Double
- Second contact -















 金曜の午後、窓から差し込むやわらかい日差しに、新一は気怠げに体を起こした。
 既に日本へ戻ってきてから二週間が経とうとしている。


「あー…親父にメールすんの忘れてた…」


 滞在期間が長くなりそうだと、当初の予定を上回る経費がかかることを連絡しようと思っていたのに、すっかり忘れていた。

 怪盗キッドと接触してからこっち、キッドは次の標的をまだ定めていない。
 新一も新たな声≠拾うことなく何事もない日々を送っている。
 しかしキッドはパンドラを諦めたわけではないから、新一は暫く日本での生活を強いられることになったのだ。

 新一にとって日本で生活することはかなりの苦痛を意味する。
 もともと自分の意志に関係なく浅い眠りしかとれないのに、その上強すぎる灰姫の声≠ノ四六時中耐えていなければならないので、ただでさえ浅い眠りが更にひどくなるのだ。
 だからこうして午後になるまでベッドの中にいることも珍しくないのだが、今更愚痴るつもりもない。


「起きるか。」


 半身を起こし、こきっと首を鳴らす。
 ぼんやりした頭をすっきりさせるため、濃いめのブラックコーヒーを空っぽの胃に流し込んだ。
 そしていい加減空になって久しい冷蔵庫でも補充するかと、新一は近くのコンビニへ買い物に出たのだが……


 ――しくじった。
 まさかこんなタイミングで声≠拾うとは思いもしなかったと、新一は出掛けようなどと考えた己を激しく呪った。


「…痛ぅ…っ」


 まだ家を出てから数分と経っていない。
 新一の家はすぐそこだ。
 けれど今の新一にはその距離が世界の果てほどにも遠かった。

 その声はいつも唐突に、何の断わりもなく入り込んでくる。
 解放しろと、強欲な声が無遠慮なまでに叫ぶのだ。
 それは声≠ネんてものじゃない、正しく叫び≠セ。
 直接鼓膜を刺激する音波ではないため、たとえ耳を塞いだところで防ぐことはできない。
 そしてその叫びはいつも張り裂けんばかりの頭痛を引き起こし、どれほど足掻こうと意識がブラックアウトするまで叫び続けた。

 仕事の最中はそうならないよう紅子の魔術でリミットをかけてもらうのだが、如何せん今は彼女もいない。
 こんな道ばたで倒れなければならないのかと、苦痛に霞んでいく思考の隅で考えていると、不意に声を掛けられた。


「――大丈夫?」


 新一は声がした方へ振り向こうとコンクリートの塀に縋るように凭れていた体を起こす。
 けれど、逆光でその人の顔は見れなかった。
 たとえ見れたところで、このはっきりしない頭で認識できたかどうかは怪しいところだが……


「……ち、…さん…?」


 思わず、まるで泣き出す寸前の子供のような声が出てしまう。
 声を掛けてきた人の姿が、なぜか懐かしいあの人の面影と重なってしまったから。


「え?」


 聞き返されても新一にはもう答える力はなかった。
 視界は既に闇だ。
 何とか保たせていた意識もだんだん遠ざかっていく。

 けれど不意にその人の手が伸びて、その手が支えるように背に触れた途端――なぜか頭痛が失せていくのを感じた。
 あれほど煩かったはずの叫びが、今は聞こえてこない。


(…どう、なってんだ…?)


 しかしその疑問の答えを得る前に新一は意識を手放した。
 ずるりと足から力が抜ける。
 支えるもののなくなった体は前のめりに倒れ込んだ。


「ちょ、っと!おい!」


 地面にぶつかる寸前、慌てて差し出された手がその体を受け止める。


「おいおいおい、どうしろってんだよ〜っ」


 受け止めた人物――快斗は、既に意識のなくなってしまったらしい少年をどうしようかとオロオロした。
 少年は今初めて会ったばかりの全くの他人だ。
 突然の昏倒が持病なのか事故なのか、そんなことも判らない。

 とは言え今ここで己の人の好さを嘆いてみたところで、どうせ快斗には辛そうに蹲る人を見て見ぬ振りなどできないないのだ。
 とりあえずこんな道ばたにいるのもどうかと思うし、近場ならたった三分ほどの場所に腕のいい医者兼科学者の知り合いがいるため、快斗は少年をそこで休ませることに決めた。

 ぐったりと力無く目を閉じている少年の体を、よいしょ、と抱き上げる。
 ところが……


「なんだ、この軽さは!」

 有り得ねぇ!


