Double
- Second contact -















 その後、新一はなぜか快斗と共に工藤邸へと戻っていた。
 しかも新一は半ば抱え上げるようにして快斗に運ばれたのだ。
 おかげで、まるで顔を真っ赤にして暴れるのを楽しんでいるような快斗の悪戯な笑みに、終始やきもきさせられるはめになった新一だ。
 そんな顔で笑うなんて反則だ、思っても言ってやることもできない。

 そして幼馴染みですらまともに上がったことがない自宅に、快斗は断わりもなくずかずかと上がり込んでしまった。
 とは言え、見られて困るものは主に隠し部屋の地下にあるため問題ないと言えばないのだが。





「うーわー…見事になにもねー冷蔵庫だな。」


 当然のようにキッチンを拝借していた快斗は、呆れを通り越しいっそ感心したような声を上げた。
 自前なのか、その姿はいつの間にか緑と白のチェック柄のエプロン姿となっている。
 しかも妙に似合っていて、これが天下の怪盗キッドなのかと新一は思わず天を仰いだ。


「…仕方ねぇだろ。買い物行こうと思った矢先で倒れちまったんだから。」

「あぁ、そうなんだ。でも普通、冷蔵庫ってのは空になる前に補充されてくもんだぜ?」


 渋々答えた新一に快斗は窘めるような口調で言う。
 その尤もな言葉には新一も押し黙ることしかできなかった。


「ま、仕方ねーな。ちょっと隣行って材料分けてもらって来るわ。」


 とにかく冷蔵庫がこの状態では何もできないと、快斗は何でもないことのようにそう言うとエプロン姿のままリビングを出て行こうとする。
 新一は慌てて引き留めた。


「待て待てっ、黒羽!」

「ん?なに?」

「そんな、宮野さんや博士に悪ぃだろ。俺はほんと大丈夫だから、お前ももう帰れよ。」


 なにせこんな体でも新一は十七年やってこれたのだ。
 これほど長くひとりで日本に滞在したことはなかったが、ロスに居た頃も自宅に帰れず隠れ家に数ヶ月身を隠していたことも一度や二度ではない。
 その時はもちろん自給自足の生活をしていた。
 もともと器用だったため、料理に限らず一通りの生活能力を新一は備えている。

 つまり今更こうして快斗に頼らなければならない理由はないし、それ以前に新一は快斗と関わりを持つことを望まないのだ。
 だから放っておいてくれたらいいとやんわり拒絶を示した新一だったが、快斗はそれには答えずに逆に質問を返した。


「そういや、他に家の人は?」

「え?他って、誰もいねぇけど…」


 突然逸れた話題に咄嗟に答えてしまってから、しまった、と思うが既に遅い。


「へぇ。お前ひとりでコレなのに、どこが大丈夫なんだよ。」


 少しも笑っていない目でにっこり微笑まれ、新一は溜息を吐く。
 せめて親がいるとか家政婦がいると言っておけばよかったと思う新一だが、どちらにせよ結果は同じだったろう。
 たとえそう言ってみたところで冷蔵庫がこの状態では嘘はすぐにばれる。
 快斗は質問をしたというよりは確認したのだ。
 この家に新一しか住んでいないことなど聞くまでもなく判っていたのだろう。


「ったく。こんなんでお前、普段学校とかどうしてんの?…もしかして長期休学してるとか?」


 顔どころか声も体型もそっくりなふたりなのだ。
 快斗は新一を高校生――同じ年ではなかったとしても高三、或いは高一だと思っていた。
 そうすれば当然学校に通っているはずだが、こんな体で本当に通えているのか、快斗でなくても疑ってしまう。
 新一の体では長期休学していても不思議はないのだ。

