>> Petalscape...
満開の桜に彩られた並木道を歩く。 時折吹き抜ける心地よい風に、サラサラと音を立てながら揺れる枝葉。 まだしっかりとした花びらは散ることもなく、桃色に染め上がった木がざわりと揺れる光景は、幻想的なイメージを人々に抱かせる。 その並木道を通い慣れた足取りで歩いているのは、世間から消えて久しい名探偵こと、工藤新一。 四月も下旬に差し掛かった現在、東都大学に通い出しすでに半月近く経とうとしていた。 当たり障りのない程度には人付き合いも良い。 けれど、以前新聞紙上をことある毎に騒がせていた名探偵とは思えないほど、その存在は形を潜めていた。 その容姿や存在の奇抜性から、彼を特別視するものは少なくない。 けれどそれは単に“有名人に対する興味”というだけであり、新一本来の性質を理解した上でのことではない。 本来、現場の空気を支配し物事を全体的な視野で捕えなければならない探偵である新一は、強烈なまでの存在感と威圧感を持っている。 それを意識的に潜めているのだから、この状況は当然と言えば当然ではある。 そもそも新一がなぜそんなことをするかと言えば、長く続いた組織との戦いの果てに再び平穏を取り戻すためなのだから。 が、だからと言って探偵を辞めたわけではない。 相変わらず、警察からの要請が来れば講義もそこそこに現場に向かってしまうし、行く先々で巻き込まれるという事件体質も変わっていない。 ただ、以前のようにマスコミに取り上げられるようなことはなくなった。 馴染みの警部に頼み、規制をかけてもらっているのだ。 満足な説明もしていないが、優作を引っ張り出してまでの頼みに応じないわけにはいかなくなったのだろう。 組織との戦いについて、日本警察は深い事情を知らない。 それを知るのは協力者である優作と哀、連携していた一部の警察機構の刑事だけである。 そして、ただ、もうひとりだけ。 彼の存在は、警察機構はもちろん組織ですら知らないことだ。 優作は或いは気付いているのかも知れなかったが、どこから情報が漏れるともわからないこの世情、どちらもそのことについて口を開こうとはしなかった。 新一は咲き誇る満開の桜を見上げ、溜息を吐く。 ……もう、咲き始めてしまった。 彼はまだ現われない。 交わした約束を、新一は一度として忘れることなく過ごしてきた。 長い沈黙の一年を乗り越えられたのも、その約束があったからかも知れない。 けれど。 桜は、咲いている。 約束の時は過ぎようとしている。 仰ぎ見た花があまりにも綺麗で、あまりにも儚くて。 「早くしねーと散っちまうぜ……?」 新一はそっと、目を眇めた。 「工藤!」 呼びかけてきた友人の声に振り返る。 彼は東都に入ってから知り合った同学科の友人だった。 一歩引いて話しかけてくる他の者とは違い、全く気兼ねなく声をかけてくれる彼は新一にとって有り難い存在である。 それでも決して、全てを開け広げて見せたりはしないけれど。 頭の良い彼は新一のそんな態度を感じ取っているだろうに、何も言っては来ない。 敢えて親しい者を作ろうとしない新一だが、それが心地よくて彼にだけは気を許していた。 「よ、はよ。」 「朝から元気ねーな。てか工藤の場合、朝に弱いんだっけ。」 「るせ。低血圧なんだよ。」 理由はもっと別のところにあるが、口には出さない。 心得ている彼もまた、冗談と流してくれるから。 眺めていた桜にもう一度だけ息を吐いて、ふたり並んで歩き出す。 「工藤って桜嫌い?」 「は?なんで?」 「桜見る度に溜息ついてるし。」 「………そうか?」 「自覚ナシかよ。」 呆れたように肩をすくめる彼に、新一は返す言葉もない。 確かに自覚は全くなかったが、理由には思い当たることがありすぎる。 新一は苦笑して、案外余裕のないらしい自分を嗤う。 「別に嫌いじゃねーよ。」 そう、嫌いではない。 彼と約束をしたのは、この桜並木にも負けないほど色鮮やかに咲き誇る桜の木の下でだった。 はらはら舞い散る薄桃の花びらが、夜に浮かび上がる白に一種幻想的なまでに映えて。 その記憶は、決して忘れることの出来ないものだから。 …彼を見た、最後の記憶だから。 「ただなんとなく、さ。桜って感傷的な気分にされるんだよなぁ。」 「感傷的、ね。わからなくもないな。」 「だろ?こうやってまだ咲いてるときは良いけど、いつか散っちまうのかと思うと脆いモンだよなぁって。」 もう一週間もすれば最盛期を過ぎ、桜の花は散りだしてしまうだろう。 桜を見るたびに掻き立てられる、不安。 …いつかあの約束も、散ってしまうのかも知れない。 1年前の冬。 警察機構と父親のコネ、共犯者である科学者の頭脳を借りて、新一は組織壊滅に乗り出した。 