幸福の呪文










 ――おめでとう。
 その言葉を唱える意味を本当に理解したのは、きっとその瞬間だった。





「ハッピーバースデー、快斗!」

 ぽんぽんっ、という軽快な破裂音とともに頭上からカラフルな紙吹雪が降り注ぎ、快斗は玄関のドアノブを掴んだままぽかんと口を開けて固まってしまった。
 目の前には母親と付き人の寺井、隣家の中森親子が満面の笑みで立っている。
 彼らの手には破裂音の正体――クラッカーが握られており、頭には少々不格好なコーンを被っている。
 思わず固まっていた快斗は、扉を開けた瞬間に放たれた言葉を思い起こし、そこで初めて彼らがこのような奇行に走った理由に思い至った。

 6月21日。
 今日は、快斗の誕生日だったのである。

 毎年派手なバースデーパーティを企画してくれる青子のおかげで今まで自分の誕生日を忘れたことなどなかった快斗だが、今年はちょっと事情が違った。
 高校三年生に上がってからこっち、ある人物に纏わる事件に掛かりきりだったため、とても季節のイベントにまで気が回らなかったのだ。
 その人物とは勿論、快斗の命より大切な人――工藤新一である。
 国際指名手配中の殺し屋やら、壊滅した犯罪組織の残党やら、厄介なチャイニーズマフィアお抱えの臓器密売人やら。
 右も左も敵だらけの彼を守るため、今では工藤邸に住み込んでしまっている快斗だ。
 そのため、自分の誕生日などすっかり忘れていた。

 その新一に「今日は絶対に家に帰れ」と言われて渋々帰ってきてみれば、この騒ぎだ。
 彼が何のために快斗を家に帰したのか。
 それは、この一年で一度しかない特別な日を、十八年もの間快斗を支えてきてくれた人たちと過ごさせるためだったのだろう。
 そのことに気付いた快斗は嬉しさ半分、寂しさ半分といった気分だった。
 彼のこうした何気ない気遣いは単純に嬉しい。
 自分のためにパーティを企画してくれた青子や母の笑顔を見られたことも嬉しい。
 けれど、そんな特別な日は他でもない彼の傍で過ごしたかった、というのが偽りない快斗の本音だった。

「えへへー♪ 快斗、吃驚した? 学校のみんなももう集まってるんだよ!」

 無邪気に微笑んだ青子が快斗の腕をぐいぐいと引っ張る。
 慌てて靴を脱いで家の中に上がった快斗は、綺麗に飾り付けられたリビングを見て更に驚いた。
 一体いつから準備をしたら、これほど豪勢な飾り付けができるのだろうか。
 快斗が工藤邸に同居するようになって一ヶ月が経つが、まるで知らない場所に来てしまったような錯覚を覚える。

「よー、快斗!」
「やっと主役のご登場か!」
「黒羽君、お誕生日おめでとう!」

 母子二人暮らしの、決して広くはないリビングいっぱいに集まったクラスメートたち。
 口々に祝いの言葉を掛けられる快斗は、けれどいつものように軽口を返すことができなかった。
 家も、飾りも、人も。まるで現実味がない。
 まるで夢の世界に迷い込んでしまったような感覚。
 平穏という名の、夢の世界に。

「――快斗」

 と、静かな声で名前を呼ばれ、快斗は背後に立つ母を振り返った。
 彼女は、とても祝いの席に見せるものとはかけ離れた、真剣な表情をしていた。

「忘れちゃ駄目よ。あんたの日常は、ここにもちゃんとあるんだからね」

 ――彼女は、全てを知っている。
 工藤邸に同居すると言い出した快斗に新一が出したたったひとつの条件。
 それが、快斗の母である千影に全ての事情を包み隠さず告げること、だった。
 けれど快斗が事情を話した時、彼女は既に全てを知っていた。
 盗一の妻として夫から全てを聞いていた彼女は、いつか息子が夫と同じ道を歩くだろうことを予知していたのだ。
 そして彼女は、そんな快斗を受け入れてくれた。
 快斗が――新一に想いを寄せていることに気付いていたから。

 寂しくないわけではないだろう。
 それでも快斗のために笑って背中を押してくれる母の存在を、快斗は決して忘れてはならない。

「…分かってるよ、母さん」

 ほんの少しだけ、困ったように微笑んで。
 クラスメートたちの方に向き直ると、快斗はいつものように屈託のない笑みで彼らの中に混ざっていった。










* * *

 お祭り好きのクラスメートたちから漸く解放されたのは、十時を大幅に回った頃だった。
 今夜はオールナイトで騒ぐぞ、などとふざけたことを抜かす友人たちをどうにか振り切って、快斗は工藤邸への道をひた走った。

