「快斗坊ちゃま、そろそろ時間です。」


 等身大に設置された鏡を前にネクタイをなおしていた快斗は、付き人の寺井の声に振り向いた。
 父の代から付き人をしている寺井はもう結構な年だが、その年で初代から二代目の間のキッドを演じていただけあって、年齢より幾らか若く見える。
 シックなダークスーツに身を包んだ快斗はシルクの白い手袋を嵌めシルクハットを被り、にこりと寺井に向かって笑った。


「さすが快斗坊ちゃま……ステージ衣装が良くお似合いで。」
「ありがと。寺井ちゃんもお疲れさま。」
「いえいえ、坊ちゃまの我侭でしたらいつでもお聞きしますよ。」


 まるで孫を見つめる祖父のような柔らかい寺井の眼差しに、快斗ははにかんだような笑みを返す。


 まだ17歳という少年がマジック会に大きな波紋をもたらしたのは、もう一年以上も前のことになる。
 今でこそ高校を卒業し幼さがいくらか抜けてきたかと感じられるが、まだまだ少年くささの抜けない快斗は、18歳という若さで大きな舞台に立てるようになった。
 偉大な父親の名前が役立つこともあったが、所詮実力の世界。
 この人気を勝ち取ったのは快斗の実力があってのものだ。


 そして今日は最後の海外公演の日である。
 今日この日、快斗に少々無理難題を頼まれた寺井だったが、嬉々としてそれを成してきたところだった。


「書類も無事受理されるそうですよ。世界のカイト・クロバの名は伊達ではありませんね。」
「うん。でもまだまだだよ。それに、一番見せたい人にまだ見せてないから……」


 懐かしげに眇められる瞳を前に、寺井もつい嬉しくなってしまう。


 初代キッドである盗一と敵対していた組織を壊滅させてからもう随分と経つ。
 けれどその間、快斗はアリバイ作りのためにマジシャンとして世界に出て、同時にキッドの仕事もこなしてきた。
 この一年の間に行ってきた犯行のおかげで、黒羽快斗がイコールで怪盗キッドではないというアリバイは充分に作られている。
 まだパンドラを見つけられていないが、それでもこの生活が漸く終わるのだ。
 快斗はこの公演を最後に日本に帰る。
 そして日本で、ある大学に入学するのだ。
 それが、快斗から寺井への“我侭”なのだった。


 本当だったらもうとっくに日本に帰り、調べ上げた“彼”の入学するだろう大学に快斗も入るつもりだったのだが……
 このアメリカで作ったコネであるお偉いさんのお願いをどうしても断れなかったのだ。
 そうして今日までアメリカ滞在が長引いてしまった。
 おかげで入学も厳しいかと思っていたが、寺井に日本まで一走りしてもらい、ほとんど無理矢理入学を取り付けてきた。


 つまり、もう一週間後には“彼”と同じ大学生。
 自然と綻ぶ顔を隠そうともしない快斗に、寺井はさあさあと背中を押して。


「皆さん、快斗坊ちゃまをお待ちですよ。最後の公演、見事に決めてきて下さいませ。」


 そう言って寺井に、けれど快斗は違うと首を振る。
 首を傾げる付き人に、満面の笑みを向けて。


「違うよ、寺井ちゃん。俺は、ここからが始まりなんだ。」
















>> Petalscape...















 舞い散る桜の花びらを見上げながら、もうすぐここを通るだろう人のことを考える。
 揺るがない双眸、真っ直ぐに突き進む強さ、絶対の自信。
 危険を省みず飛び込んでいく後ろ姿、まさに風前の灯火のような人。
 力強く、そして儚い。
 まるでそれはこの桜のようだと、快斗は思う。
 力強く地に根を張り、毎年咲き誇っては新しい命を育んでいく。
 けれどその命はとても短く、美しくも儚い散り際は人々の感動を呼び起こす。


