目が覚めたらいつもの天井がぼんやりと映った。 だから新一は、すぐに昨日の出来事を思い出すことができなかった。 (なんか体重いな…) 朦朧とする頭でそんなことを考えていると、部屋の扉が急に開いた。 驚いてそちらを向くと、小学生の小さな女の子がこちらを見ていた。 栗色のウェーブのかかった髪を肩まで伸ばした、年齢にそぐわない大人びた瞳をした少女。 手にはお盆、その上には朝食が乗っていた。 「おはよう、目が覚めたのね。気分はどうかしら?」 「あ、れ…灰原?どうしてここに…」 「…頭の方はまだ起きてなかったようね」 新一のきょとんとした目に見つめられ、哀は呆れたように溜息を吐いた。 昨夜、哀の心臓を凍り付かせる程驚かせてくれた本人は、まだ半分眠りの世界の中だというのだから呆れたくもなる。 寝ぼけ半分の新一は当然彼女が何を言っているのか理解できていない。 「昨日のこと覚えてないのかしら。人を散々脅かしておいてそれはないんじゃない?」 「昨日のこと…?」 新一が考えに耽ったのも束の間、すぐさま思い出し、あ!と叫んだ。 その様子に哀はまた溜息を吐くのだった。 「そうだ、俺、昨日…!」 「思い出してくれて良かったわ。頭の検査をやり直さなきゃ駄目かと思った」 「そんな皮肉言ってる場合じゃねえって、灰原!俺、あの後どうしたんだ?」 「安心して。いつもの発作が出ただけよ。もう体調も戻ってるから心配ないわ」 「そっか…」 新一はホッと安堵の溜息をつく。 けれど、視界の端に映った白いカーテンを見てはっと息を呑んだ。 「そういえば灰原、アイツはっ?」 「あいつ?誰のこと言ってるのかしら?」 「え?俺、昨日どうやって…?」 「…呆れた。覚えてないの?私が貴方に頼まれた書類を渡しに行ったら、貴方が床で倒れていたのよ。全く…倒れる前に連絡しなさいと言ってるでしょう」 新一は、アレ?と首をひねった。 おかしい。昨日の記憶が正しければ、自分は確か…… 「お前が気付いてくれたのか…?」 「じゃなきゃ、今頃貴方はまだ床の上よ」 きっぱりと言い放ってくれた哀の顔には、呆れた、と書いてある。 それでは昨日のアレは思い違いだったのだろうか。 けれど鮮明に残っている記憶がそれは絶対にないと言っている。 確かに昨日倒れる直前に、哀を呼ぶように彼に頼んだ。 そして彼は頷いた。 だからてっきり彼に呼ばれて哀が駆けつけてくれたのだとばかり思っていたのだが…… 新一は哀に直接聞いて確かめようかと思ったけれど、彼の名前を出すのも妙なのでやめた。 一体どういう縁でそんなややこしい関係になったのかと問われれば、自然と自分の秘密を話さなければならなくなる。 それはできることなら避けたかった。 これ以上自分の問題に誰かを関わらせたくない。 ただでさえ小学生として自分をやり直している彼女を、主治医として新一の面倒を見てくれる彼女を、危険に巻き込むわけにはいかない。 だからあえて新一はそれ以上のことを聞こうとはしなかった。 「そっか…面倒かけたな、サンキュ、灰原」 |
蒼い瞳の伝説 |
真夜中の訪問者になんとなく胸騒ぎがしたので、哀は起きようとした博士を押しとどめて自分が玄関へ向かった。 ドアを開ければ、どうしてこんなところにいるのか、真っ白いスーツに身を包んだ怪盗が立っていた。 予感的中と思いながら、哀はいかにも怪訝そうな目で彼を観察する。 怪盗の方は出てきた少女に面食らいながらも、優美な一礼をしてみせた。 「こんばんは、小さなお嬢さん。夜分遅くに申し訳ありません」 「そう思うなら遠慮して頂きたいわね。博士が出てたら大騒ぎになるじゃないの」 「すみませんね、火急の用事なもので。ここで悠長に会話している暇もないのですよ」 「あら、国際犯罪者である怪盗さんがこんな小学生に何の用かしら?」 そう言った口振りが、向ける視線でさえすでに小学生のそれではない。 新一がコナンとして生活していたことを思い浮かべて、おそらく彼女もまたそういった状態なのだろうとキッドは納得した。 なぜ未だにその姿でいるのかはわからないけれど、今はそんなことに構っていられない。 「名探偵が急に倒れましてね。隣りへ、とだけ残して気を失ってしまいました」 「――な…っ、そういう大事なことは早く言いなさい!」 