Double
- Second contact -















「新一、お皿並べてくれる?」

「この皿でいいのか?」

「うん、それ。」


 快斗はフライパンを返す手を休めずに、テーブルに皿を並べていく新一の背中をじっと見つめていた。
 そこから何かを見つけだすことができないかと。

 数日前に怪盗Rと接触してから、快斗の中では新一がRなのではないかという確信に近い疑いが膨れあがるばかりだ。
 けれどこうして家に来ても新一は普段通りに受け入れてくれる。
 初めこそ拒んでいた新一だが、半ば押し切るような形で毎日来るようになってからは心底拒絶しようとはされていなかった。

 突き放したり受け入れたり、一体この男は何がしたいのだろう。
 何を持って怪盗キッドを守るなどと言いだしたのか、それが快斗には判らない。
 快斗がRと接触したのはこの間が初めてで、新一と知り合ったのもつい最近だ。
 ふたりの間に接点ができたとすればこのたった一月ばかりの間だというのに……

 と、いつの間にか眼前まで迫っていた新一が快斗を覗き込むようにして言った。


「…黒羽。焦げ臭い。」

「え?…あっ!」

「ばか…」

「あちゃぁ〜…」


 ついつい思考に沈みすぎていたのか、見れば炒めていた野菜が焦げている。
 これでは料理が台無しだと快斗が顔をしかめると、それを見た新一がくすくすと楽しげな笑みを零した。
 その笑みに快斗は思わず見とれてしまう。
 怒った顔や泣き笑いの顔は見たことのある快斗だが、こうして何の屈託もなく笑っている新一を見たのは初めてだった。
 幼馴染みの青子のように顔いっぱいに楽しさを滲ませたものではなく、紅子のように何かを企むような妖艶なものでもない。
 新一はひどく柔らかい表情で笑っている。
 その表情に快斗の心臓がどくん、と強く脈打った。
 またも早鐘のように鳴りだした鼓動に快斗は困惑してしまう。


「しゃーねーな。冷蔵庫に卵入ってるだろ。それでオムライスでもしよーぜ。」


 そう言って新一は予定していた野菜炒め用の大皿を仕舞うと、二人分の皿を並べ、箸をスプーンに替えた。
 快斗は暴れる心臓を必死に抑え付けながら、新一の背中をじっと見つめた。

 快斗が初めに感じた工藤新一の印象は、まるで不健康のお手本のような男だ、である。
 初対面から気絶されたわけだし、その後も低血圧症だの頭痛だの、果ては不眠症まで次から次へと問題が出てくるのだから、そう思ってしまうのも仕方がないだろう。

 そして次に思ったのは、底の見えない男だ、というものだった。
 新一は工藤財閥の跡取り息子だ。
 親や周囲の期待を裏切ることなく、優秀すぎる頭脳に充分な容姿を持って生まれた。
 眠った顔は年相応の少年にしか見えないが、凛とした立ち姿は人の上に立つに相応しい強さを備えていたように思う。
 権力者特有のあの鼻持ちならない態度も、身分や優秀さを誇示する素振りも新一には見られない。
 おそらく幼い頃から自分の使命というものを自覚し、それに相応しくなれるよう真っ直ぐに生きてきたのだろう。
 でなければあんなに真っ直ぐな目をしていられるはずがない。

 なのにまるで仕方ないのだとでも言うように、新一はその身に抱えるもの全てを受け入れているのだ。
 快斗にはそれが理解できなかった――突然理不尽な運命を叩きつけられる辛苦を知っているだけに。
 何を考えているのか全く判らない。
 それがこの男を深い霧の中に留まらせている原因だった。

 けれど今、快斗はその底の見えない男のことをひどく気に入っている。
 僅か十歳にして大卒資格を取得としたという頭脳を有しているだけあり、新一との会話は快斗に新鮮な驚きを与えた。
 次に何をしでかすのか全く判らないところも快斗の好奇心を大いに擽る。
 大海のように揺るぎない眼差しをしているかと思えば、一方で幼い子供のように怒ったり困ったりと、見ていてまるで飽きないのだ。