 けれど新一は緩く首を振ると至極当然のように言った。


「学校なら行ってねぇよ。もう卒業したから。」

「――へ?」

「大卒資格持ってるからもう学校行く必要ないんだ。」

「えぇっ、お前、年上だったのかっ?」


 思わず素っ頓狂な声を上げた快斗に、新一は心得たようにああと頷くと説明し始めた。


「違う違う。俺、国籍アメリカでさ。日本とロスを往復する生活してたんだけど、いちいち転校とかしてらんないだろ。だからあっちでさっさと資格だけ取っちまったんだ。」

「へぇ…大変だな。てことは、何歳?」

「十七。来年で十八だ。」

「なんだ、一緒じゃん。」


 快斗は納得したように頷き、次いで興味深そうに目を瞬かせながら言った。


「ちなみに資格取ったのっていつ?」


 快斗自身、IQ400という有り得ない知能指数の持ち主だ。
 日本でもスキップが認められるならきっと今頃は新一同様さっさと資格は取ってしまい、こんな風にだらだらと高校へ通ってなどいないだろう。
 それを自覚しているだけに気になってしまうのだ。
 いくつもの爆弾をその身に抱え込んだ新一が、一体どれほどの秀才なのか。

 いくらアメリカではスキップ制度が認められているとは言え、誰でもさっさと卒業できるわけではない。
 日本の学生と同じようにきっちりと一年一年積み重ねていく学生の方が断然多かった。

 すると新一は、まるで何でもないことのようにあっさり言うのだ。


「十歳になってすぐぐらい、だったかな。」

「――…十歳?」


 快斗が紫紺の瞳をこれ以上ないほど見開く。
 まるで今にも落ちてしまいそうだ。
 普段は決してポーカーフェイスを外すことのない怪盗でも私生活では案外素直に感情を表わすのかと、新一は快斗の様子を興味深そうに眺める。
 ……もしかしたら、これも快斗のポーズなのかも知れないけれど。


「十歳って…お前それ、凄すぎだろ…」

「まぁな。」


 驚いたように声を潜める快斗をさらりと流して、新一はコーヒーをカップに注いでいく。
 どうやら話が長くなりそうだと、それなら一応は客人となるだろう快斗にコーヒーの一杯ぐらいは出してやろうと思ったのだ。
 インスタントではなくわざわざドリップにするのはコーヒー好きな新一の拘りである。

 けれどそんな新一を余所に快斗が小さく呟いた。


「凄いけど、俺、工藤新一なんて名前聞いたことねーな。」


 その、小さな懐疑の念を抱いたような快斗の呟き。
 新一は思わずポーカーフェイスの下で嘆息した。
 さすがはこのご時世に怪盗を名乗るだけあり、快斗の警戒心は並々ならぬようだ。

 けれど新一はその些細な違和をも嗅ぎ分ける研ぎ澄まされた嗅覚に、安堵する反面で苦々しくも感じた。
 本来なら快斗はそんな嗅覚など必要もない世界で生きていくはずだったのだ、と。


「…確かにマスコミは煩かったけどな。金の力で全部はね除けちまったよ。」

「金の力?」


 おうむ返しに聞き返してくる快斗に、新一は殊更無表情を装ってカップを差し出す。

 今ここで工藤新一≠怪しまれては困るのだ。
 快斗が怪盗キッドとして灰姫に関わっていく限り、新一は日本を離れることはできない。
 だから、普段ならまず話さない自身の家柄について新一は話すことにした。

 そう、新一はR≠ニなるべき運命を背負って生まれた人間だが、同時に財界の中枢に座する男の大事な跡取りでもあるのだ。
 その名を知らない者は、日本に限らず先進国には存在しないと言っても過言ではない。



「俺は工藤財閥の跡取りだよ。」



 快斗が息を呑むのが気配で伝わった。
 けれどあまりに驚愕の事実だったからか、目を瞠った快斗は差し出されたカップを受け取り損ね――次の瞬間、それを盛大に被ってしまった。


「熱…っ」

「なっ、大丈夫か!」


 受け取り損ねたカップはそのまま左腕の方へ傾いたため、左腕の肘のあたりから手首の辺りまで快斗の白いカッターは濃茶に染まっている。
 まだ入れたばかりの湯気の立ったコーヒーを被ったのだ。
 新一の顔がさっと青ざめる。

