花も嵐も踏み越えろ
chapter 10-3 : 罪
道々転がっている使えない部下たちに低く舌打ちを漏らしつつ、ジンは足早にメインコンピュータルームへと向かった。
主に日本で活動しているジンだが、近頃アメリカでのFBIの動きが気になるからと、ボスからの指示で部下のウォッカとともに渡米した。
そのウォッカも、今は別々に鼠を追っている。
いくらジンが人の裏の裏を読む能力に長けていると言っても、頭がいくつもある鼠の思考を隅々まで見通すことはできない。
しかもその鼠は頭が手足となり、手足が頭となるのだ。
厄介なことこの上ない。
この周到に仕掛けられた罠の感じは、FBIの常のそれとは違う。
だが、ジンはこの感覚に覚えがあった。
まだ日本で活動していた頃、日本での捜査を無許可で行っていたFBIと対峙した時と似ている。
表面上は、まるでこちらの思惑通りにことが進んでいるかのように見えて、その実誰かの思い通りに動かされているような、腹のあたりがじりじりと落ち着かない感じだ。
おそらくこれは、あの時と同じ何者かによって仕掛けられた罠だろう。
ボスが最も畏れているFBIの赤井秀一とは違う。
組織の人間にも気取られず、尚かつFBIを意のままに動かせる人物。
(…誰だろうと、我々に噛み付く者は、必ず尻尾を捕まえて化けの皮を剥いでやる)
鼠は必ずメインコンピュータルームに現れる。
そこには組織の情報の一切が詰め込まれているのだ。
この狡猾な鼠がそれを見落とすはずがない。
「そっちはどうだ、ウォッカ」
「はい…どうにも勘のいい野郎で、影も掴ませやせん…」
無線から届いた声に、やはりな、とジンは心中で呟いた。
ジンでさえ手間取る相手に、ウォッカだけでは話にならないだろう。
「そっちの追跡は中止だ。どうせ陽動だろう。すぐにこっちへ向かえ」
そしてウォッカの返事を待たず、ジンは通信を切った。
「随分と遅かったわね、ジン」
気配を殺し、まるで野生の獣のように背後へと迫り来た男に、ベルモットはキーを打つ手を止めることなく声を掛けた。
ジンも気付かれていたことに当然気付いていたが、構うことなく彼女の後頭部に銃口を突き付けた。
「何をしている、ベルモット」
「あら…この状況を見て分からない?」
言われるまでもなく、体中に穴を空けて倒れている数人のFBIらしき連中には気付いていた。
まだ立ちこめている硝煙の匂いとあちこちにある弾痕、そして二の腕と足から血を流しているベルモットの姿を見れば、ここで何があったかなど考えるまでもない。
ジンよりも早くこの場に駆けつけたベルモットが侵入者を排除したのだ。
だが、ジンが聞きたいのはそんなことではない。
今ベルモットがしていることについての説明が聞きたいのだ。
彼女は今、組織のコンピュータに繋がれた小さなモバイルに何かを打ち込んでいる。
途中経過が抜けているため正確には分からないが、何かのプロテクトを解除していることは見て取れた。
普通に考えれば、侵入した鼠どもが施した何らかの仕掛けを解除している、というところだろうが……この女はどうにも信用ならない。
あの方のお気に入りだか知らないが、ジンは彼女を一切信用していなかった。
下らない秘密主義にもうんざりするが、何よりも彼女の言動の全てが作り物にしか見えないのだ。
組織の幹部としてあっさり敵を殺してみせるその行為さえ、彼女の真意を隠すためのパフォーマンスに思えてならない。
そしてジンは己のその直感を疑わなかった。
「手を止めろ」
銃口を突き付けたままがちりと撃鉄を起こせば、ベルモットはさすがに手を止め、ジンを振り返る。
「いいのかしら?そこに転がってるFBIの仕掛けたナイトバロン≠ナ、ここのデータの全てを消されてしまっても」
「ナイトバロンだと?」
それは、発見することも止めることもできない、完璧と呼ばれたコンピュータウィルスだ。
組織内においてもフロッピーやコンピュータのセキュリティとして使っていたウィルスだが…
「これはそのオリジナルよ」
ジンの気が逸れたことで、ベルモットは再びキーを打ちだした。
「どうやらこのウィルスを創り出した人物にはFBIの証人保護プログラムが適用されていたようね」
組織の依頼で創られた「闇の男爵」だが、完成とともに殺されると悟った相手は取引現場には現れず、そのまま行方を眩ませた。
そしてその人物のコンピュータを解析して得られたデータで組織のプログラマーに創らせたのが、現在組織内で使われている「闇の男爵」なのだ。
その人物が証人保護プログラムを受けていたとしたら、FBIが「闇の男爵」のオリジナルを持っていたとしても不思議ではない。
…しかし。
「なぜそんなことを知っている?」
再び銃口を持つ手に力を込めたジンにベルモットは唇を歪めた。
