月をバックに舞い降りた怪盗は、幻想的なイメージを探偵に植え付けた。 白装束に身を包んだ正体不明の大怪盗。 そんな怪盗と対峙しているのは、しばらく世間から遠ざかっていた平成のシャーロックホームズ、名探偵工藤新一だった。 |
交叉 |
工藤新一が姿を眩ましてから一年と数ヶ月という、本人には気も遠くなるほどの長い時間が過ぎた頃、元組織の一員である灰原哀が精製した解毒剤によって新一は漸く元の姿を取り戻すことができた。 江戸川コナンという存在を消し去ることは新一の心を躊躇わせ周囲の人々の心も傷つけたけれど、その先にある組織との徹底戦線のためには仕方のないことだった。 元の姿を取り戻した新一は極数人の協力者によって、或いは情報を巧みに操作し警察機関を操ることによって、組織の主力を削ぐことに成功した。 だが組織は瓦解したもののまだ数十人という残党が根強く残っている。 そのため新一は元の姿を取り戻しても公に活動することができず、以前のようにマスコミの前に姿を現すことはなくなった。 けれど彼の探偵としての頭脳は警察関係者にとってなくてはならない存在で、相変わらず警視庁からの呼び出しはひっきりなしに掛かる。 新一は今、組織の残党から身を隠しながら彼らを追跡する日々を送っていた。 静寂に包まれた工藤邸に突如として電話の音が鳴り響く。 新一はなにか嫌な予感を覚えながらも読んでいた小説を横に置くと、受話器を取って耳に当てた。 そこから聞こえてきた声に心底「出るんじゃなかった…」と後悔しても、時既に遅し。 『やあ新一、元気にしてたかい?』 「――なんか用か」 『こらこら、挨拶ぐらいしたって良いようなもんだろう』 そんな台詞に反して少しも堪えていない彼、工藤優作は、受話器の向こうでくつくつと喉を鳴らした。 彼に関わると決まってろくなことがない。 そのことを誰より身に滲みて知っている新一のこのそっけない態度も仕方ないだろう。 新一はぞんざいな溜息をついた。 「用がないなら切るぜ、おやすみ」 『待ちなさい、用がないなんて一言も言ってないだろう』 あるともな、と返してやったら、受話器越しに再び笑い声が聞こえてきた。 けれど新一が何かを反論するより先に優作は用件を切り出した。 『実はお前に頼み事があってね』 「パスだ。父さんの頼み事はいつもろくなことがない」 『頼むよ新一。これは息子としてではなく、探偵として、ひとつ引き受けてもらいたいんだよ』 「…探偵として?」 からかいのない声音に、とりあえず用件だけでも聞こうと新一は態度を改めた。 『今度、私の友人が日本に帰国する際に家宝を持っていくそうなんだ。その家宝が大層有名な物でね。数日の間だけ公開することになったんだよ』 「それで?その家宝の警備でもしてくれってんなら、俺に頼むのは筋違いだろ。警察に頼むべきだ」 『まあ待ちなさい。その家宝が、世界有数のビッグジュエルと呼ばれる宝石だと言えば分かるかい…?』 新一は思わず「ビッグジュエル…」と声に出して反芻した。 拳大ほどにもある大きな宝石、ビッグジュエル。 そこから連想されるものはただひとつ―― 夜空を舞う白い鳥、月下の奇術師こと怪盗キッド。 現在は主に日本を拠点として活動しているが、かつては世界を舞台に飛び回っていた正体不明の大怪盗だ。 「予告状が来たとでも言うのかよ」 『その通り。さすがは私の息子だね』 「でも、キッドだろうが何だろうが、泥棒は管轄外だ。直接警部に連絡取れよ。父さんの頼みなら聞いてくれるだろ」 『ところがその友人は警部殿では頼りないと仰ってな。もっと頼れる人はいないのかと縋られて、それじゃあとお前の名前を出したんだよ』 「おいおい…俺はただの高校生だっての…」 『いやいや、彼は工藤新一と聞くなり大喜びで快諾してくれたよ』 名探偵とマスコミに取り上げられていただけあるね。 