使えるモノは貪欲なまでに全て使ってきた。 同時に、それら全てを守り抜けるよう気を張っていた。 小さくなってしまった体を元に戻す薬は、哀にしか作れない。 小学生の姿では警察機構から信頼を得られない。 長い準備期間を経て組織に対抗し得る手はずを整え、まさに乗り込もうと言うときだった。 怪盗と名乗るはずの男が接触してきたのは。 「随分危ないコトをしてるようだな?」 その時新一は、毎日のように阿笠邸に寄りっては哀とともに情報を仕入れていた。 けれど子供の姿では思うように時間は取れず、事務所と阿笠邸を往復する生活をしていた。 地下室での情報収集の後、うっすらと闇色に染まった道を事務所へと歩いていると、目の前に白い影が降り立ったのだった。 「アンダーグラウンドにお前の情報が流れてるぜ、“名探偵”?」 「…そうか。」 月明かりを背に突如として現われた怪盗。 けれどそれに臆することなく、新一は不適にニッと笑ってみせる。 それだけでこの相手には伝わるはずだから。 今の自分を“工藤新一”と見抜いた、この男なら。 案の定、キッドの気配が変わるのを感じた。 「まさか、おめーが自分で流したのか?」 「ああ。」 「……ばかじゃねぇか。」 「“俺”という餌があれば、嫌でも喰らいついてくるだろ?」 西の探偵はすでに組織にマークされていたから、初めから作戦を知らせなかった。 警察機構には哀と博士と新一が3人で造り上げた、最新式の警備システムを持って機密を保持させている。 優作に至っては、警察機構との仲人以外は一切手を借りていない。 哀には薬の研究に専念してもらった。 情報収集などは全て自分以外の痕跡を残さないようぬかりはない。 組織に牙を剥いた小賢しい猫は、自分ひとりだけなのだと思わせるために。 「なるほどね。協力を仰いでおきながら、結局は自分の力しか使わないってことか。」 何の協力も仰がなければ、きっと組織を倒しても蟠りが出来てしまう。 西の探偵のように活動範囲の違うモノならまだしも、親や隣人では私生活にも影響が出る。 そのあたりも全て考慮しての行動なのだろう。 けれど。 「お前の痕跡は全て消させてもらったぜ?」 「!」 「目障りなんだよ。俺の敵だっていうのに、お前が奴らの意識をひきつけちまうのは。」 目の前の怪盗がニッと笑う。 新一は思わず口唇を噛み締めていた。 例え組織側にだろうと出来る限りの死傷者を出さないため、敢えて危険な“情報操作”による攻撃をしかけようというのに。 組織を動かす為の餌を消されては、どうにも動くことが出来ない。 自然、怪盗に据える双眸もきつくなる。 けれどキッドは、不適な笑みのままにとんでもないことをのたまったのだ。 「俺を使えよ。」 新一は咄嗟のことに声も出ない。 ただ、驚きは僅かに瞠った目で伝わったのだろう。 怪盗が歩み寄り、新一の前に屈み込んで、覗き込むように奥の深い藍色が見つめてくる。 「お前が気負わなきゃならないような“平穏”は俺にはない。だから、気兼ねなくお前は俺の力を使える。」 「!…なに、言ってんだ…」 「お前の父親さんや小さなお嬢さんは守ってやりたいんだろ?俺を守る必要はない。例えお前が俺を利用しなくても、俺は俺で仕掛けるんだしな。」 自分はお前と同じ組織に敵対しているのだ。 それなら共謀して何が悪い、と。 不適な男はどこまでも不適に探偵を誘惑するのだ。 「確実に動ける“体”が俺だ。なぁ、“ブレイン”?」 新一は微かに目を伏せ徐に手を伸ばすと、シルクハットの鍔を掴んで思い切り押し下げた。 怪盗が何か小さく喚いていたが、その顔はすでに帽子の向こうである。 鍔を掴んだまま新一が言う。 「俺はお前の正体を知らない。素顔も知らない。本名も何も、知らないんだ。」 喚いていた怪盗が沈黙し、新一が続ける。 「これからも知るつもりはない。……それでも良いなら。手を、組もう。」 「…上等。後悔するぜ?確保不能の大怪盗を確保出来る最後の機会を、不意にしたんだからな。」 「そんなものはしないさ。」 ただ、と新一が呟く。 シルクハットの鍔を取り返した怪盗が被りなおしながら静かに見つめている。 「絶対に、生き延びようぜ。」 そうしてふたりで笑い合った。 悪魔と称された頭脳と、確保不能の体で、この戦いを生き延びて。 無理も無茶も限界も、全部全部払いのけて。 勝利を、手にする。 そして春。 稀代の怪盗と探偵を筆頭に、多くの人々を巻き込んだ組織は壊滅を迎えた。 彼らを捕えたのは世間では国際刑事警察機構とされている。 その影に東洋の小国の探偵がいたことは、この世に数人しか知る者はいない。 怪盗に至っては、探偵以外には誰ひとりとして知らない。 