花も嵐も踏み越えろ
光と影。善と悪。白と黒。
それは、決して交わることのないもの。
chapter 13 : 白と黒
いつもと変わらない、教室に木霊する賑やかな朝の談笑を引き裂いたのは、まるで扉を壊す勢いで教室に飛び込んできた男――白馬探だった。
この突然の闖入者に、生徒たちは声を引っ込めて唖然と彼を見ている。
黒の詰め襟とセーラー服の中、ただひとりライトブラウンのジャケットにチノパン姿の白馬は、かなり浮いていた。それもそのはずで、快斗が「諸国漫遊の旅」に出るのと時を同じくして、白馬はイギリスへと帰っていたはずだった。
それが、どうして私服姿で江古田に現れたのか。
久々の再会を歓迎する余裕を与えず、白馬は見渡した教室内に目当ての人物がいないことを確認すると、彼の幼馴染みの少女へと詰め寄った。
「中森さん。黒羽君はまだ来ていないんですか?」
「え…快斗なら、学校辞めちゃったよ」
「辞めた!?」
予想もしていなかった返答に白馬が目を瞠る。
すると、突然のことに戸惑う青子の背後から紅子が進み出た。
「彼は大検を受けるために、試験前に退学したわ。自宅に行けば、運が良ければ会えるかも知れないわね」
「大検…」
なるほど、と頷き、教室中に混乱を持ち込んだ本人は踵を返した。
その背中を呆然と見送るクラスメートの中、紅子は眉をひそめ、まるで哀れな動物でも見下ろすような眼差しで白馬を見ていた。
――可哀相な人。
そう、心の中で呟いて。
* * *
黒羽家を訪れ、在宅していた母親から快斗の居場所を聞き出した白馬は、急ぎその場所へと向かった。
――時計台。
以前、怪盗キッドの標的ともなった場所だ。その時の警備には参加できなかったが、キッドに関する資料は何ひとつ漏らさず持っている。
その場所で、快斗はマジックのタネを考えたり、時には路上パフォーマンスのようなことをやっているらしい。春からは正式に契約が決まっているのだが、それまでは気侭な生活をしているのだと、母親は言っていた。
何を暢気なことを、と白馬は唇を噛み締めた。
彼は怪盗キッドなのだ。
怪盗キッドは犯罪者なのだ。
それなのに、なぜ――…
がたん、と音を響かせながら飛び込んだ展望室に、快斗は立っていた。
まるでこちらの登場を承知していたかのように、殊更ゆっくりと振り返った表情には全く驚いた様子がない。
白馬は快斗を睨み付けるようにして見据えた。
「…黒羽君。どういうことか、説明してくれないか」
「よぉ、白馬。イギリスに帰ったって聞いてたのに、スコットランド・ヤードから追い出されでもしたのか?」
「しらばっくれるな!」
常に冷静、と言うわけでもないが、あまり丁寧な口調を崩すことのない白馬が、激昂するに任せて口調を荒げる。
「父から聞いた。怪盗キッドの対策本部は、実質解散したとね」
「へえ? じゃあ、警察はもうキッドの現場に来ないのか?」
「いや、今まで通り警備は行う。だが、キッドの逮捕≠ゥらは手を引くと、上層部が決定した」
「ああ、そう言えばおまえの親父、警視総監だっけ」
大した興味もなさそうに言い放つ快斗に白馬が詰め寄った。
「いったい何をした? どうやって彼らを抱き込んだ?」
「そんなの、俺が知るかよ。大体、抱き込む方も抱き込む方だけど、抱き込まれる方にも問題があるんじゃねーの?」
自分のことは棚に上げてキッドだけ悪者扱いするなんて、フェアじゃねーよな。
そう言ってひょいと肩を竦める快斗にこめかみを引きつらせながらも、白馬は挑発には乗らなかった。
確かに、彼の言うように、警察とキッドが何らかの取引を行い、それによって警察がキッドの逮捕から手を引いたのだとすれば、それもまた決して見逃してはならない違法行為である。現場の警官は事情を知らなかったとしても、少なくとも上層部、所謂管理職にあたる者たちはそれを承知し、現にキッドの逮捕から手を引いているのだから。
しかし、幾ら父に問い質してみたところで、彼は頑として口を開かなかった。そしてそれは、保身のために口を噤む犯罪者の黙秘とは違い、もっと重大な何かを守る為に、その秘密を墓まで持っていく覚悟を持った者のそれだった。
だからそれ以上父に問い詰めることができず、白馬はもう一人の当事者――怪盗キッドである快斗のもとまでやって来たのだ。
