花も嵐も踏み越えろ
「…本当に、行くのね」
まるで近くへ買い物にでも行くような軽装で空港に立つコナンへ、哀はどこか沈んだ顔で言った。
今日が平日ということもあり、ここには少年探偵団や彼の幼馴染みの姿はない。
既に別れを告げた彼らとは別に、事情を知る哀と博士だけが空港まで見送りに来たのだ。
コナンは今日、アメリカへ渡る。
それは旅行のような一時的な渡航ではなく、向こうへ永住するための渡航だった。
特別コナンに懐いていた歩美なんかは大泣きしてしまったし、光彦や元太もなんだかんだと憎まれ口を叩きながらも涙ぐんでいた。
さすがに大人である小五郎は涙を見せることもなく納得してくれたが、問題は蘭だ。
一度や二度ばかりでなくコナンを新一だと疑っていた蘭は、コナンまでもが自分のもとを離れると知った時、口には出さなかったけれどかなりのショックを受けていた。
大人にもなりきれず子供でもいられない彼女は、大人のように器用に立ち回ることも、子供のように駄々をこねることもできない。
それでも、コナンはアメリカへ渡る。
――闘うために。
「ああ。悪ぃけど、こっちを頼む。一応定期的に報告は入れるつもりだけど、あまり期待しないでくれ」
「分かってるわ」
これから組織と闘おうというのだ。
そんな余裕があるとは哀も思っていない。
ただ…
「…本当に、何も言わないつもり?」
小さな鞄を肩に掛け、ゲートへ向かおうとするコナンの手を掴む。
振り返る彼へ、縋るような目を向けた。
「だって、」
「――灰原」
低く名前を呼ばれ、哀は口を噤んだ。
真っ直ぐ見つめる双眸が、その先の言葉を拒んでいる。
「ちゃんと、分かってるから」
だから大丈夫、と。
笑う彼に、哀は何も言うことができなかった。
chapter 07 : 沈黙
「…協力者、ですか?」
ジェームズの部屋に呼び出されたジョディと赤井は、ジェームズの口から出たその言葉に眉を寄せた。
これから組織との全面対決を迎えようというこの大切な時期に、なぜそんな新参者を迎える必要があるというのか。
ジョディも赤井も、近頃の作戦には確かな手応えを感じていた。
今なら組織を叩ける、そう判断したからこそこの最終作戦に踏み切ることにしたのだ。
その最高のメンバーの中に、いったい誰を加えようというのか。
不審がるジョディとは違い、赤井はなるほど、と口角を持ち上げた。
「漸く謎のジョーカーを教える気になったんですか」
「え?謎のジョーカー?」
聞き慣れない単語にジョディは首を傾げる。
「ジョディ、おまえも近頃の作戦の成功率が上がっていることには気付いてるだろう?」
「え、ええ…そのおかげでこうして最終作戦に取りかかれるわけだし」
「まさか、その作戦を我々FBIの力だけで成功させてきたなんて脳天気なこと考えてんじゃねえだろうな?」
「!」
正直、不思議に思うこともあった。
だが、赤井の言うように真剣に考えたことはなかった。
なぜなら、これまで行ってきた全ての作戦に、不審な点は何もなかったからだ。
つまり裏を返せば、不審な点を一切残さず我々FBIに助力できるほどの力を持った協力者がいたということか。
「さすがは赤井君だ。彼らの存在に気付いていたとは。でも気付いていたなら、正体を突き止めようとは思わなかったのかい?」
「ふん…分かってるくせに、嫌なことを聞きますね。調べたけど分からなかったんですよ」
「ふふ、すまない。その言葉が聞きたかったんだよ」
私のとっておきの切り札が、どれだけ優れているかをね。
そう言ったジェームズに、ジョディはごくりと唾を飲んだ。
ジョディが赤井と組むようになってからもう随分と立つ。
赤井は単独行動が好きで、協調性の欠片もない男だが、ジョディはその実力を確かに認めていた。
その彼が、調べても突き止められなかったジョーカー。
「それで、そのジョーカーを紹介してくれるとでも?」
「ああ。私としては別に隠すつもりはなかったんだが、漸く彼らからお許しが出てね」
「――挨拶が遅れまして、申し訳ありません」
突然背後から声を掛けられ、ジョディと赤井はばっと振り向いた。
そこには、ひとりの少年が立っていた。
見た目は十五才くらいの日本人。
東洋人が幼く見えることを考えれば、おそらく高校生ぐらいだろう。
真っ直ぐ伸びた黒髪と、少し不健康な白い肌。
どことなく見覚えのある顔立ちに、大きな青い目が特徴的な少年。
ジョディも赤井も、声を掛けられるまで彼の存在に全く気付かなかった。
FBI本部の中とは言え、常に警戒を怠らず人の気配を読むことに長けているはずの自分たちが、こんな子供相手に。
「紹介しよう。彼は工藤新一君。日本では有名な高校生探偵だ」
ジョディが驚いたように目を瞠った。
それは、日本で英語教師をしていた帝丹高校に通う、あの毛利蘭の幼馴染みだという少年の名だったからだ。
