逃亡者
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 謎の逃亡者と奇妙な同居生活をはじめてすでに1ヶ月が過ぎた。
 怪我もだいぶ癒えてきてかなり自由に動けるようになった快斗は、いまだにここにいて、いまだに話せないままである。けれどそれが不便だとは思わない。
 新一は口で、快斗は指で、そうやって2人の会話は成り立っている。
 けれど最近では、ちょっとしたことは快斗の表情を見ればわかるようになった。

 はじめのうち、快斗は感情をすべて笑顔の仮面の下に隠しているように思えた。1日中変わらぬ笑みを浮かべて、けれどそれが作り物であることに新一は気づいていた。
 だが何も言わずに、今にその仮面を寄ってやると心に決めた。
 そして現在、その仮面はすっかりと取り去られた、と新一は思っている。表情を、ころころ変えてくれるようになったから。向けられる笑顔も最初とは違う。
 それが自分に心を開いてくれたからだと、そう思うとなんだかうれしかった。
 ちなみに、もっともわかりやすいのは『腹が減った』と『眠い』、である。

 

 

「快斗〜。飯できたぞ」

 呼べばすぐに隣の部屋の扉が開いて、嬉しそうに快斗がやってくる。
 よっぽど腹が減っていたのか。さっきクラスメイトから貰ったお菓子を食べていたというのに。快斗は甘いものが好物で、頼まれて買ってきた紅茶と一緒に美味そうに食べていた。
 見ていた新一がそれだけで胸やけを起こしそうな量をぺろり、である。
 よくそれで飯も食えるな、と同じような状況で訊いたら、別腹だからねvと返ってきた。

 テーブルの上に並んだ新一お手製の夕食を見て、椅子に座ってニコニコしている。
 今彼に尻尾がついていれば、勢いよく左右に振られていることだろう。大きく揺れる尻尾と耳の幻覚が見えた気がして、新一は苦笑いをした。
 さらに快斗は、新一もテーブルにつくまで手をつけずに待っているのだ。

 ホント、犬だな……

 話さないだけになおさらそう思えてしまう。

 快斗が待っているテーブルに一通りの片づけを終えた新一もついて、一緒に食事が始まった。
 自分の作るものはそんなにスバラシイものじゃないと新一は思っているのだが、それでもすべておいしそうにたいらげてくれるのだ、快斗は。
 嬉しそうに皿を空にしていく快斗を見ながら食事をしていた新一は、思わず笑ってしまった。

「?」

 突然笑う新一に快斗はフォークをくわえたまま首をかしげた。自分を見て笑われたのだから訝しく思うのも無理はないだろう。文字にしなくても思いは伝わってくる。
 新一はわりぃと言いながら笑いを必死に噛みころした。

"どうしたの?"

 いつも持ち歩いているメモ帳に快斗がそう書いてきた。

「いや…なんかでかい犬見てるみたいで、おかしかったんだ」

 正直に応えれば、俺?と自分を指さす。そうだ、と頷けば、拗ねたように唇を尖らせた。自分と同い年らしいのに、こんな快斗はひどく幼く見えた。
 だが次に快斗は悪戯っぽく笑う。なんだと思っている間に顔に影ができた。

「!」

 次に見えたのはぺろりと舌を出す快斗が元の位置に遠ざかっていく姿。
 新一は唇の脇を押さえて。次の瞬間、真っ赤になった。

「おま…っ、なにするんだよ!」

 快斗は身を乗り出して、向かいがわに座る新一の唇の端をなめたのだ。
 恥ずかしさに大きな声を出した新一に快斗は気にせず笑う。そしてメモ帳を新一に見せた。

"食べカスがついてたから"

「だったら言うか普通に取るかしろよ…」

"犬ですからv"

 悪びれるふうもなく、新一の反応を楽しんでいるらしい快斗に新一はむぅと唸って睨みつける。
 だが次には笑いがこみ上げてきて、耐え切れずに2人同時にふきだしてしまった。テーブルをはさんで、なにがそんなにおもしろいのかというくらいに笑う。
 そんなに笑ったのは久しぶりで。本当に、久しぶりで。

 楽しいよな…そう思えた。

 そして同時に、いつか消えてしまうかもしれない不安が、そう遠くないその瞬間が、怖いと感じた。

 

 

 

 

 

"なんで俺を、受け入れてくれるの?"

