蜜月のささやき






 新一は夢を見ていた。
 そうだ、これは夢だ。夢でなければ、どうして自分の前から姿を消した友人が、以前と変わらない笑みを浮かべながらこちらを見下ろしているのか。
 ジンと鼻の奥が痛くなって、新一は慌てて瞼を閉じた。どうやら涙腺が馬鹿になっているらしい。自分が泣き上戸だったなんて、新一自身知らなかった。なにせ、こんな風に我を失うほど酒を飲んだことなど今までなかったのだから。
 そこまで考えて、ああやはりこれは夢なのだと再認識した。自分は服部と酒を飲んでいたはずで、つまり、自宅のベッドで寝ているはずも、その脇に腰かけた友人にあやすように髪を撫でられているはずもないのだから。
 でも、夢だと思えば、余計に泣きたくなった。
 なんだかんだと言い訳してみても、結局のところ新一は彼に会いたかったのだ。会って、喋って、以前のように他愛のないことで笑い合って。そうやってずっと一緒にいたい。それが本心だった。
「…黒羽……」
 名前を呼べば、友人は尚一層柔らかい笑みを浮かべてくれる。
 新一はこくりと唾を飲み込んだ。
 普段なら見栄やらプライドやらに邪魔をされて口に出せないことも、夢の中なら言えるかも知れない。
 それなら、と。
「――…ごめん」
 幽かな呟きを、友人は笑顔で受け止めてくれた。
 それに力を得て、新一は堰を切ったように言葉を綴った。
「忘れて、ごめん。気づかなくて、ごめん…。蘭に振られた俺を、お前は精一杯慰めてくれたのに。俺はお前を慰めるどころか、傷つけることしかしてなかったなんて。鈍い鈍いって散々言われてたのに、それさえなんでそう言われるのかも分からなくて……。ほんと、ごめん……」
 彼の『好き』が、友だちの『好き』じゃないなんて分からなかった。彼だけじゃない、服部の言うことが正しいなら、もしかしたらもっとたくさんの人を傷つけてきたのかも知れない。
 でも、誰よりも、彼を傷つけてしまったことが辛い。
「新一」
 柔らかく微笑む彼は、その笑みよりもずっと優しい手つきで頬を撫でてくれた。
「俺のこと、嫌じゃないの? 男の俺に好かれて、気持ち悪いとは思わないの?」
「――そんなこと、絶対思わねえ!」
 迷うまでもなくきっぱりと否定する。それだけは断言できる。告白されたあの時だって、突然のことに困惑はしたけれど、気持ち悪いなんて少しも思わなかった。それどころか、嬉しいと思ったくらいだ。だって彼の好きな人が自分なら、男でも女でも、彼の一番は自分ということなのだから。
 すると友人は、まるで現実の彼のように嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ俺は新一を好きでいてもいいの?」
「それは、……だってそんなの、やめようと思ってやめられるもんじゃないし……」
「でも俺、新一に恋人ができたりなんかしたら黙ってられないよ。だって俺がなりたいのは新一の友だちじゃなくて、恋人なんだから」
 新一は思わず言葉に詰まった。夢のくせに鋭い切り返しをしてくる。
 ――彼と恋人同士になる?
 それはつまりどういうことかと想像してみるが、なにひとつとして具体的なものが思い浮かばなかった。
 毎日会って、同じ時を過ごして、笑い合って。そんなことは、友人である今となにも変わらない。では恋人同士とはなにを指してそういうのかと考えてみても、それこそが新一には分からなかった。人を好きになったことはあるけれど、人と付き合ったことはないのだから仕方ないのかも知れない。
 そんな新一の心の裏を読み取って、夢の中の友人は噛み砕くようにして言った。
「毎日、新一のことを考えるんだ。振り払っても振り払っても、俺の意志なんかおかまいなしにお前のことで頭がいっぱいになった。気づけばずっと目で追いかけちまうし、姿が見えないと落ち着かなくて。だからずっと傍にいたいと思った。俺じゃない誰かが隣にいればムカついて、親しそうに話していれば苦しくなった。でも、お前が俺に笑いかけてくれたら、それだけで死ねそうなくらい嬉しくなった。どきどきして、やっぱり苦しくて。だけど、それがどうしようもなく幸せなんだ。

