ホールの隅に人質同士で身を寄せ合いながら、蘭はあまりの不安で震え出しそうだった。
新一がホールを飛び出してから三十分ほど経った頃。
リーダーらしき男のトランシーバーに入った連絡に、胸が凍った。
――ネズミを捕まえた。
男は、確かにそう言った。
現在この船に乗り込んでいて、尚かつこの場にいない人間は新一、コナン、快斗の三人だけだ。
おそらく快斗は新一の指示によってどこかに隠れているのだろうが、あの新一の親戚にして、日頃から探偵である小五郎にくっついて事件現場に同行することの多いコナンのことだから、きっといつものように大人の探偵ばりに動き回り、シージャック犯を捕まえようと画策しているに違いない。
探偵を自称する新一は言わずもがな、である。
となれば、捕まったというネズミはコナンか、新一か――。
恐ろしい予想に、蘭は泣きそうになった。
新一もコナンも、蘭にとってはかけがえのない存在だ。
気づけばいつも傍で守ってくれていた幼馴染み。
その幼馴染みの不在の間を埋めるように現れ、小さい体で精一杯守ろうとしてくれるコナン。
何度となく、彼らを重ねて見たことがあった。
今だって、そんなことがあるはずはないと思いながらも、コナンは新一ではないかと疑っている。
そんな彼らのどちらか、或いはその両方が、これ以上自分の目の前で――自分の知らないところであろうとも――傷つくなんて、蘭にはとても耐えられない。
ぎゅっと目を瞑る蘭の手を、そっと温かい手が握り締めた。
「泣かないで、蘭ちゃん……快斗たちならきっと大丈夫だから」
それは青子の手だった。
目尻に涙を溜めた青子は、彼女の方こそ今にも泣き出しそうな顔で、それでも蘭を元気づけようとぎこちない笑みを浮かべている。
「あのね、快斗って普段はすごくイイカゲンでふざけてるけど、いざって時にはすごく頼りになるんだよ。それで青子、何度も助けてもらったことがあるんだから」
「青子ちゃん……」
「それに、コナン君と探偵の工藤君までいるんでしょ? 悪いヤツらなんかきっとあっと言う間にやっつけちゃうんだから!」
そう言った青子は、この状況に怯えながらも幼馴染みの少年のことを心から信じているようだった。
それはきっと蘭と新一のように彼女たちが長い月日をかけて築き上げた信頼なのだろう。
彼女にとっての幼馴染みは蘭にとっての新一のように、ピンチを助けてくれるヒーローなのだ。
しかしそうは言っても、探偵として多くの事件に関わってきた新一と普通の学生に過ぎない快斗では、『いざと言う時』の感覚は全く別物だろう、とも思った。
それでも、蘭は青子の慰めを有り難く受け取った。
だって、頼むと言われたのだ。
もし新一やコナンが犯人に捕まってしまったというなら、今度は蘭が助けてあげる番だ。
初めは八人いたシージャック犯も四人に減った。
どこかで気絶させられているらしい三人と、新一たちを捕まえたらしい男が一人。
気絶させられた三人の内の一人は新一が仲間のフリをして潜り込む時に、残りの二人も彼がどうにかして昏倒させたのだろう。
残った四人の内の二人が仲間を運ぶためにホールを出ていった今、このホールに残っているのはたったの二人。
新一たちを捕まえた男が戻ってきたとしても三人だ。
リーダーの指示だとその男は仲間を運ぶ二人よりも先に戻ってくるだろうから、その時を狙えば、或いはどうにかできるかも知れない。
蘭一人では人質を守りながら犯人を押さえることは難しいが、隙をついて新一たちの拘束を解くことができれば、後はきっとなんとかなる。
銃さえ奪ってしまえば蘭だってこんな連中に決して後れを取らないことは新一たちもよく知っているのだから、きっと頼りにしてくれるはずだ。
それが蘭の、新一やコナンと築き上げた信頼だ。
「ありがとう、青子ちゃん。私も新一のこと信じるよ。あいつも普段はただの推理オタクだけど、本当に危ない時には必ず助けに来てくれるから」
「そうだよ! だって迷宮なしの名探偵だもんね!」
