コンコン、というノックとともに、母の声が聞こえてきた。


「快斗?またやってるの?」

「うん。」


 扉越しに聞こえる溜息に苦笑して、一旦手を止める。
 ドアを開いて、そこに立っていた心配そうな母の顔に微笑んだ。


「あなたが何にそんなに必死なのかわからないし、聞かないつもりよ。だけど無理はしないでよね」

「ああ、わかってる。ごめんね、有り難う、母さん」


 ちゃんと言ったからね、という様子で引き返していく母。
 キッドは心の中でごめんね、と呟いた。

 それでも俺は、どんなに手がかりひとつ見つからなくたって、諦めるつもりはないんだよ。

 再びキーボードとマウスの音が室内に響きだした。










K.I.D.










 キッドこと黒羽快斗は、教室に入るなり机に突っ伏し、その勢いのまま眠りに落ちた。
 その様子を吃驚しながら、けれど慣れたといった様子で眺めている幼馴染みの中森青子。
 となりに同じように佇む友人に言う。


「ねぇ恵子、快斗ってここんところ変だよねぇ?」

「黒羽君の居眠りはいつものことだけどねぇ」


 わからないと首を傾げる青子。
 教室のすみにひっそりと佇んだ、整った顔立ちの小泉紅子はその様子を目を細めて眺めていた。

 新一が消えてから一週間。
 キッドの情報網、志保の情報網を用いても、一向にその居場所は突き止められないでいた。
 心当たりのある彼の友人に連絡をし、カードなどの使用がないかを調べた。
 けれど何をしても引っかからず、各地で起きた事件などの関係者全てまで目を通したりもした。
 それでも何の手がかりも掴ませない新一。
 快斗は改めて感服する思いがした。

 普段、名探偵と囁かれる工藤新一とは、そういう人物なのだ。
 多くの事件に関わり、その犯行の手段を多く知る。
 全てを迷宮なしに解決してきただけに、身を隠す術も熟知しているのだろう。

 快斗は連日、夜遅くまで……むしろ夜が明けるまでずっとモニターや新聞にかかりきりで、睡眠をまともに摂っていなかった。
 けれど心配する母を安心させるためにも学校には毎日ちゃんと来ていた。
 おかげで学校で眠るというような日々が続いている。


「黒羽君、一体どうしたというんです?犯行も行っていないというのに…」


 突然声をかけてきた白馬探に、眠りを邪魔されて不機嫌さを露わに快斗は答える。


「その犯行ってのはなんだよ……」

「盗みに決まってるでしょう。予告もしていないというのに、その疲労はどういうことです?」

「なんで俺が泥棒なんだよ。それにお前に関係ないだろ」

「いえ、関係はあります。怪盗キッドが予告もなしに疲労困憊しているということは、つまり下調べか何かかも知れませんからね」


 その言葉になんとか保っていた理性が外れた。


「うるせぇよ白馬。何度も違うと言ってんだろ?今の俺に構うんじゃねぇ。」


 凄みを利かせた冷ややかな一瞥に白馬は明らかに硬直し、それを悟った快斗は低く舌打ちして再び机に突っ伏した。
 今の彼は些細な言動にも揺さぶられてしまうほど疲労している。
 一向に見つからない人。
 諦めるつもりなど毛頭ないけれど、焦りは確実に積もっていた。

 狼狽しながらも白馬はその場を大人しく放れる。
 すると今度は、それまで傍観していた紅子が近づいてきた。


「黒羽君。寝ているつころ申し訳ないのだけれど……」

「申し訳ないと思うんなら近寄らない方が良いぜ。今の俺は何でキレるかわかんねぇぞ…」

「あなたに言っておきたいことがあるのよ」


 忠告しても退こうとしない紅子に焦れて、快斗は起きあがると耳元に小さく呟いた。


「良いから。今は。俺に。構うな。」


 低く掠れた声で、一言一言力を込められた言葉に、紅子は背筋に寒気を感じる。
 これ以上は聞く耳持たないと無言の睨みに紅子も引き下がる。
 それを見届けた後、快斗は今度こそ眠りに落ちた。