そのくすくす笑いが勘に障って、新一は一層声を低めて言った。 「勝手に約束しやがって、こっちの都合は完全無視かよ」 『おや?今は大した事件もなかったはずだが』 そう言われ、新一は言葉に詰まった。 確かに優作の言うとおり現在特に何か事件を抱えているわけでもないため、はっきり言って暇だ。 ただ、海外にいて道楽な生活を送っているはずの優作がそれを知っていることに新一は驚いているのだ。 またこの親父は勝手に身辺調査しやがって…と、知らず受話器を握る手に力が入る。 「…俺にその依頼を受けなきゃならない謂われはねえっ」 『ははは、そんなこと言っていいのかな、新一くんv』 と、がらりと変わった口調に新一はたじろいだ。 そして尚も受話器越しに聞こえてくる脅迫に新一はさらに硬直したのだった。 『新ちゃんたら、言うこと聞いてくれないとお母さん遊びに行っちゃうぞぉv』 『有希子からも頼んでやってくれv』 『蘭ちゃんを誘って三人でどこかに遊びに行くのもいいわねv』 あーだこーだと迷惑甚だしい想像を楽しげに語り続ける有希子に新一が叶うはずもなかった。 実際この両親に逆らえたためしはない。 自分を産み落とした両親に心中で「悪魔だ…」と呟いた新一に罪はないだろう。 結局、問答無用の依頼に怒りながらも新一はこう言う外なかった。 「わーったよ!やれば良いんだろ、やれば!」 ふんっ、と荒々しく鼻で息を吐いて、新一は思い切り電話を切ってやった。 その後、詳しい説明を聞いていなかったために優作から再び電話がかかってきたことは言うまでもない。 * * * 「これはこれは名探偵殿。一課専門の貴方に会えるとは、なんとも嬉しい偶然ですね」 ビルの屋上に静かに舞い降りた怪盗は笑みとともに優雅な一礼をしてみせた。 対する新一はと言うと、強引な両親による不本意ながらの対峙とあっては、とても悠長に挨拶する気分になんてなれなかった。 自然、声にも不機嫌さが滲み出る。 「うるせえな、不本意だよ」 できれば顔も見たくなかったんだから、とは新一の心中にだけ吐かれた台詞だ。 探偵というものに誇りを持っている新一には、以前キッドに言われた言葉に許せないものがあった。 別に批評家云々に文句をつけるつもりはない。 人の解釈なんてそれぞれだし、そんな安っぽい言葉で潰されるほど陳腐な誇りを掲げていたわけでもないのだから。 ただ新一が許せないのは、自分のことをまるで棚上げした怪盗の物言いだった。 「そういえば、貴方とは初対面ですね」 わざと「貴方とは」と強調してくれるあたり、怪盗が彼の存在にしっかり気付いていたことを言外に伝えているようで、新一はむっと眉間に皺を寄せた。 彼――江戸川コナンが工藤新一であること。 それは一部の戦友だけが共有できる記憶であり、新一が一生抱えていく秘密でもあった。 長い長い、気も遠くなるような組織との対決。 奴らの犠牲となって消えていったいくつもの命。 そして、苦労の末に漸く灰原が完成させた解毒剤によって、新一は元の姿を取り戻すことができた。 まあオマケに厄介な副作用なんてものを背負い込んでしまったが、生活し慣れたこの姿を取り戻せた喜びに勝るものはない。 その記憶の端々に、なぜかこの怪盗は度々現れるのだ。 「…怪盗にハジメマシテの挨拶なんて必要ないだろ?」 「ええ。正確には、今の貴方とも初対面ではありませんしね。…御存知ないでしょうが」 キッドが言っているのは時計台の事件のことだ。 それは新一がコナンになる前の話しであり、そこで新一は既に怪盗キッドと対峙したことがあった。 けれど時計台を盗んだ怪盗がキッドであることを知らない新一は、キッドが何を言っているのかよくわからなかった。 「ここに来たってことは盗んだんだろ?」 