男は注意深く周りを見渡しながら、極力足音を殺して船内を回っていた。
彼の現在地は船尾に近い二階の客室。
船の中央にあるホールの近くから順に見て回り、ようやく半分を回ってきたところだ。
不審な物音が聞こえてから既に数分が経過している。
偵察に向かったのは四人、その誰からも連絡がないということは、なにも異常はなかったのだろうと男は思い始めていた。
きっと積み上げていた荷物が倒れたとか、そんな理由に違いない、と。
しかし全てを見回るまでは安心できないし、リーダーも納得しないだろう。
使われている部屋は一部だけとはいえ、もともとの部屋数が半端ではなく、かなりの重労働だったが、男は黙々と部屋を覗いては異常の有無を確認するという作業を繰り返していた。
そんな時だ。
それまで男の腰に引っ提げられたきりずっと沈黙していたトランシーバーが、切羽詰まった仲間の声を拾ったのは。
『た……たす、けて……くれ……』
男は覆面から唯一覗く目を見開いた。
それは、男とともに船内の偵察に向かった仲間の声だった。
「おいっ! どうした、なにがあった?」
慌ててトランシーバーに向かって怒鳴るが、既に応答はない。
男は同じ行動を二度繰り返し、埒が明かないと悟ると、残りの二人に連絡を取ろうとチャンネルを変えた。
しかし、いくら呼びかけても一人目の仲間からはまたもや応答がない。
これはまさかと冷や汗を流しながら最後の一人に連絡を取ると、こちらは無事に繋がった。
胸を撫で下ろすと同時に、男はわけの分からない恐怖に肩を震わせた。
何者か分からないが、確実に自分たちにとって害となるだろう者がこの船のどこかに潜んでいるのだ。
今もどこかからこちらの様子を窺っているのかと思うと、男の脳裏から冷静さが抜け落ちてゆく。
じっとりと汗ばむ手で銃を掴み直し、男は頻りに視線を彷徨わせた。
『どうした?』
「気をつけろ、誰かいるぞ!」
『……どういうことだ?』
「偵察に出た二人と連絡がつかない。助けてくれ、と言い残して通信が切れた」
相手は一瞬沈黙した後、冷静に返した。
『一旦合流するぞ。俺は二〇八号室にいる。それから、リーダーにも連絡を入れておいてくれ』
その的確な判断に、男は安堵しながら「分かった」と返した。
不測の事態にどうしていいか分からずに思わず焦ってしまったが、頼りになる仲間がいたお陰で助かった、と感謝さえした。
この時そう思ったことを後に後悔することになるなど、露とも知らずに。
警戒しつつ船内を進み、男が二〇八号室に辿り着いた時、小脇に銃を構えた仲間が扉の前に立っていた。
仲間の中でも飛び抜けて大柄な男だ。
確か柔道を嗜んでいる、という話だったか。
なんにしろ、得体の知れない何者かが潜んでいるらしいこの時、傍にいてこれほど安心できる者もいない。
「待たせたな」
男は警戒も忘れ、仲間に駆け寄った。
ここまでの道すがら誰にも会わなかったとはいえ、ずっと緊張を強いられていたのだ。
仲間の顔を見て気持ちが緩んでしまったのも仕方なかった。
しかし、すぐにこちらに気づいた仲間はあろうことか――男に銃を突き付けた。
引き金に指を添えたまま、今にも火を噴こうとするサブマシンガンの銃口を腹に押し当てられる。
あまりに唐突な展開に男は状況が飲み込めず、ぽかんと仲間を見返す間に、突然背後からぬっと伸ばされた手によって唯一にして最強であった武器を取り上げられてしまった。
そこでようやくなにかがおかしいことに気づき、男は弾かれたように背後を振り返った。
「――っ」
衝撃に、思わず息を飲む。
そこには、静かな威厳に満ちた深い蒼色の双眸があった。
まるで全ての罪を糾弾するかのような鋭い眼差し。
彼という存在そのものから発せられる冷たく静かな、それでいて苛烈な気配に、言葉もなく追い詰められる。
男は、自分が被食者であったことを知った。
