この世に生まれた最初の乙女、なんて言うのは、勿論「イヴ」と言う偽名に因んだ快斗のジョークだ。
だが、ジョークにしろ何にしろ、「乙女」などと称されて喜ぶ男はいないだろう。
当然、この俺とて例外ではない。
「イヴ。こちら、FBIの方々だよ」
「…初めまして。イヴ・サンドラーです」
快斗に連れられてやって来たジェームズ、赤井さん、ジョディ捜査官と淀みなく握手を交わした俺は、人好きのする顔でにこりと微笑んで見せた。
どことなく浮ついた空気から察するに、目の前に居る人物がかつて高校生探偵を名乗り、ともに組織を壊滅に追い込んだ工藤新一だとは気付いていないのだろう。
当然だ。今の俺は、快斗によって完璧な変装をさせられているのだから。
たっぷりとした金髪で黒髪を覆い、喉仏は襟の高いシャツで隠し、骨格がばれないようにゆったりめのロングスカートを履いている。
目は「弱視だから」と断ってサングラスを付けていた。
それでも「美人にするからね♪」との言葉通り、稀代の魔術師は人の目が見えないのをいいことに、俺をとんでもない美女に仕立て上げたに違いない。
おかげで俺だと気付かれずに済んでいるのだが、素直に感謝する気にもなれなかった。
「初めまして、FBIのジェームズ・ブラックです。既に彼から聞いてご存知かと思いますが、今回は我々の任務にご協力頂きたく、こうして尋ねて来たのですが…」
些か戸惑うような仕草を見せるジェームズに首を傾げていると、ジョディが快斗に耳打ちするのが聞こえた。
「ラス! こんな危険な任務を、本当にこんなか弱い女性に任せるつもり?」
自らも女性でありながら、心の底からFBI捜査官である彼女は、いくらクラッカーと言えど一般人に変わりないイヴの参戦を渋っているのだろう。
或いは、快斗曰くの「美人」が仇になっているのかも知れない。
容姿の善し悪しが問題なのではなく、単純に似合うか似合わないかの問題だ。
「ご心配なく、ジョディ・スターリング捜査官。こう見えて、危ない橋なら何度か渡ってきましたから」
「えっ。その…気を悪くしたならごめんなさい」
まさか聞こえているとは思わなかったのだろう、慌てて頭を下げる彼女に俺は首を振った。
「気にしないで下さい。白状すると、貴方たちが追っている人たちには、もうずっと目を付けられているんです。でも警察を敵に回すのも面倒だから、これまで逃げ回ってたんですが…」
いい加減、迷惑なんですよね。
そう言って笑えば、イヴがか弱い女性などではないと気付いたのだろう、ジェームズたちが表情を強ばらせるのが分かった。
だが、嘘はひとつも言っていない。
俺も快斗ももともと優秀なクラッカーだし、組織壊滅の折りに研磨し合った腕前は、組織の連中に目を付けられるほどに成長した。
それからは名を変え場所を変え、奴らの目を誤魔化しながらネットの波を漂ってきたのだが、奴らがクラッカーを必要としているなら丁度いいと、俺たちは今回の作戦を思い付いたのだ。
快斗はルシアンとしてFBIに潜伏し、俺はイヴとして組織に潜伏する。
その両方の情報を持って、FBIを操作し、組織を潰す。
はっきり言って無茶苦茶だ。
だが、そんな無茶を、俺たちは過去に成し遂げて来たのだ。
「サイバー・テロと言うのは特殊なものです。どこにも集まらず、仲間の顔も知らなくとも、それぞれに与えられた任務さえこなせば、それだけで国家を転覆させることすらできます」
そんな分かり切ったことを今更彼らに講釈する必要がないことは分かっていたが、俺は敢えて言及した。
言うなれば、これは探偵としての話法のひとつだ。
繰り返し耳にすることによって意識下に刷り込む、サブリミナル効果のようなものだった。
「彼らにとって性別も年齢も関係ありません。使えるものは容赦なく使う。そう言う連中でしょう?」
かつて、優れた頭脳を持って生まれた宮野は、両親の研究を継ぐべく、まだ善と悪の区別も付かないほど幼い頃から組織に利用されてきた。
そしてその研究を自分の与り知らないとことで悪用され、結果――取り返しのつかない罪だけが残った。
その事実に、彼女がどれほど苦しんだか。
気丈な彼女が泣く姿など見たこともないだろう彼らは、知りもしないだろう。
そうして、また新たな誰かの手を罪に染めさせるのだ。
俺が知らないだけで、宮野のように組織に利用され人生を狂わされた人たちが、きっと数え切れないほどいるはずだ。
そんなことが許されるはずがない。
「彼らとの繋ぎ役になって欲しいと言うなら、やってみます。ただし、ひとつだけ条件があります」
「…その条件とは?」
「ここで見聞きしたことは一切口外しないで下さい」
「それは…勿論、我々としても貴方のことは最高機密扱いにするつもりですが…」
もっと大それた条件を予想していたのか、ジェームズは些か気の抜けた口調だった。
「私は、今まで一度も人前で自分をイヴ≠セと名乗ったことはありません。今この時まで、私がイヴであることを知るのは、ルシアン唯一人でした」
「…と言うことは、イヴと言うのは偽名ですか?」
「そうです」
「なぜ、そうまでして隠されるのですか?」
クラッカーやハッカーの間にも様々なコミュニティがある。
日々更新される情報や進歩する技術をより早く正確に手に入れるためには、クラッカー同士での情報交換が必要不可欠だ。
その全てが現実に知り合うわけではないが、唯の一人も知り合いがいないと言うのは確かに珍しいことだろう。