 新一は歯を食いしばる快斗の右手を奪うように掴むとキッチンへ走り、着ている服もそのままに水の中へと突っ込んだ。
 勢いよく流れ出る水は跳ね返り、快斗の服を濡らしていく。


「暫くそのままにしとけ。」


 それだけを言い置くと新一はどこかへ消えてしまった。
 けれどすぐにタオルと替えのシャツと救急箱を手に戻って来ると、水道の水を止め快斗の手をタオルで包み、そのままの状態でリビングのソファへと誘導した。

 快斗は大人しく新一のされるがままにされながら、面倒を見に来たはずがこれではまるで面倒をかけに来たようなものだとこっそり溜息を吐いた。


「手当すっから、上着脱いで。」


 と、言うなり新一の手がカッターのボタンへと伸びてきた。
 快斗は慌てて拒もうとするが、新一はじろりと一瞥すると問答無用で上着を奪った。
 そして持ってきたシャツを羽織るだけの形で快斗に着せ、もくもくと手当をしていく。

 快斗が慌てるのも当然で、快斗の体には明らかに普通ではない傷痕が幾つかあった。
 知識のない人が見ればそうとは気付かないだろうが、新一自身そういった傷は見慣れているので一目で判ってしまう。
 右の鎖骨から心臓に向けて刻まれた刃創。
 脇腹から骨盤にかけては見るからに痛々しい手術の後らしき何針も縫われた傷痕。
 そして、隠れているけれど右のこめかみには銃弾が掠ったような火傷……

 それらは嫌でも視界に入ってきたけれど、新一は何も言わなかった。
 ただうっすらと赤くなっている快斗の左腕の火傷だけを、眉を寄せたままじっと見つめている。

 快斗の体にはあちこち傷があるけれど、腕にはひとつとして怪我がないのだ。
 それは快斗が何よりもその手を大事にしているからだろう。
 なぜなら快斗は怪盗である前にひとりのマジシャンであり、そしてマジシャンにとって手は命なのだから。
 そんな、快斗が何より大事にする手を傷付けてしまったことが、新一は何よりも哀しかった。

 なのに、顔を伏せたままぽつりと謝れば、快斗は怒るわけでもなく苦笑しながら言うのだ。


「んな泣きそうな声出すなよ。こんなのすぐに治るだろ?」


 その言葉に新一はふっと顔を上げ、快斗の目をひたと見据えた。
 快斗が驚いたように息を呑む。

 きっと今、世界中で一番情けない顔をしているに違いない。
 そう思ったけれど、それでもこれだけは伝えたくて、新一は苦笑とも泣き顔ともとれる曖昧な表情を浮かた。


「…体、大事にしろよな。特に手は、大事だろ…?」


 そう言って、新一は押し黙る快斗にくるりと背を向けた。、

 キッドの魔法も快斗の魔法も新一は見たことがない。
 快斗がどれほどのマジックの使い手か、新一は知らない。
 けれど判っていた。
 素晴らしいマジックを魅せることができるのは、マジックを見る人間が好きなマジシャンだけだと。

 快斗は超がつくほどのお人好しだ。
 少なくとも、逢ったばかりの赤の他人の面倒を背負い込んでしまう程には。
 そんなことは人間が好きでなければできないだろう。
 だからきっと怪盗キッドから解放されれば快斗は素晴らしいマジシャンになれる。
 それは紅子の予言にも負けない確かな未来だ。

 その未来を秘めた手には、生涯傷付いて欲しくない……

 閉じた双眸の奧で新一は強く思った。










(…なんだ、これ…?)


