下調べはとっくに済ませているとは言え、怪盗キッドの犯行に失敗があってはいけない。 快斗は実際にこの目で確認しておきたいことがいろいろあるからと、航海二日目の夜、新一をひとり部屋に残して早速仕事へと出掛けていた。 新一としても旅行≠ニ名目をつけてはいるがそのあたりは了承してるので特に引き留めることもなく快斗を送り出したのだが…… 何と言っても、ひとりは暇なのだ。 自宅のように新一好みの書物がごまんとあるわけでもないこんな海のど真ん中で、だだっ広い部屋にひとりきり。 そんなわけで、新一は元来の退屈を嫌う好奇心旺盛な少年のような顔をして、こそこそとまるで泥棒のように部屋を抜け出したのだった。 もちろん、女装は忘れずに、である。 |
月下美人 |
白いワンピースに薄いベージュのショールを肩から掛け、新一は裸足で甲板を歩いていた。 さすがにこの格好(ちなみにコーディネートは全て快斗によるものである)でスニーカーを履くわけにもいかず、だからと言って足の痛いヒールを履くにも抵抗があったため、しょうがなく裸足で出てきたのだ。 乗客に変な目で見られるのも覚悟してでてきた新一だが、どういうわけか彼らは変な目どころか恍惚とした視線を投げてくる。 新一は首を傾げた。 どちらにしろ目立っていることには変わらないため居心地は悪いのだが。 と、どこからか快斗の声が聞こえてきて新一はきょろ、と周囲を見渡した。 勿論今は変装中なのでわざわざ声色まで変えている快斗だが、新一にはどれほど快斗が姿や声を変えようとすぐにわかってしまうのだ。 程なくして新一は一階下のデッキに快斗の姿を見つけた。 数人の女性と談笑している。 新一はそれが仕事≠セとわかっていながらムッとした。 どうせ談笑の合間に巧みに知りたい情報を引き出しているのだろうが、わかっていても恋人が他の女性と楽しげに笑っている様は見ていて楽しいものではない。 あんなあからさまな愛想笑いに頬を染める彼女たちの気も知れない。 けれどたとえポーカーフェイスだろうと、快斗の見せる表情も感情も全て自分のものなんだからそんな風に撒き散らすんじゃねぇ、と新一は子供のように拗ねるのだった。 「どうかされましたか?」 穏やかなバリトンに物腰柔らかく声を掛けられ、振り返った新一は話しかけてきた人物を見て僅かに瞠目した。 「素足でこんな場所を歩かれると風邪を召されますよ」 口許に髭をたくわえた長身の男性は紳士らしく丁寧に腰を折って見せた。 彼は佐々山孝太郎、このアルテミス号のオーナーだ。 乗船してすぐに乗客全員を集めたホールで挨拶をして以来、全然姿を現さなかった彼がなぜか目の前にいる。 新一が驚くのも無理なかった。 「…ヒールが壊れてしまって。変わりの靴もなかったものですから」 「おや、それはとんだ災難でしたね。宜しければこの船で売っている靴をお召し下さい。勿論、お代は結構です」 「いえ、そんな…」 「どうかお気になさらずに。レディーに裸足で歩かせるわけにはいきません」 にっこりと何の邪気もなく微笑む佐々山に、せっかくの好意を無下にするわけにもいかないと新一は内心で溜息を吐いた。 これでは窮屈なヒールを履かなければならない上に靴まで貰ってしまうことになる。 けれど今更嘘だとは言い出せない新一は表面上には笑みを浮かべて有り難く佐々山の好意を受けることにした。 「それでは、僭越ながら私がエスコートしましょう」 突然のオーナーの出現に周囲からちょっとした注目を浴びていた新一は差し出された手を取らないわけにもいかず、「何やってんだ…」と心中で呟きつつも佐々山の手を取ったのだった。 他愛のない世間話に相づちを打ちながらも新一は職業柄、オーナーの人柄を観察する。 彼が挨拶をした時から思っていたことだが、その言葉の端々にも彼の賢明さが現れていた。 おそらく秀才と呼ばれる頭の回転の速い男だろう。 なるほど、たった一代でここまでの大企業を築き上げただけのことはある。 その上これは意識してのことではないだろうが、人好きのする社交的な性格をしているために人付き合いも巧い。 踏み込みすぎず引きすぎない会話は少なくとも新一に苦痛を感じさせるものではなかった。 「せっかくのクルージングだと言うのに申し訳ない」 突然謝罪の言葉を口にした佐々山に新一は首を傾げた。 「何がですか?」 「怪盗キッドのことですよ。この船の宝石を狙っているとか…ご存知ありませんか?」 