 ――それが好きってことだろ?」

 新一は目を瞬いた。
 その人のことを、毎日考える。姿が見えないだけで不安になる。誰かと一緒にいれば腹を立てて、笑いかけられればどきどきして、嬉しくて、幸せで。
 それは、まるきりこの友人のことだった。
 会えない間、彼のことばかり考えていた。いや、毎日会っていた時でさえ、彼のことを考えない日はなかった。唯一飛んでしまうときと言えば事件のときくらいだが、それだって事件が解決すれば、真っ先に彼のことを考えていた。早く帰らなければ彼が心配するだろう、と。
 彼が姿を眩ましてからは、悲しくて苦しくて堪らなかった。自分にそうしてくれたように、どこかで誰かに笑いかけているのかと思えば、嫌で嫌で堪らなかった。夢だと分かっていても、笑いかけてくれただけで泣きそうなほど嬉しかった。
 それが『好き』だということなら。
「俺は……黒羽が『好き』なのか……?」
 それには答えず、友人はただ微笑った。言わなくても分かっているだろうとばかりに。
 確かに、新一にももう分かるような気がした。
 たぶん、自分は彼のことが好きなのだ。ただ考えたこともなかっただけで、きっともうずっと前から彼を好きになっていたのだろう。だって、『好き』というその言葉を噛み締めれば噛み締めるほどに、甘い疼きとともにじわりと胸が温まるのだから。
 ああ、だけど。
「無理だ……そんなこと、言えるわけない……」
 新一はくしゃりと顔を歪めた。
「新一?」
 心配そうに覗き込んでくる友人、けれどそれは自分の願望が生み出した幻にすぎない。現実の彼は、きっともうこんな風に親しげに名を呼んでくれることさえないだろう。
 なぜなら。
「だって俺は、お前に告白されたことも忘れちまうような、最低な男なんだ。それなのに今更『好き』だなんて、そんな都合のいいこと言えるわけない…!」
 自分の告白は覚えておくほどの価値もなかった――その言葉がショックで、あれから新一はずっと思い出そうと努力してきた。けれどどんなに記憶を遡っても、どうしても思い出せなかった。大学の入学式、それが新一の中の最も古い黒羽快斗との記憶だった。
 こんな不誠実な男を、彼は決して許してくれないだろう。
 そう思って今にも泣きそうに顔を歪めた新一だったが、友人はなぜか嬉しそうに笑った。
 そしてその笑みを不意にシニカルなものに変えたかと思うと。
「そんなに思い出したいなら、思い出させてあげるよ」
 すっと立ち上がり、差し出された指先と口元で唐突なカウントダウンが刻まれる。それがゼロを刻むと同時に破裂音が響き渡り、視界を瞬間的に奪う煙幕が張られた。
 突然のことにただ傍観するしかなかった新一は、次の瞬間――室内を支配する冷涼な空気に、思わず背筋を震わせた。ぞくりと背中を這い昇る、けれど少しも不快ではない、どこか懐かしくさえあるその気配は――…