 だからこそ快斗は口に出すことができない――怪盗Rはお前なのか、と。

 今夜は怪盗キッドの予告の日だ。
 久々にビッグジュエルが来日するという情報を得て、二日前にはもう予告状を届けてある。
 Rがそれを知らないはずがない。
 新一がRなのなら、それを知らないはずがないのだ。
 キッドを守ると言ったからにはRは何らかの形で今夜の仕事に関わってくるだろう。
 けれど新一の様子はまるで普段と変わらなかった。
 それが余計に快斗の混乱を招く。

 結局その日も新一に不自然なところを見つけることができないまま、快斗は工藤邸を後にしたのだった。










 喧しいサイレンの音と共に点々と続く赤いランプが遠ざかっていくのを、快斗はビルの屋上に佇んで眺めていた。
 夜空には月が煌々と照らし出す中に白い鳥が一羽。
 快斗が放ったリモコン操作式のキッドのダミー人形だ。
 本物そっくりに作られたそれを遠目から見ただけで人形だと判断するのは難しい。
 警察があれが偽物だと気付くのはリモコンの電波が届かなくなって人形が落ちる頃だろう。
 そこから足がつくことのないよう、細心の注意も払っている。

 今夜の犯行も成功だった。
 ほぼ完璧だと言ってもいい。
 白馬の協力していない警備など所詮この程度だ。
 警察は快斗を見つけることすらできない。
 いっそ物足りなく感じてしまう程だ。
 月に翳してみた宝石の中に赤い石が見つからなくとも、もう落ち込むこともない。

 それでもビルのフェンスに寄りかかり眼下を見下ろす快斗の双眸が鋭い光を放っているのは、犯行の間中、姿こそ見せないがずっとその存在を誇示していた鮮やかな気配の持ち主――Rのせいだった。
 今も誰ひとりとして見つけることのできなかった快斗の側に、当然のようにRの気配がある。
 まるで初めから居場所が判っているかのようだ。

 快斗はとうとう痺れを切らし、視線も鋭いままに言った。


「――いるんだろ。隠れてないで出てこいよ。」


 かつんっ、と背後で小石の転がる音がした。
 おそらく老朽化したビルのコンクリートが剥がれ、それをRが蹴飛ばしたのだろう。
 彼ほどの男が足音を消せないはずもない。
 快斗は殊更ゆっくりと背後を振り返った。

 アッシュブルーのコートが風に靡き、まるで翼のように彼の背後で踊っている。
 Rは快斗の方を見ようともせず、ただぼんやりと空中の月を見上げていた。


「あんたは何がしたいんだ?」


 幾分苛ついた声が出てしまうのは致し方ないだろう。
 実際、いくら考えても埒のあかない疑問に快斗は苛立っていた。
 Rは色んなことを知っている。
 パンドラのこと、キッドのこと、快斗のこと、組織のこと。
 けれど快斗はと言えば、パンドラについては組織とRに与えられた知識だけ、Rについてはその存在から目的までまるで判らない、組織とも均衡状態になって等しい、といった状態だ。

 情報が足りなかった。
 この際、パンドラや組織のことは置いておいてもいい。
 ただRが誰なのか、何のために存在するのか、なぜ快斗を守ろうとするのか、それが知りたかった。

 快斗は未だにRを敵だとは思えずにいる。
 守りたいとまで言われた相手でもあるし、それに――その正体が新一なのかと思えば思うほどに、できることなら共に闘いたいと思っていた。

 足に大怪我を負いながら、大量に出血していながら、この男は平然としていた。
 己と似た危うさを持ち、己以上に死に近い場所に存在している。
 いつ死んでもおかしくない。
 いつ消えてもおかしくない。

 快斗はRを――新一を失いたくなかった。
 なぜかは判らなくとも強くそう思った。
 だから一方的に守られるのではなく、共に闘いたいのだ。
 RにRで在り続けなければならない戒めがあるのなら、その呪縛から解き放ってあげたかった。
 それができないのなら、せめて共に背負いたいと、思った。

