逃亡者 --------------------------------------------------------------------------------------------------------- |
そんな想いで必死に走った。逃げた。 体のあちこちが熱い。目もかすむ。
それでもここで止まるわけにはいかないのだ。追手はすぐそこまでせまってきているのだから。
「…っ!」 バランスを崩して転んでしまう。 外は雨だった。『バケツをひっくり返したような』、そんな言葉がぴったりの土砂降りだ。
どれくらい走ったのか、雨のせいでほとんど見えない視界のすみに、ぼんやりと白い光を見つける。 もう目の前までそれがせまったときに、唐突に意識が途切れたのだった。
「くそっ…」 思わず毒つきながら、新一は土砂降りの中を走っていた。めざすのは今自分が暮らしているアパートだ。 ようやく見えてきたアパート、自然と足も速くなる。速く部屋に入ってシャワーを浴びて着替えたい。 「…なんだ?」 アパートの扉の前にある黒い物体、はじめは犬かなにかだと思った。 「人!?」 蹲っていたのは自分と同じ人の形をしたものだった。 新一は迷わずに抱き起こした。
そのころ、アパートの外では新一が中に入ってからすれ違いのように数人の男たちがやってきた。
シャワーを浴びて新しい服に着替え、ようやくひとごこちついた新一は、あらためて今自分のベットを占有している人物を見た。 なぜこいつがこんな状態になってこのアパートの前に倒れていたのか、知りたいことを訊くのはまぁこいつが起きてからということにして。 「…しょうがねぇか」 この簡素な部屋の中には、満足な暖房器具はない。
さっきまではとても寒かったのに、急に暖かくなって。その心地よさにまどろみながらも快斗は目を開けた。
俺は、どうしたんだっけ…?
………ああそういえば。ヤツラから逃げて、でも途中で力尽きて。 そこで快斗は気づいた。確かに手足は縛られていないが、胸のあたりになにかが巻きついている。そして右半身が妙に温かい。 「……!!??」 驚いたソレから離れるように飛び起きて、とたんに全身に走った激痛に顔をしかめる。自分を抱きしめるように腕をまわしてから、快斗は再びソレを見た。 整った顔立ち。さらさらの黒髪。綺麗な人。 混乱する快斗の前で、長いまつげが震えた。 「ん…?」 快斗が動いたせいなのか、その人が目を覚ます。 こいつは… 「あれ、気がついたのか?」 全身で警戒している快斗をよそに、彼はまだ寝ぼけ眼でのんびりと訊いてくる。快斗の緊張なんておかまいなしに腕を伸ばしてきた。 「熱計るだけだ」 そう言って快斗の額に手を当ててきた。冷たい手が気持ちいいと感じる。 「熱があるな。ま、そんな怪我してりゃ当然か。それでも昨日よりかはましだな」 言いながらベットを下りる。大人しく寝てろよ、と言い置いて、彼は部屋を出て行ってしまった。
昨日は捕らえられていた組織から必死の思い出逃げ出した。 そして昨日。本部へと移動すると聞いてチャンスだと思った。移動中の車の中から、隙を突いて逃げ出してきたのだ。
今の快斗の体からは消毒液の匂い。そして怪我している場所には丁寧に包帯が巻かれ、来ているのは汚れた自分の服ではなく清潔なパジャマだ。そしてここはどう見ても病院には見えない。 だがなぜ?と思う。 考えに陥ったところで再び彼が戻ってきた。 「包帯替えるぞ。痛むだろうけど少し我慢してくれ」 持ってきた箱をベット脇のテーブルに置いて快斗にかけられているタオルケットをめくりあげる。 彼が自分に向けるすべてに、不信感とか、とんな類のものは感じられない。まるで以前からの友人であるかのような気軽さで快斗に話しかけ、触れてくる。 「−−−…?」 なぜ助けたんだ?そう訊こうとして口を開くが、そこから出たのは空気が出て行く音だけだった。 参ったな…これじゃあなにも訊けない… そんな快斗の様子に、彼は気づいていなかった。 「お前、何者だ?この怪我はどうしたんだ」 彼の口からはじめて快斗のことに対する質問が出された。 「これ、銃痕だろ?他にも同じような古傷もある。だから病院はまずいと思ったんだ」 なるほど。だから病院じゃないのか。と、1人で納得する。 しかし…とまた次の疑問が出てくる。 いくら訊いてもいっこうに応えない快斗を訝しく思ったのか、彼はようやく顔をあげた。 『お前、日本人じゃないのか?言っていることがわからねぇ?』 かけられた言葉はドイツ語だ。 『お前…話せないのか?』 驚いて訊く彼に、快斗は小さく頷いた。
