寒いさむいサムイ。

 季節は初夏。
 涼しいと肌で感じることがあっても、寒いと言うには気候は随分と暖かい。
 それでも、身の内ばかりが妙に熱い所為もあって、体のそこここにあたるコンクリートや夜風にどんどんと肌の表面の熱は奪われていく。
 痛む足を両手で包み込んだ新一の頭の中は、寒いという言葉ばかりが浮かんでは沈んでいく。
 必死に走ったために噴き出た汗も、体温を奪おうと冷たく冷え切っていた。

 熱が欲しい。
 暖かい、何か。

 不意に頬へと触れたモノの暖かさに、無意識に体が吸い寄せられる。
 蒼い瞳は閉じられたまま、白い手指が伸びてその暖かい何かを掴む。
 そのままその手を離さずに、熱と寒さとの間で揺らめく意識は次第に眠りに落ちる。
 だんだんと寒さは薄らいでいった。










K.I.D.










 パキン、と何かが折れるような、微かな物音が耳に届いた。
 続けざまにパキン…パキン…と響く。
 新一は重たい瞼を持ち上げた。
 薄ぼんやりとしたその世界は、ひどく白く、けれどそれは錯覚で、あたりが真っ暗なことに気付いた。
 月光を跳ね返す、自分を包むその白い布に新一はぎくりと身を震わせる。


「…ああ、気がついた?」


 思いがけない至近距離から声が聞こえて、がばりと跳ね起きる。
 けれど左足から体中を鈍痛が走り抜け、すぐさままた白い布の中へとうずくまる。
 倒れ込むと、そこには意外にも弾力があって。暖かくて。
 くるりと頭上を仰げば、にっこりと屈託なく笑うキッドの顔がすぐ側だ。


「――…キッ、ド…?」

「そ、俺。おはよう、名探偵殿。」

「なんでお前…ッ」


 そういって再び起きあがると、再び痛みに新一は唸った。


「バカだなー、自分の足がどうなってんのか忘れたのか?」

「…ッんなことより、キッド!?なんでお前がこんなところに…」


 キッドの膝に突っ伏したまま顔だけ向けて、新一はぎろりと睨んだ。
 痛みに歯を食いしばってるのがわかる。
 キッドはひとつ苦笑をこぼして、


「なんでもいーけど気ィついたんなら俺の膝からどいてくんない?いい加減しびれてきてさぁ」


 キッドの砕けた喋り方を胡散臭いなと思ったけれど、自分がキッドに膝枕をされていることに気付くと、新一はカッと赤くなって飛び退こうとする。
 足の痛みに再び歪む顔を見て、キッドは「こいつバカかも…」と思った。
 真っ赤な顔のまま悶絶している新一に言う。


「だぁーから、足。忘れた?すげー腫れてるぜ、絶対骨までイッてる」

「…痛ゥー………それより、俺の質問に答えろよっ」

「それよりって。まぁ良いけど。一応、応急処置したし」


 その言葉に足を見てみれば、膝辺りまでまくりあげられた左足首には添え木がしてあり、紐で固定されている。
 もしかしなくても、キッドが、してくれたんだろう。
 心中複雑になった。
 素直にお礼を言うのも抵抗があるけど、このままばっくれるほど礼儀知らずでもない。
 どうしたものかとその顔を見上げる。
 そして新一は、はたと視線が釘付けになってしまった。


 足の痛みとか、現状把握とか。
 そんなことに意識をとられていて気付かなかったけれど。
 キッドは普段なら決して見せようとしない顔を、別段隠そうともせずにさらけ出している。
 あどけない口調に見合った、あどけない顔。
 まだ少年の域を出ない、自分とそう変わりない歳の男。
 にっこり笑えば余計、少年らしさを醸し出した。
 少し癖のある髪をシルクハットの端から覗かせ、モノクルに隠れていない瞳はブルー、そして整った顔立ち。
 ひたと見つめたまま微動だにしない新一に苦笑しながら、キッドは何か小さい細いものを口に運ぶと、パキン、と音を響かせ食べ始めた。


「ま、俺がここ通ったのはほんと偶然だったんだけどな。…食べる?」


 差し出された、キッドが食べているがそれがチョコレートポッキーだと気付いて「いや、いい」と返した。
 天下の大怪盗がチョコポッキーとは…と呆然としながら、意識の底で聞いた音はこれか、と思う。
 そしてキッドの話に耳を傾けた。


「そしたら、なんか見慣れた奴が倒れてるから。寒い寒いって呟きながら起きなくて、触ったらすげー冷たいし。探偵君てば俺の手離してくれないし。しょうがないかと思ってここまで運んで、寒くないようにここに座ってた。足の手当もしてね」