 2人でベットに横になったとき、何度目かわからない質問を快斗がしてきた。今までも言葉は違えど似たようなことを聞かれたことがあった。
 それは今ライトを消して寝よう、としていたときだった。

「お前…ときどき思い出したように同じようなこと訊くよな」

"突然、気になってくるから。やっぱり俺って、得体の知れない人間だし。新一はなにも訊かないし。訊かないけれど、優しくしてくれるし"

「なんだよ。別に俺は見返りなんて求めてねぇぞ?」

"わかってるよ。わかってるけど、気になるんだ"

 こんなとき、いつも快斗の表情は暗くなる。
 ああそうか。新一は気がついた。快斗もそうなのだ、と。自分と同じようにこの楽しくて暖かな時間の消失を、恐れて、不安でいるのだ、と。
 いや、己の願望なのかもしれないけれど。快斗もそうであってほしい、という。

 その質問に、新一も大体同じような応えを返していた。今までは。医者を志すものとして怪我人を放っておけないとかそんな類の応え。
 だが今では、そんな応えは単なる言い訳のような気がした。
 この温もりが消えてほしくないから―――快斗を手放したくないから。
 だがそんな理由では、この怪我が完全に治ってしまったとき、快斗を引き止めることができなくなる。

 だから、この日の応えは違っていた。

「淋しかった、のかもしれない…」

 新一の口から出された応えに、快斗は驚いたらしい。
 今までとはまったく違うものだったから。

「俺さ、今まで色々なことがあって…大切な人を巻き込んだり傷つけたり。それでもなにもできないこともあって。医者になろうと決めたとき、できるかぎり自分の力でやってみようと決めて独りで突っ走ってきたんだ。
もちろん、自分じゃどうしようもないこともあるから、少しは援助してもらってるけどな。それでも自分でできうるかぎりがんばって、皆のもとへ帰ろうと思った。
だけど急に、さ。この部屋に独りでいると、淋しくなるんだ。いつもじゃないぞ?ときどき、なんの前触れもなく、『今自分は独りなんだ』って自覚すると…どうしようもなく淋しくなる」

「……」

 自分でも変なことを言っているなという自覚はあった。これじゃあ愚痴みたいなものだ。
 だが快斗は、なにも言わずに聞いてくれる。それに、甘えてしまう。

「だからお前がいてくれて、嬉しいよ。変、かもしれないけどな…ずっとこのままでいたいと思っている自分がいる」

 いつか出て行くことはわかっている。快斗にはなにか、やるべきことがあるのだと、曲げられない信念があるのだと気づいていたから。
 窓から空を見上げる快斗は、ずっと遠くを見据えているように感じたから。
 そしてそのまま消えていきそうな気がしたから。

 わりぃ、忘れてくれ…

 小さく呟いてシーツに顔を埋める新一を、快斗は抱きしめてくれた。
 なにも言わず、母親が幼子を抱きしめるように優しく、新一の体を包み込んでくれた。こんなふうにくっつくのは最初体の冷たくなった快斗を暖めたとき以来で。
 けれどあのときよりも確実になにかが変わっていた。

 すぐそばで快斗の鼓動が聞こえる。
 それに安心感を憶えながら、新一も背に腕をまわして、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 覚悟を、決めなければいけない……

 ベットの上、ぼんやりとしながらも快斗はそう思っていた。
 隣にはまだ眠りの中の新一。今、快斗が起きるまで、2人は抱き合ったまま眠っていた。互いが互いの体温に安心しながら。結局ライトはつけっぱなしだった。
 窓からはうっすらとした明かり。もうすぐ夜が明ける。
 快斗はすぐ横にいる新一の真っ黒な髪を梳いた。

 新一…

 昨日、思わぬ新一の本音を聞いてしまった気がした。
 淋しい、といった彼。大丈夫だと思っていても、それは突然自覚する、どうしようもない感情。
 ひどく遠いところまで来てしまって。遠いからこそ焦がれるものがある。新一の吐露したことは、快斗にも身に憶えのあることだった。
 同じなのだ、新一と、自分は。

 離れたくない、このままでいたい。
 そう望んでしまっている。この空間は居心地が良すぎて、自分の信念さえもなくしてしまうそうになる。
 だがいつまでもこのままでいるわけにはいかないのだ。ヤツラだってバカじゃない。遠くない未来、きっと見つかってしまうだろう。それだけならまだしも、新一にまで被害が及んでしまう。
 だがら、覚悟を決めなければならない。この温もりを、優しい空間を手離す決意を。

 

ドンドンドン!