「探偵…?それも高校生がFBIの切り札ですか?」
いよいよ不審がる赤井に、ジェームズが慌ててフォローを入れる。
「いや、彼は普通の高校生ではない」
「確かに少しは頭が切れるんでしょうが、それでも子供であることには違いないでしょう」
背後を取られたことが余程気に入らなかったのか、なかなか納得しない赤井に、ジェームズがなんと説明しようかと考えていると、
「おや…子供≠ェお気に召さないなら、私もお呼びじゃありませんね」
新一を振り返った彼らの背後から声を掛けられ、再び、今度はジェームズを含む三人が振り返った。
するとそこには、いつの間に開かれたのか、窓枠に腰掛けた怪盗が優雅に足を組みながらこちらを見下ろしていた。
あまりに有名すぎる国際的大犯罪者の登場に、ジョディと赤井の目が見開かれる。
ここが三階だということも、この怪盗にはまるで関係のないことなのだろう。
「な…っ、まさか奴もジョーカーだなんて言わないでしょうね、ボス?」
腰に隠し持っていた拳銃を咄嗟に構えながら、赤井は唸るように言い放つ。
ジェームズは顔をしかめながら深く溜息を吐いた。
「…そのまさかだ」
「ボス!」
「私も、まさか彼が怪盗キッドだとは思わなかったんだよ」
とち狂ったような真白の衣装に身を包みながら、怪盗は悪びれもせずににこりと微笑む。
「赤井捜査官、どうか彼を責めないで下さい。私も彼も、敢えてその正体を隠し、あなた方を欺いてきたのですから」
ふわりと窓枠から離れ、音もなく新一の傍に降り立った怪盗は、シルクハットを脱いで優雅に腰を折った。
モノクル越しに見える貌は、どこか隣に立つ新一と似ている。
「私も彼もって…貴方はともかく、なぜ工藤君まで正体を偽る必要があったの?」
犯罪者である怪盗キッドならともかく、探偵である新一までもが正体を偽る必要はないはずだ。
確かに犯罪者と手を携えていることは公にできることではないが、唯一事情を知っていたジェームズでさえ怪盗が怪盗である事実を知らなかったのなら、何も彼までもが正体を偽る必要はないように思えるのだが…
「…ずっと蘭の傍にいた貴方が、僕のことを知らなくても無理ありません」
それまで無言だった新一が、そこで漸く口を開いた。
「工藤新一は、既に組織に殺されているんです」
「えっ?!」
信じられない、と目を瞠るジョディ。
彼女はずっと蘭の傍にいたため、時折掛かってくる電話や蘭の話から、新一が実は既に組織に殺されていたなどとは思いもしなかったのだ。
それもそのはずだ。組織と新一との関わりを知らない彼女たちが、組織の抹殺した人物データの中に工藤新一の名があることを知らなくとも何ら不思議はない。
だが、まだ組織にいた頃の哀の働きによって、工藤新一が既に死亡した者として彼らのデータに載っていることは確かなのだ。
「偶然彼らの取引現場を見てしまった僕は、彼らにある毒薬を飲まされました。だが、僕は死ななかった。その毒薬は不完全な試作品だったため、彼らにとっても予想外の効果をもたらしたんです」
そう言ってポケットに手を入れた新一が取り出したのは、赤色の小さな蝶ネクタイだった。
「それから今日まで、僕は自分を江戸川コナンと名乗り、奴らの目から逃れてきました」
「あっ、あなたがコナン君…!?」
有り得ない。
だって彼は、たった七歳の少年だったのだから。
だがその反応も予想していたらしく、新一は二枚の写真を取りだし、それをジョディに渡した。
そこに映っていたのは、高校生の蘭と映ったコナンと、小学生の蘭と映った小学生の新一だ。
それは似ている≠ニ称するにはあまりにそっくりすぎた。
江戸川コナンは、工藤新一が七歳に戻った姿そのものだったのだ。
「私も初めは信じられなかったがね。だが、彼と話す内に確信したよ。というか、納得したと言った方が正しいな。確かに人間の体が縮むなんてとても考えられないが、七歳の子供があれほどの推理力を有し、組織と敵対していたのは、中身があの高校生探偵である工藤君だったからだと考えれば納得もいく」
何より、緻密に組み立てられた作戦を一寸の狂いもなく巧妙に遂行していくその悪魔のような狡猾さが、江戸川コナンと工藤新一が同一人物であるという事実を証明していた。
そして、その新一と常に行動をともにしていた男が目の前のこの怪盗であるというなら、FBIでは不可能だった作戦を全て成功に導いてきたことにも納得がいく。
「最終作戦を前に、僕らがあなた方の前に姿を現した理由はふたつあります。ひとつは、あなた方への信頼の証として」
そして、今ひとつは。
「――この最終作戦では、僕自ら先頭に立つつもりだからです」
今までは作戦の内容をジェームズに知らせ、現場の指揮は彼に執ってもらっていた。
彼らの手に負えないところは密かにキッドに補佐してもらい、その全ての指示を新一が行っていた。
だが、今度は違う。