「ええ、勿論」 そう言ってキッドは今日の獲物であったエメラルドを胸ポケットから無造作に取り出すと、それを月へと翳した。 なにかの儀式のように神聖なその光景。 新一は動くことができなかった。 以前にもキッドのこの行動は見たことがある。 もちろんその行動の意図するところはわからないけれど、それでもそれを問いただそうとしないのは、聞いたところで彼の口からまともな答えが返ってくるとは思っていないからだ。 精々言葉巧みに惚けられるのがオチだろう。 そして今夜も新一は何も言うことなくこの儀式が終わるのをただ待っている。 キッドはふと吐息をもらすと、不適な笑みとともにエメラルドをぽんと放って寄越した。 予想していたかのように新一は手袋をはめた手で身軽にそれを受け取る。 満足そうに微笑むキッドはまるで罪など知らない子供のようだ。 「ったく、税金の無駄遣いしやがって…」 「お騒がせして申し訳ないとは思いますが、無駄とは思っていませんよ」 「…迷惑なのは一般人なんだよ」 はあ、と言っても仕方のない文句を溜息で誤魔化して、受け取ったエメラルドをポケットの中に仕舞い込むと新一は踵を返した。 優作の脅しで仕方なく依頼は受けたが、もともと泥棒は管轄外だ。 それに、高校生探偵なんて絶対に認めないと言う頭の堅いあの熱血警部に、新一は内緒で動いているのだ。 優作の名前を出せば許可ぐらい下りるだろうが、たとえ名前だろうとあの人の力は借りたくない。 すっかりキッドから興味の逸れた新一がどうやってこれを返そうかと考えていると、不意にキッドが声をかけた。 「捕まえないのですか?」 声まで覆うポーカーフェイスは感情ひとつ読みとらせない。 新一は振り返ると、捕まえて欲しいのか、と悪戯な笑みとともに言った。 まさか、とキッドは肩を竦める。 「ま、捕まえても良いけど、泥棒に興味ないし…どうせ捕まえる前に逃げ出すだろ?」 「おや、貴方は正義の名の下に悪は絶対に許さない方だと思ってましたが」 「俺は聖人君子じゃない。正義なんて大層なモン掲げる気はねえよ。まあ、許せないことはもちろん妥協しねえけど…」 「ではなぜ?」 「…おかしな奴だな。まるで捕まえて欲しいって言ってるように聞こえるぜ?」 目の前の相手が何を考えているのか新一にはわからない。 けれど、口元に浮かぶその笑みが、彼がこの会話を楽しんでいるのだと言外に言っていた。 「まあ、今日の仕事は思い切り不本意だから、かな。あいつの思い通りに動いてやるのも癪だし」 「あいつとは?名探偵の不機嫌を買ってまで貴方を動かせる方がいらっしゃるのですか?」 お前、俺をどういう人間だと思ってやがる、と新一はキッドを睨みつけた。 遠回しに自己中だと言われているようなものだ。 まあ、少しも自覚がないわけではないけれど。 「…どこぞの変態小説家だよ」 「変態小説家…ああ、名探偵の父君ですか」 怪盗は納得すると、くくくと低く笑った。 別に驚きはしないけれど、相手が優作だとバレていることが新一は気に入らなかった。 コナンが新一だと見抜いていた相手なのだから、自分の身辺が暴かれていたところで別段驚くことはない。 とは言え、敵ではなくとも味方とも言えない相手に自分のあれこれを知られているなんて、あまり気持ちのいいことではなかった。 「それでは、工藤優作氏に感謝しなくてはね」 「なんでだよ?」 「貴方との楽しい一時を与えて下さったので、ね」 「…はぁ?」 新一は激しい脱力感に襲われた。 犯罪者が何が楽しいだってぇ?と気の抜けた声を出す新一の反応にも、キッドはただ楽しそうに笑う。 「頭の良い方との対峙は嫌いじゃない、むしろ好きなんです」 「傍迷惑な…」 「名探偵は別格ですからね。スリルが違う。できれば今後も顔を出して頂きたいところですが」 「興味ねえな。