 突然ベット脇の壁が大きくなった。というよりも叩かれた、と言ったほうが正しい。
 この壁の向こうは確か隣人、サラが住んでいる部屋である。
 何事だ?と思っていると、寝ていたはずの新一がいつのまにか起き上がっていた。しかも、なにやら厳しい表情である。朝が弱い新一には珍しい。
 どうした?と訊くより先に、新一が快斗に言った。

「ベットの下に隠れてろ。絶対に、出てくるんじゃねぇぞ?」

 小さいけれども、有無を言わせない力がそこにあった。
 新一の言葉になにかがあるのだと悟った。しかもそれは、歓迎できるようなことではないだろう。新一の促すままにベットの下にもぐりこむと、新一は見えないようにシーツを下まで垂らした。
 それとほぼ同時に、玄関の扉が大きく鳴ったのだ。それは乱暴な音のように聞こえる。

「いいか、絶対に出てくるなよ」

 最後にもう一度念を押してから、新一はベットから遠ざかっていった。
 残された快斗の不安が大きくなる。それは自分の身を案じているためではない。

 まさか…!?

 わずかの音でも聞き逃すまいと耳をすませた。小さな音だけれども、新一が玄関でいきなりの訪問者に応対しているのが聞こえてくる。
 相手は低い声で、英語を話していた。

 

――こんな時間に申し訳ない。現在逃走中の容疑者を捜しておりまして…

 

 相手はどうやら警察を名乗っているらしい。
 しかしその声に快斗は聞き覚えがあった。組織に捕まっているときに、快斗を拷問した男である。間違いはない。受けた屈辱を、忘れるはずもない。
 1ヶ月捜して見つからなくて、ついにこんな手に出てきたというわけだ。
 こうなると今気になるのは新一のことだけだ。
 出てくるなと新一は言ったが、彼がピンチになればいつでも飛び出していくつもりでいる。

 

――…という感じの男ですが、ご存知ありませんか?

――さぁ…東洋人ならばすぐにわかりますけどね。このあたりでは見てませんよ。俺くらいじゃないですか?ここら辺にいる東洋人なんて。

 

 だが快斗の心配をよそに、新一は完璧な演技で相手に応えている。動揺なんてまったく感じられない。完璧に『なにも知らない一般人』を装っているのだ。
 さすがは女優の息子といったところだろうか。

 

――……そうですか。ご協力、ありがとうございます。

 

 それに相手もすっかりと騙されて、あっさりと引いた。
 まぁ、あまりしつこいと逆に怪しまれるだろうから当然だろうが。

 扉が閉まってからしばらくして、新一が部屋に戻ってくる。快斗はすでにベットの下から出て腰かけていた。じっと新一を見つめる。
 新一は苦笑いをしながらも、瞳は真剣なままだった。

「サラねぇさんに頼んどいたんだ。怪しいやつが来たら…快斗を捜しているような、そんなやつらが来たら、知らせてくれって。ねぇさんの方が外に近いからな。事情はなにも知らないのに、ねぇさんは快く引き受けてくれた」

 礼を言わないと…

 会話が途切れる。沈黙が包み込む。それは快斗にとっても、新一にとっても、とても重苦しいものだった。
 快斗はそれを破るかのように、ベットの上に放りっぱなしだったメモ帳を手にした。近くまで寄ってきて、さらさらと書いていく様子を、新一は黙って見つめる。
 その内容に、徐々に表情が曇っていくのがわかったけれど。快斗は手をとめなかった。

 

"ここを出るよ。これ以上、迷惑はかけられない"

「そ、っか……」

"今までありがとう。とても、楽しかったよ"

「俺も…楽しかったよ…」

 

 新一は、止めなかった。ただ俯いて、無理やり笑っていた。
 やはり、わかっていたのだ。いつかはこんな日が来るのだということを。あの暖かな時間が、永遠ではないということを。そして快斗もわかっていた。新一が決して、自分を止めないということを。
 けれど、心と体は違うようで。新一の握り締められた手が震えているのに気がついた。

 ダメだ。すぐに出て行かなければいけないのに。迷惑をかけるのに…。

 快斗もまた、心と体はバラバラだった。
 新一の震える手を掴んで引き寄せる。抵抗もなく腕の中におさまった新一を、そのままベットの上へと横たえた。
 しばらく見つめ合って。やがてゆっくりと重なった。

 

 約束はできない。

"いつかまた会いに来る。それまで待ってて"