「ああ、そのことなら気にしてません」 むしろ謝らなければならないのはこちらの方なのだからと、勿論そんなことは口にできないが新一は苦笑を浮かべた。 「キッドは犯罪者ですけど人を傷付けることはしないでしょう?だから心配はしてません」 強いて気になることと言えば、警備に張り切りすぎた警官や警部、探偵たちが乗客に怪我を負わせないかということである。 万が一パニックに陥れば乗り込んだ数少ない警官たちでは抑えきれないだろう。 けれどそれも、要領のいい恋人が万事巧くことを運んでくれるだろうと信頼しているため、新一は今回は全くの傍観を決め込むつもりだった。 「おや、では貴方もキッドを見るためにこのクルージングへ?」 「いいえ、恋人と旅行に来たんです。キッドのことはたまたま重なってしまっただけです」 でも、と新一は続ける。 「あの白い鳥が傷付かないことを願います」 キッドが――快斗が傷付かなければいい。 それはいつも思っていることだ。 怪我を負って帰ってきた時はもちろん、快斗がそうと見せないように笑いながらも落ち込んでいる時、新一はひどくやるせない気持ちになる。 自分たちはお互いの領域を尊重し大事にしているから、探偵の新一は怪盗の領域にはそうそう足を踏み入れることはできない。 傷付いていることを知りながら、聞くこともできずにただ側にいるだけ。 それがどれだけ快斗の助けになっているか知らない新一は、ただ歯痒さを噛み締めることしかできないのだ。 けれどなぜそんなことを彼に話してしまったのか、新一は自分でもわからなかった。 ただ佐々山は微かに瞠目したあと、子供のような笑みを浮かべて言った。 「私もそう願います」 * * * 数人の女性客と一階のデッキで談笑していた快斗は、不意に頭上から感じたざわめきにさり気ない仕草で上を見上げた。 すると、二階のデッキから新一が顔を出していた。 多分ひとりでは髪を結い上げることができなかったのだろう、背に流された真っ直ぐ伸びた黒髪が風に揺れている。 化粧もほとんど落ちているというのに、白い肌や形の良い唇、そして何より極上の蒼玉はそれだけで彼を完璧な美女に見せていた。 (ああもう、新一ったらこんなとこでそんな無防備な顔晒すなよっ) ぼんやりと空を見上げる新一の視線の先にあるのは下弦の月。 つまらなそうに、どこか不機嫌そうに見えるのはひとり部屋に置いてきてしまったからだろうか。 快斗は女性客との会話も耳に入らなくなってしまっていたが、不意に動き出した新一に意識は完全に奪われてしまった。 誰かが新一に声をかけたのだろう。 長身の男性は確かこの船のオーナー、佐々山孝太郎だ。 やがて連れ立ってどこかへ歩き出した彼らに快斗はとうとう居ても立ってもいられなくなった。 (知らない人についてっちゃ駄目だろ、しんいち〜!ってか、なんで裸足なんだよ!?) まるで幼稚園に通う愛娘を心配する過保護な父親のようなことを思いながら、快斗は挨拶もそこそこに急いで二人の後を追った。 この怪盗キッドを相手に逃げ切れると思うなよ、と目の据わった快斗は不穏な言葉を心中に吐く。 程なくして見つけた二人に快斗は更に表情を厳しくした。 人懐っこいとはとても言えない新一が、普段なら快斗や志保のような本当に気心の知れた者にしか見せない笑みを浮かべている。 それだけで快斗の頼りない理性は音を立てて壊れたのだった。 「し…っ、有希!」 思わず「新一」と呼びかけそうになり、慌てて偽名を叫ぶ。 新一は単純に有希子さんから二文字もらって「ゆうき」と名乗っていた。 「カイ?」 驚いた新一が目を見開いてこちらを見る。 快斗は怒りを顕わにずかずかと新一の前まで歩み寄った。 「どうしてこんな所に?部屋で待ってろと言っただろう」 オーナーから引き離すように快斗は新一の腕をぐいと掴むと引き寄せた。 突然のことに戸惑っていた新一は、けれど快斗の態度に明らかに機嫌を急降下させて食ってかかった。 「お、…私の勝手だ。部屋を出るのにカイの許可がいるのか?」 「待ってろと言われたからにはそれを守るのが筋だろう」 「何を勝手な…っ」 急に険悪になった雰囲気にオーナーが落ち着いた物腰をほんの少し慌てさせながら仲裁に入る。 「お客様、お気を悪くさせましたなら申し訳ありません。こちらの方が靴を壊されたというので、それなら店の靴をと…」 「それなら問題ない」 快斗はオーナーを睨み付けると新一を軽々と抱き上げた。 