対組織チームの対策本部は、俄に慌ただしくなっていた。
それもそうだろう。
暗号解読に長けた連中が一週間もの間どんなに頭を捻らせても解けなかった暗号を、たった一晩で快斗が解いてしまったのだから。
正しくは、解読したのは俺と快斗の二人なのだが、チームの連中にしてみれば、当然快斗がたった一人で解読したように見えるだろう。
チームに迎えられて以来、スパイを叩き出したり何なりと多くの偉業を成し遂げて来たルシアン・ウォーレンは、またひとつ新たな偉業を成したのだった。
『あの暗号を一日で解くなんて…ルシアン、君は何者なんだ?』
『そうだな…敢えて言うならただの暗号マニア≠セよ。経験の賜だな』
誰が、とは言わないものの、嘘は言っていない。
俺も快斗も、作る側と解く側の違いはあれど、かなりの暗号好きだ。
怪盗を始めたばかりの頃の快斗はそうでもなかったのだろうが、俺との勝負を楽しむようになってからは、これ幸いと難解な暗号を作っては「さあ解いてみろ」と俺を挑発するようになった。
それに乗ってしまう俺も俺だが、俺の暗号好きは怪盗の耳にも届いてしまうほど知れ渡っていたのだから仕方ない。
『…ラスを見ていると彼≠思い出すわ』
『ああ…あの探偵のボウヤか』
超高性能マイクだからこそ拾えた小さな呟きに、俺は思わず息を潜めた。
ジョディ捜査官と――赤井さんの声。
そんなはずはないと分かっていても、この人なら、マイクの向こうで俺が耳を澄ませていることを見抜いているのではないか、と思ってしまう。
この人なしには組織の壊滅は成し得なかっただろう、FBI内において唯一キッドの存在を知る彼、赤井秀一なら。
そもそも、対組織戦におけるキッドの存在を彼に隠すことを、俺も快斗も初めから諦めていた。
身内に甘いジョディ捜査官やジェームズと違い、彼ほど優秀な、そしておよそ人間らしい「甘さ」と言うものに無縁な男には、仲間との間に成り立つ無条件の「信頼」など存在しない。
だから俺たちは、彼にだけは初めから隠すことなく、この戦いにキッドを引き込むことのメリットとデメリットを彼に提示して見せた。
そして彼はキッドの介入を認めたのだ。
キッドの参戦はトップシークレットだ。
プロジェクトの最重要人物であるキッドと連絡が取れたのは僅か三人。
チームのブレインである俺と、プロジェクトの実行部隊を実質的に指揮する赤井さん、そして――父さん。
これは後になって知ったことだが、父さんと快斗は古くからの知り合いで、快斗はプロジェクトの経過を逐一父さんに報告していたらしい。
だから父さんは息子の勝手な行動を容認していたのだろう。
『ジェームズは相変わらず彼≠フもとへ通ってるみたいね』
『まあ、ボウヤが我々に与えた功績を考えれば、当然だろうな』
まるで俺ひとりの手柄とでも言うような台詞に顔が歪む。
俺の功績など高が知れている。
真に感謝すべきは、貴い犠牲を払った掛け替えのない人たちと、体を張って俺を守り一命を取り留めた快斗だ。
『そうね。でも私は――これでよかったと思ってる』
彼女は珍しく真剣な声だった。
『両目を失って。探偵である彼にとって掛け替えのないものを失って、もうこれ以上何も失うことがないのかと思うと、これでよかったと思うの』
――それは、違う。
思わず叫びそうになった言葉を必死に飲み込む。
快斗の作ったマイクは当然俺にも付けられていて、下手なことを言えば快斗に筒抜けになってしまう。
不自然にならない程度にゆっくりと息を吐き、俺は深呼吸した。
俺は探偵だ。
包み隠された真実を探し出すのに、確かに目は重要な要素だろう。
だが、そうじゃない。
たとえ目を失ったところで俺は探偵だ。手もあれば足もあるし、耳も鼻も、最悪、舌だってある。
縦しんばその全てを失ったとしても、俺は自らを探偵と名乗ることに一片の躊躇いもないだろう。
俺が自分を探偵と認めるのは、俺の心がそう認めているからだ。
俺にとって掛け替えのないもの、それは、俺をして俺たらしめるこの心こそがそうなのだ。
だから、この心を折られない限り、俺は自らを探偵と名乗り続けるだろう。
誰に否定されようと、死ぬまで、ずっと。
『――それは違うな』
握った拳の先に悔しさを堪えていた俺の耳に、いつもよりずっと低い快斗の声が聞こえた。
俺が心に叫んだ言葉と寸分違わぬ言葉を持って、彼女の言葉を否定する。
『ジョディ、君は君がFBI捜査官であるという事実を何を持って証明する? バッジか? それともデータベースに登録されたデータか?』
『え…』
『バッジは幾らだって偽造できる。データだって幾らでも書き換えられる。人間の創り出すものに完璧なものなんか何ひとつないからな。じゃあ、君は何を持って自分がFBIの捜査官であることを証明する?』
唐突なそれに答えることができず狼狽える彼女に、快斗が言った。
『ただひとつ、誰のどんな思惑も入り込む隙のないもの。それは自分の心だ』
ふ、と思わず笑みが浮かぶ。
爪が食い込むほどに握り締めていた手が緩んだ。
『何を失っても、最悪命を落としたとしても、最後まで自分らしく在り続けた結果なら、それがその人にとっての最高≠セと俺は思う』
『同感だな』