 けれどどれほど待ってもRからはひと言も返ってこず、居心地の悪い沈黙がこの場を支配した。
 それでもめげずに眼差しをひたとRに据え続けていると、月を見上げていたRが漸く快斗の方に顔を向けた。
 何か言おうと快斗が口を開く。
 が、そこから言葉が紡がれる前に唐突に辺りを包み込んだ殺気に身を固くした。

 微かな音と共に風を切り裂いて何かが飛び去る。
 向かい合っていたふたりはそれを避けるように咄嗟に背後へと飛び退いた。
 快斗はすぐにそれが銃弾であることに気付いた。

 こんな時に、組織の連中だろうか。
 そう思い身構えた快斗だったが、何事もなかったかのように影からすらりと現れた男は全く見たことのない男だった。
 黒いコートに黒い帽子といった全身黒尽くめで、肩には先ほど自分たちを襲っただろうライフルが掛けられている。
 男の背後には銀色の髪が悠々と風に揺れていた。


「まだキッドと連んでいたのか。」


 男は快斗には見向きもせずにRを見遣ると、口許に酷薄な笑みを浮かべた。
 口端から覗く歯がまるで肉食獣のように獰猛に映る。
 どうやら男の目的は初めから快斗ではなくRのようだ。
 けれど言われたことに心当たりがなく、快斗は怪訝な顔を浮かべる。

 快斗がRと初めて接触したのはつい最近のことだ。
 まだ≠ニ称されるほど長い付き合いはしていない。
 だが快斗の隣に佇むRの体は目に見えて強張った。


「余程そいつが大事らしいな…」


 薄ら寒くなるような低い声で男が楽しそうに呟く。
 するとRは快斗の前に飛び出して、快斗と男の間を裂くようにして立ち塞がった。


「――キッドには手を出すな!」


 夜の闇を薙ぎ払う、凛とした声が高々と響く。
 その声に快斗は思わず目を瞠って息を呑んだ。

 Rがこれほどまでに激昂しているところや怒鳴っているところを見るのはこれが初めてだった。
 口調を厳しくすることは幾度もあった。
 パンドラと関わるなと告げた時の声はいつだって真剣そのものだった。
 けれど口調を荒げたことは一度としてなかったのだ。

 驚く快斗にRは振り返りもせず、肩越しに言う。


「こいつの狙いは俺だ。お前はさっさと消えろ、キッド。」


 固い声に促され、快斗は躊躇った。
 確かにここはRの言葉に従って素直に退場すべきだろう。
 無関係の危険にまで首を突っ込むような愚かな真似をするべきではない。
 キッドの目的を果たすためには直ぐにこの場を離れるのが当たり前だ。

 けれど。
 もしRが新一なら――いや、新一じゃなくとも。
 もう既に失いたくないと思ってしまった存在をひとり危険の中に放って己だけ逃げ出すことなど、快斗にできるはずがなかった。


「てめぇっ、ボーッとしてないでさっさと消え――っ」

「…R!」


 いつまで経っても動こうとしないキッドにRが苛立たしげに声を掛けるが、言い終わる前に突然がくりと膝をついたかと思うと頭を抱えてしまった。
 歯を噛み締めるぎりっ、という音が微かに聞こえる。
 力の入った指先が容赦なく肉に食い込み、爪が柔肌を抉った。
 サングラスの影から覗く顔はひどく苦しげで、見るのも痛々しい。
 それは唐突なできごとだったが、快斗には何が起こったのか見当がついた。

 その光景はあの、道ばたで頭を抱えて倒れていた少年――新一と全く同じだった。
 新一は昏倒してしまうほどのひどい頭痛に悩まされていた。
 怪盗Rの正体が工藤新一だというなら、おそらく同様の苦しみを味わっているに違いない。
 あの時も受け止めたのは快斗だった。
 そして今回も倒れそうになる体を快斗の腕がしっかりと受け止める。
 苦悶に満ちていたRの表情が微かに和らいだようだった。