 どうしても、どうしても今日中に新一に会いたい。
 会って、飛びついて、有り難うと伝えたい。

 あの自分の誕生日すら忘れる新一が、快斗の誕生日を覚えていてくれたというだけでも嬉しいのに、快斗のためにこんなサプライズを用意してくれていたのだ。
 自分のことばかりで、新一を守りたいという思いばかりが急いて周りを見失っていた快斗に、決して忘れてはならない者たちのことを思い出させてくれた。
 やり方は不器用で、口調はぶっきらぼうでも、快斗が知る誰よりも優しい人。
 その優しさが、どうしようもなく愛しい人。

「――ただいまっ!!!」

 玄関の扉を蹴り壊す勢いで飛び込んだ快斗は、灯りのついたリビングのソファで丸くなって寝息を立てている新一を見て、慌てて口を閉じた。
 その向かいには、本を片手に呆れたような表情を浮かべたもうひとりの同居人――白牙が座っている。

「白牙…新一、どうかしたのか? こんなところで寝て…」
「全くおまえは…今日中に帰ってくるとは思ったが、こんなに慌ただしいとはな。新一なら心配ない。慣れないことをして疲れたんだろう」

 慣れないこと?、と首を傾げた快斗は、その拍子に視界に飛び込んできた物体に、これ以上ないほど驚いた。
 テーブルの上にぽつんと置かれた――チョコレートケーキ。
 お世辞にもあまり綺麗とは言えない歪な形のそれは、見た目と職業に反して料理上手な白牙が作ったものとは思えない。
 となると、それを作ったのは……

「まさか、新一が…?」

 快斗の疑問を肯定するように、白牙はにやにやと嫌らしい笑みを浮かべながら頷いた。
 オーブンで火傷でもしたのだろうか、新一の腕にはところどころ傷テープが貼られている。
 あまりのことに、快斗は言葉もなく立ち竦んだ。

 工藤新一とは、恐ろしくずぼらな男だ。
 ひとり暮らしの期間が長いため、それなりに料理もできるはずなのだが、彼が自分で料理をしているところを快斗はまだ一度も見たことがない。
 理由を聞けば、「面倒だから」。
 快斗も白牙も料理の腕は新一よりいいし、二人とも彼のためなら料理を作ることなど苦とも思わないものだから、この先も新一の手料理など食べられる機会はないんだろうなあ、と何となく思っていた。

 それがどうだ。
 誕生日も忘れていたくらいなのだからプレゼントなど考えつきもしなかったのだが、思いも寄らないプレゼントに、快斗の胸は大げさでなく今までにないほど喜びに満ち溢れていた。

「んー…」

 と、喧騒に気付いたらしい新一が小さく唸り、快斗は新一が横になっているソファの前にしゃがみ込んだ。
 微睡みの中に引き戻そうとする眠気に抗うように、新一は数度瞬きを繰り返す。
 その視界の中に快斗の姿があることに気付くと、まだ完全に覚醒しきらない意識で、それでも口元を綻ばせながら囁くように言った。

「…いと、…誕生日、おめでと…」
「――!」

 どくり、と。
 一際高く打った鼓動が命じるまま、快斗は思いきり新一を抱き締めた。

「う、わ、快斗! いきなり何すんだよ!」

 一瞬ですっかり目の覚めた新一が耳元で怒鳴る。
 それでも快斗は腕を解かなかった。

「…快斗?」

 怪訝に思った新一が伺うように名前を呼ぶ。
 快斗は新一を抱き締めたまま、答えるように呟いた。

「凄いね、新一。おまえ、どうやったら俺を喜ばせられるのか、全部知ってるみたい。母さんのことも、あのケーキも、今の言葉も。まじで、今までもらったどんなプレゼントより嬉しい」
「そ、そうか? …ま、喜んでもらえたなら、俺も作った甲斐あるけどよ」

 照れくさそうにぼそぼそ言う新一はきっと分かっていない。
 快斗が何に喜び、どれほど喜んでいるのか、きっとこれっぽっちも分かっていない。
 それでもいい。
 彼とともに今を生きている、それだけが快斗の全てだ。

「新一、もう一回だけ言って?」
「言うって何を?」
「さっきの、おめでとう、っての」
「? 変な奴だな。んなもん、何回だって言ってやるよ」

 おかしそうに笑いながら、新一はその呪文を唱える。

「おめでとう、快斗」





 それは、奇跡を讃える言葉だ。
 生まれてきた奇跡。誰かに出会える奇跡。喜びを感じられる奇跡。
 ……生きている、奇跡。

 この世に生まれ、貴方に出逢い、貴方と喜びを共有し、貴方とともに生きている、その奇跡を。

 心から、「おめでとう」と讃えよう。





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突発的に書きたくなって書いた、快斗BD小咄。
最近は快斗が痛い目にばっかり遭ってるので、たまにはのんびり祝ってあげようかと(笑)
本編ではまだまだしんどいけど、負けるな、快斗! ←無責任(笑)
08.06.21.