 ひらひらと桜の花びらが快斗の肩へととまる。
 極淡い桃色のそれを指でつまみ上げると、ふうと息を吹きかけて再び空へと舞い上げた。


「お前はまだ、あの約束を覚えてるだろう?」


 誰にともなく問いかけられた声は、澄み渡る空の彼方へと消えていく。
 それは快斗の願いなのか、それとも。


 ただ、覚えている。
 薄桃の花びらが咲き誇る季節に、まるで人目を忍ぶかのような逢瀬の中で交わされた約束を。



















 その名前を“そこ”で見つけた時、快斗は心臓が冷えていくような心地を味わった。
 闇の世界を蠢く巨大な犯罪組織。
 警察はその存在自体掴めていないというのに、それを嗅ぎ回る猫のように生意気なヤツがいると、組織の構成員たちの間で囁かれていた。
 その猫の名前は
------------工藤新一。
 快斗が唯一にして絶対無二の名探偵と認めた、その人だった。


 名指しで書かれていたわけではない。
 僅かに残された痕跡が彼を示すものだったというだけで、瞬時にそうと理解した快斗が普通ではないのだ。
 けれど快斗はその痕跡をすぐさま消し去ると、全て自分のものへと塗り替えた。
 もとより組織に噛みついている怪盗キッドだ、ここで何がばれたところで現状が変わるわけでもない。


 そうして快斗は新一とコンタクトをはかるため、自分から彼の元へと現われたのだった。






「随分危ないコトをしてるようだな?」


 目の前の子供は初めこそ驚いてみせたものの、すぐに不適なポーカーフェイスを被って見せた。
 ちょっと突いてみれば、案の定自ら自分の情報を流していると言う。
 怒りを通り越して呆れるしかなかった快斗は、新一にある提案をした。


 元よりこの探偵を相手に危ないことをするなと怒ったところで、なぜ怒られなきゃならないんだとか、お前には関係ないなどで済まされるに決まっている。
 けれど快斗にはそれだけでは済ませられない理由があったのだ。


 新一は快斗にとって敵である名探偵にして、失うことの出来ない光なのだ。
 同じ偽りの仮面を被りながら、周りを危険に巻き込まないようにと奔走し、それでも自分の“真実”を求めて走る姿。
 怪盗キッドという仮面を被り、家族や幼馴染みを危険から遠ざけ、それでも父の残した“真実”を求めて走っている自分の姿とひどくだぶって見えた。


 同族を求めたわけじゃない。
 自分より辛い立場の人間を求めたわけでもない。
 ただ、どこまでも直向きなその姿が……快斗の迷いを打ち消してくれたというだけ。
 このまま仮面を被り続けることの危険性に、想いを半ばに手を引くべきではないかと快斗は躊躇っていた。
 けれどその迷いを新一が打ち消してくれたのだ。
 周りを危険に巻き込むなら、その全ての危険から守り抜けば良いのだ、と。
 新一から教えられた。


 だからその言葉は、快斗の口からすんなりと出たのだった。


「俺を使えよ。」


 僅かに目を見開く子供に快斗はゆっくりと歩み寄る。
 そしてどこにも裏はないんだと伝えるために、その瞳を真っ直ぐに見つめた。


「お前が気負わなきゃならないような“平穏”は俺にはない。だから、気兼ねなくお前は俺の力を使える。」
「!…なに、言ってんだ…」
「お前の親父さんや小さなお嬢さんは守ってやりたいんだろ?俺を守る必要はない。例えお前が俺を利用しなくても、俺は俺で仕掛けるんだしな。」


 同じ組織に敵対しているなら、共謀して何が悪い。
 俺には強力な仲間が必要で、お前には確実に動ける体が必要で。
 俺たちはこんなにも利害が一致してるじゃないか。
 そうだろ?


「なぁ、“ブレイン”?」


 不適に笑えば、なぜか帽子を押し下げられて。
 つい怪盗紳士にあるまじき声音を出してしまったら、次の言葉に凍り付いた。


「俺はお前の正体を知らない。素顔も知らない。本名も何も、知らないんだ。」


 ああ、まったく、この人には敵わない。
 怪盗キッドこと黒羽快斗の敗北は、この瞬間に決まってしまったのだろう。
 この探偵は、素性も知れない怪盗である自分の身をも案じてくれるのだ。
 協力する変わりに秘密をよこすな、と。
 たとえば、正体が暴かれる危険を減らす為に。


 突慳貪な言葉の裏側に隠された優しさに、ハットの奧で快斗はこっそりと微笑んだ。
 そうしてふたりで笑い合う。
 悪魔と称された頭脳と確保不能の体で、この戦いを生き延びて。