 タオルと救急箱を仕舞いに行く新一の背中を、快斗は落ち着かない気持ちで見送った。
 なぜか動悸が速い。どくどくと、まるで早鐘のように打っている。
 快斗は突然の己の変化に混乱していた。

 とにかく新一があの工藤財閥の跡取りだと聞いて、ポーカーフェイスなどどこかへ吹き飛んでしまったのだ。
 否、新一との会話ではいちいち驚かされていた気がするが。

 ロスの工藤財閥と言えば、日本に限らず世界に名を轟かせるほどの大資本家だ。
 特に十八年前に当主に立った工藤優作は、その手腕を持って工藤財閥の地位を不動のものにまで築き上げた。
 その時結婚した女性が日本人、しかも絶世の美女だと言うことで、日本のマスコミはこぞって工藤家の若き当主とその妻を追い回した。
 しかし跡取りとなるひとり息子だけは決してメディアに顔を現さなかったのだ。
 それが、新一なのだと言う。

 驚くなと言う方が無理な話だ。
 快斗はそう言った世情に精通しているため工藤家に息子がいることはもちろん知っていたが、顔は知らなかった。
 それゆえ、あんな失態を曝してしまったのだ。


(…それに、あんな顔されるなんて。)


 カップを受け取り損ねたのは快斗のミスだ。
 それなのに新一はまるで自分のせいだと思いこんでいる。
 極めつけがあの顔だ。
 笑ってるつもりだろうが、快斗には泣きそうな顔にしか見えなかった。

 その顔はあの時と似ていた。
 快斗が倒れている新一を見つけた時、声を掛けた瞬間に見せたまるで幼い子供のようにあどけない、それでいて大人よりもずっと何かを堪えてきたようなアンバランスな顔。
 見ている方が胸の締め付けられるような、苦しさと哀しさと切なさを均等に塗り込められたような……

 ――なぜ新一があんな顔をしたのか判らない。
 ただ、その表情が頭から離れなかった。
 新一の方がよっぽど厄介な体をしていると言うのに、まるで己の傷のように苦しげな目で快斗の傷を見ていた。
 手は大事だろうと、そう言った声は掠れてさえいた。
 そしてなぜか、その表情と声がこうして今快斗の心をざわめかせている。

 あんな顔、瀕死のキッドを拾った時の白馬でさえしなかった。
 あの時の白馬も確かに驚き、絶句し、青ざめていたけれど。
 クラスメートとして、追い続ける怪盗として関わってきた白馬よりも、今日知り合ったばかりの新一の方がずっと苦しげな表情に見えた。
 まるで旧知の友人や親兄弟に向けるもののように。

 だが快斗はそこである疑問に気付いた。


(…あれ?…俺、マジシャンだって言ったっけ?)


 記憶を辿ってみるが、新一が目を覚ましてからこっち、快斗が新一について聞くことはあっても新一が快斗について聞くことは一度もなかった。
 つまり新一が知るはずはないのだ。
 快斗がマジシャンだと言うことは。

 けれど新一が最後に残していった言葉は明らかにそれを知っている者の言葉のように聞こえた。
 手は――マジシャンにとって大事だろう、と。

 だが、それならなぜ新一は知っていたのだろうか。
 新一が目を覚ましてから、もとい新一が倒れた時から快斗は一度も新一の側を離れていない。
 他の誰かがもらした可能性はゼロだ。

 では、新一は快斗のことを以前から知っていたのだろうか。
 けれど新一の態度はまるきり初対面の者に対する態度だったはずだ。
 もしそれが演技でなければの話だが、新一が演技しなければならない理由など快斗には思い当たらない。

 やはり、なんとはなしに言われた台詞だったのか……

 けれど快斗はそれも否定した。
 否、先に挙げた二つの可能性よりも強く否定できる。
 新一は快斗にとって手が特別なものだと確信してああ言ったのだ。
 それは可能性ではなく快斗の直感――あの表情から感じた直感だった。

 では、どうして新一は快斗が手を大事にしていることを確信したのだろう?


「…新一?」


 呼んだところで既に新一はいない。
 その呼びかけに答えが返ることはなく、そして疑問が消えることもなかった。





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すみませんでした。はい。
このシーン、大幅に変わりました。大幅どころかもう元の話は跡形もないです。
でも新一が財閥の跡取りってのに変更はありません(笑)
次から急展開です。いいのか、これで!爆