まるで自分のことのように誇らしげに言う青子が微笑ましくて、蘭はにこりと笑った。
その顔が、きゅっと引き締まる。
――新一を信じている。
けれど、助けを待っているだけではだめなのだ。
せめて自分の身は自分で守らなければ、あの幼馴染みは全ての傷を一人で背負おうととする。
だから。
蘭の厳しい眼差しが扉へと向けられた時。
扉が、ゆっくりと開かれた。
こくりと喉を鳴らす。
タイミングを間違えば大惨事になる。
蘭は行動を起こすタイミングを見計らうためにじっと目を凝らした――が。
現れた人物は、蘭の予想していない人物だった。
「かっ、快斗――!」
青子の絶叫が響く。
園子の息を飲む声が聞こえる。
ホールに入ってきたのは、両手を縛られ、覆面男に背後から銃を突き付けられた快斗だった。
左頬には殴られたような擦過傷があり、唇の端からは血が流れている。
よろけた足取りは、腹部かどこかを痛めつけられた所為だろうか。
幼馴染みの痛ましい姿を見て一瞬の内にパニック状態に陥ってしまった青子を、蘭が慌てて押さ込む。
――まずい。
ここに現れるのが新一でなければ、一か八かの賭に出ることなど蘭にはとてもできない。
たとえ新一がまだ誰にも気づかれずにどこかに潜んでいたとしても、シージャック犯がたった三人というこの好機を逃せば、人質を一斉に解放することはできない。
このまま犯人の思惑通りに事が進むのを手を拱いて見ていることしかできないのか。
蘭の焦燥など歯牙にもかけず、リーダーの男は満足げに、殊更ゆっくりと快斗に近づいた。
「ほう……こんなガキが、俺たちの仲間を三人も伸してくれたとはな」
優位に立った絶対者の余裕で、嬲るような目つきで快斗の顔を覗き込む。
快斗、快斗と名を呼び続ける青子にちらりと視線を流し、嘲るように言った。
「どうやらあそこで騒いでるガキのツレらしいが、一丁前にナイト気取りか? だが、残念ながら映画のようにはうまくいかなかったみたいだな。たった一人で俺たち相手に喧嘩を挑むとは、全く馬鹿な真似をしたもんだ」
快斗は歯を食いしばりながら男を見返すが、一言も言い返さなかった。
それが男を調子に乗せる。
「なんにしろ、俺たちの計画を邪魔してくれた礼はさせてもらうぞ。残りの仲間が戻ってきたらあのガキの目の前でお前を殺し、残りの人質にもすぐにお前の後を追わせて……」
――ふっ、と。
意気揚々と語る男の声を遮るように、堪えきれずに笑いを吹き出すような、この場に不釣り合いな音が響いた。
くっくっく……と喉奥で声を噛み殺すような笑いが漏れ出る。
発生源は快斗だ。
奇妙なものを見るような男の視線の先、快斗は体を折り畳むように前屈みになりながら肩を震わせている。
「……なにがおかしい」
脅しをかけるように男が低く唸るが、快斗の笑いは止まらない。
突然のことに青子も蘭も困惑しながら快斗を見つめることしかできない。
男は焦れたように舌打ちし、それまで肩に提げていた銃を快斗に突き付けた。
すると、快斗は唐突に顔を上げた。
それまでの震えがぴたりと止む。
かち合った視線の鋭さに射竦められる。
その口元に浮かぶのは、まるで獲物を狩ろうとする獅子が剥く牙が如き、獰猛な笑み。
「残りの仲間が戻ってきたら、だって? そりゃ笑いたくもなるぜ。なんたって、アンタの仲間はみーんな捕まえちまったんだから――な!」
言うが早いか、ガツンとした衝撃が走り、男の手の中にあった銃は宙を飛んでいた。
焦るどころか思考する余裕もなく、男は目の前で起きた現象を呆然と見遣る。
縄で縛られていたはずの快斗の腕は、まるで最初からそんなものなどなかったかのように、なんの拘束もされていなかった。
それどころか、さっきまであったはずの頬の腫れも口端から流れる血でさえ見当たらない。
そして徐に地に沈んだかと思えば、先ほどのよろけた足取りが嘘のように俊敏な動きで両手を床に着いて両肘を深く曲げ、倒立の要領で銃を蹴り上げたのだ。