「ご好意だけ有り難く貰っておきます、オーナー。彼女が世話になりました」 腕の中で暴れる新一を軽く抑え込み、快斗は言葉とは裏腹な態度でさっさと踵を返した。 オーナーは深く頭を下げるだけでそれ以上何かを言おうとはしなかった。 「どういうつもりだ、快斗!」 やがて自室へと戻ってきた快斗は早速新一の猛抗議を受けていた。 けれどそれを涼しい顔で受け流し、被っていたマスクを剥がすとベッドに新一を縫い止めた。 怒りに染まった瞳がそれでも美しい。 「新一こそどういうつもりだよ」 そう言った快斗には少しも悪びれた様子がなく、むしろその静かな口調に新一以上の怒りが込められていて新一は困惑した。 「俺がいないのをいいことにオーナーと二人でどこ行こうとしてたのさ」 「な…っ、だからあれはオーナーが靴くれるって言うからっ」 「靴なんて壊れてないだろ」 「ヒールが嫌だったから裸足で出たんだよ!咄嗟の言い訳で壊れたって言っちまったの!」 「じゃあなんで、あんな…っ」 言ってる合間に思い出し、快斗は腑が煮えたぎるほどの嫉妬を感じた。 あんな表情は誰にも見せたくない。 新一の全ては自分だけのものなのに! 「つっ…」 ずきっ、と走り抜けた痛みに新一は小さく声を上げた。 快斗が首筋に吸い付いたのだ。 頸動脈の真上、唇からドクドクと脈拍が伝わってくる。 その場所をざらりと舌で舐められ、新一は慌てて快斗の体を押しのけようとした。 「快斗っ、やめろ!」 「やだね」 言うなり唇を塞がれる。 唯一拒絶できる場所を塞がれて新一は抵抗する術を失った。 嘘でもなんでも「嫌だ」と言えるのは言葉だけだと言うのに、快斗はそれすらも許さないのだ。 そうこうする内に予想もしていなかった場所に前戯もなく触れられ、新一の頭は一瞬真っ白になった。 ベルトもズボンもないこの格好ではマジシャンの器用な手はいとも容易くワンピースの中へと潜り込んでくる。 何度も重ねてきた体はすぐに絆されてしまうだろう。 遠慮も容赦もなく快楽を与えてくる指先に新一のそれは早くも形を変えつつあった。 「どうしたってんだよっ、快斗…っ」 解放された口から新一は吐息混じりに疑問をぶつける。 今夜の快斗はいつもの彼らしくなかった。 理性をなくして本能のままに抱かれたことも何度かあった――なにせ初めての時がまさにそうだった――が、それにはいつも何らかの原因があった。 快斗、或いは新一の心をひどく揺さぶる何かがあった時。 けれど今回、全く身に覚えのない新一はただ混乱するばかりで。 「俺以外の奴にあんな顔を向けるのは許さねぇ!」 吐き出すように言われた言葉にようやく新一は合点がいったように「ああっ」と声を上げた。 「ばか、おまえ、そりゃ勘違いだって」 「五月蠅い」 「いいから聞けって、」 「言い訳なんて誰が聞くもんか。声が枯れるまで啼かし続けて、おまえが誰のもんか思い知らせてやる」 そのあまりに傍若無人な我侭小僧丸出しの快斗に新一の理性もあっさりとぶち切れた。 もともと気の長い方ではない、むしろ短い方に分類される新一だ。 考えるよりも早く体が反応し、新一は快斗の額目掛けて己の額を打ち付けた。 そして唐突に頭突きをかまされた快斗は避ける間もなくあっさりベッドに仰向けに沈んだのだった。 「いいか、バ快斗、よく聞けよ!俺はオーナーとおまえの話をしてたんだよ!彼は予告状を受け取った本人にもかかわらず、おまえのこと心配してくれたんだ! だから嬉しくなっちまって、つい…っ」 言いながら、こんな告白まがいのことを怒鳴っている自分が馬鹿らしくなってきた。 「じゃ、新一があんな顔で笑ってたのって…」 「二度も言わせんじゃねぇ、あれはあくまでおまえを思ってあんな顔しちまったんだよっ」 ふんっ、と新一は鼻で息を吐く。 大体にして馬鹿で早とちりで思いこみの激しいこの男がいけないのだと、乱れまくった格好のまま新一は快斗を思いきり睨み付けた。 暴れまくったおかげで肩ひもはずれて二の腕に掛かり、快斗に乱されたスカートは白い太腿を惜しげもなく晒している。 極めつけが、そんな格好にもかかわらず決して曇らないこの双眸だ。 その扇情的な光景に快斗の体は素直な反応を返した。 「ごめんね、新一…」 嫉妬で冷静さを欠いていた自覚のある快斗は素直に謝罪するが、その手は相変わらず肌触りのいい新一の大腿を怪しい手つきで彷徨う。 