蜜月のささやき






 新一は混乱していた。
 足下には瓶やら缶やらが大量に転がっている。ラベルを見れば全てアルコールだった。それもそのはずで、新一は今日、大学の友人と自宅で飲み会をしていたのだ。
 ――それなのに。
 軽く頭を振る。自分ではセーブしていたつもりでも、思った以上に飲んでいたのかも知れない。或いは、あまり酒に強くないのでいつもなら二、三本でやめておくところを、相手が気の合う友人だからと油断したのかも知れない。床に転がっている空き瓶の数だけでも五本はあるし、どれもこれもアルコール度数の高いものばかりだ。いくらなんでもこの量を友人が一人で飲めるはずがない。
 つまり、新一はこの状況を酒に酔った所為だと考えたのだ。自分は酔いつぶれて夢でも見ているのだろう、と。
 ――しかし。

「愛してるよ、しんいち……」

 なんだか脳髄を掻き回されるようなやたら艶っぽい重低音で友人――黒羽快斗が愛を囁く。鼓膜に直接吹き込まれるような囁きに、体中の血が沸騰して頬に集まった。きっと自分は今、リンゴと並んでも見分けがつかないだろう、なんて馬鹿なことを考える。
 自分は酔っているのだと、さもなければやはり夢を見ているのだと、新一は何度も頭を振った。もう少しで首がもげて飛んでいってしまいそうなほどに振った。しかしいくら頭を振っても目の前の友人が消えることはなかった。
 なんてことだ。こいつは幻じゃないのか。幻じゃないならなんだ、新手のジョーダンか。
 迷宮に陥った思考が散々彷徨った果てに、新一はひとつの結論に辿り着いた。
 ――つーか俺じゃなくてこいつが酔ってんじゃねーのか?
 暗闇に差した一条の光。やや大袈裟に聞こえるが、混乱した新一にとってその仮説はまさに濁流の中で掴んだ一握りの藁のごとき閃きだった。
 そうだ、よくよく考えてみればこれだけの量の酒をたった二人で飲んだのだ。どちらの胃袋により多く貯蓄されたかは定かでないが、たった二人の人間を酔わすには十分すぎる量である。新一と違って酔いが全く顔に出ていないので分からなかった。
「黒羽…お前かなり酔ってんだろ」
 眼前にある男前の頬をぺしぺしと叩く。この顔の近さも実に心臓に悪い。人の顔の美醜なんて精々捜査のための判断基準程度にしか認識していなかった新一から見ても、この友人は整った顔をしていた。それがあんな声で愛を囁くのだから、ここまできたらもう犯罪である。彼がその気になれば落ちない女などいないのではないかと、新一は本気で思った。
 しかし、だ。どんなに男前だろうと、どんな悩殺ボイスをしていようと、ここにいるのは単なる酔っ払いだ。
「しっかりしろよ。そんなんで家まで帰れるのか?」
「なんで?」
「なんでって…明日も授業あんだろ」
「だから?」
「だから、明日の教材も着替えも何にも持ってねーじゃねーか、お前」
 頭が働いていない酔っ払いに筋道立てて説明するのは骨が折れる。しかし無駄に高性能な頭脳を持った友人は「ノートがなくても全部覚えて帰るからいい」だの「服もお前のを借りるからいい」だのと言い出しそうだ。
 だが、彼は新一の予想の斜め上をいっていた。
「今夜おまえを独りにするくらいなら、明日のことなんかどうでもいいよ」
 眼前に迫っていた顔が顎の下へ消え、二本の腕が背中にぎゅっと絡みつく。ふわふわの猫っ毛が首元をくすぐっている。密着した胸が他人の熱のおかげで温かい。
 新一は抱きしめられていた。
 ぞわりと、いっそ鳥肌を立ててもいい場面だと思う。酔っているとは言え、同じ年の男に抱きしめられ、告白までされて。目を覚ませと、拳骨のひとつぐらいお見舞いしてやっても全く罰は当たらないと思う。
 なのに――なのに殴るどころか身動きひとつ取れず、新一は硬直していた。その顔はリンゴを通り越してトマトだ。いや、どっちがより赤いかなんて知らないが。それくらい赤面している。
 悪いのは彼の声だ。この声が新一の脳髄を掻き回しているに違いない。電気信号を伝達するシナプスあたりに何か手違いが生じて、鳥肌を立てるべき場面で赤面してしまったのだ。そうに違いない。
 新一がどこかの誰かに必死で弁解していると、背中に回されていた腕がずるりと床に落ちた。首元に預けられていた頭も胸の上をずりずりと落ちていく。邪魔だし重い。何が起きたかなんて、腹式呼吸によって上下する背中と健やかな呼吸を見れば一目瞭然だ。新一を散々混乱の渦潮の中へと沈めてくれた友人は、一人でさっさと夢の世界へ旅立っていた。これで腹を立てない人がいたら、もういっそ菩薩にでもなればいいと思う。
「こ、この野郎…この上ベッドにまで運ばせる気か…」
 いや、どう考えてもそこまでサービスしてやる理由はない。むしろこのまま布団もなしで放置コースだ。腹を冷やして風邪でも引けばいい。
 新一は敢然と立ち上がると、荒れ果てた部屋になど見向きもせずに二階へ駆け上がった。
 もうこのまま何もかも放り出し、布団の中に潜り込んでしまいたい気分だった。



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