瞼を持ち上げることすら億劫に感じながら、気怠い体を起こそうとして、新一はうまく力を込めることができないことに気付いた。 背中には柔らかいベッドの感触があるが、ぼんやりと見上げた景色に見覚えは全くない。 天井はなぜか妙に高く、しかもそこかしこに絵が描かれている。 ここが自分の部屋でないことは明らかだった。 だんだんと覚醒していく意識の中で、なぜこんなにも体が重いのかと考えた。 なぜ、自分はこんなところにいるのだろうか。 「目が覚めたか」 予想外の至近距離からかけられた声に、新一は僅かに体を震わせた。 全く気配を感じなかった。 それどころか、他者の存在を認識した今でさえその気配を明確に掴むことができない。 その声に聞き覚えはなかったが、新一は自分が今どういった状況にあったのかを一気に思い出した。 (…誰かに拉致られたんだった) 怠い体に無理を言って首を動かす。 その先には、やはり見たこともない男が立っていた。 「わけがわからないって顔だな」 「…当たり前だ。あんたは…誰だ?」 「俺のことはどうでも良い。どうせ何の関係もない、今だけの雇われだしな」 「雇われ…?あんたは…殺し屋か何かか?俺の命でも狙ってんのかよ…」 「確かに殺し屋だが、おまえの命なんかに興味ねえな。おまえを連れて来いとだけ言われてる。決して殺すなとな。殺し屋にそりゃあないぜ」 くくく、と低くもらされた笑いが冷気を含んでいて、新一はこの男にわけの分からない恐怖を覚えた。 背筋に寒気が走る。 何を知っているわけでもないけれど、この男の発する気配が語っていた。 この男は危険だ、と。 しかしその気配も爪のあかほどしか感じられず、それすら彼の意志ひとつで消し去ることができる。 言い表せない畏怖に自然と表情を硬くすると、それまで暗がりにいて顔の輪郭すらはっきりしなかった相手が不意に近寄ってきた。 左のこめかみに二筋の傷跡のある、まだ青年の域を出ない短髪の男。 髪は薄い栗色で、東洋人とは異なった顔つきをしているが、その口から紡がれる言葉は使い慣れた日本語だった。 逞しい肉体の、いかにも裏の世界に生きる者といった風貌。 長身に加え射るような鋭い灰色の瞳が、余計にその男の威圧感を増していた。 「安心していいぜ。俺はプロだから、契約には忠実だ。だからおまえを殺しはしない。まあ別の奴に雇われでもすれば話は別だが、おまえみたいなガキを殺してくれなんて物好き、そうそういやしないさ」 「…俺を連れてこいと言った奴は、誰だ?」 「依頼人は直に顔を出すから、その時にわかる」 「なら…俺を、ここに連れて来た理由は?」 「はっ!それはな…」 男は勿体ぶると凍るような笑みを浮かべ、新一の額にかかる髪をかき上げた。 触れた先から電流のように走り抜ける薄ら寒い殺気に、新一は思わず身じろいで男を睨み付ける。 「それは、その目だ」 「――目?」 「お前のその目、蒼いだろ?だからさ」 「…蒼い目のコレクターか?」 「知らねえか?まあ無理もねえな。下らねえお伽話――いや、伝説ってやつか」 「――なに?」 訝しげに瞳を細める新一に、男はいかにも楽しげに言った。 「世界にただひとり生まれて来るという、蒼い瞳を持つ者…そういう伝説があるんだよ。だからどうだなんて、知らねえし興味もねえけどな。とにかく依頼人はその伝説に拘ってる。だから蒼い瞳を持った奴を集めて本物を見つけよう、ってんだろ」 「…馬鹿馬鹿しい…蒼い目の人間なんていくらでもいるだろうが…」 「ま、お偉いさんの考えることは一般人にゃわかんねえさ」 「…あんたが一般人だってのかよ」 新一はしかめっ面で男を睨み付けた。 自ら一般人と名乗る殺し屋なんて、ふざけるにも程がある。 こんな痛いほどの殺気を叩きつけておきながらおどけてみせるのも気にくわなかった。 「ははっ、良いねぇ、お前のその目。