逃亡者
---------------------------------------------------------------------------------------------------------








 死ねない…死にたくない…!

 

 そんな想いで必死に走った。逃げた。

 体のあちこちが熱い。目もかすむ。

 

 それでもここで止まるわけにはいかないのだ。追手はすぐそこまでせまってきているのだから。

 

「…っ!」

 バランスを崩して転んでしまう。
 このまま横になっていたら楽だな…浮かんだそんな考えを、すぐに頭を振って追い出す。
 そして再び立ち上がった。

 外は雨だった。『バケツをひっくり返したような』、そんな言葉がぴったりの土砂降りだ。
 けれど今の状況ではまさしく恵みの雨。雨は気配も匂いも足跡も血痕も、すべて消してくれる。こちらも向こうの気配をつかめないが、向こうも簡単に見つけられない。

 

 どれくらい走ったのか、雨のせいでほとんど見えない視界のすみに、ぼんやりと白い光を見つける。
 街灯なのかなんなのか、さっぱりわからないが、なぜか惹かれてその方向へ近づいた。

 もう目の前までそれがせまったときに、唐突に意識が途切れたのだった。

 

 

 

 

「くそっ…」

 思わず毒つきながら、新一は土砂降りの中を走っていた。めざすのは今自分が暮らしているアパートだ。
 朝出たときには晴れていた。だから傘は持たずに出かけたのだ。しかし徐々に曇っていき、降り出す前にと急いで出てきたのに、その途中で降り出して、あっという間にこの土砂降りだ。
 おかげで着ているものは下着までびしょぬれだ。不機嫌になるのもしょうがないといえばしょうがない。

 ようやく見えてきたアパート、自然と足も速くなる。速く部屋に入ってシャワーを浴びて着替えたい。
 その一心でようやく辿り着いたとき、それを見つけた。

「…なんだ?」

 アパートの扉の前にある黒い物体、はじめは犬かなにかだと思った。
 だが近寄ってみた新一は、驚きに目を瞠った。

「人!?」

 蹲っていたのは自分と同じ人の形をしたものだった。
 慌てて脈を確かめると、わずかだが鼓動が感じられてほっと息をつく。
 だがこの雨のせいか体温は奪われて冷たく、ほのかな街灯に照らされる顔は死人のように真っ白だった。このままでは確実にこの命は消えてしまうだろう。

 新一は迷わずに抱き起こした。
 救急車を、と考えたとき、ふと目に飛び込んできた傷跡に思い直し、そのまま背負ってアパートの中に入り、自分の部屋を目指す。
 水を吸っている服もプラスして、その重さにふらつくが、時間をかけてなんとか辿り着くことができた。
 とりあえず自分のベットに寝かせると、自分が着替える前に服を脱がせ手当てをしていく。最初に考えていたときよりもかなりの重傷のようだった。

 

 そのころ、アパートの外では新一が中に入ってからすれ違いのように数人の男たちがやってきた。
 別方向からやってきた同じような身なりの数人と一言二言かわして、そのままどこかへと消えていった。

 

 シャワーを浴びて新しい服に着替え、ようやくひとごこちついた新一は、あらためて今自分のベットを占有している人物を見た。
 年は自分と同じくらいに見える。なによりもその顔立ちは、どうやら同国かその近くのようだ。

 なぜこいつがこんな状態になってこのアパートの前に倒れていたのか、知りたいことを訊くのはまぁこいつが起きてからということにして。
 1番の問題はこの冷え切った体をどうするか、である。
 怪我の方の手当ては完了している。しかしいっこうに体温が戻らないのだ。

「…しょうがねぇか」

 この簡素な部屋の中には、満足な暖房器具はない。
 新一は持っていたペットボトルをテーブルの上に置くと、そのなぞの人物の横へともぐりこんだ。

 

 

 

 

 さっきまではとても寒かったのに、急に暖かくなって。その心地よさにまどろみながらも快斗は目を開けた。
 徐々にはっきりしてきた目で最初に見えたものは、見慣れない天井だった。そして背には寝心地の良い柔らかい感触が当たっている。

 

 俺は、どうしたんだっけ…?

 

 ………ああそういえば。ヤツラから逃げて、でも途中で力尽きて。
 それなら結局またヤツラに囚われてしまったのだろうか?そのわりには手足とも拘束されていないし、明るいし、寝心地もいい。
 それになんかとてもいいにおいが……いいにおい?

 そこで快斗は気づいた。確かに手足は縛られていないが、胸のあたりになにかが巻きついている。そして右半身が妙に温かい。
 快斗は恐る恐るその方向を見た。

「……!!??」

 驚いたソレから離れるように飛び起きて、とたんに全身に走った激痛に顔をしかめる。自分を抱きしめるように腕をまわしてから、快斗は再びソレを見た。

 整った顔立ち。さらさらの黒髪。綺麗な人。
 ………いや、確かに綺麗は綺麗だが……男、だよな…?
 なんで?どうして?どういう状況?!

