大切な貴方に、最上級の幸福を。




















Liar , Liar...





















 哀は、すっかり冷めてしまった食事を前に溜息を吐いた。
 既に作られてから4時間以上たったそれには、丁寧にラップがかけられている。
 ひとり寝室に向かった博士、そして未だに姿を現わさない新一を待つためテーブルに腰掛ける哀。
 ぼんやりと時計を眺め続ける哀の手元には電話の子機が置かれているが、それに手をつける様子はなかった。

 これが事件の呼び出しなどであったなら、哀は遠慮なく新一を怒ることが出来る。
 事件を理由に食事を疎かにするな、と。
 けれど、新一が既に事件を解決済みであることを哀は知っていた。
 そして用事もないのに帰ってこない、今夜のような時に新一がどこにいるのかも、よく知っていた。
 こんな夜。
 決まって彼が向かう場所は時計台なのだ。
 あの時計台が新一にとってどれほど特別なものなのか、哀は知らない。
 けれど、決して邪魔をしてはいけないような気がしていた。

 時々、思うことがある。
 危険な生活の中で、それでも精一杯の幸せを感じていたあの頃。
 平穏な生活の中で、偽物の笑顔しか作れなくなってしまった今。
 大事なモノを失ってしまった、今。
 心から信頼し、何より必要としていた半身を失ってしまった……今。

 彼に幸福が訪れることはあるのだろうか?
 あまりにひとつのものに固執してしまった結果、もう二度と幸福になれないというのなら……


(…出逢わなければ、良かったのかしらね。)


 そうすれば失うことはなく、絶望を味わうこともなく。笑っていられたかも知れない。
 新一があれ程までに不安定で危うくなることはなかったかも知れない。
 あくまで憶測の域を出ないただの仮定に過ぎないが、それでもそう思ってしまうのを、哀は止められなかった。

 そうしてまた、時計の針を仰ぎ見る。
 時間は刻一刻と過ぎていくのに、新一は帰ってこない。


 …もしかしたら、もうここには帰ってこないのかも知れない。


 そんな不安が哀の脳裏を過ぎる。
 けれど、たとえ帰ってこなかったとしても……哀に探しに行くつもりはなかった。
 そうすることを彼が望むとは思えない。
 むしろ、彼にとって喜ばしくもないこの現状に繋ぎ止められるより、その方が彼にとっては幸福かも知れないのだから。


「幸せ、ね。」


 声に出してみて、なんて中身のない、薄っぺらいものだろうかと思う。
 見えもしなければ触れることも出来ない、あやふやで確かなものなど何一つないと言うのに、こんなものになぜ人は固執出来るのだろうか。


「そんなもの。…取るに足らない、下らない幻想だわ。」


 そう呟かれた声に、けれどないはずの返事が返った。


「でも幻想がなきゃ、生きてられない。」


 驚いてばっと振り返れば、そこにはいつの間にか新一が立っていた。
 リビングから廊下へと続く扉にゆったりと背を預け、何事もなかったかのように笑っている。
 それはここ最近見せていたどこか危うさを秘めたものではなく、まるで以前の彼のように、心底からの笑みを浮かべていた。


「先が解っちまったら生きてけねーだろ?」


 未来に見る、将来に描く、願望。
 叶うかどうかも解らないソレを、けれど信じればこそ生きていくことが出来るのだ。
 新一にとってのソレは快斗であり、絶対に叶うはずもない幻想だった。
 けれど、それでもこうして新一が生きて来れたのは……その幻想を願い続けたから。


「下らない幻想だって見るさ。叶わない夢だって…俺は見続ける。」
「でもそんな、在るか無いかも解らないようなもの……」
「解らないからこそ、生きていけるんだ。」


 幻想だって、願い続ければこうして生きていくための糧となる。
 それらは決して無駄ではない。

 なぜならそれは、こうして叶ったのだから。


「新一が信じ続けてくれたから、俺たちは今のこの幸せを手にすることが出来たんだ。」


 哀が目を見開く。
 新一は、今まで見せた中で一番幸福そうな笑みを浮かべた。

 新一の右手の先には、絡まった指と指。
 扉の奧から姿を現わしたのは、ずっと音信不通だった快斗。
 哀の中に驚きなのか歓びなのか、それとも怒りなのか判断の付かない感情が沸き上がった。


「黒羽、君…」
「久しぶり、哀ちゃん。」
「…っ、今までどこをほっつき歩いてたのよ!!」


 その感情のままに哀は怒鳴った。
 けれどそれは心配の裏返しで、快斗は浮かべていた苦笑を濃くしたのだった。


「ごめんね。哀ちゃんには……君には全てを話してから、行こうと思う。」


 快斗が一瞬にして苦笑を払いのける。
 そこにひどく真剣なものを読みとって、哀は知らずと体を強張らせた。


「話すって……行くって、どこへ?」


 新一は相変わらず静かに笑っている。
 こくり、と哀は喉を鳴らした。
 渇いた喉に唾が滲みて。
 暗がりにいた快斗が一歩、哀へと歩み寄った。

 顕わになった、紅い双玉。
 穏やかなポーカーフェイスに不釣り合いな、その輝き。


「誰もいない場所へ。」


 その瞬間、全てを悟っていた。










 それまで一度として新一の口から聞くことの無かったあの夜の出来事を知り、哀はひどくショックを受けていた。
 あの、組織壊滅に乗り出した夜。
 ふたりで出掛けたはずの彼らが、けれどひとりで帰ってきて。
 どうしたのかと尋ねることも出来ないほどに、新一の状態は普通ではなかった。

