夜になって、満点の夜空にぽっかり浮かぶ月。
 梅雨もそろそろ勢いをなくす七月。
 新一はその月を、思いの限りに睨み付けた。


 思えばあれからもうずいぶん経つ。
 稀代の怪盗が、紙切れ一枚を残して姿を消してから。


 新一の手の中には、その紙が握られている。
 彼がいつも予告に用いる、純白の上質な紙だ。
 筆跡を誤魔化すための印刷字ではなく、思いの丈を感じるほどの、強く整った文字。
 そこに書かれているのは……



“黒影、天光の下に誘わん”



 今。
 目の前にいない怪盗に、新一は怒ることが出来ない。
 罵ることも、蹴飛ばすことも、……増して、手を貸すことも、出来ないのだ。



 その歯痒さに、新一は知らず唇を噛みしめた。















堕天















“A huge illegal organization, an arrest”
 (  巨 大 な 闇 組 織 、 逮 捕  )



 新聞に載せられたその文字を見て、キッドは軽く息を吐く。


 もうかれこれ一年、ずっと走り続けていた。
 巨大な組織を相手に休む間もなく走り続け、一点の読み違いもないようにと気を張りつめて……
 愛しい人の下へ戻りたい一心で、戦っている。


 巧みな情報操作と自らの体を囮に使い、キッドはここまで見事に組織を誘導してきた。
 張り巡らせた罠に追いつめ、警察すらも巧みに操り、そうして組織の幹部連中を次々に逮捕させていった。
 組織の頭はもう潰れたも同然だ。
 あとは手足となっていた工作員が問題だった。
 まるで蜘蛛の子を散らすように散らばった彼らを、全て捕らえることは不可能だろう。
 それでも可能な限り捕らえなければ、キッドは帰ることが出来ない。


 新一の、下へ。


 自分や彼のことを暗示させるものは、何ひとつとして持っていない。
 もし。
 捕らえられ、殺され、暴かれたとき。
 万が一…億にひとつでも、彼に害が及ぶことのないように。



(でも、こんなこと考えてるって知ったら怒るんだろうなぁ……新一。)



 まだ一度も呼んだことのない名前。
 自分の名前も呼ばれたことはない。
 彼に、愛してると言いながら、一度として正体を明かそうとはしなかった。
 まだ終わらない戦いの中、本懐を遂げるまではと、心に誓って。


 離れても大丈夫だと思っていた。
 新一への気持ちは、1ミクロすら変わっていない。
 それどころか、日に日に増していくほどに、彼の人に思いを寄せている。
 キッドの中で、新一は相変わらず鮮明な光であった。


 …けれど。
 気持ちは変わらなくとも、心が、欲してる。
 早く彼に逢いたい。触れたい。
 側にいて抱き締めて、愛してると、伝えたい。



「………ぃち…」



 空を見上げる。
 まだ日が高い。
 真っ青な空に、白い雲が綺麗に浮き上がっている。
 とてもとても綺麗な色だと思う。
 同時に、もっと綺麗な色を知ってるとも思う。
 それを知れば……それさえ知ったなら……全ての色は、それを脚色する装飾に過ぎないのだと感じるほどに。


 今はこの空で心を満たしている。
 物請いのジプシーに紛れながら、ただあの蒼を、思い浮かべている。




















* * *


『警部。』



 すでに聞き慣れた部下の声に、ロドルフ・ハフマン警部は振り向いた。
 呼びかけた人物を見て、微かに眉間に皺を寄せる。



『今後の活動について、打ち合わせを。』



 流暢なフランス語で喋ってはいるが、その顔はどう見ても東洋人だ。
 更に言うなら、その人物は自分の歳の半分も過ぎていない幼い少年である。
 その彼がなぜこんなところ……フランスの警察機構に出入りしているのか。
 その秘密を知るのは、上司であるハフマンと彼の相棒である青年刑事だけだった。