 混乱する快斗の前で、長いまつげが震えた。

「ん…?」

 快斗が動いたせいなのか、その人が目を覚ます。
 そこで快斗は、彼が見たことのある人物であることに気づいた。

 こいつは…

「あれ、気がついたのか?」

 全身で警戒している快斗をよそに、彼はまだ寝ぼけ眼でのんびりと訊いてくる。快斗の緊張なんておかまいなしに腕を伸ばしてきた。
 思わず体を退くと、苦笑いして。

「熱計るだけだ」

 そう言って快斗の額に手を当ててきた。冷たい手が気持ちいいと感じる。

「熱があるな。ま、そんな怪我してりゃ当然か。それでも昨日よりかはましだな」

 言いながらベットを下りる。大人しく寝てろよ、と言い置いて、彼は部屋を出て行ってしまった。
 残された快斗はしばらく呆然としていたが、痛みとだるさに彼の言うとおり今度は1人となったベットへ横になった。そうして落ち着いて考えてみた。

 

 昨日は捕らえられていた組織から必死の思い出逃げ出した。
 やつらは快斗の力が利用できると考えたのか、自らに取り込もうとしたために生かされていた。そのわりには怪我の手当てもろくにしてくれなくて死にかけたこともあったのだが。
 それは所詮『パンドラ』という夢を狙う闇組織なのだから当然なのかもしれない。
 大人しく従うように見せながら、ずっと機会を窺っていたのだ。

 そして昨日。本部へと移動すると聞いてチャンスだと思った。移動中の車の中から、隙を突いて逃げ出してきたのだ。
 やつらは容赦なく発砲してきた。避けてはいたが、それまでの拘束生活で弱っていた体は思ったように動かなくて、1,2発まともにくらってしまった。
 それでも逃げて逃げて。そしてついに途中で力尽きたのだ。

 

 今の快斗の体からは消毒液の匂い。そして怪我している場所には丁寧に包帯が巻かれ、来ているのは汚れた自分の服ではなく清潔なパジャマだ。そしてここはどう見ても病院には見えない。
 この状況で導き出される答えは1つだけ。起きて隣に寝ていた彼が快斗を拾い、手当てをしてくれたのだということ。

 だがなぜ?と思う。
 あの顔、彼はあの『工藤新一』にそっくりなのだ。
 もし本人なのだとしたら、なぜ彼はここにいるのか。
 ここは日本じゃない。ここは、ドイツなのに。

 考えに陥ったところで再び彼が戻ってきた。

「包帯替えるぞ。痛むだろうけど少し我慢してくれ」

 持ってきた箱をベット脇のテーブルに置いて快斗にかけられているタオルケットをめくりあげる。
 そして手早く、なれた手つきで作業に入った。

 彼が自分に向けるすべてに、不信感とか、とんな類のものは感じられない。まるで以前からの友人であるかのような気軽さで快斗に話しかけ、触れてくる。
 それに快斗は戸惑った。戸惑いながらも、その手を跳ね除けようとは思えなかった。

「−−−…?」

 なぜ助けたんだ?そう訊こうとして口を開くが、そこから出たのは空気が出て行く音だけだった。
 なぜ、と眉をひそめて。それから思い出した。
 組織に捕まったとき、例えどんな拷問にも決して声を出さないようにと、自ら封じたのだ。自分で調合した薬を使って。
 試したことがないから効力がどのくらいなのかわからない。現に今も続行中だ。

 参ったな…これじゃあなにも訊けない…

 そんな快斗の様子に、彼は気づいていなかった。

「お前、何者だ?この怪我はどうしたんだ」

 彼の口からはじめて快斗のことに対する質問が出された。
 手は動かしたまま、顔も険しいものじゃない。だが本当はすごく気になっているのだと、そんな感じがした。
 が、今の快斗には声に出して答えられないのだ。それが拒絶の言葉であっても。目で訴えようにも、彼は動いている手元に集中しているのだ。

「これ、銃痕だろ?他にも同じような古傷もある。だから病院はまずいと思ったんだ」

 なるほど。だから病院じゃないのか。と、1人で納得する。
 だが普通の人ならば銃で撃たれて倒れているやつを見れば、逆にすぐに救急車を呼んだり警察に知らせたりするものだ。だが今のところそんな気配はない。
 おそらく彼は快斗に無意識にでも闇の匂いを感じ取ったのだ。それは、裏世界を理解していればこそ。ついでに銃による傷への対応も手馴れている。
 彼は『工藤新一』なのだと、証拠もないのに直感した。