 抱え込んだRは力無く快斗を見上げ、乱れた呼吸の合間に喘ぐように囁く。


「…ば、ろぉ…逃げろ、…言った…のに……」


 切れ切れに届く声が胸を締め付ける。
 快斗はRの体をぎゅっと抱き締めた。



「だって置いてけないよ……新一。」



 Rの――新一の体がびくっ、と強張る。
 それが何よりの肯定の証となった。
 だがそんなもの今更だ。
 だって、快斗は確信していたのだから。
 ただ新一に面と向かって確かめることができなかったのは、もしそれを言ってしまえばRと同じように拒絶されるかも知れないと思えばこそだった。

 けれど新一は快斗の予想を裏切って笑みを浮かべるのだ。
 諦めたように哀しげで、それでいて苦しみから解き放たれたかのように清々しい。
 綺麗な笑みだった。
 きっと快斗がRの正体について悩み苦しんでいたように、新一もまた快斗に言わないことに苦しんでいたのだろう。

 そうして無理矢理に体を起こした新一は快斗の背に腕をまわし――抱き締めた。

 束の間、呼吸も鼓動も全てを忘れる。
 次いで耳元に聞こえた低い呻きと崩れていく体を見て、快斗は我に返った。


「な…!」


 見れば、新一の背中に羽根のようなものがつけられた針が刺さっている。
 新一は動けない体で抱きつくことで、男が向けていたライフルの銃口から快斗を守ったのだ。
 快斗の中に言いようのない怒りが込み上げてくる。


「てめぇ…っ」

「安心しろ。ただの麻酔銃だ。」

 こいつは殺すなとの命令なんでな。


 男は憤る快斗を嘲笑うような冷えた眼差しで見据え、ライフルを肩に担ぐとゆっくりとこちらへと歩を進めた。
 快斗は完全に気を失ってぐったりしている新一の体を急いで抱き上げる。
 仰け反る頭を自身の首元に埋めるようにして固定し、いつでも動けるように回した腕にぎゅっと力を込めた。
 新一を抱えたまま男と対峙するのはまず無理だ。
 どう動くべきか目まぐるしく思考を巡らせながら快斗は逃げるように数歩退く。

 すると男は今度は懐から拳銃を取り出し、それを構えながら言った。


「解放者を寄越せ。」


 弱者を見下ろすように男は殊更ゆっくり近づいてくる。
 快斗は無言を返すだけで何も言わなかった。否――言えなかったのだが。

 男の口から出た言葉が何のことか、快斗には全く判らなかった。
 解放者≠ニは一体何のことか。
 状況から見て新一のことを言っているのはまず間違いないが、聞き慣れない単語にどんな反応を返すべきか判らない。
 こういう場合は下手なことを言うよりも黙っていた方が利口だと判断したのだ。

 そうしてじりじりと迫ってくる男に快斗が無言で後退っていると……


『怪盗キッドォ!今度こそ逃がさんぞォ!』


 突然聞こえてきたスピーカー音に両者の動きがぴたりと止まった。
 聞き慣れたそれは中森警部の声だ。
 てっきり今頃はダミーに引っ掛かって見当違いの方向に向かっているとばかり思っていたのだが、珍しくも冴えていたのか、何にしてもこのタイミングでの登場は非常に有り難かった。
 眼下を覗いてみれば一台ではあるが確かにサイレンの赤いランプを点滅させている車がある。
 快斗はにやりと口角を吊り上げた。


「…どうやら警察のご到着のようですね。」

「ちっ。」


 男は軽く舌打ちするとくるりと踵を返す。
 闇に紛れるような黒いコートを靡かせて、直ぐ側に隣接している少し高さの低いビルに飛び移った。
 非常扉を素早く銃で撃ち抜いてするりと身を滑り込ませると、あっという間にその姿は見えなくなってしまった。
 ひどく慣れた動き。
 プロ中のプロだと快斗は思った。

 そして誰も居なくなった屋上でふぅ、と小さく息を吐くと、快斗もまた新一をしっかりと抱き締めてビルの階段を駆け下りて行った。





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名前出てないけど男=ジンです。
前の話で新一が言ってたあの男≠ナす。
ただジンだとちょっと原作を大幅に無視することになるんですが、
まあ新一が怪盗って時点で原作も何もあったもんじないので問題ないかな、と。