俺と同じく心のままに生きることを「最高」とみなす男どもが笑う。
そうだ。
目が見えないとか一度死にかけたとか、その程度の障害でこの俺が挫けるはずがない。
俺はきっと死ぬまで探偵だ。
『はいはい…どーせ女の私には分からないわよ』
優しい彼女だけが承服しかねるようだったが、暗号解読の報を聞いてやって来たジェームズの登場に、雑談はそこで切り上げとなった。
『奴らの次の目的が分かった。バンク・オブ・アメリカ――そこにサイバー・テロを仕掛けるらしい』
ジェームズの硬い声に続き、ざわめきが室内を駆けめぐる。
仕方ないだろう。
暗号を解いた本人である俺も、解読して暫くは驚きを隠せなかった。
バンク・オブ・アメリカはノースカロライナ州のシャーロットに本拠地を構える、アメリカ最大の預金を保有する銀行だ。
およそアメリカ国民の五人にひとりを顧客として抱えるこの銀行にサイバー・テロを仕掛ける、それが意味するところは、アメリカ社会に深刻かつ重大な打撃を与えると言うことに他ならない。
IT――情報技術に依存しきった現在の社会機能において、サイバー・テロは、直接的な破壊行為よりもずっと効果的なのだ。
『いつ仕掛けるのかは書かれてなかった。おそらくまだ計画段階なのだろう。組織が壊滅を迎えてからまだ一年と少しだ。そんな大規模なテロを仕掛けるほど、奴らが増長しているとは考えにくい』
そんな言葉は気休めにもならないのだろう、ざわめきはまだ静まらない。
『そこで、ひとつ提案がある』
それに、ようやっと彼らは口を噤んだ。
『サイバー・テロを行うには、綿密な準備や緻密な計画以上に必要なものがある。それは多ければ多いほど作戦の遂行は円滑になるが、なければ話にならない』
『…クラッキング能力に長けた人材、ですね』
『そうだ。これが計画段階なら、奴らは優秀なクラッカーを喉から手が出るほどに欲しているはずだ』
その先は言わなくても誰もが理解した。
そもそも、俺も快斗も暗号を解読した時点で、ジェームズがそこに着目することを予想していた。
つまり――
『そのクラッカーとして奴らに接触を図り、潜入捜査を行う』
かつて黒の組織を相手に赤井さんを潜り込ませたことのある彼なら、当然そこに行き着くだろうと思っていた。
ここからが、作戦開始だ。
『だったら、丁度いい人材をひとり知ってますよ』
タイミングと空気を掴むセンスが抜群に優れた相棒が、俺からすれば少しわざとらしい口調で提案する。
しかし、彼らは既に魔術師のトリックに掛かっていた。
『ジェームズ、貴方のことだ、俺にその役を頼もうと思ってたんじゃありませんか?』
『…正直に言えば、その通りだ。優秀なエンジニアなら大勢いるが、奴らを相手に上手く立ち回れるだけの者をと考えれば、赤井君か君ぐらいのものだろう。赤井君は既に彼らに顔を知られている可能性がある。そうなると、我々の頼みの綱は君だけだ』
ジェームズの口調には言う前に言い当てられた気まずさが滲んでいたが、引くつもりもないと言う意志もまた表れていた。
それを敢えて無視して、快斗は言った。
『確かに俺はコンピュータにも詳しいし、自分で言うのも何ですが、奴らの仲間を演じきる自信もあります。でも、一度FBIに潰された組織が、仮にもかつて軍部に籍を置いていた人間をそう簡単に信用するとは思えない。だから、一度も警察や軍と関わりを持ったことのない、むしろそうした連中を毛嫌いしているぐらいの人物が丁度いいと思うんです』
快斗が言っていることは正しい。
ただし、それはそれを為し得るだけの要素があってこそ成り立つ理想論だ。
だが、その要素があれば、理想も現実と成り得る。
『ご存知の通り、俺は対テロ作戦に特化したエージェントです。当然、サイバー・テロに関してもあらゆる対策を講じている。しかし、一口にサイバー・テロと言っても、その手口は十人十色、日進月歩。そこで我々が取った手段は、自らクラッキング技術を高めるか、或いはクラッカーの知り合いを作ることでした。
そうして知り合った友人を、俺は推薦しますよ』
魔術師の巧みな言葉運びにすっかり乗せられた者たちから口々に感嘆の声が上がる。
強引にでも潜入捜査を快斗に任せようとしていたジェームズでさえ、前言を撤回し「確かにそれは使える」と頻りに頷いている。
『…その男は、信用できるのか?』
渡りに舟の提案に難色を示したのは、警戒心の強い赤井さんだった。
『警察や軍の人間を毛嫌いしているんだろう? そんな人間が元軍人であり現FBI捜査官であるおまえの依頼を受けるのか?』
『誤解するな。毛嫌いする、と言ったのはものの例えだよ。実際、警察が好きなクラッカーなんていないだろ?』
やはり彼だけは簡単に乗せられてはくれないか、と思わず苦笑する。
『大丈夫。彼女とは個人的な知り合いなんだ』
『…彼女?』
当然、男だと思っていた赤井さんが驚いたように聞き返すのへ、快斗は楽しそうに笑い声を上げる。
俺は少し面白くなさそうに顔をしかめた。
『ああ。イヴ・サンドラー――この世に生まれた最初の乙女だ』
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