−逆さ吊りの神− |
月の光も届かない暗闇を、影から影へ飛び移るようにひとりの少年が走り抜ける。 時折蜃気楼のように揺らぐ不可思議に気付く者は誰もいない。 快斗は今、能力犯罪者を追っていた。 人には理解できない超常の力を使って悪行を行う者は後を絶たない。 そういう勘違いした人間を取り締まるのが特別機動隊の任務である。 彼は、手にした能力を使って人を殺した。 被害はすでに五人を超える凶悪犯だ。 当然、優秀なる日本警察も捜査に乗り出している。 しかし犯人が能力犯罪者と割れた時点ですでにこの件はWGOの管轄だった。 WGOは直ちにこの件より手を引くよう日本警察に要請したが、WGOが極秘機関であるがゆえにその存在を知る者は少なく、しばしばこうした大事件では一般人の目を欺くため表向きには捜査を続けることが多かった。 もちろんWGOより撤収の指示が出ていることは全ての捜査官に知らされているが、実際に現場に向かう捜査官は管轄権がどこにあろうとすることは変わらない。 ただ犯人を探し、見つける。 その犯人を捕まえて連行するのがWGOを名乗る連中であり、捕まった犯人は公的な裁判で裁かれるものの、実際にはWGOの手によって裁かれるのだ。 だがそもそも、彼らはWGOという機関自体をあまり信じていなかった。 と言うのも、警察関係者であれば一度はその名を耳にすることがあるが、実際にWGOと関わりを持つのは一部の上層部だけで、一介の刑事や警察官がWGOの人間と接触する機会はまずないからである。 能力者による犯罪が公になったとしても、いつの間にか犯人を確保されているのが常で、後になってWGOから犯人確保の報を知らされ、その情報をもとに捏造した経緯をメディアに発表するだけだ。 そのため、WGOの名を知っていても存在を信じる者はほとんどいない。 しかし彼――高木渉は、そのまずないはずの機会に遭遇した数少ない人物だった。 ドサリ、と重い音を響かせながら自分の上に崩れてきた男を、けれどどうすることもできずに高木はただ呆然とその人を見上げた。 月光を背負い、ひとりの男が立っている。 いや、男と言うにはその体躯はやや未熟に見えた。 「大丈夫?」 声をかけられ、高木はびくりと肩を震わせる。 それに気付いた相手は、けれど気分を害するでもなくくつくつと可笑しそうに笑った。 ――ああ、何が起こったんだろう。 逃避しそうになる理性を必死に捕まえ、思考を巡らせる。 だが、どう考えても、今目の前で起こった現象は有り得ない≠ニしか言いようがなかった。 高木は必死で被疑者を追っていた。 非番だったにも拘わらず、こうして私服で犯人を追わなければならなかった理由はひとつ。 運悪く、いや、運良くと言うべきか、高木は犯行現場を目撃してしまったのだ。 いくら非番とは言え、刑事である以上これを見逃すわけにはいかない。 そして、互いに呼吸を上擦らせながらも何とか男を追いつめた時。 ――ソレは、起こった。 何の前触れもなく唐突に男の手から無数の針が飛び出したかと思うと、その全てが誤らずこちらへと向かって飛んできたのだ。 そういえば、被害者は皆原形を留めていられないほどに全身を痛めつけられていた。 凶器ははっきりと判明していないが、何か鋭利な針のようなものだ、と。 そして、半信半疑とは言え、管轄権がWGOに移行された時点で、犯人が何か超常的な力を持っていることを念頭に捜査をしろと、忠告を受けていた。 まさかと、思っていた。 けれどそのまさかが、目の前で起きているのだ。 その瞬間、高木は自分の死を覚悟した。 今まで一度として超常の力なんてものには縁のなかった高木だが、今起こっている現象が自分の力でどうにかできるものでないことは明白だった。 もちろん、そんな単純に納得できるほど、物わかりがいいわけではなかったけれど。 そして、自分でも情けないと思うくらいの絶叫を上げた高木は。 けれど、死ななかった。 再び唐突に割り込んできたなにかが、全ての針を叩き落としたのだ。 どうやらまだ生きているらしい高木がうっすらと目を開ければ、そこにはうめき声を上げながら蹲る男の姿があった。 いったいなにが起こったのか、困惑しながらじっとその様子に目を凝らしていると、不意に視界に妙な揺らぎが映った。 それはまるで蜃気楼のように、向こうに移る景色が歪んで見えた。 更に目を凝らせば、その揺らぎは人の形をしているように見えた。 