 否、普通だったのだ。
 普通すぎて……哀には何が起こったのか、想像することも出来なかった。

 ひとりしか帰って来れなかったとは、つまりは“死”を意味する外にない。
 だと言うのに、当の本人は至って普段と変わらない笑顔で、普段と変わらない、相変わらずのずぼらな生活を過ごしていた。

 そうして数日が過ぎた時、新一はある事件に遭遇した。
 下校途中にたまたま巻き込まれたという形ではあったが、新一は普段通りに冴え渡るその頭脳ですぐに事件を解決した。
 そしてその事件を切っ掛けに、漸く哀は新一の異常に気付いたのだった。

 逆ギレして襲いかかる犯人。
 驚く警官、止めようとする警部。
 そして――身動きひとつしない、探偵。

 その場にいなかった哀は、蘭の話を聞いて驚愕した。
 「なぜ逃げないのか」と、「怪我をしたらどうするのか」と蘭に詰られた新一は、こう答えたのだ。


“……逃げなかったら、死ねただろ?”


 彼は笑う。
 楽しげに、綺麗に笑う。
 けれどその笑みの奧に隠れるのは、途方もなく暗く深い、深淵――。

 人間の本能であるはずの“保身”を全く排除し、危険も死も、まるで頓着せずに受け入れる。
 普段と全く変わらない行動の奧に隠された新一の深い哀しみに、哀が初めて触れた瞬間だった。

 快斗はただ帰ってこなかったのではない。
 帰ってこなかっただけなら、まだ望みは持てるのだ。
 死んだという決定的な証拠をつきつけられるまでは、どこかで生きているかも知れないと信じることが出来る。
 たとえそれがどんなに絶望的であったとしても、意志の強さで望みは持てるのだ。
 けれど新一は……死を、宣告されていた。

 それはどれほどの哀しみだろう。
 それはどれほど、彼を引き裂いたのだろうか。



 その、新一を誰よりも愛していると囁きながら、誰よりも彼を傷付ける男を、哀はきつく睨み付けた。


「…それで?ひょっこり帰ってきたかと思えば、今度は工藤君を巻き込もうって言うの?」


 この怪盗が、新一の苦しみをどれほど理解しているというのか。
 生きているにも拘わらず、嘘で傷付け言葉で戒め、新一をあれほど哀しませたというのに。


「不老不死なんてものが、どんなに愚かなものか知ってるくせに…!」


 静寂の広がるリビングに、哀の言葉だけが木霊する。
 ふたりはただ無言でその声を聞いていた。
 哀の瞳には今や涙が滲み、快斗と新一は、彼女の優しさや想いに感謝すると同時に、多大な負担をかけたことを悔いた。
 ふたりとも自分のことに手一杯で、周囲に気を配る余裕など少しも持てなかったから。
 それらのフォローを全て一手に引き受けた哀の心痛は、今こうして言葉にされている以上だったに違いない。


「ごめんね、哀ちゃん。怒らせることばかりして…」
「でも、もう決めたんだ。」


 新一がはっきりと言い放った。


「不老不死がどんなものか……それは、痛いほど解ってる。それでも俺たちは、お互いがいなくちゃ駄目なんだ。」


 理屈も根拠もないから、説明なんて出来ないけれど。
 ただ、全身全霊で感じている。
 この相手がいなければ、世界はないも同じなのだ。
 彼がいないというだけで、驚くほどに色褪せるこの世界。
 …どうして、生きていくことが出来るだろうか。


「快斗が姿を現わさなかったら、俺はいつか死んでた。呆気ないぐらい簡単に、さ。でも快斗はここに居るんだ。不老不死なんてもんになっても、ちゃんと生きてる。だから俺たちは生きていける。けど……今のままじゃ確実に俺は死ぬだろ。そうすれば、今度は快斗が苦しむんだ。老いもしなければ死ぬことも出来ない…。そうなった時、もうこの世にいない俺が快斗のために何ができる?こいつが苦しんでるのに何も出来ないんだ。そんなのは、我慢出来ねぇんだよ。」


 そう言って快斗に笑みを向ける新一を見れば、本当に心底そう感じているのだと解る。
 けれど哀は、どうしてもその疑問をぶつけてしまうのだ。
 憶測の域を出ないただの仮定でも、彼の幸せを誰より強く願っているから。


