つまるところ「暗示」をかけているんですよ〜。

03.11.14.