 そこに予想していた重さはなく、快斗は思わず素っ頓狂な声を上げていた。
 見たところ少年は快斗とそう変わらない背丈をしている。
 快斗も決して重たい部類ではないが、それでもこの少年よりはまだあるだろう。
 しかも胡散臭いことに、どことなく少年の顔は快斗と似ている。

 なんだかとんでもない拾いものをしてしまったと思う快斗は、けれど本当にとんでもないものを拾ったとは思いもしないのだった。










* * *


「驚いたな…」


 夜の静寂の中、まるでそれだけが唯一の音のようにその人の声は新一の耳へと届いた。
 落ち着いた低めの声は成熟した大人のそれ。
 警戒も畏怖もない、ただほんの少しの驚きを滲ませた声は、少なくとも新一に不快感を抱かせるものではなかった。


「あなたが怪盗キッド?」

「いかにも。」


 ニッ、と不適な笑みを口許に浮かべたキッドは、確かに冷涼な気配を放っているというのに……なぜこんなにも暖かいと感じるのだろうか。

 どこにもぶつけることのできない疑問をおくびにも出さず、新一は目の前の白い怪盗にひたと視線を向けた。
 タキシードにマントといういかにも動きにくそうな格好でありながら、全く隙のない身のこなし。
 すらりとした長身に、他の者が着れば滑稽と思えるその格好は殊の外よく似合っていた。


「君が今噂の猫≠ネんだろう?」


 と、怪盗キッドが口を開く。


「猫≠ネんて知らないよ。おれに名前なんてない。」

「ふむ。ではR≠ニ呼べばいいのかな?」

「…」


 無言の肯定。
 ただじっとこちらを見つめる蒼の双眸を、確かにあのロシアンブルーを思い起こさせる瞳だとキッドは思った。
 まるで全てを見透かしているかのような瞳。
 静かに、確実に、心の奥底の普段は自分でも気付かないようなことさえ暴かれてしまいそうだ。

 面白い、とキッドは口端を持ち上げる。


「警察や組織ですら翻弄する猫が、こんな小さな子供とはな。」


 まさか組織の連中も、自分たちの手を見事にすり抜けていく猫≠ェこんな子供だとは想像も付かないだろう。
 キッドの目の前に凛然と立ちはだかるのは、まだ十も過ぎていないような少年だった。

 しかしそんなことよりも、今は……


「――とにかく、やせ我慢はやめなさい。こっちへおいで。…手当を、しよう。」


 左腹部から滲み出す、血。
 それでも平然と立ち続けるこの子供を、キッドは――盗一は、放っておけなかった。










 重たい瞼を持ち上げれば、見たこともない天井がぼんやりと映る。
 何もかもが白い。
 まるでたった今見ていた夢の人を象徴するかのようなそれに、新一は僅かに目を細めた。

 夢なんて一体どれほど見ていなかったろうか。
 こちらに来てからはもちろん、ロスに居た頃も極希にしか見なかった。
 それは灰姫の声≠ノ邪魔されていたせいもあるのだけれど……

 そこでふと気付いた。
 なぜ今彼女の妨害もなく、あんな懐かしい夢を見れたのだろうか。


「あ。気が付いた?」


 と、予想外な場所から声を掛けられ、新一は吃驚眼を隣へ向けた。
 その目が更に見開かれる。
 なんと、そこに居たのは二代目怪盗キッドである黒羽快斗だった。

 どうやら新一はベッドに寝かされているらしく、快斗はそれに椅子の背を向け跨ぐように座っている。
 こちらを見つめる瞳は夜の冷たさとはまた別の、暖かみのある人懐こいものだった。

 思わず凝視してしまった新一に、快斗は首を傾げながら聞く。


「俺の顔、何かついてる?」

「あ、…や、なんでも…」


 まさか新一がRだとは知るはずのない快斗に、新一は思わず言葉を濁してしまう。
 けれど不審を買ってはいけないとすぐに適当な返事を返した。


「…同じ顔があるから吃驚した。」

「あぁ、それね。俺も思ったっていうか、びびった。」


 そう言って快斗がけらけら笑う。
 その笑みに、新一はまたも釘付けになってしまうのだ。

 こんなにも遠い記憶の中の人と似ているのに、やはり別人だからなのか、快斗は彼よりずっと楽しそうに笑う。
 こんな人懐こい笑みを浮かべているのに――その心に計り知れない激情を秘めているなんて。