言うなり哀は怪盗を押しのけて工藤邸へと駆け込んだ。 靴を履くのも煩わしいとばかりに裸足で飛び出した彼女の後を、怪盗は苦笑しながら一対の小さな靴を持って追いかける。 哀は寝室へ上がろうとして、ふと開いたままのリビングのドアに気がついた。 気になって入ってみれば、予感通りそこにはその家の唯一の住人が倒れていた。 痛みに耐えるかのように体を丸め、顔面蒼白で堅く目を瞑っている。 哀の背中に冷たいものが走った。 心臓を冷たい手の平で握りしめられるような感覚。 哀はすぐさま新一の手首を取って脈を測り、なんとか安定していることに安堵の溜息を吐いた。 新一の額にはうっすらと汗が浮かんでいる。 意識はないけれど呼吸もしっかりしているし、ひとまず安心だろうと哀は後ろを振り返った。 当然のようについてきていた怪盗がにっこりと笑みを向ける。 ポーカーフェイスとわかっていながら、哀は苛立った勢いのまま言った。 「どういうことか説明して貰いたいものね」 「怪盗の戯れ言を真に受けて頂けるのなら、喜んで」 いったいどうして新一が彼と一緒にいるのか。 にっこり笑いを続ける怪盗に、哀はきつい一瞥を向けた。 「――事の粗方は理解できたわ」 重要なところを見事に省き嘘も混ぜられたキッドの説明に、腑に落ちないと感じながらも哀は頷いてみせた。 その様子に満足げにキッドが笑う。 キッドはもちろん新一の瞳のことを哀に知らせなかった。 それどろか新たに殺し屋に狙われたことさえ言わなかった。 先ほどの彼女の慌て様を見れば、言ってしまえばどういうことになるか想像がつく。 それほどまでに彼女はこの探偵を大事にしているのだと、キッドにはすぐにわかった。 新一がキッドの予告状に呼び出されて現場に来た。 そこでキッドと対決した。 そこまでが哀に教えた真実。 その後は、真実を覆い隠すために吐いたキッドの嘘だ。 キッドの追っ手が新一をキッドの仲間と勘違いして連れ去り、薬を嗅がされ捕まった新一をキッドが助け出しここまで連れ帰った、と。 「ところで、彼はどうして急に倒れたんですか?」 哀はしばらく無言だった。 けれどキッドは別に先を催促するわけでもなく、話したければ話せといった様子で同じく黙り込んでいた。 興味があるのかないのか。 哀は目の前の子供≠ェどういう人物なのか推し量れずにいた。 やがて諦めたように短く息を吐きながら、囁きにも似た声で言った。 「あなた、彼が……彼じゃなかった時期を知ってるんだったわね」 「小さな名探偵殿のことを仰ってるのですか?」 「ええ、その彼よ。それを知ってるんだったら、あまり隠しても意味がないわね」 哀は小さなビンを取り出し、カタリと音を響かせてテーブルの上に置いた。 「これは私が調合した薬よ。彼の体に合う薬は、今のところこのビンの中にある分だけ」 「…それは、つまり…」 「そういうことよ。かつて彼が飲んだ薬の副作用で、彼の体には特別な薬しか投与できないのよ。もし無理に投与すれば発作を起こすわ」 「…名探偵は催眠剤と弛緩剤を打たれたと言ってました。彼は発作を起こしたと言うわけですね」 そうよ、と哀が頷く。 そして新一の横たわるベッドに視線を送ると、真っ直ぐにキッドを見つめた。 「…別に、私が真実を教えてもらえないのは今に始まったことじゃないわ。だからあえて貴方の嘘にも何も言わない。必要なときに頼ってくれれば良いもの」 だって、彼はそういう人なのだ。 組織に乗り込む時だって、自分には知らせてくれなかった。 あの時の見事なポーカーフェイスはきっと一生忘れないだろうと哀は思う。 そんな大事な時に限って女優の息子ぶりを発揮するのだから、全く以て質が悪い。 だから、哀は組織との戦いに実際は参加していないのだ。 きっと彼はあの瞳で見抜いていたのだろう―― 組織との戦いを機に、哀が死を選ぶことを。 丁度良い機会だと思っていた。 なぜか生きながらえることを許されて、だらだらと小学生として暮らしてきた。 いつ殺されるかわからない中で、確実に罪悪感に蝕まれる中で。 そんな恐怖に怯えながら生きるしかない無駄なこの命を、組織の壊滅とともに終わらせるのが筋だと思っていた。 それが、組織に関わった自分の末路。 奪った多くの命への代償だ、と。 けれど、またこうして生き続けている。 