「…ぇ…」

「両手で捕まれちゃ、さすがに無下に振り払うわけにもいかないだろ?」


 赤面していく新一をからかうように笑んで、キッドはふわりと新一の頬に触れた。
 思うように足の動かない新一は両手で体を支えているために、怒ろうにも手が出ない。
 そして、突然からだが浮いたかと思うと、キッドの肩に寄りかかるように背をもたれていた。
 ぎゅっと肩を掴むキッドの手に力がこもる。


「寒いんだろ?いーから、せめて震えがおさまるまではそうしてなって」

「…なんか…変、じゃないか、コレ…」

「言うな。気にしたら負け。それより、おまえはちょっとでも体調整えることを考えろ」

「…………………」


 黙り込んだ新一が納得したものだと思ってキッドはふっと息をつく。
 良かった、もう少しこうしていられる、と。
 寒さのために小刻みに震える肩が愛しくて、掴む手に力がこもりすぎないように意識を傾ける。
 確かに偶然だったけれど、キッドはたとえ新一が手を掴まなくてもきっとこうしていたに違いないと思う。
 倒れている新一を見たときは心臓の凍り付くような思いがした。
 逆風もかまわずに乱れた軌跡を描きながらすぐさま近くに降りたって、足の怪我以外に大した外傷もないことを知ってようやく安堵した。
 すぐさま手当をして、震える新一を抱え上げ、寒くないようにと自分の体で包み込んで。
 焦がれるほどに求めて止まないこの人と、少しでも長く側に居たい。


「…キッド」


 かけられた声にドキリと心臓が脈打つ。
 平静を装って「はい」と応えれば、


「…ぁ………」

「?」

「……ぁ、りがと…ぅ…」


 眉間に皺を寄せ不機嫌そうに唇をとがらせながら、不器用にも吐き出されたその言葉に驚く。
 けれどすぐにこぼれんばかりに笑顔になって。


「いいえ。構いませんよ、名探偵…」


 ちらりと横目でとらえたキッドの笑顔に、新一も少し気分を良くして。
 からかわれると思っていた新一は、なんだかお腹の辺りがくすぐったいような気がした。
 それから、ふと浮かんだ疑問を素直に口にした。


「あの、さ。顔…見せて良いのか?」

「ああ」

「……俺が探偵だってわかってる?」

「ああ」

「…。捕まえるかもしれないのに?」

「名探偵」


 呼ばれて振り向いた。
 キッドの顔は笑っていたけど、その瞳は真剣そのもの。


「俺は、お前になら捕まっても構わない」

「え…」

「というか、お前以外には捕まりたくないな。捕まる気もないけど」


 その言葉に新一は、訝しそうにキッドの視線を悠然と受け止めて、見極めているかのようだった。
 しばらくして、


「俺を認めてくれてるってことか…?」

「ああ」

「…そっか」


 新一は無意識のうちに笑みがのぼるのに気付かない。
 他の誰でもなく。
 長年キッドを追い続けているという中森警部よりも、キッドと幾度となく対決をしてきたという白馬探偵よりも。
 自分を選び認めてくれたことに、新一は心なし嬉しくなった。


 薄暗い、月光のみがぼんやりと降り注ぐ暗い小部屋の中。
 新一はキッドに体重を預け、キッドはそれを抱きかかえて過ごす。
 ときたま流れてくる雲に月が隠され部屋が暗くなっても、不思議と新一は暗いと思わなかった。
 キッドの白い衣装が、新一を包んだマントが、それ自体から光を発しているような不思議な感覚。
 特別何か言葉を交わす訳でもなく、ただ時間ばかりが過ぎて。
 けれどそれを苦痛だとは感じなかった。
 先に沈黙を破ったのは新一の方。


「お前は…聞かねぇのか?なんで俺がここにいるのかとか…足、こんなだし…」

「…聞いて欲しいのか?俺たちは根ほり葉ほり聞きたがる間柄じゃないだろ。だから聞かない。お前もそうだろう?」

「…そうだな。それに俺は、聞くより自分で暴く方が性に合ってる」


 はは、と自らに苦笑して。


「それなら、さ。俺が勝手に話す」

「ああ」

「ま、容易に想像つくとは思うんだけど。こんなとこにいたのは犯人おっかけてたからでさ。ここに来るまでの階段で取っ組み合いになって、やり合ってるうちに階段から落ちてこんなになっちまって、足。それでも追っかけたんだけど、途中でどうにも足が動かなくなっちまった。みすみす犯人は逃がしちまったし、情けねえなぁ」