 不意に居たたまれなくなって、新一は目を伏せた。


「――ところでさ。俺、そろそろ腕が痺れてきたんだけど。」

「え?」

「いや、だからさ。放してくんないと、ちょお〜っとシンドイかな〜って。」


 何を言われているのか判らずきょとんとする新一に苦笑し、快斗は自分の左手を持ち上げた。
 すると新一の左手も持ち上がるではないか。
 快斗の左手首はしっかり新一に掴まれていたのだ。
 しかも放さないとばかりに思い切り握られていたため、新一が目覚めるまでずっとこの体勢だった快斗の手は、実は完璧に痺れ切っている。


「え、えぇっ?…ごめんっ」


 新一は慌てて快斗の手を放した。
 見れば快斗の手首はしっかり赤くなっていて、新一がどれほど強く握っていたのかがよく判る。
 なぜそんなことをしたのか、なぜ快斗はそれを甘受したのか。
 新一は己の行動に混乱し、思わず俯いて口を手で覆った。
 どうしようもなく顔が熱い。


「悪ぃ、痛かっただろ?放してくれてよかったのに。」

「気にすんなよ。なんか捨て猫を見捨てるような気分になっちゃってさ。それで放せなかっただけだから。」


 心底すまなさそうに項垂れる新一は、まさに悪戯を怒られた猫のようだ。
 失態に顔を染める様ですらいっそ可愛らしい。

 頬を掻く快斗がよもやそんなことを考えているとはつゆ知らず、やはり彼も相当なお人好しだと新一は顔を伏せたままこっそり苦笑を噛み殺した。
 快斗の父も大層なお人好しだった。
 でなければ、どこの誰とも知れないあんな怪しげな子供に手当をしようなどと、声を掛けたりはしなかっただろう。
 そう思い、新一ははっと表情を強張らせた。

 ……何をのんびりしているのか。
 誰にも近づかないと、特に彼には近づかないと己を戒めたことを忘れたのか。
 ここがどこだか知らないが、とにかく快斗から早く離れなければならない。

 そんな新一の微妙な変化に気付いた快斗が心配そうに覗き込んでくる。
 新一はポーカーフェイスで笑いながら言った。


「サンキュ、助かった。俺、そろそろ帰るよ。お礼したいのはやまやまなんだけど、生憎カードしか持ってねぇんだ。」

「いや、礼なんかいらないけど、もうちょっと寝てた方がいいんじゃねーの?」

「平気だ。悪いな、お邪魔――」

「駄目よ、まだ寝てなさい。」


 突然の第三者の声と共に額に手が伸びてきて、新一は再びベッドへ押し戻されていた。
 快斗と新一が驚いたように振り返る。
 声の主――志保は、まるで双子のようなそれに無表情の下で興味深そうに目を細めた。


「ほらみなさい。熱、ちっとも下がってないじゃないの。」

「まじ?だめじゃん、あんた。」


 呆れたように溜息を吐く快斗に、けれど新一は何も反応できずにいる。
 新一の記憶違いでなければ、彼女は確か新一の隣人ではなかったか。
 そうなると、もしかしなくともここは工藤邸の隣、阿笠邸ということになる。

 ……まさか隣の家に怪盗キッドの関係者がいたとは、さすがの新一も予想外だった。
 思えば、博士は彼女の身元を明かしたくなさそうだった。
 博士は全面的に信頼しているからと、彼女について調べなかった自分のミスに新一は舌打ちする。


「宮野さん、…だよな。」

「そうよ。」

「ここは博士ん家?」

「ええ。」


 はぁ、と新一は思わず溜息を漏らすが、志保は構わず視診を続ける。
 そして新一の目を覗き込みながら言った。


「工藤君、あなた低血圧症でしょ。しかも重度の。」


 ぴくっ、と新一の体が揺れる。


「おまけに健康状態も最悪。食事はちゃんと摂ってる?」


 なんで自宅にそんなものがあるのか、血圧計で血圧を計りながら志保が言った。

 血圧は一般的に上が130mmHg未満、下が85mmHg未満が普通値だ。
 だというのに新一の血圧を測ってみれば上が60mmHg、下が45mmHgしかない。
 これだけ見事な低血圧では気絶もしてしまうはずだ。
 その数値を見た快斗も目を見開いている。