 快斗から離れ、再び窓際へと戻った紅子。
 その秀麗な眉をひそませた。

 馬鹿ね……あなたの望む光の居場所を、教えてあげようと思ったのに………。










「志保くん、一息ついたらどうかね?」


 遠慮がちに顔を覗かせた阿笠博士に、志保は短く息をついて答える。


「そうね。今はこれ以上探ってみても、何も見つからないわ」


 酷使しているため霞む視界に、志保は目を瞬いた。
 そのまま研究室を出て、博士の用意してくれたお茶を飲む。
 あの後、博士にも新一が姿を消したという事情を話して、幾分か手伝って貰っていた。
 人手は多い方が有り難い。
 高校生探偵の工藤新一の失踪を世間に知られないための工作を頼んでいた。
 もちろん学校にも姿を現さない探偵を、外国にいる親の元へ行っている、ということにして。


「それで、まだ何もわからんかね?」

「ええ、お手上げよ。なまじ頭が良いだけあって厄介なものだわ」

「心配じゃのう、新一君……」


 心底彼の安否を気にかけているだろう博士。
 けれど、志保がそれ以上に心配するのは別の人。


「彼の心配は要らないわよ。むしろ心配なのは……」


 言いかけたとき、来客を知らせるインターホンが邸内に響く。
 時計を見て相手を推測し、溜息をついた。


「心配なのは、彼の方よ」

「ああ……黒羽君か……」


 博士には黒羽快斗は新一の友人、ということになっている。
 志保ならまだしも、博士にまで怪盗であることは伝えられなかった。
 志保は無言で肩をすくめて玄関へとその人を迎えに行く。


「いらっしゃい、黒羽君」

「お邪魔するね。志保ちゃん、その後は……やっぱ駄目?」

「ええ。残念だけど。」


 内心では激しく気落ちしているのだろうが、快斗はそんな様子を見せずに苦笑をするだけ。
 観察眼の鋭い志保には痛いほどわかってしまったけれど。
 快斗は、得意のポーカーフェイスを保てないほどに憔悴していた。


「博士、お邪魔します」

「かまわんよ、黒羽君。あまり役に立てなくて申し訳ないのう」

「いえ、手を貸してもらえるだけ有り難いですよ。」


 無理な笑顔を向けて、志保と連れだって再び地下室へと降りていった。


「黒羽君。何度も言ってるでしょう、睡眠はちゃんと取りなさいって。」

「うん?寝てるけど?」

「嘘ね。嘘をつくなら鏡見てからにしなさい。」


 快斗は睡眠不足でやつれ、目元にクマが出来ていた。
 いくら学校で眠っているからと言っても、快斗は熟睡出来ていない。


「あなたが必死なのはわかるわ。必死になりなさいと言ったのも私よ。だけどあなたが倒れたら誰が捜すのかしら。迎えに行くつもりなら自分の体も大事にしなさい。」

「……うん、そうだね…。」


 けれど志保には、それでも眠れないだろうとわかっていた。

 黒羽君、あなたが倒れたら、私は捜さないわよ……自分から消えようなんて人はね。

 けれど今、こうして捜してるのは快斗のため。
 誰よりも彼が好きだと言って、そして必死に捜そうとする快斗のため。

 だからあなたが捜そうとする間は手伝ってあげるわ。


「これ、あなたにあげるわ。私が飲むには甘過ぎるみたいだから」


 志保は手に持っていたコーヒーカップを快斗に渡す。
 快斗は有り難うと言ってそれを受け取り、一気にぐいと飲み干した。
 甘く苦いコーヒーを味わったのも一瞬で、襲い来る激しい眠気に快斗はその場に崩れるように倒れ込む。
 ガシャンと鳴ってカップが割れた。

 残念ね……気に入ってたカップだったのに。

 志保は少しも残念がらずに、クスリと笑みを零した。
 カップの割れる音を聞きつけた博士が駆け下りてくる。


「志保くん、今の音は…」

「あらごめんなさい博士。吃驚させたかしら。」

「黒羽君?」

「気にしなくても大丈夫よ。彼が寝ようとしないから一服盛っただけ」


 博士は苦笑を浮かべて納得し、倒れた快斗を抱き上げると寝室へと寝かせに行った。
 割れたカップはそのままに、志保はモニターに向かい続ける。
 薬が切れるまでの数時間の間に、少しでも手がかりを見つけてあげたくて。

 けれど、今夜もまた何も見つからずに一夜が明けていった。





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