 そんなこと、言えはしない。言いたいけれど、できないのだ。そんな、無責任な約束なんて。
 やつらからまたうまく逃げきることができるなんて保障はどこにもないのだ。今度こそ捕まって、殺されてしまうかもしれないのだ。
 それがわかっているのに、そんな約束で縛るわけにはいかない。

 新一には未来がある。輝かしい未来が。同時に彼を必要とする人々は、これから先でも多く出てくるだろう。
 目指している医者になって、この手は多くの人々を救える。澄んだ美しい瞳で患者を慈しみ、暖かな腕で抱きしめてやる。それが、できる人。
 実際に快斗も癒されたから。絶望を抱えた心を、癒してくれたから。

 

 己がただ1人認めた名探偵。

 

 今だけ、一度だけこの温もりを感じさせて。
 ずっと憶えているから。それを抱えて、できるだけがんばってみるから。

 

 与えられる快楽に怯えながらもおぼれて。必死に腕を伸ばす新一を抱きしめる。拒絶せずに受け入れてくれた。その悲鳴さえも呑みこんだ。
 そして己の熱も押さえることなく新一にぶつける。
 相手は男で。自分も男で。その行為はかなりの負担を強いることになるとわかっていたけれども、止められなかった。
 揺さぶるたびに声からは甘い声。それにさらに煽られる。

 出ない声。けれどずっと心の中では呼んでいた。その名前を繰り返し繰り返し、呼んでいた。それが届けば良いのに、と思っていた。
 それは今も変わらない。ずっとずっと、繰り返し呼んでいた。

 そして何度目かの精を放ったとき。

 

「しん、いち…」

 

 低い声が、口からこぼれた。

 

 

 

 

× × ×

 

 

 

 

 新一が目を覚ましたとき、隣には誰もいなかった。わかっていたことだけれど、心に大きな穴が開いてしまったような、そんな気持ちになる。
 ひどくだるい体と残された紅い痕。それは確かに快斗がいた証。
 けれど時が経つにつれてそれもやがては消えていく。

 わずかに顔をあげた新一は、枕に快斗が使っていたメモ帳が乗っかっているのに気がついた。
 そこには快斗と交わした『会話』がすべて残されている。
 ページをめくっていって、新一は小さく笑った。ああ、こんなことも話したっけ?と思い出しながら。1か月分の記録、それは厚いメモ帳でもほとんど埋まるくらいの量になっている。
 それでもひとつひとつ、きちんと新一の中にも残っている思い出だ。

 最後のページ、おそらくは出て行く前に書いたのだろう言葉があった。

 

"忘れても良いよ。俺は、忘れないから"

 

 思わず、笑ってしまった。
 なんて、勝手なやつだろう…自分だけに忘れろというのか。

「絶対に、忘れてやらねぇ」

 だるい体に鞭打って起こすと、タオルケットを肩から羽織って窓まで歩み寄った。すでに太陽が顔を出して、まぶしい。青空も広がっている。
 出逢ったときは大雨だった。そして別れは清々しいほどの晴れ。
 なんだか潔くてあいつらしいとまた笑う。

 

しん、いち…

 

 意識を失う前、確かに自分の名前を呼ぶ声を聞いた。幻聴なんかじゃない。低い、熱のこもった…あれは確かに、快斗の声だった。
 そして快斗の声を聞いたのは、それが最初で最後だった。
 けれど、名を呼ぶその声は、どんな音よりも深く心に刻まれている。

 俺は医者になる。お前が信念を曲げないように、俺もこの夢を諦めない。
 またひどい怪我をした謎の逃亡者が転がり込んできても、きちんと癒してやれるように。たくさん勉強して、俺は医者になってみせる。
 だが今度来たときには、多額の治療代をいただくぜ?

 

 

「また会おうな…"怪盗キッド"」

 

 

 

 

 

fin.
03/6/8





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[ Mond Licht ] の友華さまから、20万打記念のフリー小説を頂いて来ましたvv
もうもう、かなり素敵で、有り難う御座います!そしておめでとうございます!
じゃれあってるふたりは犬のような猫のような可愛らしさでv
新一は快斗=キッドと気付いてるようで、それでも好きになっちゃって。
最後の瞬間にしか快斗の声を聞けなかった、というのがまた切なくて。
この後のふたりがどうなったのか明確ではありませんが、幸福でありますように…。
素敵な小説をゴチソウサマデシタvv
今後もますますのご活躍を期待しております。