たとえ銃という名の凶器を持っていたとしても、所詮ははりぼての牙。
本物の牙を隠し持つこの蒼く鋭い眼差しの前には、どんな虚勢も意味を為さないのだろう、と。
全てを悟り、男の胸に広まるのは絶望と――なぜか安堵だった。
「……俺たちの仲間二人をどうにかしたのは、お前か」
抵抗する意志はないと、男は両手を頭の上で組む。
すると、てっきり自分と同じように陥れられ、目の前の少年に寝返ったのだとばかり思っていた仲間が全く聞き覚えのない声で話し始めて、男はぎょっと目を剥いた。
「二人じゃない。三人だ」
するりと、目出し帽を脱ぐ。
露わになった顔は、不思議なほど少年と似ていた。
違うのは、激しいながらも静かな印象を与える少年と違って、迸る気迫を遠慮なく叩き付けてくる強気な目と、方々に跳ねる奔放な髪ぐらいか。
驚いたのも束の間、男は激しい違和感に眉を寄せた。
大柄な体躯とはあまりにも不釣り合いな顔。
まるで頭だけをすげ替えたような少年は、確かに男の仲間では有り得なかった。
「アンタのお仲間は三人ともそこの部屋で仲良くおネンネしてるぜ」
そこ、と言って示されたのは二〇八号室だ。
大柄の少年はもう一人の少年に銃を預けると、どこからともなく取り出した紐で男の腕を後ろ手に縛り始めた。
そうして男はされるがまま、二〇八号室へと連れ込まれた。
そこには同じように手足を縛られガムテープで口を塞がれた男が三人、ベッドに横たえられている。
目は閉じられているが胸が上下しているので、生きてはいるのだろう。
この少年たちに奪われたのか、三人の内の二人は服を脱がされており、その一人は男が少年と間違えた大柄な男だった。
しかも、見たところ怪我のない少年たちに対して、仲間の一人は自分で流した鼻血で顔を汚しており、一人は同じく顔面をなにかに強打したような後が残っている。
後者は、体格も腕力も少年たちを凌駕するだろう、大柄な男だ。
男はひそかに戦いた。
「さーて。指示通り、リーダーには連絡をいれてくれたかな?」
ひょいと、腰に提げていたトランシーバーを奪われる。
スリも真っ青な手癖の悪さだ。
「お。ちゃんと連絡してくれたみたいだな。こいつがリーダーの番号ね」
ニヤリと笑った少年が、未だ一言も喋らない少年に視線で合図を送る。
少年は無言で男の口を手で塞いだ。
咄嗟に抵抗しようとした背中にまたも銃口が突き付けられ、男はやむなく抵抗をやめた。
いったいなにをする気だと、トランシーバーを持った少年を見遣れば――
オホン、と。
「ネズミを捕まえました……! そいつを連れて、今から戻ります!」
男は目を瞠った。
咳払いをひとつ、その後に続いた声は男のものだったのだ。
『――よくやった。他の三人はどうした?』
「ネズミに眠らされてます。一人では運べないので、二人、こっちへ寄越してもらっても?」
『……仕方ないな。どこにいる?』
「二〇八号室です」
『よし。お前はネズミを連れてこい』
「了解」
プツ、と切れた無線を、男は呆然と見遣った。
たった今目の前で交わされた遣り取りは、まさしく男とリーダーによるものだった。
リーダーはなにひとつ疑うことなく仲間をもう二人、ここへと寄越すだろう。
そうしてその二人とも、この少年たちに捕まってしまうのだ。
こうして自分が捕まったように。
「ま……さか……あの無線も、お前が……?」
合流するぞと、持ちかけたのは相手だった。
二〇八号室と指定したのも、相手だった。
リーダーに連絡を入れたのも、全部、相手がそう指示したからだ。
冷静さを失っていた男は、冷静な仲間の判断に安堵し、なにも考えずその指示通りに動いた。
愚かにも言われるままにリーダーに連絡を入れ、トランシーバーのチャンネルをそのままにこの部屋までかけつけた。
その結果が、これ。
にやついた笑みを浮かべる少年のその笑みが、全てを肯定している。