その間、僅か一秒足らず。
あまりに鮮やか過ぎるその身のこなしを前に、当然、男に対処する隙などない。
男は焦った。
この子供の言葉が正しいなら、ホールを出た仲間はもう誰ひとりとして戻ってこないのだ。
どこまでが計算なのか。どこからが罠だったのか。
そうとも知らずに仲間を一人ずつ敵の罠の真っ只中へと送り込んだのは男自身だ。
今更後悔したところでもう遅い。
得物を失った男は、それでもこのままやられっぱなしになるわけにはいかないと、果敢にも快斗に殴りかかろうとした。
武器を奪うために大きく体勢を崩した快斗は明らかに劣勢であるはずだった。
しかし、予想もしていなかったところから援護が入り、男は大きく吹き飛んだ。
まるで鉛玉の剛速球を食らったような衝撃が人体の急所のひとつである顎を直撃し、男の脳が盛大に揺さぶられる。
ひどい眩暈と吐き気の中、男は自分を吹き飛ばした相手を懸命に見返した。
男を吹き飛ばしたのは、快斗をここまで拘束して連れてきた仲間であるはずの男だった。
「……ぐ、ぅ……なに、を……」
軽く五メートルは吹き飛んだ男を一瞥し、男を蹴り飛ばした男――新一は、残った一人に向かって銃を突き付ける。
ヒッ、と短い悲鳴を上げ、最後の一人は自ら武器を手放した。
自らホールドアップの仕草をし、「殺さないでくれ」と震える声で懇願する。
新一の殺人キックが余程恐ろしかったのだろう。
これから殺人を犯そうとしていた犯罪者に命乞いされる探偵というのもどうかと、間近でその威力を見せられた快斗の顔も思わず引きつる。
「――チェックメイト、だ」
凛とした声が終幕を告げると同時に覆面を取り払えば、露わになった有名すぎるほど有名な探偵の顔に、その場はしんと水を打ったような静けさに包まれた。
まだ夢うつつの中にいる人質たちが徐々に正気を取り戻す内に、どこからともなく歓声が上がり始める。
友人や家族と抱き合って喜び合う人たちも、思わず涙ぐんでしまった人たちも、誰も彼もが探偵の功績を讃えている。
その中心に立つ新一は、その歓声を平然と受け止めた。
まるでハリウッドスターかなにかのような扱いに快斗は辟易しつつも、仕方がないかとも思った。
普通に暮らしている中でこの手の死の恐怖を体験する機会など二度とはない。
その恐怖から救ってくれた相手に感謝し感動してしまうのは仕方のないことだ。
きっとこの瞬間は自分の存在など綺麗さっぱり忘れられているのだろうが、目立ちたがり屋の探偵に快斗が呆れることはなかった。
もともとがどうであるにせよ、今は目立ったことをしてはならないはずの彼がこうして堂々と顔をさらしている理由は、快斗を庇うために他ならない。
緊急事態だからと仕方なく常人には有り得ない身のこなしを披露した快斗だったが、その後の探偵の凄まじすぎる蹴りとこの演出で、銃を蹴り上げただけの快斗の記憶など彼らの脳裏からすっかり霧散してしまっただろう。
なんだか全ての手柄を持って行かれたようで少しだけつまらなくはあるが……
「……オメー、流石だな。助かった」
照れくさそうに笑う、他ならぬこの名探偵に認められたのだから、これ以上欲張っては罰が当たるというものだ。
新一は多くを語らないが、もし快斗との共闘に不満を感じていたなら、今のような言葉は決して貰えなかっただろう。
快斗自身、あまりのやりやすさに楽しいやら困るやら、胸中複雑だ。
言葉もなく眼差しひとつで意志が通じるのも、ここまで呼吸がぴったりしたコンビネーションが取れるのも、きっと後にも先にもこの相手だけだろうから。
「新一!」
「快斗ー!」
と、それぞれの幼馴染みに駆け寄られ、二人は手早くシージャック犯のリーダーと最後の一人を拘束した。
その際、爆弾のリモコンもしっかり回収する。
「新一、どこも怪我してない? 大丈夫?」
「平気だよ。オメーの方こそ大丈夫か? 怖い思いさせて悪かったな」
「ううん、私はなにもされてないもの。みんなも無事だったし……新一のお陰だよ」