「加えて発熱。頭痛持ちみたいだし、不眠症なんじゃない?」

「…そんなことまで判るのか?」

「私は科学者だけど医師免許も持ってるの。診れば判るわ。」


 言い当てられ僅かに瞠目する新一に、志保は呆れたように言う。
 普通に生活していてどうやったらこれだけ欠陥を集められるのか、全く不思議でならない。
 志保の顔にはそう書いてあった。

 けれど新一はただ表情の読み取れない微笑を向けるだけで。


「でも、今んとこ生活に支障はないから。」


 その笑みには、苛立ちも諦めもまるで滲んではいなかった。

 今更言われるまでもない。
 新一はよく判っていた。
 この頭痛は灰姫の精神的負担が引き起こすものだ。
 それに併発する慢性の不眠症、それによる低血圧症。
 どれもこれも新一の意志ではないし、どれもこれも治療法のないものばかり――否、あることはあるがそれをしないと決めたのは新一自身だった。

 だから気にしなくても大丈夫だと続くはずだったのだが、けれど先に続いた志保の声に新一の台詞は奪われてしまった。


「そうね。七時間も寝たんだし、全く寝れないってわけじゃなさそうだわ。」

「――へ?」


 新一の目が大きく見開かれる。
 呆けていたのも一瞬で、新一は慌てた様子で辺りを見渡すが、目当てのものは見つからなかった。
 そう言えば右手首に嵌めていたはずだと見てみれば、腕時計の針は九と二を指している。
 家を出たのは確か二時過ぎだった。
 つまり現在は二時四十五分――ではなく、なんと九時十分である。


「う、そだろ…」


 新一は自分の目が信じられず、思わずそんな声を上げていた。
 だって、確かに新一は長時間眠りに入ることでしか疲労を回復することができないが、今は灰姫の声に耐えきれず気絶しただけなのだ。
 いつもなら長くても数十分で気が付く。
 当然新一は今回もその程度だろうと思っていた。
 しかし実際は七時間も眠りこけていたのだ。
 しかも頭の中は妙にすっきりしている。
 つまり、今の眠りには灰姫の妨害がなかったのだ。

 新一はわけがわからず、なんでどうしてと呟いている。
 けれど快斗は笑いながら言うのだ。


「なんだっていいじゃん、ちゃんと寝れたんだからさ!」

「彼の言う通りよ。寝れるにこしたことはないでしょう?」


 そう言った志保が微かに笑う。
 口許をほんの少し緩めただけの笑みだ。
 けれど新一にはそれだけで彼女がどんな人か判ってしまった。
 態度は素っ気なく口調は冷たくとも、彼女もまた快斗と同じような優しさを持っている。
 心配せずとも快斗は見つけていたのだ。
 信頼できる仲間≠。

 ……パンドラを諦めさせることは難しいかも知れないが、こうして信頼できる人がいるならきっと守り抜くことはできる。

 そう思い、新一も微かに笑うと今度こそ別れを言い出そうとした。
 ところがそんな新一を余所に、話はとんでもない方向へと飛んでいくのだ。


「黒羽君。どうせ週末はこっちに泊まるんだし、彼に御飯つくってあげたら?」

「はっ?」

「俺?別にかまわねーよ。」

「ちょっ、お前らなに勝手に…っ」

「なら決まりね。まず食生活から改善させなきゃ。」

「いやいやいや、俺がかまうって!」


 新一は慌てて首をぶんぶん振るが、ふたりは容赦なく言い放つ。



「病人は黙ってなさい。」



 仮にも医者の端くれである志保。
 そして案外世話好きらしいお人好しな快斗。
 健康不良児の言い分など聞く耳持たないとばかりに両断され、新一は声もなく唖然とふたりを見遣ることしかできない。


「彼も自宅の方が落ち着くでしょうし、後は頼むわね、黒羽君。」

「オッケー、任せといて♪」


 宜しく、と言って志保が部屋を出て行く。
 それと同時に快斗がくるりとこちらを向いた。


「あんた、名前は?」

「え、…工藤、だけど。」

「そっちは知ってるよ。下を聞いてんの。」

「…………新一。」


 渋々といった様子で答えた新一に、新一ね、と快斗が復唱する。


「俺、黒羽快斗。宜しくな、新一!」


 ……頭痛がするわけでもないのに、新一は目の前が暗くなったような気がした。





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始まっちゃった♪第二種接近遭遇♪
快斗と新一の出逢いはこんな感じ。
第二種接近遭遇は第一種より長くなると思われます。
相変わらず趣味に突っ走りますが、ご乗車の際は乗り遅れないよう宜しくね(笑)