「…おい」 「ちゃんと反省してるよ。でも――」 おまえのそんな格好見てたら、俺我慢できそうもねぇ。 吐息と共に湿った舌が耳に入り込み、言いようのない痺れがぞくりと腰を刺激した。 「そんな格好」にした本人がよく言うぜと思いながらも、新一も抵抗する気などとっくにうせてしまっていたため、未だきっちり着込んでいる快斗のネクタイに自らするりと指を絡ませていった。 波のように打ち寄せる快感に耐えるよう、赤く湿った唇を噛みしめるその顔を快斗は見上げる。 新一はいつも無駄な声を出さない。 と言うか、意地でも聞かせてやるものか、ぐらいの頑固さで声を出そうとしない。 それは解放の瞬間ですらそうで、苦しげに顔をしかめながらも唇を噛みしめて声を押し殺そうとする。 時折堪えかねたように漏れる極上の喘ぎはダイレクトに性欲を刺激するが、快斗はこの快楽に耐えた新一の苦しげな悩ましい表情にも弱かった。 普段はクールな新一がその瞬間纏うのは壮絶な艶≠セ。 媚びたところは一切なく、そこには快斗にその体を征服されながらも決して陥落しきらない気高さがある。 彼がどこまでも工藤新一≠ニいう存在なのだと思い知る瞬間だった。 「しんいち、いい…?」 快斗の腹の上に乗り上げた新一は一瞬躊躇ったものの、こくりと喉を鳴らして小さく頷いた。 いくら慣れた行為とは言え、元来作りが受け入れるべきものではないのだから苦痛はいつまでも付きまとう。 それでも新一はいつでも快斗に応えてくれるのだ。 ゆっくり動き出した快斗に新一が小さく息を呑む。 たったそれだけの動作がきつくて、受け入れた快斗を強く締め付けた。 「…くそっ、やっぱ上は辛ぇ…っ」 自分の体重がのし掛かり、更に奥深くに熱い塊を感じる。 思わず悪態を吐く新一に快斗は気遣うように身を起こした。 「しんいち、やっぱ俺が上になろうか?騎馬位なんておまえ初めてだろ?」 「うるせぇ、俺がやるったらやるっ」 何を意地になっているのか、新一は快斗の上半身をベッドに押し戻すとゆっくりと自分から動き出した。 ぎこちない動きだがそれが何よりも快斗の雄を揺るがせる。 耐えているのが苦痛だか快楽だかもうすでにわからなかったが、新一は堅く引き結んだ唇の端から時折熱い吐息を漏らしながらゆるく快斗を刺激し続けた。 快斗の口からも息を詰めるような堪えるような嗚咽が漏れ、それに新一は満足そうな笑みを浮かべた。 それに勢いを得たように新一の動きもスムーズになっていく。 「忘れんなよ、かいと…」 「…なに?」 熱に蕩けた蒼い双眸に真っ直ぐ見つめられ快斗もまた恍惚とした目で見つめ返す。 「おまえだって、俺の、なんだからな…おまえの見せる顔は、たとえポーカーフェイスだって、誰にもやらねぇ…っ」 何かを思いだしているのか、新一の眉が不機嫌そうに寄る。 その顔がふとあのデッキから月を眺めていた時の顔と重なり、快斗は納得したように目を見開いた。 普段は冷静沈着な探偵の仮面の裏に巧みに隠しているが、新一は快斗と同じくらい、或いはそれ以上の嫉妬深さを持っている。 その新一が、あの時快斗が新一を見つけたように快斗を見つけていたなら。 愛想笑いとはいえ女性客相手に笑顔を振りまいていた快斗に新一が嫉妬したとしても、そしてそのせいで不機嫌そうだったのだとしても何ら不思議はない。 「しんいち、妬いてくれたんだ?」 「…暫く離してやんねぇって言っただろ。 なのに俺を置いて、仕事とは言え他の奴と喋ってるなんて気にくわねぇ」 観念したように白状した新一の不機嫌そうな表情の奧に苦しげに渦巻く嫉妬を見て、快斗はたまらずに腰を打ち付けた。 途端、堪える間もなく零れた艶声に快斗は呆気なく煽られる。 どくっ、と強い脈動を直に感じ取った新一は背を反らせ、天を仰いで熱い吐息を吐き出した。 「嬉しいこと言ってくれるね…っ」 「待て、かいと、今日は俺がっ」 「待てねぇよ」 素早く体を起こして体勢を入れ替えると、快斗は涙を流し今にも弾けそうな新一をぐっと戒めた。 濡れた音が響く。 行為が激しくなるにつれその音も大きくなり、新一は羞恥のあまり耳を塞いだ。 視覚も聴覚も塞がれた暗闇の中、ただ快斗の熱だけを体の奧に感じている。 そこから伝わってくる感情も独占欲も全てが甘く心地よく、快斗と離れていた一ヶ月という時間は思ったよりも自分にとって長かったのだと、新一は一晩かけて嫌というほど思い知らされたのだった。 |