男は、今度こそはっきりと戦慄した。
その巧妙な手口に。狡猾な罠に。
万事がこちらの思惑通りに運んでいると見せかけ、その実、着々と地盤を削られていたのだ。
気づいた時には、藁さえも掴む暇を与えられず、真っ逆様に奈落へと落ちていくように。
……なんという、子供たちだろう。
「お前らは何者なんだ……?」
呆然と問いかけた男に答えたのは、これまで沈黙を保ち続けた少年だった。
静かだった瞳がきらりと煌めく。
自信。誇り。矜持。プライド。
それらを宿す瞳は強く、揺るぎなく、ひとつの真実を口にする。
「工藤新一――探偵だ」
その声が脳に届く前に、男は意識を失った。
催眠スプレーを食らって崩れ落ちる男を後目に、快斗は得意げに笑う新一を呆れたように見遣った。
「お前、名乗ってよかったのか?」
ホールで蘭に名乗っていた時にも思ったが、工藤新一の存在を隠すよう快斗に頼んでおきながら、新一は敵にも味方にも自ら名乗りを上げている。
探偵という輩が目立ちたがりだということはクラスメートの探偵や眠りの小五郎、そして他ならぬ工藤新一を見ていれば嫌でも分かるが、なにやら事情があって表に顔を出せない状況にあるくせに、喜々として名乗りを上げるのはどうなのか。
すると、新一こそが呆れたように溜息を吐いた。
「バーロー、事件が起きちまった以上、それを解決するには探偵が必要だろうが。オメー、普段は普通の学生してるんだろ? 一介の高校生がどうして犯罪者を捕まえられるんだよ。高校生探偵の工藤新一でもいなきゃ、逆に不自然だろうが」
「そりゃそうだけど……」
「今は成り行きでオメーの手を借りてるけど、オメーはあくまで俺の指示で働かされてるただの親戚だ。俺が関わったことは警察に伏せてもらうから、オメーもボロ出すんじゃねーぞ」
快斗はきょと、と目を瞬いた。
今の台詞はどう控え目に解釈しても、快斗の心配をしているようにしか聞こえない。
確かに快斗がボロを出せば、その親戚ということになっている工藤新一にも害が及ぶことになるが、それで不利な立場に追い遣られるのは圧倒的に快斗の方だろう。
しかしそう言われてみれば、この探偵はもともと変なところで律儀だった。
と言うか、二回に一度はなにかしらの事件に巻き込まれ、なんだかんだと手を組むことになり、通報されるでもなく追いかけられるでもなく、あっさり見送られていたような気がするのだが。
まさかとは思うが……庇われているのだろうか、これは。
「……おい。なに笑ってんだよ」
「……う、くく……なんでもねー、よ?」
しかも無意識ときた。
快斗はいよいよ爆笑したくなったが、危うくその衝動を堪えた。
工藤新一という男が、謎の究明や事件解決のためなら手段を選ばない、とんでもない探偵であることを快斗は知っている。
闇に葬られようとする罪を暴くためなら大事な幼馴染みの父親や親友、時にはその幼馴染み自身でさえ、麻酔銃という名の凶器の餌食にすることを彼は厭わない。
それどころか彼のモラル的には、逃げる犯人を殺人シュートでノックアウトすることは傷害罪にならないらしいと、身を以て知る快斗である。
だからだろうか、彼は時折怪盗とも共闘した。
探偵と怪盗、追う者と追われる者でありながら、より危険かつ火急的場面に直面した時、彼は迷わず怪盗に助力を請う。
そこにあるのが嫌悪でも侮蔑でもなく、ただ直向きな信頼であると知っているから、快斗も迷わずその手を握り返す。
対極にあり、尚かつ根源を同じくする者――そんな風に思うようになったのはいつからだったか。
つまるところ、彼が従っているのは法律やモラルではなく、彼の中にのみ存在する善悪の秤なのだろう。
それを傲慢だと詰る気はない。
父の死の謎を知るため、そして父の仇を討つために怪盗キッドを継ぐという手段を選んだ快斗だとて、己の中の天秤に従っているのだ。