「バカね。普通、誰だって死ぬのは恐いものよ」
「ふん…おまえは恐くないだろう?いいから、手を止めろ」
暗に「体に聞いた」ことを仄めかすベルモットだが、ジンの力は緩まない。
そして、ベルモットの指も止まらなかった。
後少し。後少しなのだ。
後少しで――全てが終わる。
焦れたジンが舌打ちを漏らし、引き金に掛けた指に力を込めるのと、ベルモットが最後のキーを打つのはほぼ同時だった。
けれど、同じタイミングで放たれたもう一発の弾丸が、ジンの左手から銃を弾き飛ばした。
床に転がった銃がカラカラと音を立てる。
ジンは自分から銃を奪った人物を見て、忌々しげに口角を持ち上げた。
「おまえら…いつから連んでやがった」
銃口をしっかりこちらに向けて構える男――赤井秀一とベルモットを睨み、ジンは素早く状況を整理する。
ベルモットを殺そうとしたジンを止めたと言うことは、彼女とこの男が共謀していることは疑うまでもない。
だが、ふたりはいつから手を組んでいたのか。
少なくともベルモットが単独で行ったあのハロウィン・パーティの時には、赤井は本気で彼女に散弾を浴びせたはずだ。
けれど、ふたりはジンの言葉を真っ向から否定した。
「おっと、勘違いするなよ。奴と手を組んだことは一度もない」
「そうね。意志を同じくしているとは思っていたけど、敵であることに違いなかったしね」
そう言われたところで、ジンにとって大した違いはなかった。
意志を同じくするということは、彼女もまた組織の壊滅を望んでいると言うことだ。
信用していたわけではないが、やはり彼女は裏切り者だったのだ。
「ふん…つまり、こういうことか。おまえはナイトバロンの感染を防ぐと見せかけ、感染させた」
「ええ。残念ながら、数分と待たずにデータは全て消えてなくなるわ」
「いいのか?組織にとってはその方が都合がいいが、FBIにとっては都合が悪いはずだ」
組織が今まで何をしてきたのか、それが有耶無耶になることは、FBIにとってかなりの損失ではないのか。
けれど、ベルモットは静かに首を振った。
「いいのよ。目的が同じだからと言って、FBIの言いなりになるつもりはないし…あんなもの、ない方が世のためなんだから…」
そう、呟いた時。
ばたばたと足音を立てながらこちらに向かってくる数人の足音に気付き、赤井とベルモットははっと顔を上げた。
その一瞬の隙をつき、ジンは隠し持っていたもう一丁の拳銃を取りだすと、気付いた赤井が一発、二発と撃ち込んでくるのへ応戦しながら、素早く柱の影へと身を滑り込ませた。
相手も新たな援軍に備え、それぞれ物陰へと飛び込む。
ちらりと視線を流した先のコンピュータのスクリーンは、みるみるウィルスに侵されていた。
…おそらく、復旧は不可能だろう。
思わず舌打ちを漏らせば、駆けつけた援軍の中から聞き慣れた部下の声が上がった。
「ジンの兄貴!」
「――ウォッカ!鼠は二匹だ、赤井秀一とベルモットを殺れ!」
途端に、室内に銃声が響き渡る。
一瞬にしてそこは戦場と化した。
さすがはボスの畏れた男なだけあり、赤井の撃ち放つ弾は正確な軌道を描きながら確実に肉に食い込んでいく。
彼の凶弾の前にひとり、またひとりと地に伏した。
だが、経験の差か、或いは単に運の良さか、ジンとウォッカはあちこちに弾を掠らせながらも、致命傷を避けつつ容赦なく弾を撃ち続けた。
かつては組織の中枢とも呼ぶべき最も重要なブレインだったコンピュータも、ウィルスにデータを破壊されてしまった今はただのガラクタでしかない。
撃った弾がどこに命中しようが構わなかった。
――しかし。
ガウン、と一際高く鳴り響いた銃声とともに左肩に衝撃を受け、ジンは一瞬動きを止めざるを得なかった。
続けざまに右手、脇腹、右足と、何発もの銃弾を撃ち込まれる。
気付けば、ウォッカの持つ銃口がこちらに向かって煙を噴いていた。
そしてウォッカとともに駆けつけた男たちは、揃って床に倒れていた。
「てめぇ…まさか…っ」
唸るように声を出せば、ウォッカは銃を構える手とは逆の手で、耳の下の顎の部分に指をかけ、偽物の顔をびりびりと破り始めた。
その下から現れたのは――白磁の肌に豪奢なプラチナブロンド。
「悪いわね、ジン。ウォッカなら第三ゲートの前で眠ってるわよ」
それは、ウォッカに扮したベルモットだった。
さすがにこの展開は予想していなかったのか、ジンは無言でふたりのベルモットを睨み付けている。
彼女が変装術を得意とすることは知っていたが、まさかもうひとり、これほど高度な変装術を扱う者がいるとは完璧に予想外だった。
ジンは血まみれになりながらも気丈に言った。
「なるほど…おまえが、FBIの切り札だな」
「ああ――工藤新一、探偵だ。」