 しかし…とまた次の疑問が出てくる。
 名探偵と呼ばれた彼が、警察の救世主だと言われた彼が、なぜこんな自分を助けたのか。

 いくら訊いてもいっこうに応えない快斗を訝しく思ったのか、彼はようやく顔をあげた。

『お前、日本人じゃないのか?言っていることがわからねぇ?』

 かけられた言葉はドイツ語だ。
 快斗は困ったように笑って口を動かす。やはりそこから音は出ない。

『お前…話せないのか?』

 驚いて訊く彼に、快斗は小さく頷いた。

 

 

 

 相手が話せないとわかって、新一はメモ用紙と下敷き代わりのテキスト、そしてペンを持ってきた。これがあれば少しは『会話』ができる。
 差し出すと少し戸惑った様子を見せ、それでも受け取ってくれた。

『日本人なのか?』

 最初の質問には頷くことで応えてきた。ならば、と再び日本語に戻す。

「なんでここで倒れてたんだ?この傷は?」

 ペンを持つ手はとまったまま。しばらく考え込んでいたようで、しばらくしてから動き出した。横になりながら、だから字は歪んでいたが、それでも見慣れた文字の羅列が出来上がる。

 返された言葉は、

"言えない"

 だった。すぐあとに、

"巻き込んでしまうから"

 と続ける。

 ああやはり、こいつはなにかから逃げてきたのだと思った。それも、裏社会の巨大ななにかから。

「……それならなにも訊かない。でもこの怪我が治るまでは、ここから出さないからな」

 新一の言葉に、相手は驚いたようだ。凝視してくる。意外だとでも思っているのだろうか。

「俺は今、医者を目指して勉強しているんだ。だから相手がどんな事情を持ったやつでも、けが人を放り出すような真似はしない」

 ますます目を大きくする。
 なににそんなに驚いているのか……
 と、またペン先が紙の上を走った。

"迷惑をかけるよ"

「いいさ。お前を拾った時点でそんな気がしたしな。それに、慣れてる」

"命にも関わる"

「自分の命くらいは守れる。結構波瀾な経験をしてきたしな」

 にっと笑うと、相手はもうなにも言えなくなったらしい。

「さっき外のぞいたら変なヤツラがうろついていた。おそらくお前を探しているんだろ。しかもお前はそんな怪我をしているんだ。いいな、絶対にここから出るなよ!勝手に抜け出そうと思うな」

 それでも戸惑った顔をしている相手に、新一は苦笑いをする。癖の強い黒髪にそっと触れてみた。ふわふわとした柔らかい感触。

「人の好意は素直に受け取れよ。突っ張ってばかりは、疲れるだろ…?」

「……」

 少し実感がこもっていたかもしれない。あの黒の組織との戦いのとき、迷惑はかけたくないと、1人になろうとしたから。他人の助けはいらない、と。
 けれど結局それは独りよがりで。多くの人たちの手を借りなければ、戦うことなんてできなかった。
 そして共に戦える人の存在、というものが心地よいともはじめて気づいたのだ。

 こいつはあのときの自分と同じ。独りなのだろう。そしてそれを良しとしている。
 他人の手は突っぱねて。

 

 考えていると、またさらさらと書く音がした。

"名前を、教えてくれる?"

「ああそういえば、言ってなかったな。俺は工藤新一」

 自己紹介をしたら、相手はなぜかふっと笑った。はじめてみた、柔らかい笑顔。
 なにかおかしいことでも言ったか?と不思議に思っていると、再びなにかを書き始める。
 見せられた紙には、5文字。漢字2文字と、ひらがな3文字。

「か・い・と…これ、お前の名前か?」

 聞けば、大きく頷いた。

 かいと、かいと…快斗。これがこいつの名前。本名かどうかはわからないけれど、それでもこれはこいつが教えてくれた名前だから。
 新一にも笑みが浮かぶ。

「それじゃあ快斗。よろしくな」

"こちらこそ"

 

 

 こうして、探偵と怪盗の、奇妙な同居生活が始まった。

 

 

 

× × ×

 

 

 

 ぽんぽんと肩を軽く叩かれる感触に、快斗は目を開けた。まだ眠かったので再び目を閉じかけると、こら、という声がかけられる。
 仕方なく、がんばって目を開ける努力をした。
 すぐに見えてきたのは、苦笑いしている新一の顔だ。

「眠かったら寝てても良いけどな。俺学校行ってくるから」

 まだぼんやりする頭でも、新一がコートを着てカバンを持っているのはわかった。それがいつもの大学へ行くときの新一のスタイルだ。
 そしてこうやって出かけるときに快斗に声をかけるのも。