『…新しい情報でも入ったのか。』



 ハフマンは、他方にも鬼警部としてよく知られている厳格な壮年男性だ。
 上背はあまりないが、がっしりとした体格はそれだけで充分に相手を威嚇する。


 対する少年は、ハフマンよりいくらか小さい背丈に小柄な体躯と、あまり頼もしい印象はない。
 均整の取れた体に整った目鼻立ちは、少女のようだとからかわれたことも少なくない。
 彼の父親からぜひにと頼まれ、もともと逮捕の機会を伺っていた組織に対する情報を持っていた少年を、ハフマンは渋々受け入れた。
 最初は情報を持っているだけの子供だろうと思っていたが、けれどそれは間違った見解であると思い知らされたのだ。
 彼は、それら全ての先入観を払拭するだけの頭脳を持っている。
 彼の慧眼にはハフマンもただただ目を瞠るばかりであった。


 少年は不適に笑って見せ、手にした資料を差し出す。
 警部は無言で受け取った。



『彼が動きます。すでに対策も立て、三日後の行動計画は全てこれに書いてありますので、目を通してください。』

『ああ…。君はこれで間違いはないと?』

『言えます。』



 少年の蒼い目が警部を真っ直ぐに射る。
 自信も不安も、何も感じさせない瞳。


 警部はその目に寒気を覚える。
 この目は、絶対の神の眼だ、と。


 己を過信し策に溺れる愚か者ではなく、疑心暗鬼に怯える小心者でもない。
 そこにある絶対の真実……未来を見つけ暴く、神の眼だ、と。


 少年がふと瞼を伏せた。
 長い睫毛が濃い影を落とし、刹那、儚げな空気が彼を包む。
 その瞼が微かに震えているのを、警部は見た。
 少年が口を開く。



『おそらく、これで終わりです。』



 警部はハッと息を呑んだ。
 少年は真っ直ぐ顔を上げている。
 そこに先ほどの儚げな色はない。
 口元にうっすらと笑みを浮かべ、彼が言う。



『頭を失った蜘蛛の手足は、ほぼ包囲網の中にいます。あとは散らばった蜘蛛の子が再び勢力を持つことのないよう、あなた方に踏ん張ってもらわなければ。』



 今回の作戦は既に最終局面に突入している。
 蜘蛛の頭は潰れた。
 黒影を捕らえる天光は少年を頭とし、白い鳥を筆頭に国際刑事警察機構が手足となる。


 警部はなぜか神妙な面持ちで頷いた。



『わかった。三日後はまた世話になる。』

『いえ。我侭を聞いて下さって、感謝しています。』



 深々と腰を折り、少年は部屋を辞した。
 気分的に詰めてしまっていた息を吐き出して、警部は資料を手に取った。



『クドウ、シンイチ、か。…末恐ろしい人材だ。』



 それだけ世界が混乱しているのかも知れない。
 犯罪を犯す者の平均年齢値は、年々下がってきている。
 どこか狂ってしまった世界に、それを守るための異端児が生まれてくるのは、或いは世の摂理なのかも知れない。
 そして彼もまた、そのための、異端児……



『KID the phantom thief…』



 10年前に出没した怪盗を追っていたのは彼、ハフマン警部だ。
 その時から、あの異彩を放つ怪盗には何かを感じていた。
 今、組織を捕らえようと先導して動いているのがその怪盗だと……警部のみが知っていた。
 正確には教えられた、のだが。


 救いたいのだと言う。
 ひとりで走り出した怪盗を、そうとわからないよう手を貸したいのだ、と。
 死ぬかも知れないギリギリの状況で、それでも誰も傷つけまいとひとりで飛び立った鳥に。
 せめて迷わないよう、光を照らすため。
 だから、犯罪行為と承知で、秘密を共有してくれ、と。


 警部は頷いた。
 隠匿は犯罪だが、それを承知で頷いた。
 この秘密を生涯……墓の中まで持ち込むつもりで、頷いていた。
 少年の眼には、そうさせるだけの計り知れない強い思いが秘められていた。