なぜなら、ボロボロに傷付き、血だらけのくせに見たこともない綺麗な顔で笑った彼が言ったのだ。 『死んだら承知しねえぞ。俺にはお前が必要なんだ。俺だけじゃない、博士や歩美や元太たちにとってもな』 自分の方が死にそうなくせに、何を言ってるのだと怒鳴ってやろうと思った。 けれど、溢れ出す涙がそれを邪魔して、ただ声を殺して泣くことしかできなかった。 だって、求められたのだ。 必要だと、言ってくれたのだ。 それは何よりの免罪符だった。 ここにいても良いのだと、居場所になってくれると、一緒に笑い合ってくれると。 そう言って慰めるようにまわされた腕が大きくて優しくて暖かくて、押し殺していた声もいつの間にか叫びに変わっていた。 子供みたいにわんわん泣いて、ようやく顔を上げれば彼は笑っていて、博士もまた笑っていて。 初めて、生きていても良いのだと信じられた。 彼はそういう人だ。 哀が願えばきっと望むものを与えてくれる。 けれど、そうすることで彼の足手まといになることだけは絶対にしたくないから、彼が本当に自分を必要とするまでは、何も言わずに待っていようと決めたのだ。 それでも切なさのような寂しさは誤魔化せない。 それを見抜いた怪盗は柔らかい口調で告げた。 「嘘も時には生きていく上で大事なものです。貴方がその優しい心を痛めずとも、私が彼を護りましょう。彼を脅かす死から」 「…その真意はなに?」 「ただの好奇心ですよ」 ふ、と笑った怪盗に、哀は睨むような視線をなげた。 護るなんて大層なことを言いながら、その理由が好奇心とは随分な言いようだ。 「子供は好奇心で動くものです。私のように質の悪い子供は、好奇心さえあれば全てを懸けられるのですよ」 哀の心情を察知してキッドは言った。 哀の目の前に立ち、膝を折ってその小さな手を掲げ呟く。 「彼には断わられましたが、私は自分のしたい様にするまで。貴方のその輝く瞳に懸けて誓いますよ。その瞳を曇らせないためにも、私が彼の力となりましょう」 「…そんな安っぽいものに懸けられた誓いじゃ、たかが知れてるわね」 ふんと言って肩をすくめ、哀は目の前の怪盗の瞳を真っ直ぐに睨み付けた。 そして困ったように微笑をのせて言った。 「でも…貴方にお願いするわ。彼を、死なせないで頂戴」 「お任せ下さい、小さな姫君」 掲げていた手の甲に恭しく口付ける。 そして徐に立ち上がり、優雅に腰を折って一礼すると、キッドは煙幕とともに姿を消してしまった。 煙幕の中、その人の声だけが響いてくる。 「どうか、今夜の出来事は全てこの魔法使いと姫君だけの秘密に…」 数秒後に煙が晴れた頃には、その姿は跡形もなく消えていた。 「本当に、魔法みたいに消えるのね」 侮れないわ、世紀の大怪盗。 哀はくすりと笑んで、眠っている新一へと歩み寄った。 目にかかるほどに伸びた前髪をかき上げて、子供のようなその寝顔に苦笑を零す。 「貴方が死ぬなと言ったのよ。だから貴方が死ぬのも許さないわ。だから――魔法使いとの秘密の契約も、大目に見て貰うわよ」 * * * 自宅に着いたキッドこと黒羽快斗を迎えたのは、怒った母だった。 すでに日付も変わったこの時間に彼女が起きていたのは、仕事に出たきり音信不通で帰りの遅い息子を心配したためだ。 普段なら仕事が終われば直ぐに帰るか連絡を入れる快斗から、今夜は何の連絡もなかった。 さすがに攫われた名探偵を助けに殺し屋の別荘まで行ってました、とは言えない快斗は、ひたすらごめんと謝るしかなかった。 「ほんとごめん、今度からちゃんとするから!」 「絶対よ?せめて連絡ぐらいはきちんと入れなさい」 「うん、絶対!」 普段は何事にも大らかな彼女が怒ることは珍しい。 それは多分夫を失って、彼女の守るべき家族が息子ひとりになってしまったせいなのだろう。 だから、こういう時は快斗も素直に謝る。 快斗にとっても彼女は大事な家族であり、守りたい存在なのだ。 わざわざ心配をかけて親不孝などしたくもない。 一息吐いて、ようやくくつろげる時間になった時。 快斗は寝ようとせずに、疲れた体でそのままパソコンを立ち上げた。 すでに時計の針は二時をまわろうとしている。 「さて、と。蒼い瞳の伝説……少し調べてやろうじゃないか」 口元に浮かぶ笑みは、怪盗キッドそのものだった。 BACK TOP |