本物か知らねえが、命知らずのそういう目は大好きだぜ」 「あんたに好かれたって微塵も嬉しくない」 「そう言うな。自分の力量も知らない馬鹿は勘に障るが、お前のその目は、それだけで力を孕んでる」 ――嬲り甲斐があっていいだろう? そう言って嗤いに歪んだ灰色の目が新一の蒼い目を覗き込む。 男は何も言えずにいる新一の目を手で覆った。 「寝な。どうせしばらく薬が抜けねえんだ。依頼人が来るまで寝てろ」 依頼に忠実で優しい男だろう? 低い笑いを残して男は部屋を出ていった。 その途端、張りつめていた空気が緩み、緊張で強張っていた体の力も抜ける。 詰めていた息を細く吐きながら、新一は男に触れられたあたりを軽く抑えた。 触れた指先は冷たかったのに、その奥に痛いほどの殺気が熱く渦巻いていた。 全ての気配を断って尚、それはぴりぴりと肌に突き刺さった。 ――あれが、殺し屋。 あんな男がいるのかと、新一は恐怖に体を震わせた。 彼はかつて敵対していた組織の殺し屋、あのジンを思い出させる。 あの恐怖、威圧感、殺気。 彼もまた世界レベルの殺し屋なのだ。 新一は思うように動かない体に舌打ちし、力が戻るのを待つしかない現状に溜息をこぼした。 |
蒼い瞳の伝説 |
キッドは山林近くにひっそりと建てられた、別荘じみた豪邸に降り立った。 闇に紛れるように走り抜ける車を追跡することは容易ではなかったけれど、なんとか視界の端に捕らえ続け、ようやく車が止まったところがその別荘だった。 意識がないのか、ぐったりとした様子の新一を抱え、男は無言で別荘へと入っていく。 けれど、扉をくぐる瞬間にチラリと向けられた男の視線が正確にこちらを捉えた。 男は笑みすら浮かべている。 その笑みはまるでキッドの追跡に気付いていながらそれを許容しているのだと言っているように思えた。 (クソ、余裕ってことかよ!) 確かに追跡に必死で自分の気配を断つことにまで意識はまわらなかった。 否、まわせなかった。 そんな余裕は持てなかった。 気を抜けば一瞬のうちに見失い、下手をすれば二度と探偵の顔を見ることもできなかったかも知れない。 相手は間違いなくプロだった。 だが、存在に気付いておきながら何も手を出さないのは何のためか。 (…考えてても仕方ねえか) もし。万が一。 すでに手遅れだった――なんてことになれば、それこそ冗談ではない。 稀代の名探偵はキッドにとって失えない存在なのだ。 厄介な敵ではあるけれど、何もお互いに憎み合っているわけではない。 ただ、運命だか宿命だか知らないが、立場があまりにも違いすぎただけなのだ。 生まれた環境、選んだ道、住んでいる世界がたまたま対極であっただけ。 だからこそ、キッドの興味を惹きつけてやまないのだ。 彼は決して諦めることをしない。 組織に狙われる身を抱えながら、無茶をしてでも無謀であっても、生きることを彼は決して諦めないのだ。 あれほどの意志の強さがキッドにはなかった。 あの――迷わず生きることを求められる意志の強さが。 キッドは目立つはずの白装束を脱ごうともせずにそのまま一切の気配を断った。 それだけで彼の存在は唐突に薄れ、まるでその場に誰もいないかのような錯覚が起きる。 姿を見つけられなければ人がいることなど誰も気付かないだろう。 キッドは何の躊躇いもなく扉に手を伸ばした。 彼にとって鍵とはあってないも同じだ。 新一に手錠をかけられた時も然り、大して苦労もせず鍵を開けると、キッドは別荘の中へと体を滑り込ませた。 しんと静まりかえった別荘内にはまるで人の気配が感じられない。 不必要に広い廊下、無駄に豪華な装飾、そこここにあしらわれた美術的価値の高いだろう絵画。 いかにも金持ちの好みそうな造りに眉を顰め、キッドは新一がいそうな場所を探し回った。 部屋数だけは異常に多い。 