「久しぶりだな――名探偵」

 白い衣装を纏った怪盗が――世間から姿を眩ませて久しい怪盗が、あの頃と少しも変わらない優美な姿でそこに立っていた。
「は……、キッド? ……え? 黒羽、が……」
 そんな馬鹿な。いや、これは夢なのだ。だが、ということは、心の奥底で友人が怪盗だと疑っていたとでも言うのか。そんなこと、これまで思いもしなかったのに。
 思考を空転させる新一に、怪盗キッドは殊更穏やかに告げた。
「言っておくけど、これは夢じゃないぜ? 西の探偵と飲んで潰れちまったオメーを連れて帰ったのは俺だ」
「……え?」
「怪盗キッドの正体は、黒羽快斗なんだよ」
 そう言ってキッドは――黒羽快斗は優雅に一礼してみせた。
「覚えてるか、名探偵。あの日、お前が工藤新一の姿を取り戻してから初めて俺の現場に来た時に、俺がお前に言ったことを」
「あの日……?」
 まだ思考が覚束ないのは、飲み過ぎた酒のせいなのか。
 それとも、何もかも唐突すぎる展開のせいなのか。

「『お前のことが好きなんだ。もうずっと、お前のことしか考えられないくらいに。だから、叶うなら、俺と付き合ってくれないか?』」

 そう言って新一の前に跪き、その手を取って口付ける。
 その気障ったらしい、なのに妙に様になる姿。
 ――思い出した。
 あれは確かに三年前、コナンから工藤新一へと戻ってすぐ、新一は怪盗に会うために現場に行った。ひとつはコナン時代に何度も煮え湯を飲まされた好敵手に宣戦布告をするために、そしてもうひとつは幾多の死線をともに乗り越えた戦友に帰還報告をするために。
 そこで言われたその言葉があまりに面映ゆくて、はにかみながらもこう返したのを覚えている。

『バーロー、男同士で好きなんて、照れんじゃねーかよ。そりゃ、俺だってお前のことはこれでも気に入ってんだぜ? お前が怪盗なんてもんしてなきゃ、たぶんスッゲー気の合うダチにでもなれたんじゃねーかって思っちまうくらいにはな。でも俺は探偵だから、そのケジメはつけなくちゃならねえ。だから悪ぃけど、お前と遊んでやれるのは現場でだけだ。いつかお前が表舞台に立つときが来るなら、その時は、ひとりの観客としてお前のマジックを素直に楽しんでみたいと、心からそう思うよ』

 ――そうだ。あの時の自分は、怪盗の言葉をただ額面通りに受け取って、遊びにでも誘われているものだと思ったのだ。あれをなにもないときに言われたのなら流石に奇妙にも感じただろうが、工藤新一の姿を取り戻した直後だったから、自分の生還を喜んでくれてのことだと思ってしまったのだ。今思えば、なんという勘違いだろう。
「あれは流石にショックだったな。いくらポジティブがモットーの俺でも、まず間違いなく断られるだろうと玉砕覚悟で挑んだ大告白を、全力でスルーだもんな。名探偵にとっての俺が恋愛対象として如何に大気圏外の存在なのか、よくよく思い知ったよ」
 戯けた物言いをしているが、当時の彼がどれほど傷ついたのか、想像に難くない。新一とて、蘭に振られたときには相当落ち込んだ。この友人がいなければ未だに引きずっていたかも知れない。
 最早返す言葉もない新一だったが、友人は責めるどころか嬉しそうに微笑みかけながらこんなことを言うのだ。
「もう三年も片思いだ。それでも、どうしても、お前のことが諦められないんだ。新一じゃなきゃ駄目なんだ」
「黒羽……」
「今度こそ、ちゃんと答えてくれ。

 新一が好きだ。俺の恋人になってくれないか?」

 ――本気を出した魔術師に、いったい誰が敵うというのか。
 既に心の全てを奪われていた新一が、その甘いささやきに逆らえるはずもなく。

「……俺、も……お前が好きだ――快斗」



 そうして、怪盗の長い片思いは終わりを告げた。
 けれど晴れて恋人同士となった彼らが変わったことと言えば、その見るからに甘ったるい空気――は以前から変わらないので、以前はただささやかれるばかりだった睦言を、新一からも恋人にささやくようになったことだけ、なのだとか。
 はたして蜜月はいつまで続くのか。
 それは神と、月を加護に持つ魔術師のみが知るそうな。



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