「…本当に、黒羽君といることが幸せなの?」


 予想していたのだろうか、新一は特に驚いた様子もなく微笑んだ。


「多分快斗は、俺を不幸にするだろうな。」
「…な、らっ、どうして!?」


 すんなりと認めた新一を、哀は怪訝そうに見遣った。
 快斗はただ新一の隣に座り、まるで祈るようにその手をずっと握っている。
 そこには何よりも神聖な想いがあるようで……


「俺を不幸に出来るのは快斗だけだぜ。」


 哀はハッと、新一を見つめた。


「でもって俺を一番幸せに出来るのも快斗だけ。…そういうことさ。」


 そう言って、新一は幸せそうに笑うのだった。

 哀の質問は根本から間違っていたのだ。
 もとより快斗といることで呼び寄せる不幸なら、新一にとって不幸ではないのだから。
 それは快斗にしても同様に言えることで。

 哀はただ、その深い深い絆の中に自分が存在出来ないことを、寂しいと感じているだけなのだ。


「…ならもう…私から言えることは、何もないのね。」


 彼らの心はもう決まってしまっている。
 ここに来たのはその決定を伝えるためであり、さんざん迷惑をかけた代償のつもりだろうか。
 皮肉げに口端を持ち上げる哀に、けれど快斗が哀の頭を優しく撫でながら言った。


「俺たち、哀ちゃんが大好きでさ。いつも怒ってていつも冷めてて、迷惑ばっかかけてる俺たちに、だけどいつでも優しかっただろ?…すごく嬉しくて。すごく、救われた。」


 彼の手から伝わる熱が心地よくて、不意に目の奧が熱くなる。
 哀は俯いて、その熱をやり過ごそうとした。


「言わずに消えることは簡単だよね。でも、哀ちゃんには全部知ってて貰いたかったんだ。他の誰でもない、君だけには。」
「……どうして?」
「俺たちは他人だよ。共犯者、だね。でも、家族よりずっとずっと強いもので繋がってるんだって思ってるから……君には俺たちの、この愚かでしかないような決心も認めて欲しかったんだ。」


 確かに存在した、ふたりの天才。
 愚物を葬り去るために奮闘したはずの彼らが、それを得た。
 本末転倒も甚だしい、まさに愚の骨頂だと言う者もいるだろうけど。

 ただ思うのは、愛する人のこと。
 願ったのはその人の幸せ。
 その幸せを得るには、方法がひとつしかなくて。
 例えば、罵られても。
 例えば、蔑まれたとしても。
 それら全てを覆すだけの想いが、そこにはあるから。

 誰も認めない愚行でも、せめて君だけには、知っていて貰いたいから。


「誰も居ない場所へ行こうと思うんだ。人の居ない、静かなとこにね。」
「…どこへ?」
「言わねぇよ。それは、一生の秘密だ。」
「哀ちゃんがいないと寂しいけど……俺も新一も、君の幸福を祈ってるから。」
「お前を誰より幸せにしてくれる奴が現われたら、結婚式ぐらいなら出てやるぜ?」
「ただし、変装だけどね♪」


 ぱちん、と指を鳴らして。
 突然現われたのは、鮮やかな黄色の母子草。


「俺たちの気持ちだよ。」


 気障ったらしくパチリと片目を瞑ってみせ、その花は哀の手の中へと収まる。
 小さくて愛らしいその花は……


「バカね…!」


 哀の瞳から、とめどなくこぼれ落ちる涙。

 もう、止まらない。


「忘れないで。忘れないから。逢えなくても、君はいつまでも俺たちの仲間だよ。」


 拭っても拭っても。
 哀しみや寂しさ、嬉しさや、ほんの少しの痛みが。
 色んな感情がふくれあがって、今にも破裂してしまいそうで。

 けれど、大丈夫。
 これは、嘘ではない。


 この花はこの手の中にあり、気持ちはちゃんと心にある。


「私からも、一本ずつあげるわ…」


「…哀ちゃん…」
「灰原…」


 差し出された花を、ふたりははにかんだような笑顔で受け取った。
 贈り、贈られた、互いの心。

 ここで、終わりだけれど。
 この想いはなくならないから。


「「ありがとう。」」










 ああ、彼らが、幸せでありますように。

 どうか、どうか。

 これ以上の苦しみに、苛まれませんように。

 もし、あなたが存在するなら。

 どうか、どうか、叶えてくれますように――





 神様。










 あなたのことを、


 いつも思う。










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シメはやはり哀ちゃんとの絡みで。
母子草の花言葉「いつも思う」を見た瞬間、絶対使おうと思いました。
響きが切ない…。
とにもかくにも長い間、読んで下さって有り難う御座いましたvv

ちなみに。
新一さんがどうやって不老不死になるのか気になる方がいらっしゃるようで。
実はキッドが組織のアジトで見つけた人工のパンドラは、血で契約するんですよ。
だから動脈切ってどくどく血を流しながらパンドラに触っちゃった快斗は不老不死になっちゃったんです。
同じ要領で新一さんも血で契約すれば不老不死になれるんです。
説明不足ですみません;;
…てゆうかなんてお手軽なパンドラ。苦。