それでいて、どうしてこんなに手入れが行き届いているのか不思議なくらいに綺麗だ。 キッドは扉をひとつひとつ開けていくような真似はしなかった。 (こういうのは、地下か天辺か、或いは主人の部屋って相場が決まってんだよな) 注意深く、だだっ広い廊下を歩き出す。 或いは地下へ続く隠し通路があるかもしれないと注意深く探したが、そんなものはないようだった。 螺旋を描く階段を物音立てずに身軽に飛び越え、最上階にこしらえてある部屋へと向かう。 大抵の人間は高いところを好むもので、こういった金持ちの別荘では、家主の自室は最上階にある場合が多い。 この豪奢な三階建ての別荘も例にもれず、最上階に辿り着くとすぐに一目でそれとわかる一際大きい観音開きの扉が目に入った。 おそらくここが家主の自室に違いない。 キッドは扉にそっと近づくと耳を押し当てて中の気配を探った。 扉の中には確かに人の気配がする。 微かに聞こえてくるひとり分の呼吸音。 人を拉致しておきながら、こんな時間から寝息をたてるような奴はいないだろう。 ここにいるのはおそらく拉致された探偵、その人。 そうあたりをつけ、キッドはそっと扉を開いた。 (――当たり) 中を覗いてまず最初に目に入ったのが、一際豪華な造りになっている天蓋付きのベッドだった。 そのベッドから今まさに起きあがろうとしていた新一と不意に目が合う。 キッドは内心で安堵の溜息をつきながら、目を瞠る新一にいつもの笑みを向けた。 「な…ッ、おまえ、キッドかっ?」 「他にこのような格好をしている人物に心当たりでも?」 「冗談言ってる場合じゃねえ!なんでお前がこんなところに…」 新一は訝しげな視線を寄越しながらふらつく足でベッドを降りた。 まだ痺れるような感覚は残っていて、完全に回復したわけではないのだ。 「さすがに目の前で誘拐されては黙っていられませんので。それに、あそこまで貴方を連れだしたのは私です」 「ふん…それで責任でも感じたってのかよ?義理堅いことだな」 「別にただ助けに来たわけではありません。貴方をさらった輩に興味があるのも事実」 新一は当たり前だ、と低く文句を言った。 怪盗に助けられるなど冗談ではない。 別に恩を売るような相手でも買うような自分でもないけれど、ただなんとなく対等な立場でいたかった。 「それに……私の戦いに貴方を巻き込んだかもしれなかったので確認も含めて、ね」 「おまえの戦い…?」 「…こちらの話ですよ。貴方にも敵があるように、私にも敵がある。世間に出て来られないような敵がね」 新一はキッドが追っ手を気にするような台詞を口走っていたことを思い出した。 あの時は気にもしなかったが、よくよく考えればそういうことだ。 この怪盗に「ここまで来れば大丈夫」などという台詞を警察相手に吐くような可愛らしさがあるはずもない。 新一はキッドが敵と呼ぶ対象に興味を引かれながらも、今はそんなことを気にしている場合ではないと自分を制した。 「安心しろよ。俺を拉致った奴はあくまで俺が目的らしいからな。何より、いつまでもこんなところにいる気はない」 「それもそうですね。目的が貴方なら私にもここにいる理由はありません」 キッドも新一を攫った連中にひどく興味を持ちながらも、ここから離れることに同意した。 なにしろ相手は何かしらのプロだ。 こんなところで呑気に会話を楽しんでいたら、いつまたあの男が現れるかわかったものではない。 「今、丁度あいつがいないんだ。今のうちに抜け出すぞ」 「…あの男は出掛けていると?」 「黒幕を連れに行ってる。力も戻ってきたし、抜け出すなら今しかないだろ?」 新一は強気な笑みで怪盗を挑発した。 いつもなら喜んで相手をするキッドだが、この時ばかりは眉を顰めた。 「力が戻ってきたとは、どういうことです?」 「ああ…弛緩剤か何かだろうな。即効性の睡眠剤の次にそんなもん打たれた」 「それは…動いて大丈夫なんですか?」 