相手になりたきゃ一課に来い」 「それは暗に私に殺人をしろと仰るのですか?」 とんでもない答えに新一は目を剥いた。 「バーロッ!んなことしてみろ、俺がお前を監獄にぶち込んでやる!」 「ご安心を。私は誰も傷付けません」 くすくす笑うキッドを新一は横目で睨みつける。 これ以上この不毛な遣り取りを続けることが無意味に思われ、新一は再びキッドに背を向けた。 「お帰りですか、名探偵」 「ああ、お帰りだよ。今日のところはめんどくせーから捕まえねえけど、次に会ったら警部を招待してやるからな」 そう言って怪盗顔負けの意地の悪い笑みを浮かべると、新一はビルの非常階段を降りていった。 残された怪盗がひとり、月に向かって馬鹿笑いをする。 「あははっ!めんどくせーってそりゃないだろ、名探偵!」 仮にも探偵、真実を見抜き犯人を暴く者の台詞だろうか。 けれど恐ろしくプライドの高い名探偵は、人の指図を大人しく受けていられるほど易い人間ではないのだ。 己の思うがままに動き、時に警察すらも翻弄して、ただ真実だけを追い求める。 新一がいまひとつキッド逮捕に踏み込めないのは、キッドの真意を計りかねているからだ。 愉快犯だ義賊だと言われる怪盗が、けれどそうではないとどこかで感じているからだ。 キッドの目的を己で見つけだすまでは、新一は彼の犯罪こそ防いでも、彼を捕まえる気にはなれないのだ。 けれどそれは、怪盗が知る必要のない真実。 「やっぱりあんた、最高に面白いよv」 その怪盗がこれからもちょっかいをかけようと思っていることも、探偵の知ることのない真実。 * * * 「新一、ご苦労様。助かったよ。有り難う」 『うっせー、もう二度とやんねぇからなっ』 仕事が終わり工藤邸に帰り着いた時、まるで見計らっていたかのように鳴りだした電話を胡散臭げに眺めた後、なかなか切れないコールに根負けして新一はとうとう電話に出た。 予想通りそれはロスにいるはずの優作からの電話で、新一は心底嫌そうに眉をひそめたのだった。 『とにかく宝石も無事還ったんだ。疲れたからもう寝るぜ。おやすみ』 「はいはい、ゆっくり休みなさい」 「おやすみ、新ちゃーんv」 優作はひょいと肩を竦めながら有希子に片目を瞑ってみせると受話器を置いた。 意味深な視線を交わした後、有希子はお茶を煎れてくると言って静かにキッチンへと向かった。 ひとり書斎に残った優作は書きかけの原稿に手をつけようともせず、目まぐるしく思考を巡らせる。 そこには剣呑な笑みを浮かべる世界屈指の推理作家がいた。 「無事、出逢うことはできたようだね。できれば邂逅というのが理想だったが、そうも言ってられないからな…」 本人は泥棒に興味がないなどと言っているけれど、キッドとの対決を新一が楽しんでいるのは傍目にも明らかだ。 けれど意地っ張りで頑固な新一はああでもしなければ絶対にキッドの現場に顔を出そうとはしなかっただろう。 それでも優作には新一とキッドとを出逢わせなければならない理由があった。 (私は動くことができないけれど、ここからできる限りのことをお前のためにしよう) 机の引き出しの中に裏向けに仕舞われていた写真立てを手に取り、優作はそこに映っている人物に優しい儚げな笑みを浮かべた。 漆黒の衣装に身を包み純白の鳩に囲まれたひとりのマジシャン。 口ひげを生やしたその人物もまた、とても優しい笑みを浮かべていた。 それは、既にこの世にいない、かつて世界中の人々に愛されたマジシャン。 そして、優作と有希子にとってかけがえのない、無二の友人だったその人。 (再び君を巻き込んでしまう私を、許してくれるかい――盗一) 君を巻き込み、そして君の息子までをも巻きこんだ。 運命は動き出したのだと、望んでいなかったそれに、優作は小さく溜息をついたのだった。 BACK |