相手が話せないとわかって、新一はメモ用紙と下敷き代わりのテキスト、そしてペンを持ってきた。これがあれば少しは『会話』ができる。 『日本人なのか?』 最初の質問には頷くことで応えてきた。ならば、と再び日本語に戻す。 「なんでここで倒れてたんだ?この傷は?」 ペンを持つ手はとまったまま。しばらく考え込んでいたようで、しばらくしてから動き出した。横になりながら、だから字は歪んでいたが、それでも見慣れた文字の羅列が出来上がる。 返された言葉は、 "言えない" だった。すぐあとに、 "巻き込んでしまうから" と続ける。 ああやはり、こいつはなにかから逃げてきたのだと思った。それも、裏社会の巨大ななにかから。 「……それならなにも訊かない。でもこの怪我が治るまでは、ここから出さないからな」 新一の言葉に、相手は驚いたようだ。凝視してくる。意外だとでも思っているのだろうか。 「俺は今、医者を目指して勉強しているんだ。だから相手がどんな事情を持ったやつでも、けが人を放り出すような真似はしない」 ますます目を大きくする。 "迷惑をかけるよ" 「いいさ。お前を拾った時点でそんな気がしたしな。それに、慣れてる」 "命にも関わる" 「自分の命くらいは守れる。結構波瀾な経験をしてきたしな」 にっと笑うと、相手はもうなにも言えなくなったらしい。 「さっき外のぞいたら変なヤツラがうろついていた。おそらくお前を探しているんだろ。しかもお前はそんな怪我をしているんだ。いいな、絶対にここから出るなよ!勝手に抜け出そうと思うな」 それでも戸惑った顔をしている相手に、新一は苦笑いをする。癖の強い黒髪にそっと触れてみた。ふわふわとした柔らかい感触。 「人の好意は素直に受け取れよ。突っ張ってばかりは、疲れるだろ…?」 「……」 少し実感がこもっていたかもしれない。あの黒の組織との戦いのとき、迷惑はかけたくないと、1人になろうとしたから。他人の助けはいらない、と。 こいつはあのときの自分と同じ。独りなのだろう。そしてそれを良しとしている。
考えていると、またさらさらと書く音がした。 "名前を、教えてくれる?" 「ああそういえば、言ってなかったな。俺は工藤新一」 自己紹介をしたら、相手はなぜかふっと笑った。はじめてみた、柔らかい笑顔。 「か・い・と…これ、お前の名前か?」 聞けば、大きく頷いた。 かいと、かいと…快斗。これがこいつの名前。本名かどうかはわからないけれど、それでもこれはこいつが教えてくれた名前だから。 「それじゃあ快斗。よろしくな」 "こちらこそ"
こうして、探偵と怪盗の、奇妙な同居生活が始まった。
× × ×
ぽんぽんと肩を軽く叩かれる感触に、快斗は目を開けた。まだ眠かったので再び目を閉じかけると、こら、という声がかけられる。 「眠かったら寝てても良いけどな。俺学校行ってくるから」 まだぼんやりする頭でも、新一がコートを着てカバンを持っているのはわかった。それがいつもの大学へ行くときの新一のスタイルだ。 「いいか、絶対に外に出るなよ」 その台詞も毎度のことだ。今日はそんな気になれないだろうけどな、と今日は付け加えた。 「じゃあな」 ぽんぽんとまるで子どもをあやすように快斗の寝癖によりさらに飛び跳ねている髪を叩いてから行ってしまう。本当に子ども扱いされているようであまり嬉しくないのだが…。
心配性だよなぁ…。 ベット脇のテーブルには、伊達メガネと金髪のウィッグが置かれている。もし外の空気を吸いたいなら、これをつけてベランダに出ろ、と。それで我慢しろ、というのだ。 彼女は夜の店で働いているのだという。金を払ってやってくる男たちの相手をする、そんな仕事だ。もう10代のころから続けているのだと言っていた。 そんな彼女は、快斗の昼間のよき話し相手となる。
ベットの上で寝返りをうつ。ふわりとベットから香るのは新一の匂いだ。最初にここで目が覚めたときにもかいだ、いい匂い。花のような、そんな香りだ。 怪我のせいでうなされることもあった。そのときは新一が飛び起きて看病してくれて。 医者、か。あの名探偵がねぇ…。 新一は快斗が怪盗キッドであるということに気づいていない。だからこそ、あんなに優しいのだろう。 一度だけ聞いたことがある。なぜ医者を目指すのか、と。ありきたりな応えだと笑いながら、教えてくれた。
眠い…寝よ… 外は雨が降っている音がする。新一の言うとおり、ベランダに出る気もない。 己の立場も忘れて、このままでいたいと望むようになった自分を快斗は自覚していた。
数秒もしないうちに、雨音に静かな寝息がとけこんだ。 TOP * NEXT |