他人が定めた規律をなんの疑いもなく己の秤にできる者は、むしろ幸せなのだと思う。
だからと言って自分が不幸だなどとは欠片も思わないけれど。
「……ったく。あんまり浮かれてっと足下掬われるぞ」
いくら笑いを堪えても揺れる肩を見れば一目瞭然だったが、幸か不幸か、新一はそれ以上追及してこなかった。
快斗はようよう笑いを静めると、仏頂面の探偵に「心配すんなって」と片目を瞑ってみせた。
「足がつくようなものはなんも使ってねーし、正体がバレるようなヘマはしねーからよ」
そもそも、最初に提案したのは快斗だ。
新一から敵を誘き出すための作戦を聞き、それならと、この囮役を自ら買って出た。
まず、船内を偵察中の犯人二人の内の一人を襲い、仲間にSOSを出させる。
それから機関室で捕まえた仲間のフリをして最後の一人を誘き出し、船内に何者かが潜んでいることをリーダーに知らせるよう指示を出す。
そうしてこちらの罠にまんまと引っかかった最後の一人がのこのこと現れたところで取り押さえ、最後の作戦へと取り掛かる、という筋書きだ。
しかし、それにはひとつだけ問題があった。
機関室で捕まえた犯人はやたら大柄な男で、下手な変装では一目でこちらが偽物だとばれてしまう恐れがあった。
そうなれば、自然とその役目は快斗にまわってくる。
声での演技なら新一とて引けを取らないが、如何せん変装相手は細身の新一とは似ても似つかない大男。
それに比べて快斗は変装術に長けていたし、事前の用意が必要なマスクさえ覆面で誤魔化してしまえば、体型・仕草・声を模倣し、ほんの一瞬相手を油断させる程度のことなど、この怪盗キッドにとっては朝飯前だった。
それに、快斗の特殊技能である声帯模写は、わざわざ道具を使ってするのも面倒な話だからと、使えるものを活用したまで。
追い詰められて恐慌状態に陥った犯人が、そこから快斗の裏の顔を連想できるとは思えないし、仮に後々の警察の捜査で突っ込まれたとしても、全ての指示はこの探偵から戴いたものだとでも説明すれば、警察はあっさり納得してくれるに違いないと快斗は確信していた。
「それより急ごうぜ。後はのこのこやってくる小物を二匹、それから猿山でふんぞり返ってるボスザルとオマケを押さえちまえば完了、だろ?」
「ああ……だが、誰がなんの目的でこんなことをしでかしたのかはまだ分からないんだ。奴らの仲間が他に潜んでいないとも言い切れないし、油断するなよ」
「わーってるって」
快斗は次の作戦のために変装をといて私服に着替えた。
そこにいるのはただの高校生、黒羽快斗だ。
もちろん袖やら懐には快斗お得意のマジックのタネがぎっしり詰まっているのだが。
それに対し、新一はたった今気絶させた男の声に変声機を合わせると、きっちりと目出し帽を被った。
彼は最初に変装した男よりも細身だったため、今度は腹にタオルを詰める必要もない。
そうしておいて、四人目の男も拘束してベッドに横たえる。
次いで快斗が取った行動は、自分で自分の手に縄を巻く、というものだった。
両手と口を使って器用にくるくると縄を巻いていく。
新一があえて手伝わないのは、マジシャンの縄抜けの仕掛けを万が一にも狂わせないためだ。
一見強固そうに括られた腕は、しかし快斗にかかればもののコンマ一秒で抜けることができるのだ。
そうしてすっかり支度を整えた二人は、どこからどう見てもシージャック犯と捕まった人質、にしか見えなかった。
「さーて……用意は万端。細工は流々。後は仕掛けをご覧じろ、てな?」
悪戯な子供のように無邪気に――老獪な悪党よりも凶悪に。
二人は不敵に眇めた眼差しを交わして頷き合うと、ホールに向かって客室を飛び出した。
ひたひたと歩み寄る足音は救済の天使のものか、それとも破滅へと誘う悪魔のものか……
それを身を以て知る時は、もうすぐだった。
|