「絶対に、生き延びようぜ。」


 無理も無茶も限界も払いのけて、俺たちは勝利を手にする。






 そうしてまだ白い衣装を棄てられない自分と、漸く取り戻した真実の姿の彼とで交わした約束。
 それはどちらが言いだした言葉だったか。
 そんなことはどうでも良かった。
 どちらにしても、心は同じだから。


「…次にこの季節が訪れる時。きっとまた逢えるよう
------------。」


 薄桃の花びらが咲き誇る季節。
 桜の花に美しく彩られたこの季節に。
 再会を願って。





















 彼の住むこの地からずいぶんと離れた米国で、快斗は自分の夢を掴み取った。
 父にも負けないマジシャンとなり、人々に夢を与え続けること。
 それは或いは、これまで重ねてきた罪を精算するためなのかも知れない。
 けれど純粋に、快斗はただ笑顔が好きなのだ。
 その笑顔を自分の力で与えることが出来るなら、罪の精算なんて計算された思考はそこには存在しない。


 けれど新一はもう、おそらく以前のようにマスコミの前に顔を出すことはしないだろう。
 それでも断言出来るのは、彼が探偵であることを止めないと言うことだ。
 テレビや新聞で賞賛されることだけが“名探偵”の証ではない。
 救った命が、暴いた真実が、人々に与える笑顔こそがその証だと、彼もまた知ってるから。


「俺は忘れてない。」


 あの時約したのは、再会と勝利。
 ふたりは自らの力で自分の夢を掴み取ったのだ。






 いつかのように警察無線を無断で傍受している快斗は、新一の登校が遅いことなど把握済みだ。
 そしてすでにこちらへと向かっていることも把握済みだ。
 新一が来るのを、桜の木の下でいっぱいに花びらを受けながら、今か今かと待っている。


 不意に目を閉じる。
 そこにはただ春を象徴する花の、染み渡る芳香だけが漂っている。
 それを胸一杯に吸い込んで、瞳を開けた。


 風が舞う。
 桜の花が愉しげに揺れる。
 風に撫でられ、花びらがひらりと舞っていく。
 その向こうに佇んでいる人影に、快斗は満足そうに微笑んだ。


 あの頃とは違う漆黒のスーツに身を包んだ自分を、彼は解ってくれるだろうか?
 けれどそんなことは無用な心配なのだ。
 だって彼は、たとえ人々の前から姿を消し去ったとしても……
 自分の前だけでは相変わらず“名探偵”なのだから。


「新一。」


 一度も口にしたことのない名前。
 それは自分への戒めでありけじめであり、そして今日、それが解かれたのだ。
 もう“彼”を呼ぶことに危険はない。
 一年という長い間の沈黙を守り続けた自分と彼は、確実な勝利を手にしたのだから。


 驚きに僅かに目を瞠った新一へ、ニッと笑みを浮かべる。
 途端、月もないのに夜の冷涼な気配が流れ込んでくるようだった。
 心地よいその気配は、もうすでに自分の一部とかしている。
 だからほら、その証拠に。
 彼も“俺”だとわかってくれる。
 その笑みが、何よりの証拠なのだ。


 舞い散る桜の花びらのように儚かった新一の気配が、一気に彩られ鮮烈さを取り戻す。
 その様子を満足げに眺める快斗に新一が言った。


「よぉ。…ギリギリセーフ、だな?」


 その言葉は紛れもなく約束を覚えていた証であり、快斗は心が熱くなるのを感じた。
 彼もまた、もしかしたら自分との再会を焦がれていてくれたのかも知れない。


 例え今はまだ、ただの戦友だとしても。
 いつかはその心も体も、貴方の存在そのものを。
 きっと手に入れてみせる。


「俺、黒羽快斗。初めまして、名探偵殿?」


 だから今は、この言葉から始めよう。





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---------------- アトガキ --------------
長かった……新一サイドと随分間が空きましてすみません。
快斗の遅刻の理由はアリバイ作りのためでした。
例によって例の如く快斗は既に新一らぶらしいよ。
次からは平凡(?)な大学生活編。
快斗は表のスター、新一は裏のボス。
(デビューしたマジシャンと消えた探偵だしね。)
そんな感じで進んでいきます。
petalscape = 花弁風景