作戦の指揮をいちいちジェームズを介して行っていたのでは到底間に合わない。
だから、新一から直接指示を受け取れる捜査官がどうしても欲しかった。
そして選ばれたのが、文句なしの実力を持った赤井秀一と、江戸川コナンとも多く関わってきたジョディ・スターリングだったのだ。
「先頭に立つと言っても、他の方の前に姿を見せるつもりはありません。僕の存在が明るみになる時は、作戦が成功した時か、もしくは失敗して死ぬ時のどちらかしかないと思ってます」
そしてもちろん、新一には死ぬつもりなどない。
同じ想いを抱えた怪盗と探偵が、似たような笑みを浮かべて並んでいる。
赤井は構えていた銃を下ろした。
「…空恐ろしい子供だな。ずっと小学生のフリでその殺気を隠し、沈黙してたってわけか」
いつだったか、赤井はコナンに「奴らと関わる覚悟はあるのか」と聞いたことがある。
それに彼は「FBIを信じているから」と答えた。
だがきっと、「信じられるだけの実力」があの時の自分たちになければ、彼の口からその言葉が出ることはなかったのだろう。
組織と対峙する覚悟と技量を見定められていたのは、いつでも自分たちの方だったのだ。
「いいだろう。おまえが我々FBIの指揮を執ることを認めよう。ただし、俺がおまえの指示に従うとは限らんぞ」
「それで構いません。貴方の単独行動も全て計算の内です」
ですから、と新一は続ける。
「ですから――もしも僕らの存在が奴らに知れるような事態に陥ったなら、どうか迷わず僕らの存在を葬って下さいね」
そうすることで幼馴染みや協力者、身内や友人たちを守れるなら。
自分たちは迷わず死ぬ覚悟もできているのだと仄めかされ、赤井は不快そうに舌打ちを漏らした。
この青い目はまるで人の心の中までも見透かしているかのようだ。
もし彼の存在が組織の連中に知られるようなことになれば、彼の幼馴染みであるあの少女までをも危険に曝すことになる。
そうなるくらいならいっそ、と考えた赤井の思考を、彼は一分の狂いもなく読みとったのだ。
そして、それすら覚悟の上だと言ったその言葉が決して口先だけのものではないと言うことも、彼の目を見れば分かる。
「…可愛げのないボウヤだ」
高が十七、八の子供でありながら、まるでこの世界の何もかも分かったような口を叩く。
それが、いっそ腹立たしいほど哀れだった。
* * *
FBI本庁のあるワシントンからロスの別荘までおよそ六時間ほどかけて帰宅した新一とキッドは、ろくに食事も摂らずにすぐに寝室へと引き上げてしまった。
と言うのも、工藤新一の姿を取り戻した新一の体調があまり優れないからだ。
モニカの持ち出したAPTX4869の研究資料によって解毒剤の開発はかなりのハイスピードで進んだ。
そしてその完成の知らせを受け、新一とキッドはいよいよ作戦の大詰めを迎えるために、日本からアメリカへと拠点を移した。
その解毒剤を服用したのが今から一ヶ月前。
ほんの一週間前まで新一は断続的にぶり返す高熱と発作に苦しんでいた。
それが落ち着き、モニカの許可が出たことで、今日になって漸くFBIの本庁にいるジェームズのところまで出向くことができたのだ。
しかしやはりかなりの負担を体に掛けてしまったらしく、寝ながら点滴での栄養摂取を言い渡されてしまった。
モニカによれば、体の組織が現在の状態を正常≠ニ判断するまではこの状態が続くとのことだった。
「新一…苦しいか?」
「平気だよ。いいからおまえも飯食ってこいよ」
「やだ」
傍にいる、と駄々をこねるキッドに新一は苦笑を漏らす。
キッドは点滴を打つ新一の左手を、負担にならないよう気を配りながらそっと握っていた。
新一が寝込んでいる間、彼は大抵そうしている。
新一としても彼の温かい手を気に入っているため、いつも好きにさせている。
「それならせめて、ここに持ってきて食えよ。それならいいだろ?」
「…分かった」
それでも渋るキッドを急かせば、すぐに持って来るから、と言ってキッドは部屋を後にした。
その後ろ姿を見送り、新一は漸く息を吐けるとでも言うように深い溜息を零した。
――キッドには、言っていないことがある。
それはこの体のことだ。
APTX4869を服用し、その解毒剤となる薬を服用したこの体のことだ。
それはまだコナンだった頃の新一を不眠に陥れ、幾日も幾日も埒もない思考の渦に捕らえて逃がさなかった、受け入れがたい、けれど紛れもない真実だった。
不意に、哀に言われた言葉が脳裏に蘇る。
本当に、何も言わないつもりなのかと。
自分の片割れとでも言うべきキッドに、その真実を話さなくていいのかと。
「…死んでも、教えてやんねえよ…」
コナンだった新一が、蘭に沈黙を守り続けたように。
彼にもこの沈黙を守り抜いてみせると、新一は苦く笑った。
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