そうして同じように破り去られたマスクの下から現れたのは、見覚えのある顔だった。
一度はバラしたと思い顔も名前も忘れ去ったジンだが、ハロウィン・パーティの件で再び耳にしたことで、一応記憶の隅に留めていた。
殺したはずの探偵。
しかし彼は生きていたばかりか、その鋭い牙で深く喉元に食いつけるよう、気配を殺して静かに背後へと忍びより、獲物が罠に掛かる瞬間を虎視眈々と狙っていたのだ。
鼠かと思えば、とんだ虎だったというわけだ。
「観念しろ、ジン。あんたがひとりで足掻いたところで、もう組織の壊滅は避けられない」
今頃はジェイムズを筆頭としたFBI捜査官が、組織の息が掛かった連中を一網打尽にしようと、新一が閻魔の如く並び立てた罪状を盾に、大捕物を行っていることだろう。
けれど、静かに宣言する新一をジンは鼻で嗤った。
「それはどうかな、名探偵…たとえ我々を潰したところで、同じような組織が必ずまた現れる。その全てを潰せるものならやってみればいい」
そして隠し持っていたらしい起爆スイッチを押せば、まるで大地が震撼するかのような激しい揺れと、鼓膜をうち破るような轟音が鳴り響き、がらがらと壁が崩れ始めた。
「――起爆装置!貴方、やっぱり持っていたのね!」
「たとえ作戦が成功しても失敗しても、我々の存在が世間に知られることはない…それが、我々のやり方だ」
「闇の男爵」によって葬り去られた組織のデータ。
爆破によって崩壊する組織の施設。
そして、その爆破とともに消える組織に関わった全ての人間たち。
何の証拠も得られなかったFBIに、組織の存在を世に知らしめる術はない。
「悪いが、おまえらにも付き合って貰うぜ…このまま地獄までな…」
撃った弾のひとつが肺に傷でも負わせたのか、ジンは口から血を滴らせながらも不敵に笑う。
新一は逸る動悸を無理矢理黙らせ、どう動くのが最善策かを目まぐるしく思考した。
正規のルートを辿って地上に上がるのではとても間に合わない。
しかし、現在地はおよそ地下十メートルだ。
そこからどうやって這い上がれと言うのか。
どう足掻いても、間に合わない。
(どうしたら…どうすればいい、キッド…!)
――その瞬間。
まるで新一の声が聞こえたかのようなタイミングで、小さな爆破で崩れた天上からキッドが現れた。
「キッド!」
「地上までの道は確保した!崩れる前にここを脱出するぞ!」
言うが早いか、キッドは足を負傷している新一を抱き上げると、崩れた瓦礫を足場に信じられないほどの跳躍力で上の階へと飛び上がった。
しかしキッドほどの身体能力を持たない赤井とベルモットは、キッドの垂らした縄を使って上った。
途中、何かを言いたそうにジンを振り返ったベルモットだったが、新たな爆音とともに壁が崩れ始め、結局何も言わぬままにキッドの後に続いた。
始めから生き延びる意志もなかったのだろう。
彼らの姿が完全に見えなくなっても、ジンがその場から動くことはなかった。
全身血と汗と泥と煤まみれの格好で、四人は間一髪、施設が崩壊する前に脱出することができた。
最後はキッドに抱き上げられて、という情けない姿の新一だが、あそこで下手に見栄を張って脱出を遅らせることになどなればそれこそ馬鹿だと、大人しくキッドの腕の中におさまっていた。
そうして爆発の影響のない場所まで避難した時になって、漸く新一は自分の足で地面に立った。
「サンキュ、キッド…あそこでおまえが来てくれなかったら、みんな死んでるところだった」
「おまえの考えることは、俺には全部お見通しだからな。先の先の先まで読んで、地下通路からすぐに脱出できる道を作っといたんだ」
まさに以心伝心な自分たちだからこそ巧くいったんだとキッドが微笑む。
それに新一も煤まみれの顔で笑い返した。
「これで漸く終わったのね…」
新一のすぐ隣に腰を下ろし、爆煙を上げながら燃えさかる炎を見つめ、感慨深そうに呟くベルモットに、けれど新一は心中で「それは違う」と首を振った。
これで終わったわけではない。
いや、そもそも終わりがあるものではなかった。
奇しくもあの男が言ったように、ひとつの組織を滅ぼしたところでまた別の組織が必ず現れる。
そしてその連鎖は永遠に続いていくのだ。
我々人間が生きている限り。
それは人が人であるが故の――罪。
それでも、今だけは喜ばせて欲しい。
たとえこの手に掴んだのが、背負いきれないほどの罪だけだったとしても。
大切な人たちの平和も守ることはできたのだ、と。
(これでさよならだ…ありがとな、コナン…)
新一の声なき声を違わず聞き取った魔術師は、消えゆく小さな探偵に向けて、金盞花の花弁を風に乗せて贈った。
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