 手にした資料に目を通す。
 そこには事細かに、出して欲しい指示が書かれていた。


 ふと、目に入った文字。
 ああそうか、と警部は思う。



『the seventh night of July…』



 三日後は、彼の祖国では、七夕と呼ばれる星祭だった。




















* * *


 天に星が昇る。
 満開の星空だった。
 こんな夜は勿論、月も綺麗に浮かび上がる。
 怪盗キッドは月に加護を受ける者。
 きっと成功する。全てがうまくいく。


 空に星の川が流れる。
 今夜は、目も眩むほどの晴天だ。
 これならきっと、一年に一度の逢瀬を願う牽牛淑女も出逢えることだろう。
 キッドが思うことはただひとつ。



 彼に、逢いたい。



 これが終われば、一年に一度と言わず毎日のように顔を合わせる。
 名前を呼べる。呼んでらえる。
 正体を……全てを、彼の前にさらけ出す。
 そしてまたきっと言うのだ。
 何度も何度も、飽きることなく……愛してる、と。


 キッドは白いマントをはためかせ、高層ビルからダイブする。
 あちこちから爆音と共に、色鮮やかな花火が上がる。
 街中の視線が一瞬にして空に集まる。
 花火とともに人々が眼にするのは……満天の星と、白い鳥。


 この音と光は、奴らの目にも映るはずだ。
 そして組織を翻弄して回る憎い怪盗を見つけるだろう。
 誘いに乗って追ってくれば思うつぼだ。
 わざわざこんな目立つ演出をして、みすみす殺られるわけもない。



「さぁ……最後のショーの、始まりだぜ…!」



 キッドは気付かない。



 自ら上げた花火によって、夜空の星を覆い隠してしまったことに。










「あの、ばか…っ」



 モニターを見ていた新一が突然悪態を吐いたのを、警部は驚いて見つめた。
 彼がここに来てから数ヶ月。
 その間、何度も作戦を決行してきた。
 その全ては彼が立てたものだが、その事実を知るのは自分ともうひとりの刑事だけである。
 けれど今まで一度として、こんな慌てた様子の彼は見たことがない。



「最終局面って時に気ィ抜きやがって!」



 おそらく日本語なのだろうが、あまりに早くて警部は聞き取ることが出来なかった。



『シンイチ?どうした?作戦の失敗か?』



 声を潜めて聞く。
 この場には他の者もいるため、あまり大声で尋ねことが出来ないのだ。



『すみません…っ、……あいつ……いきなり、俺の挙げた危険区域に、真っ先に、突っ込んでくから…っ』



 新一がギリと口唇を噛み締める。
 その様を警部は茫然と見つめた。
 と、突然新一が立ち上がる。



『警部、すみませんが……現場の指揮権を、僕にくれませんか。』

『え…!?…君は、表には出られないんだろう?』



 工藤新一は組織に命を狙われている。
 その事情も警部は知っていた。
 だから、ここでは大した発言権もない、ただの警部の付添人ぐらいの扱いしかされていないのだ。



『そんなのっ、…今は、気にしてる暇が、ないんですっ』

『だが…』

『あいつが居なきゃ意味がないんです…俺は……あいつが居るなら…平凡なんて、いらない。』



 安穏とした生活に縋り付きたくてキッドを見捨てるぐらいなら。
 キッドか居る、危険を選ぶ。


 警部は、初めて新一の瞳に映った切羽詰まった色を見て、なぜか逆に安心している自分に気付く。
 彼なら或いは、平和をもたらすことが容易に出来てしまうかも知れないと思った。
 けれど同時に……自信も不安も抱かない絶対の異端児に、それを任せて良いのかと疑問に思っていた。
 それはひどく危ういことなのではないか、と。


 けれど。
 その異端児を人間に留まらせるのが怪盗だと言うのなら。



『…良いだろう。各動員には私から連絡を入れる。今から、全権は君のものだ。』

『…っ、有り難う御座います…!』



 新一が顔を歪めて、最敬礼を送る。
 警部は満足げに笑った。



『行きなさい。そして…助けておいで。』



 走り出した新一の背中を見送って、警部は表情を引き締める。
 その場にいた者が不思議そうな視線を送っていたが、直ぐさま驚愕に目を瞠らせた。



『今から全指揮権をシンイチ・クドウに委任する。動員は全て彼の指示に従うように!』



 無線を通された命令に、皆が皆目を剥いた。






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