「――大丈夫だろう。警察だって無能じゃない、犯人を捕まえることはあいつらにも出来るだろ。何もお前一人で躍起にならなくても…」

「うーん。でも、追っかけるのに夢中になってるうちに携帯落っことしちゃって警部に連絡いってねぇんだよなぁ。現場から随分離れてるし」


 でもま、どっちにしても時間も経ちすぎてるし犯人も逃げてしまっただろう、と自嘲気味に顔を歪める新一。
 キッドは、どうにも責任感の強すぎる、暴走しがちな名探偵に、ふっと息を漏らした。
 そうしてから急に顔をしかめると、


「…ちょっと待て、階段から落ちただとぉ?」

「ああ。おかげで足、こんなんなった……ってオイ、何してんだよっっ」


 話の途中でキッドはがばりと新一にのし掛かり、新一は床に押し倒されるような格好になった。
 「いーから」と言って服をめくるキッドにわけがわからず、じたばたと抵抗する。
 けれど、


「………やっぱり」

「何がやっぱりなんだよコラ!!退け、キッド!!」

「お前、体中打撲だらけじゃねぇか。ちくしょー、気付かなかった」

「…ぇえ?」


 見てみれば、確かに青紫に変色した痣が、体のあちこちに浮き出ている。
 気付かなかったのか、と呆れた視線をよこしてくるキッド。
 足の鈍い痛みと、あんまりキッドが優しく抱いていてくれたものだから、新一は自分でも気付かなかった。
 けれどそんなことはキッドには言えない。恥ずかしくて。


「…足の方がずっと痛かったから…さ…」

「ふーん」


 なんでか不機嫌そうなキッドに「?」と思いつつ。
 意識すれば確かに鈍痛を訴える痣。
 えーと打撲の応急処置はぁ、とか思っていると、キッドの手が右腹部に浮き出た痣に触れに来た。
 熱を持った痣にその手は冷たくて、


「……やッ…!」


 思わず上げてしまった声にハッとする。
 新一は首まで赤くなって、その口元を両手で抑えた。
 驚いたのは新一だけでなく、キッドもまた新一の声に驚いて動きをとめてしまった。


「あー…その。ごめん。そんな驚くとは思わなかった」

「いや、いいっ!気にすんなッ」


 がばりと起きあがった新一は、恥ずかしさにまともにキッドを見ることも出来ずに、そっぽを向いてしまった。
 キッドは伸ばしていた手を所在なさげにひっこめる。
 思いがけない新一の声に、心臓はまだ高く脈打っていた。
 ドキリ、とした。
 艶めかしく綺麗な声。
 渇いた喉に無理矢理につばを飲み込み潤すと、キッドは出来るだけ自然を装って声をかけた。


「あんま無茶すんなよな。…心配する人、いるんだろ」

「う、ん」

「戻ったらちゃんと治療して貰え。ま、その足じゃしばらくは無理したくても出来ねぇけどな」


 キッドはすっくと立ち上がる。
 今、これ以上新一と隣り合って座っていることが難しくなって。
 急にどうしたんだろうと、まだ口に手を当てたままの新一はキッドを仰ぐ。


「お前の意識も戻ったみたいだし、…自宅だか病院だか…警察以外のとこなら送ってやるよ」

「へっ?」

「へ、じゃねーよ。いつまでもこんなとこにいたら治るもんも治んねーだろ」

「そりゃー…そーなんだけど…」


 語尾のハッキリしない新一に、どうしたのかと視線で問う。


「なんかさ、お前と一緒にいると思ったより…なんてーか、愉しくて。おもしれーし。ポッキーとか食ってるし」

「…んだよ、食っちゃ悪いかよ」

「そうじゃなくて。なんか、普通っぽいなー…とか。奇術師とか怪盗とか言われても、やっぱ普通の人なんだなー…って」

「当たり前だろ。マジックは魔法じゃねぇんだ」


 言ったキッドの顔は、どこか晴れやかだ。
 ”愉しい”と。
 そう言われたことが嬉しくて。
 マジシャンにはポーカーフェイスは必須だけど、嬉しいときに笑って何が悪い。
 ましてこの人の前で自分を作るなんてのは嫌だ。
 キッドは唇をきゅっと結ぶ。
 そして、そのままの笑顔で何かを決意したような瞳を向けた。


「名探偵。警部たちと遊ぶのも悪かないけど、俺もお前といるとなんていうかこう…対等な、というか。特別な、そんな感じがする」

「特別?」


 心なし嬉しそうな新一の顔。
 次の言葉をじっと待っている。


「だから、俺と勝負をしないか」

「…勝負ぅ?」

「お前とはまだ片手で余るほどにしか対峙したことがない。そのどれにも、俺はわくわくした。だけどお前は俺の犯行には顔を出さないだろう?それなら…いっそ、勝負をしないか」