彼が不思議に思うのも当然だ。
だが、それを「イヴ」に言うのは少々ずれた発言だった。
「ブラックさん。貴方はあまり、クラッカーの世界をご存知ないようですね」
「確かに私は、あまりコンピュータに明るい方ではありませんが…」
自身の不得手を言い当てられ、ジェームズが顔をしかめる。
別に彼を貶すつもりで言い出した話ではないので、俺は彼の言葉を遮って続けた。
「イヴと言う名は、クラッカーの間では、聖書におけるその名と同じほど有名な名前です。その名を名乗ることの危険性は、クラッカーであれば誰でも知っていることです。だから、たとえ偽物だろうとイヴと言う名前だけは誰も使いません。事実――そこで硬い表情をされている赤井さんは、ご存知なのではありませんか?」
勿論顔色など見えるはずもないのだが、イヴが偽名だと言った瞬間、微かに空気が震えたことを俺は見逃さなかった。
「赤井君…?」
「…確かに、イヴと言う名の凄腕のクラッカーなら知っている。ジェームズ、貴方も二年前にペンタゴンで起きたサイバー・テロは覚えているでしょう?」
「ああ…あの時は組織の件で日本にいたが、勿論覚えているよ」
「そのサイバー・テロの首謀者がイヴ≠ニ名乗っていたんですよ」
「な――っ!」
絶句するジェームズに、俺は慌てた風もなく首を振った。
「勿論、私ではありませんよ」
もしそうであればこの場にいるはずがない。あの事件の首謀者は既に捕まっており、今は監獄の中で判決を待っていた。
「犯人はイヴの偽物だった。でも、その事件に携わっていたエージェントが思わず言った言葉に私は戦慄しましたよ」
「な、なにを言ったんだね…?」
勿体ぶるように間を空け、赤井さんが言った。
「もし本物のイヴだったなら、この国は終わっていた――と」
息を詰まらせながら強ばった顔でこちらを振り返ったジェームズに、俺は殊更戦慄を煽るようにうっそりと微笑んだ。
そう。
イヴは、俺と快斗が生み出した世界最高のクラッカーだ。
その名を騙ることは、神の名を騙るに等しい行為である。
しかし、神と言っても創造主ではない。
蛇に誑かされて禁忌を犯したイヴは、楽園を追放された咎人――邪神だ。
「これでお分かりになったでしょう? 彼らが私を追い回す理由も、私がイヴと名乗らない理由も」
圧倒されて言葉もないジェームズとジョディとは違い、赤井さんだけは尚も鋭く切り返した。
「納得いかないな。奴らを迷惑だと感じていたにも拘わらず、今まで組織を野放しにしていた理由は何だ? 国を転覆させられるほどの力があるなら、犯罪組織を潰すくらいわけないだろう。それがどうして今になって、急に我々に手を貸す気になったんだ?」
さすがにこの人を話術だけで丸め込むことは不可能か。
僅かな綻びも見逃すことなくきっちり切り込んでくる鋭さに、危険な状況だと言うのに楽しんでしまいそうになる。
だが、俺も快斗も慌てることはなかった。
「イヴは――悪を滅ぼす正義の味方なんかじゃありません。ただ抑制≠ノなるようにと、生み出された存在です」
「抑制?」
「戦争の抑制のために作られた核兵器も、それを使えばたちまち戦争になる。強い力とは、決して使ってはいけないものなんです」
組織を潰すために培った技術だったが、俺たちはその力で組織を潰したわけじゃない。
ホストコンピューターへの侵入や情報の改竄など、情報面における作戦の端々に使うことはあったが、その全ては「工藤新一」として行ってきた。
もしその作戦をイヴ≠ニして行っていたなら、警察機関がイヴ≠フ力を得たことになり、そうなれば犯罪者と警察機関との均衡は大きく崩れていただろう。
そうならないために、俺たちはイヴの名を語らなかったのだ。
確かにこの世から悪を根絶することができれば、世界は平和で素晴らしいものになるだろう。
だが俺は、人の心から悪意が消える日は来ないと思っているし、消えなくていいとさえ思っている。
大切なのはバランスなのだ。
「彼らの情報は渡します。でも、それだけです。私は誰の味方でもありません。ですから、私がイヴであることはここだけの秘密にして、これが終われば忘れて下さい。それができなければ、協力はできません」
イヴ≠フ力を持って組織を潰す気はない。
そうはっきりと告げれば、疑り深い赤井さんも了解の意を示すように軽く肩を竦めた。
交渉が成立したところで、作戦の説明となった。
「最後にひとつだけ聞いてもいいか?」
話も終わり、作戦本部へ帰ろうとする彼らを扉で見送っていると、不意に足を止めた赤井さんがこちらを振り向いた。
ぴたりと、さりげない仕草で足を止めた快斗に「心配するな」と軽く頷く。
マイクで音は拾えるのだし、赤井さん相手に何かの危険を心配する必要もない。
先に行ったジェームズとジョディを追って快斗の姿が見えなくなると、赤井さんが口を開いた。
「ルシアンは、あんたにとって何なんだ?」
誰も知らない天才クラッカー、イヴ。
その正体を唯一知っていたルシアン。
二人はいったいどういう関係なのか、疑問に思って当然だろう。
だが、おそらくこの人は――…
「…大事な、半身です」
大事すぎて、失えない存在。
もし再び快斗を失うようなことになれば、その苦しみに耐えられずに、俺は死んでしまうに違いない。
「…そうか」
そう低く呟き、俺の頭を軽く撫でると、赤井さんはそのまま歩き去った。
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