花も嵐も踏み越えろ
モニターの上を躍るように流れていく文字に忙しなく目を通す傍ら、耳に嵌めたインカムから流れ込んでくる情報に新一は耳を傾けた。
モニターに映るのは、今現在手掛けているプロジェクトの状況報告と、それを汲んだ新たな行動指示を暗号化したもの。
この暗号を解読できるのは、解読機能をつけたパソコンと、そしてこの暗号をともに創り上げた戦友だけだ。
組織の幹部連中を一網打尽にし、実質的に彼らを壊滅に追いやってから、そろそろ三ヶ月が経つ。
その間、FBIやICPOなどの警察機関と手を携えて残党処理に没頭してきた新一だったが、そろそろその任務も終わろうとしていた。
世界に蔓延る巨大な犯罪組織、その末端に及ぶ全てを排除するには、まだまだ時間が掛かる。
だが、どうしても自分の手で片づけておきたい任務はこれが最後だ。
後は各機関に任せて、新一も一旦潜らなければならないだろう。
この三ヶ月で新一はかなり動いた。
今まで二人でこなしてきたことを一人でこなさなければならなかった負担はかなり大きい。
それでも、同じように別の舞台へと一人立っている戦友を思えば、負けてはいられないと思うのだ。
今もインカムから流れてくる、日本の警視庁捜査第二課の無線の音声は、何にも勝る力強さで新一を奮い立たせてくれる。
口元に浮かぶ笑みは、あの頃と変わらない不敵なものだった。
chapter 12 : 君の瞳に映るもの
「…取り敢えずの目処はついた、と言うことかしら?」
突然阿笠邸を尋ねてきた白髪に口髭を生やした知的な老人を、邸内に迎え入れお茶を出したところで、哀は口を開いた。
「ああ、大方な。薬の方もジュリアが少しでも数値を引き上げようと頑張ってくれてるから、その内宮野志保≠拝めるんじゃねーか?」
そう言って老人はくいと口角を持ち上げる。
老人から発せられる声はあくまで年相応の少し枯れた声だというのに、その見た目を裏切る口調にかなりの違和感を感じるものの、これも仕方がないことかと、哀は諦めたように溜息を吐いた。
「で?それが、ここに来る時の変装なの?」
「ああ。最近阿笠博士と知り合ったばかりの科学者仲間、ってところだな」
よもやこの老人の正体が、実はまだ高校生の少年だとは、誰も気付くまい。
怪盗直伝の変装術と、コナン時代に培った演技力。
このふたつを持ってすれば、たとえ幼馴染みの少女や馴染みの警部の前でさえ素知らぬ顔で歩いてみせるさと、新一は嘯くのだ。
「いよいよ潜るのね」
「ああ。作戦の報告だけはしてもらうが、あくまで報告だ。指示は出さない」
「そう…その間を利用して準備≠キるのね」
「…ああ」
静かに頷く新一に、哀もそれ以上追求することはない。
哀自身、いつかは通らなければならない道なのだ。
今はただ、新一の決断を静かに見届けることしかできなかった。
組織にマークされている工藤邸に帰ることはできないし、不用意に工藤新一関係者へと近づくわけにもいかない。
そうして用意されたのが、杯戸市の外れにある高層マンションの一室。
それが、新一が潜伏先に選んだ住処だった。
ここは、半年ほど前に契約を結んだ新一の隠れ家のひとつで、海外に渡ってから後も、寺井に頼んでガスや水道等の数値を人ひとりが生活している程度で動かしてもらっていた。
組織戦に工藤新一が関わっていることを知っているのは、警察関係者でも新一が信頼を寄せているほんの一握りの人間であり、組織関係者に至っては零に等しい。
そして、組織が暗殺した人物のリストに工藤新一の名が載っていたことを知っていると思われる人物は、現在全て、監獄かあの世にいる。
後はただ、新一が行方不明だった期間の情報を埋め込み、それが黒の組織などとは一切関わりのないことであることを証明しさえすれば、新一が「日常生活」を取り戻す日もそう遠くないだろう。
そう思い、新一の口元に嘲笑が浮かぶ。
――日常生活。
その響きの、何と虚しく遠いことか。
もう二度と手にできないのだと知って初めて、その尊さを知った。
そして、その幸福を自ら手放した己の愚かさも。
けれど、あの時――トロピカルランドで取引現場を目撃したあの時、たとえその尊さを既に知っていようと、自分は同じことをするであろう自覚が新一にはあった。
日常も幸福も、全てを手放してでも真実を追いかけるだろう自分を知っていた。
なぜなら、真実を追い求めない自分など自分ではないからだ。
新一が新一である限り、この現実は変えようのない未来だったのだ。
――それでも。
今の新一には、一抹の後悔もない。
なぜなら、手放したものと同じくらい、いやそれ以上に尊いものを手に入れたから。
(…キッド…)
ベランダに出て、シャツ一枚では随分と冷たい風に髪を揺らしながら、新一は中空にかかる月を見上げる。
雲ひとつない澄んだ星空。
この空を、今もどこかで飛んでいる白い鳥。
闇にも溶けず、月にも劣らない、夜の光。
……心の、光。
「あいつも今頃、月でも見てんのかな」
そしたら同じものを見てるんだ、なんて。
なんだか少女じみたことを考えている自分に、らしくないな、と首を振る。
今日がキッドの予告日だから余計なことを考えるんだと、冷え切ってしまった身体を暖めようと扉に手を掛け――
ポケットの中で振動する携帯に動きを止めた。
* * *
インカム越しに聞こえてくる警部の怒号に、新一は満足そうに笑みを浮かべる。
そのタイミングを見計らったかのように震える携帯を取りだし、画面に映る文字へとさっと目を通した。
――有り難う御座いました。
そのたった一行に溢れる慈しみに、新一は笑みを深めた。
先週のキッドの予告日、新一の携帯に届いたのは寺井からのメールだった。
キッドを通じて知り合った彼は、とても腰が低くて礼儀正しくて、けれどやはり初代キッドの付き人をしていただけに食えない人物だった。
そして、黒の組織とともに戦った戦友のひとりでもあった。
だからこそ、特定の人物しか知らない新一の携帯にも連絡を取ることができたのだ。
そんな彼から届いたメールに書かれていたのは、近頃どうも気落ちしているらしい主に渇を入れてやってもらえないだろうか、とのことで。
その理由は考えるまでもなかった新一は、「仕方ないヤツ…」と思いながらも、一も二もなく引き受けたのだった。
かくして送られたメールが「↑」のたった一文字と言う、下手をすれば全く意味の分からないものだったにも関わらず。
ともに戦場を駆け抜けた以心伝心な戦友は違わず意味を解してくれたようで、今日の犯行では、つい先日までの気の抜けた怪盗とは思えぬ仕事っぷりだったようだ。
新一は今日もインカムを嵌めながら、満足げに月を見上げる。
今夜も同じこの月の下、白い鳥は優雅に空を駆けていることだろう。
会うことはできない。
でも、同じ想いで同じものを見てる。
(早く、おまえに逢いたいな…)
それまではこの月を見上げることでこの心を満たしていようと、新一は眩しそうに目を眇めた。
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