「どんな…?」

「俺はまあ、仕事は愉しんでやってっけど。でも、それが目的じゃない。ある目的のために…盗みをしてる」


 新一は驚いた。
 以前、中森警部あたりから「これは求めているものではなかった」と言ってキッドから宝石を返されたことがあると、聞いたことがあった。
 そしてその宝石以外もキッドが盗み出した宝石は、警察や他の人の手を通って、或いは気付かない内にいつの間にか、返されている。
 それを知ったとき、新一は何かあるなとすぐに勘付いた。
 そしてそれを今、キッドは自ら語っている。


「その目的を俺が遂げるのが先か、それともお前が俺を捕まえるのが先か…」

「それを賭けて勝負しよう、て?」

「そうだ」


 完膚無きまでの、最高の勝利と敗北を賭けて。
 キッドの瞳は悪戯に光っている。
 それを受ける新一もまた、不適な笑みを浮かべていた。


「良いだろう。乗ってやるよ、その勝負」

「俺はこの先も、手口鮮やかに盗み続けてやる。他の奴らなんかには絶対捕まらない」

「…俺はきっとお前を捕まえる。泥棒に興味はねぇし、そんなもん追いかけてもつまらないけど……”キッド”は、特別」

「つまらないなんて言う暇ねぇよ」

「言ってろよ。とっ捕まえてやるから…」

「愉しみに、してる」


 クスリとひとつ笑みを零した。
 子供みたいにあどけない笑顔に隠れる、剣呑な眼光。
 新一は熱が上がってきたのか、少し呼吸が浅く短い。


「オイ、名探偵…」

「忘れるなよ、キッド。約束だ。俺を、退屈、させるな…よ…」



 語尾は風に吸い込まれるように、か細く消えた。
 熱を持った足の鈍痛すら、意識の遙か遠くに感じるような気がする。
 目の前で心配そうに揺れるキッドの瞳。
 何度も呼びかける声も、やがて遠のく。


「名探………新一ッ!」


 新一は熱で朦朧とする意識の奥底で、キッドに呼ばれたような気がした。
 ”新一”と。
 常なら決して呼ばれることのないその名前で、呼ばれたような。
 熱に浮かされながら新一のその口元は笑んでいた。

 ぐったりと力無く仰け反る新一の体。
 キッドはマントに新一をくるりと包んで抱き込むと、そのまま夜に静まりかえった街を歩き出した。










* * *


 目が覚めればそこは病院だった。
 すでに何度となく、コナンの体の時から訪れたことがあったのですぐにわかった。
 ぼんやりと見上げた天井の白さに、ポツリと呟いた名前。


「…キッド」


 けれど、その呟きに応えてくれる人はもういなかった。
 ゆっくりと体を起こす。
 左足に巻かれたギプス、体のそこここに巻かれた包帯。
 すでに治療済みだと知る。
 ふと隣を仰げば、小さなテーブルの上には、キッドが手当をしてくれた時に使われた、添え木と紐が置いてあった。
 なんとなくほっとする。
 昨日のアレは夢じゃなくて、夢じゃないなら約束も本当で。
 新一は看護婦を呼び出した。


「工藤君、目が覚めたのね」

「はい。すみません、何度もお世話になっちゃって」

「あらぁ気にしなくて良いのよ。でもあんまり無茶は駄目ねぇ。夜中に担ぎ込まれた時はびっくりしたわ」

「夜中、ですか…」


 そういえば、必死に犯人を追ったり気を失ったりと、忙しい一日だった。
 その中で、時間の感覚などすっかりなくなってしまっていた。
 キッドとあの約束をしたのは、月もだいぶ傾いた時間だったに違いない。


「そうよ。あとで工藤君をここまで運んでくれたお友達に、お礼を言っておくと良いわ。すごく心配してたみたいだし…」

「お友達?」

「工藤君によく似た男の子。あんまり似てるから兄弟だと思ったら、違うって笑われたわ。そんなに心配なら目が覚めるまで側にいればって言ったんだけど、良いって言って帰っちゃったのよ」


 すでに顔なじみになっているその看護婦は、会話をしながらももくもくと検診してゆく。
 血圧をはかったり、包帯を取っ替えたり。
 そして、自分に似たというその少年。
 ……きっと、あいつだろうと思った。
 家で構わなかったのに、ご丁寧に病院まで運んでくれたらしい。
 心配していた、と。
 新一は苦笑を噛む。


「良いですよ。どうせすぐに会うことになるんだし…その時に、お礼言っておきますから」


 そう、と笑顔が返ってくる。
 返す新一の笑顔は、この世の誰にも負けないほどに綺麗だった。
 あの約束がある限り。
 嫌が応にも、きっとまた出逢う。





TOP NEXT