ただ組織の全てを確保することは不可能だった。 あまりにも巨大であった組織の末端に至るまでの全ては、暴くことすら出来なかった。 残党と呼ばれる者が存在する。 そんな中で、万にひとつでも情報が漏れることがあり、組織壊滅に探偵や怪盗が関わっているとばれてしまった時。 頭脳として動いた新一も、体として動いたキッドも、どちらも危険になる。 だから、薄桃の花びらが咲き誇るこの季節に、まるで人目を忍ぶかのような逢瀬の中で約束を交わした。 短くてもせめて一年は、表だった活動をせずに自分たちの存在を隠し、残党の動向を窺う。 そうして、出来るなら。 ただのひとりの人間として、探偵でも怪盗でもない自分たちで。 手にした日常を祝福しよう、と。 それはどちらが言いだした言葉だったか、そんなことはどうでも良かった。 どちらにしても、心は同じだから。 「次にこの季節が訪れる時。きっとまた逢えるよう------------。」 桜が舞い散る宵闇の中、交わした約束。 だから春は特別。 だから……桜は、特別なのだ。 新一は今日も桜並木を歩いている。 ただ、いつもより少し遅い時間だった。 警部からお忍びの呼び出しを喰らって、講義よりもちろん人命を優先させる新一はまっすぐ現場に向かい。 一夜明けた今になって漸く解放され、遅まきながらも学校に出てきたのだ。 道に視線を落としながら、新一は冷えていく心を思う。 もしかしたら。 そんな思いが拭われない。 もしかしたら……キッドは、残党に狙われたのかも知れない。 漏れていないはずの情報はすでに漏れていて、キッドの正体すらもばれていて。 だから、現われないのかも知れない、と。 道に落とした視線の先には、風に散った花びらが地にへばり付いている。 もう、散り始めてしまった。 まだ枝にはたくさんの花びらが付いている。 けれど、散りだした花びらは。 もう、戻らない。 散り始めれば、後は驚くほどの速さで緑に染まっていく。 けれど自分たちが交わした約束は、淡い桃色の世界で交わされたのだ。 緑の中ではない。 誰もいない桜並木に、新一はひとりぽつりと佇んでいる。 目を閉じる。 そして思い出す。 あの日の光景は、今も脳裏に焼き付いて離れない。 暗闇の中、光源は星と月しかないというのに、白い怪盗は眩しいぐらいに新一には見えた。 その白のまわりをいくつもの鮮やかな桃色が舞い散っていく。 幻想的だった。 幻想的で……幻だったのかも知れない。 交わした約束すら、夢だったのかも知れない。 けれど、と同時に思う。 夢でも幻でも、あの約束があったからこそ過ごしてきた一年でもある。 全ては無駄ではない。 守りたい者の平穏も、形ばかりの自分の平穏も取り戻した。 毒を以て毒を制し、蝕まれた体も元に戻した。 だから新一は信じて疑わない。 夢ではなく、幻でもなく、怪盗もきっと生きているのだと。 生きて、何事もなかったかのように言うのだ。 いつかの夜のように。 不適な声で、不適な笑みで、気障ったらしく格好つけて。 “こんばんは、名探偵。” 新一はそっと目を開ける。 風が吹いた。 しがみついていた花びらが、そっと優しく撫でられ、散る。 春の香りが充満している。 心地良い香りを肺一杯に吸い込んだ。 「新一。」 そうして、息を呑む。 舞い散る桜が彼を包んでいる。 あの頃と違い、黒のスーツを着た男。 けれど、あの頃と変わらない冷涼な気配と、変わらない藍色の瞳をしている。 そうしてあの頃とは違う呼び名で呼ばれた。 口端を持ち上げれば、見たことのないはずの顔は、なぜかどうにも良く知っていて。 新一が誰より知っていて誰より知らない、けれど最も信頼している怪盗は、予告もなしにいきなり素顔で目の前に現われたのだ。 相変わらず驚かせてくれる。 新一も口元に笑みを浮かべた。 潜められていたはずの鮮烈な空気が、新一のまわりに流れ込む。 もう戦いは終わったのだ。 隠す必要はなくなった。 「よぉ。…ギリギリセーフ、だな?」 世界が変わる。 儚く散っていたはずの花びらは、楽しげに風に舞っていた。 あの頃と少しも変わらない鮮やかさで、怪盗は新一に歩み寄る。 不適な声で、不適な笑みで、気障ったらしく格好つけて。 「俺、黒羽快斗。初めまして、名探偵殿?」 そうして新一は、見たこともない愉しげな表情で笑うのだった。 |
---------------- アトガキ -------------- というわけで、漸く普通の生活を取り戻すことが出来た 新一と快斗による普通の大学生活。 まだこの時点ではただのお友達ですよ。 いや、友達未満か……。 タイトル「BLOSSOM」の通り、 気持ちが開花し成長する様を書いていきたい。 petalscape = 花弁風景 |