やがてその揺らぎが確かな人の姿になったかと思うと、 「世界政府機関機動班、特別機動隊だ。WGOの命のもと、犯罪人加賀俊哉を能力行使による第一級犯罪人として連行する」 そう告げると同時にがちりと男の手に手錠が嵌められる。 そこでようやく、高木はWGOの人間に救われたことに気付いたのだった。 犯罪者を取り締まるのだから、彼は警察の敵ではない。 けれど、彼もそこに転がっている男と同じく超常の力を持っているのかと思うと、たった今まざまざとその力のほどを思い知らされたばかりの身としては、そう簡単には恐怖を拭えない。 緊張する高木に、けれど彼は何の気負いもなく手を差し伸べると、力任せにぐいと引き起こした。 思わず「うわあ」と情けない声が挙がる。 「怪我はなさそうだね」 そう言った彼と真っ向から向かい合い、そこで初めて高木は彼の顔を見た。 日に焼けたふわふわの髪と紫紺の瞳。 ダークグレーのパーカーを羽織り、大きなゴーグルを首から提げている。 身長は高木よりやや低め。 高木は目を瞠った。 男は、子供だった。 まだ高校生ぐらいの少年だったのだ。 だが、高木を驚かせたのはそんなことではない。 「きみは、――工藤君じゃないか!」 それは、五年前に行方不明になったはずの少年だったのだ。 * * * ぴくりと、本を読んでいたコナンが顔を上げた。 手の中にあるのはラテン語で書かれた一冊の本。 この頃のお気に入りらしいそれを読む姿を初めて見たときは吃驚した光彦だが、子供の純粋さで「さすがはコナン君ですね…」と感心しただけだった。 光彦も英語であれば若干の知識を持っているが、ラテン語と言えばイタリア語やフランス語の起源とされる古の言語だ。 光彦には読み方さえ分からなかった。 「? どうかしましたか、コナン君?」 コナンの様子の変化に気付いた光彦が声を掛けるが、聞こえていないのか、コナンはただひたすらじっと遠くを見つめている。 不審に思った光彦がコナンの肩に手を伸ばすが、その手が届く前にコナンはばっと立ち上がった。 そのまま脇目も振らずに書庫を飛び出していく。 焦ったのは光彦だ。 光彦は志保からコナンの世話をし、常に側にいるよう言われていた。 そこに監視≠フ意味合いがあるとは知らないまでも、言葉の不自由な彼の手伝いになればとこれまで律儀にその言いつけを守ってきた。 それなのに、唐突に駆け出したコナン。 いったい何が起こったと言うのか。 「待って下さい、コナン君…!」 光彦が慌ててコナンの後を追いかける。 書庫から飛び出していくふたりの子供を見た大人たちは、子供同士の戯れかと苦笑混じりに見守っているが、当の光彦にとっては冗談じゃなかった。 光彦の五歩も十歩も先を駆けていくコナンの背中が次第に遠くなっていく。 その早さときたら、まるででたらめだ。 それでも必死に後を追っていた光彦は、やがてコナンの向かおうとしている場所を悟り、大いに焦った。 コナンが向かっているのは――地上。 まさか警衛班が見逃すはずはないと思うが、万が一無許可で地上へ出たコナンが罰せられることになったらと考えると、光彦は気が気じゃなかった。 能力者でないコナンに能力者に対する規則が適応するのか分からないが、そうでなくとも彼にとって地上は危険な場所なのだと聞いている。 黙って見過ごすわけにはいかない。 けれど、そうは言っても、とても追いつけそうにない。 どうしたらいいのかと息を切らせながらも必死にコナンの後を追っていた光彦は、コナンの身体が唐突に宙に浮かぶのを見た。 見れば、進路を塞ぐようにして立っていた松田が、コナンの首根っこを掴んで持ち上げている。 光彦は頼もしすぎる援軍の登場に安堵し、ぺたりとその場に座り込んでしまった。 「おい、許可もなしにどこへ行く気だ」 「…っ」 宙吊りにされながら、それでもコナンはじたばたと足掻いている。 感情表現の乏しい瞳には珍しく怒りのような色が滲んでいた。 群青色の瞳が悔しげに睨み付けている。 珍しい、と松田が目を眇めると、その一瞬の隙をついてコナンはくるりと身体を反転させ、松田の顎に蹴りを入れた。 予想もしていなかった攻撃と子供のものとは思えない威力に、ほんの刹那松田の腕が緩む。 その瞬間を見逃すことなくするりと腕から抜け出したコナンは、再び脱兎の如く地上への廊下を走り出した。 その後をすぐさま松田が追う。 廊下に座り込んだままの光彦は、あまりにも必死の形相で駆けていくコナンを、ただ呆然と見送ることしかできなかった。 