「いいか、絶対に外に出るなよ」

 その台詞も毎度のことだ。今日はそんな気になれないだろうけどな、と今日は付け加えた。
 快斗はわかったという意思を伝えるために、右腕をタオルの中から出してひらひらと振る。あまり力が入らなくて、すぐにまたぱたりと落ちた。
 その一連の動作に、新一はくつくつと笑っている。
 だが腕時計を見て、やべっ!と表情を変えた。

「じゃあな」

 ぽんぽんとまるで子どもをあやすように快斗の寝癖によりさらに飛び跳ねている髪を叩いてから行ってしまう。本当に子ども扱いされているようであまり嬉しくないのだが…。
 だがその部分を外に出ていた右手で触って。快斗は笑った。

 

 心配性だよなぁ…。

 ベット脇のテーブルには、伊達メガネと金髪のウィッグが置かれている。もし外の空気を吸いたいなら、これをつけてベランダに出ろ、と。それで我慢しろ、というのだ。
 そして新一が学校へ行っている間に黙って抜け出さないように、隣人にまで頼んでいるらしい。
 隣に住んでいるのは、昼間は家にいて夜働きに出ているというなんともグラマラスなお姉さんだった。そんな人が新一と意外にもとても親しげにしているには最初驚いた。
 昼間ベランダで会ったときに素直にそう言ったら、彼女は豪快に笑っていた。

 彼女は夜の店で働いているのだという。金を払ってやってくる男たちの相手をする、そんな仕事だ。もう10代のころから続けているのだと言っていた。
 それを聞けば大抵の人は顔をしかめるのだという。
 だが、新一は違った。
 同じようにベランダで会ったときに、つい仕事の話をしてしまったら、新一は感心したように頷いて、精一杯生き抜いてきたんですね、そう言ったのだそうだ。
 その目には侮蔑も、他の男たちが向けるような欲望もなく、ひどく澄んでいたのだという。
 だから気に入ったのだと彼女は笑った。

 そんな彼女は、快斗の昼間のよき話し相手となる。
 もう少し年が上だったらねぇ…残念だわ。あんたも、新ちゃんも。そんなことを言われてしまった。

 

 ベットの上で寝返りをうつ。ふわりとベットから香るのは新一の匂いだ。最初にここで目が覚めたときにもかいだ、いい匂い。花のような、そんな香りだ。
 これは新一のベット。ほとんど人が訪ねてくることのないここには、寝る場所はここしかないのだと言っていた。
 けが人だから、お前がここを使えと言って自分は人2人がようやく座れるくらいの小さなソファで寝ようとする。いいよと断っても頑として聞きはしない。
 だから快斗から言ったのだ。だったら一緒にベットで寝よう、と。一度経験すればもう抵抗もない。
 なぜか嫌だとは感じないし…。
 その提案に新一は驚いていた。が、それを否定することはなかった。
 それから夜は、2人で1つのベットに寝ている。

 怪我のせいでうなされることもあった。そのときは新一が飛び起きて看病してくれて。
 怪我の手当てもさすがに医者を目指すというだけあって手際がいい。まだ包帯は取れないが、今はもうだいぶ良くなってきている。

 医者、か。あの名探偵がねぇ…。

 新一は快斗が怪盗キッドであるということに気づいていない。だからこそ、あんなに優しいのだろう。
 いくらけが人であるとはいえ、怪盗キッドであると知ればこんなに色々やってはくれないだろう。監獄に入れてやると、真正面から宣言してきた強い瞳を思い出して、快斗は笑う。

 一度だけ聞いたことがある。なぜ医者を目指すのか、と。ありきたりな応えだと笑いながら、教えてくれた。
 人を、多くの命を、助けたいからだ、と。多くの死を見てきて。それはあまりに多くて重くて。それでもなにもできなくて。関わるときにはいつも『死』の世界だ。
 だから今度は助けたいのだと。そう言った新一の目は、昔となにも変わっていなかった。
 自分を追い詰める、強い瞳。そこに映すものが、違うだけ。

 

 眠い…寝よ…

 外は雨が降っている音がする。新一の言うとおり、ベランダに出る気もない。
 サラねぇさん(隣のお姉さんのことだ)とも世間話できないし、新一もいない。退屈だし、やっぱり眠いし。その欲望に素直に従って、快斗は再び眠ることにし、目を閉じる。
 雨が窓を叩く音だけが聞こえてきた。なんて静かで平和な空間。

 己の立場も忘れて、このままでいたいと望むようになった自分を快斗は自覚していた。
 そして、いつのまにか、新一が「ただいま」と言って帰ってくることを楽しみにしていることも。

 

 

 数秒もしないうちに、雨音に静かな寝息がとけこんだ。






TOP * NEXT