「大丈夫でなくても動かすさ」 新一は言葉とは裏腹にあまり大丈夫とは言い切れない足取りで窓へと近づいた。 そして窓から地上を見下ろし、ここから地上までの距離を測る。 (三階か…ま、許容範囲内ではあるけど…) なんたって、薬が抜けていない。 どうしたものかと考えていると、それまでこちらの様子を静観していたキッドがふと新一の腕を掴んだ。 新一は迷惑そうに柳眉を寄せ、なんだ、と目で問いかけた。 「まさかとは思いますが、ここから飛び降りると言うんじゃないでしょうね?」 「だったらなんだ?」 「……名探偵。私が下まで降ろしますから、掴まって下さい」 溜息混じりのキッドの言葉に、けれど新一は悠然と首を振った。 「お前の力は借りない」 言うが早いかキッドの手を振りほどくと、新一は何の躊躇いもなく地上へと飛び降りた。 驚いたキッドがすぐさまその後に続いて窓を飛び出すが、新一は何の問題もなく身軽に地面へ降り立った。 着地こそ乱れたけれど大した衝撃はなく、どこかに怪我をした様子もない。 微かに足下がふらついて倒れ込みそうになったのをキッドの腕に支えられた程度だ。 「…サンキュ」 呟くような声で一応礼を言って、新一はさっさと立ち上がる。 驚かされたのはキッドの方だった。 (普通、この高さじゃ死んだっておかしくねえぞ?) キッドにとっては問題ない高さでも、それはあくまで訓練を積んでいるからであって、普通の人にとっては通用しない高さだ。 つまり、彼も普通ではないと言うことだ。 稀代の名探偵殿は並はずれた頭脳に併せ、並はずれた身体能力も持っている。 それは自分に勝るとは思えないが、決して常人のそれではなかった。 普通に暮らしていて身に付くことではない。 彼がなんらかの訓練を受けていたことは明らかだ。 キッドはそこから何かを見出せないかと、前を歩く新一の背中をじっと見つめながら歩いていた。 すると、ふと崩れるように新一の体が前のめりに沈んでいき、キッドは慌てて両手で抱えるようにして支えた。 俯いている新一の顔を覗き込めば、額にうっすらと汗が滲んでいる。 けれどキッドが何かを言う前に新一の舌打ちが聞こえてきた。 「ちくしょー、薬の効いたままじゃこれが限界か…」 「…――名探偵。力が戻ってきたなんて、嘘ですね?」 うっ、と新一が言葉に詰まる。 その言動が全てキッドの言葉を肯定していて、キッドは諫めるように新一を睨んだ。 その視線に気付いて、新一は些か申し訳なさそうに体を縮める。 けれどすぐに、なんで俺が怒られなきゃならないんだ、と思い直してキッドを睨み返そうとしたが、急に体が浮いてその先の言葉を奪われてしまった。 「キッド!何の真似だ、降ろせっ、コラ!」 「いいえ。貴方の言葉は信用しないことにします。家まで送りますから、大人しくしてて下さいね」 冷たい笑顔が向けられて、新一はわけがわからないながらも思わず口を噤んだ。 この嘘くさい笑みが薄ら寒い。 キッドが怒っているのは一目瞭然だ。 けれど、なぜ怒っているのかはわからなかった。 とにかく、自力でこれ以上歩けないのは事実だし、癪だけれどキッドにこのまま掴まってこの場から離れるのが最善の、そして唯一の策だったので、新一は大人しくそれに従う外なかった。 * * * それから二人がなんとか無事に工藤邸まで辿り着いたのは、日付が変わってからだった。 山中ではキッドが新一を横抱きに抱いたまま走り、山を抜けるとお得意のハングライダーで夜空を突っ切って走ってきた。 人ひとり、それも男をずっと抱えてきたと言うのに、キッドにはさして疲れた様子が見受けられない。 それは新一が高校生男児の標準を大きく下回っていたことにも起因しているのだが、自分のことにとことん鈍い新一がそんなことを知るはずもなく、なんとなく癪だ、と思うことしかできなかった。 