「待てっ、このクソガキ…!」 そう言って待つはずがないと分かっていても、松田は言わずにはいられなかった。 ――油断した。 まさかあんな攻撃がくるとは考えもしなかったのだ。 ただの子供ではないと言いながら、結局は自分も見かけで判断していた。 …情けない。 このままでは埒があかないと判断した松田は、右手をすっと地面に押し当てた。 本当ならできる限り能力を使うことは避けたいのだが、そうも言ってられないだろう。 とは言え、松田が躊躇する理由は一般人を相手に能力を行使することへの抵抗ではなく、単に己の能力を行使することによって破壊されるだろう施設、その修繕費を、自分の給料から差し引かれることに対する不満なのだが。 果たしてどれほどまで原形を留めていられるかは分からないが、このままコナンを逃がしてしまう方が絶対に痛手だ。 そう判断した松田が能力を解放しようとした、その時―― 「こらこら。そーゆーことはお兄さんに任せときなって」 ぽん、と頭を叩かれたかと思うと、横を滑り抜けるようにして通り過ぎた影が、あっと言う間にコナンの身体を絡め取ってしまった。 松田は、絶対に口に出して言うことはないが、そうした男――萩原を、さすがだと目を細めて見遣った。 こうした瞬間に見せる彼の瞬発力とも言うべき素早さは、おそらく機関随一。 能力だけではないあらゆるものを認められたからこそ、特別機動隊と言う特殊部隊の隊長を任せられているのだ。 松田はぶっきらぼうに、見事コナンを捕獲した萩原へと礼を言った。 「悪いな、手間掛けさせて」 「いやいや、丁度目の前をコナンとおまえが追い駆けっこしてるのが見えてな。おまえに力使われると後が大変だ」 何が追い駆けっこだと、松田はふんと鼻を鳴らす。 それから二人して尚も腕の中で暴れ回るコナンに目を遣った。 コナンがこれほどまで暴れるなんて、本当に珍しい。 今までなにをしようと、それこそ護身術の訓練中に予想外に重たい一撃を入れてしまった時でさえ、痛みに苦しむことなど一度もなかった。 その子供が、これほど必死に何かを求めている。 「おい、おまえ、何がしたいんだ?」 松田が呼びかけてもコナンは見向きもしない。 ただ地上の一点を睨み付け、何かを求めるように萩原の腕の中から必死に手を伸ばす。 荒い呼吸の合間に何かを叫ぶように口を動かすコナンは、声にならない声を喉の奥から絞り出すが、それでも音にならない言葉が自分でももどかしいのか、しきりに喉を自分の手で掻きむしった。 気付いた松田が慌てて止めるが、コナンの意識は松田など認識していない。 それどころか、自分が今どういう状態なのかもきちんと認識できていないようだった。 なぜ先へ進めないのか、なぜ声が出ないのか。 何も分からず、ただ手を伸ばす。 「…、…、…っ!」 快斗がするように、ふたりはコナンの唇を読んだ。 繰り返される三つの言葉を、舌と唇の微妙な動きだけで読みとる。 (や、め、ろ) ――止めろ、か? 何に対して、誰に対して言っているのか。 こちらを見ようともしない彼が萩原や松田に対して言っているとは思えない。 ここではないどこかにいる誰かに向かって言っているのだろうかと二人が顔を見合わせる。 コナンはあまりのもどかしさに身が引き千切れてしまいそうだった。 分からない。 分かってもらえない。 声が出なければ、何も伝わらない。 それでも、己の中の何かをぶち壊すかのように、ただ必死に叫ぶ。 やめろ、やめろ。 やめてくれ。 壊さないでくれ。 大事なんだ。それがないと、生きていられないんだ。 この世のどんな命より、――慈悲深き我らが主よりも。 彼が、大事なんだ。 彼だけが、大事なんだ。 だから。 「…、…、と…!」 だから、お願いだから。 彼を――快斗を、殺さないでくれ…! 「かい、と――――!」 響く絶叫に、萩原と松田は暫し呆然と立ちつくした。 |
B / T / N |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ やっとコナンさんのお声が!ひゃっほう!壊 本当はこの後にもうワンシーン入れたかったのですが、気付けば結構長くなってしまったので、 次回に持ち越し。 漸く高木刑事も出てきたし! いよいよWGO・ベラクルス・警察機関の三大勢力による大筋に持っていけそうです。 06.09.08. |