「……そっか」
「快斗、快斗! 怪我は大丈夫なのっ? 血が出てたし、犯人に捕まってたし……あれ? でもあれは工藤君だったんだよね? それに血もついてないし……あれ?」
「バーロー、俺はマジシャンだぜ? あれはもともとそういう打ち合わせだったんだよ」
「ええーっ! ひどいっ、快斗ってば青子を騙したのっ?」
「だーからー、オメーじゃなくて犯人どもを騙すためにだな……」
どことなく容姿の似た幼馴染みカップルが二組、目の前で似たような夫婦漫才を繰り広げる様子を眺めて、一人寂しい園子はげんなりと肩を落とした。
「まったく……一組でも十分暑苦しかったのに、倍増されたんじゃもう付き合ってらんないわ……」
最早突っ込む気力もなく、ふりふりと頭を振ると少し離れたテーブルの一角に腰かける。
園子とて恋に恋する歴とした乙女だが、悲しいかな、愛しい恋人は海の彼方で世界中の猛者を相手に絶賛武者修行中だ。
いちゃつきたくともできない。
いや、恐ろしく奥手で初心な彼のこと、この場にいたところで園子の望むような遣り取りができるとは思えないが。
「ちょっと、新一……凄い汗だよ?」
「へ?」
自覚のなかった新一は、蘭の言葉で初めて気づいたように頬に手を遣った。
すると確かに頬はしっとりと汗ばんでおり、触れた肌がやたらと熱いことに気がついた。
「おい、工藤」
確認するように快斗に呼ばれ、新一は目だけで頷いた。
工藤新一の体に戻ってからそろそろ二時間が経つ。
変化の前兆は動悸と発熱による発汗を伴う激しい発作だと教えてあった。
もしその前兆が現れたら変化するまで三十分保つかどうか……ということも。
つまり、新一は一刻も早くこの場を離れなければならなかった。
しかし一度姿を現した探偵が洋上で突然姿を眩ますわけにもいかないので、爆弾の確保・解体を理由に一旦この場を離れた後でこっそりとコナンに戻り、その後に工藤新一が必要になれば快斗の変装で誤魔化してもらう予定だった。
「ねえ、また具合悪いんじゃないの? 大丈夫?」
心配してくれる蘭には「なんでもねーよ」と笑ってみせる。
しかし一度自覚してしまうと、それまで感じなかった怠さが急に襲ってくる。
新一は気を抜けば途端に荒くなってしまいそうな呼吸を呑み込みつつ、不安そうな蘭を見つめた。
「いいか、蘭。この船にはまだ爆弾が残ってる。海上保安庁には連絡を入れておいたから直に救助隊が着くはずだけど、それまでに俺はできるところまで爆弾を解体しなきゃならない」
「だったら私も……!」
「オメー、爆弾の解体なんてできねーだろ? 心配すんな、黒羽を連れてくから」
「黒羽君、を?」
困惑した目を向けてくる蘭に、快斗はなんでもないように笑いながら答えた。
「脱出マジックとかだと火薬や爆弾も使うだろ? 俺の親父もマジシャンだったし、ガキの頃から親父に叩き込まれてる内に自然と詳しくなっちまってさ」
だから大丈夫だよ、と笑えば、蘭は安心したような、けれどどことなく寂しそうな笑みを浮かべた。
きっと新一と一緒に行けないことが寂しいのだろう。
それに気づいた快斗がさり気なくフォローを入れる。
「蘭ちゃんはここを頼むよ。いくら縛ってるって言っても犯人を見張っておかないわけにもいかないだろ。その点、蘭ちゃんになら安心して任せられるからな。なんたってあの毛利小五郎の娘だし、中森警部の娘のくせに頼りねー青子とは大違いだもんな」
「なっ、なによー! 青子だってねえ、やる時はやるんだから!」
最後の余計な一言に食いついてきた青子を快斗がからかっていれば、蘭は困ったようにしながらも笑ってくれた。
「分かったわ。ここは任せて。新一も黒羽君も、無茶しないでね」
優しく、それでいて頼もしい少女に、快斗と新一は揃って頷こうとして――
「キャアアアアア――ッ!」
響き渡った園子の絶叫に、目を瞠った。
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