新一はとりあえず、自分の望んだことではなかったとは言えここまで自分を抱えて来たキッドを無下に追い返すのもどうかと思い、灯りはつけずにキッドとともに工藤邸のリビングに腰を落ち着けていた。 目の前の、相変わらず気が狂ったような白装束に身を包んだ怪盗を見て、今の状況を不思議に思う。 まさかこの怪盗と自宅で向き合って座ることになろうなどと予想できるはずもなかった。 どちらもなぜか口を開き難くて重い沈黙がしばらく続いたが、溜息混じりに新一が切り出した。 「とりあえず、…不本意だけど。礼、言っとく」 「構いませんよ。別に謝礼が頂きたくて貴方に手を貸したわけじゃありませんから」 「……コーヒーいれてくる。そのくらいは、な」 そう言ってキッチンへ向かおうと立ち上がった新一を、いつの間にか背後に立っていたキッドが止めた。 「それでしたら私が勝手にいれさせて貰いますから、貴方は座っていて下さい」 慇懃無礼な言動は普段通りだと言うのに、先刻からなぜかキッドの機嫌は悪い。 しかもなぜか自宅でもないのに新一より手際よく準備を進めていくものだから、新一としても面白くない。 けれどどんな言葉も口にする気になれず、新一は大人しく椅子に座り直した。 (…おまえがいれたら礼になんねえだろ) それとも、礼など受けるつもりはないということだろうか。 それはそれでキッドらしいなと、我知らず笑みが浮かんだ。 力を借りたとか貸したとか、そんなつもりはないから気にするな、と言外に伝えられた気がして、新一は笑った。 キッドとしてはただ薬の抜けきらない新一をふらふら歩きまわらせたくないという考えだったのだけれど。 しばらくするとカップをふたつ持ったキッドが戻ってきた。 その格好でコーヒーをいれていたのかと思うとなんだか笑える。 二、三口飲んだところで、今度はキッドが切り出した。 「よければ教えてくれませんか?あれが誰で、貴方がなぜ攫われたのかを」 「…知ってどうすんだよ」 「どうもしませんよ。ただの興味と、それから…自分への関連性でしょうか」 新一は躊躇った。 この男に素直に話すのが癪だと思う気持ちももちろんある。 けれど、何より彼を自分の領域に踏み込ませることへの抵抗があるからだった。 新一が元の姿を取り戻し、黒の組織へ徹底戦線を仕掛けた時。 幾度、目の前に吊り下げられた「死」というものに飛びつきそうになったかわからない。 幾度、「死」というものを覚悟したかわからない。 あの戦いにおいて「死」とは恐怖でなく、安楽だったからだ。 それほどまでに敵にまわした組織は巨大で恐ろしかった。 けれど、新一は生きることを諦めなかった。 それは自分の帰還を信じる人がいたためであり、ともに戦った人を死なせたくなかったからであり、そして―― 死を直前にすると必ずどこからか現われその危機を救ってくれた、一枚のトランプのためだった。 それは一瞬にして炎に包まれ跡形もなく燃えてしまったけれど、見間違えるはずも忘れるはずもない。 あの時確かに、決して姿を現しはしなかったけれど、ともに戦った者のひとりにキッドがいた。 それは可能性ではなく確かな事実だ。 キッドが組織との戦いに手を貸した理由はわからないけれど、もしそれが、黒の組織がキッドにとっても敵となる存在だったというのなら頷ける。 彼はもうすでに新一の領域へと深く足を踏み入れていた。 だからこそ、これ以上の干渉に躊躇う気持ちがあるのだが―― 躊躇った末、新一は話すことに決めた。 「…多分、あの男は組織の連中とは関係ない」 「ええ。彼らであればわざわざ貴方を連れ去ったりはしないでしょうね」 「あいつは、ただの雇われの殺し屋だと言っていた」 「殺し屋、ですか。…雇ったのはいったい?」 「さあ、それは俺も知らない。すぐ連れて来るからっつって教えてくれなかったし、知る前に逃げ出したからな」 「では、雇った者が誰かはあなたにもわからないと?」 「それどころか、殺し屋の名前すらわからない」 けれど、と新一は思う。 あの顔は――殺気は、決して忘れることはないだろう。 こめかみの傷が、体のあちこちにつけられた傷が、その世界の過酷さを物語っていた。 そんなもの知りたくもないと思うけれど、自分はそこに近い場所を生きてきて、今もまだ完全に抜け出せたわけではない。 「殺し屋の名前はわかりませんが、見当はつけられますね」 「ああ。多分、五指に入るような男だからな」 世界レベルで裏の世界にその名を轟かせた殺し屋は、五人いる。 もちろん中には名前すらない謎の人物もいるが、あの男は間違いなく五指に数えられる者のひとりだろう。 新一もキッドもかつて五指に数えられた殺し屋と対峙したことがある。 彼はその殺し屋――ジンと似た空気を持っていた。 「それで、貴方を攫った理由は?」 その言葉に新一は黙り込んでしまった。 理由はもちろんわかっている。 ――お前のその目だ。蒼いだろ?だからさ。 ――世界にただひとり生まれて来るという、蒼い瞳を持つ者…そういう伝説があるんだよ。 耳の奧に木霊する、心臓を握り潰すように冷たい男の声。 新一の躊躇いを悟ったキッドが短く息を吐いた。 (ま、犯罪者に話せるわけがねえか) けれどキッドが諦めかけたとき、予想を裏切って新一が話し出した。 「それは、俺の目が蒼いからだそうだ」 「…蒼い?」 まさか話してくれるとは思わなかったキッドだが、驚きを完璧なポーカーフェイスに包み隠して先を促した。 確かに新一の目は蒼い。 その瞳で睨まれれば言いようのない昂揚感が生まれる。 この世のどんな色も敵わないと思わされるのは、きっとその奥に秘められた魂が何にも勝る輝きを持っているからだ。 その綺麗な輝きがキッドは好きだった。 「伝説…と言ってた。蒼い瞳の伝説。その瞳を持った奴は、世界にひとりしか生まれてこないらしい」 「蒼い瞳の伝説、ですか。けれど、蒼い瞳を持った人間なんて世界にいくらでもいるのでは?」 「ああ、確かにごまんといるな。そのたったひとりを見つけたいらしい。だから俺みたいな奴をイチイチ攫ってんじゃねえのか」 「それは…見つけてどうしようと言うのでしょうか」 「そんなのは俺の知ったことじゃないけど…」 再び新一は黙り込んだ。 ここまで言っておいてこの先を言わないのもどうなのか。 危険かもしれないが、なぜかこの怪盗には言ってしまいたい衝動にかられた。 それは、長年しまいこんでいた秘密だった。 誰にも、それこそ大事な親友やかけがえのない協力者にも知らせなかった秘密。 人に知られないよう隠せと言われていたのも事実だが、そこに大した秘密があると思っていなかったのも事実。 けれどここにきてそうではないのだと知った。 秘密は、伝説に繋がる。 その伝説に繋がる以上、自分はもっと慎重にこの秘密を隠していかなければならないのかも知れない。 けれど、初めてその秘密を他人に教えても良いと思った。 どんな根拠があるわけでもないけれど、この怪盗は信用できるという理不尽な確信がある。 むしろ長年抱え込んでいた秘密を打ち明けてしまいたかったのかも知れない。 だからと言って誰でもよかったわけではない。 今ここにいるのが、あの別荘まで乗り込んできてくれたのが彼だったからこそ、新一は躊躇いながらも明かしてしまうのだ。 「その伝説は、伝説なんかじゃなく本物だ」 「…なぜ言い切れるのです?」 「証拠があるからさ」 「あなたがその証拠を握っていると?」 「ああ、握ってる」 「それは…」 新一が悪戯に笑う。 その笑いに何か嫌なものを感じ、キッドは一瞬息を呑んだ。 そして、続く言葉に更に言葉を失った。 「――俺が、その証拠だ」 キッドは軽い眩暈を覚えた。 BACK TOP NEXT |