「君は武者修行≠ネどと称し、一年近く全国を旅していた。その間君が訪れた場所はリサーチ済みだ」
「…プライバシーの侵害か、ストーカー罪で訴えるぞ」
「合法的な容疑者の捜査だよ」
どうせ本気でない快斗の戯れ言は聞き流し、白馬は更に言い募った。
「この一年の間、キッドの活動は実に広範囲に及んでいる。…ひとつ解せないのは、海外での犯行もある、と言うことだが…君のことだ。パスポートの偽造や他人に成り済ましての密入国など、簡単なことだろう」
もう何を言っても無駄だと感じたのか、快斗は呆れた表情で「それで?」と先を促した。
それに勢いを得て、白馬は先を続ける。
「君は、キッドの犯行に専念するために高校を休学した。そして、君が帰ってくるのとほぼ時期を同じくして、警察は君の逮捕から手を引いた。しかし、未だキッドの犯行は続いている。この三点から考えられることは、君は警察の上層部からある依頼を受け、それを引き受ける代わりに警察は君の罪を免除することを約束した、と言うあたりだろう」
三ヶ月ほど前、日本の大物政治家や財界のお歴々、果ては警察官僚に至るまでの大捕物があった。罪状はまるでばらばらで一見何の繋がりもないように見えるが、中には以前から黒い噂の絶えない人物も複数おり、彼らの背後に組織的なものを感じた者は少なくないだろう。白馬もその内のひとりだった。
彼らの一斉検挙ともなれば、警察だけで行うにはかなりの難題だが、神出鬼没の、まさしくファントムのようなこの男がいれば、その難易度は一気に引き下げられたに違いない。彼の情報収集能力、会話やトラップにおける心理操作、そして狙った獲物は外さない百戦錬磨のずば抜けた頭脳に、もしも警察が目を付けたとすれば。
有り得ないことではない。
「だが、たとえ君がどれほど警察に貢献したとしても、僕は納得できない。罪は償われて初めて許されるべきだ。悪行を善行で帳消しにしたのでは、根本的な問題の解決にはならない」
でなければ、悪行と善行を繰り返す者を野放しにすることになる。それでは秩序は保たれない。
だから白馬は罪を暴くのだ。なぜ彼らが罪を犯さなければならなかったのか、その理由を知り、償ってもらいたいから。
快斗は――口角を吊り上げた。
もちろん快斗は、警察に罪の免除など頼んでもいないし、知らされてもいない。彼らがそういう対処を取ったことには気付いていたけれど、あちらが勝手にやったことにこちらから何かを言おうという気も起きなかった。
そもそも、白馬の言う「依頼」を持ちかけたのは快斗の方だ。それも日本警察ではなく一部のFBIに、である。それまで日本警察は組織の存在を知りもしなかったのだ。
おそらく、FBIからの要請で組織の存在を知った彼らは、そこで初めて自分たちが出遅れていたことに気付いた。そしてある程度の情報を共有することを許された上層部は、この一件に怪盗キッドが関わっていることを知ったのだろう。
快斗は、要するにこれは日本警察からキッドへの口止め料だと考えていた。犯罪組織の存在に気付かず、怪盗如きに遅れを取っていたなどと世間に知れれば警察の威信はがた落ちである。快斗としても自ら吹聴するつもりなど毛頭ないから好きにさせているのだ。
大体にして、白馬の推論はまず最初の前提からしておかしかった。
たとえ警察から組織の検挙に協力してくれと頼まれたとしても、快斗は決して首を縦に振らなかっただろう。キッドは正義のヒーローなどではない。ただの私怨を抱いた愚かな復讐者なのだから。
それでも快斗がFBIと手を組んだ理由はひとつ。
それが相棒であり唯一無二の半身である探偵の駒のひとつだったから、だ。
「…おまえは小さな男だな」
快斗の呟きに白馬が眉を吊り上げる。
しかし、予想外にも快斗は小馬鹿にした表情ではなく、まるで羨むような眼差しで見つめていたため、白馬は言葉に詰まってしまった。
「俺は、今も苦しみながら、それでも大事なものを守るために、迷わず荊の道を突っ走ってる人を知ってる。自分が傷付くのも構わずに、さ」
本当は、罪など犯せない綺麗な手なのだ。誰も悲しませまいと祈る、優しい手なのだ。
その手で、数え切れない罪を犯してきた。守りたいものを守るために。
傷付いたその手以上に、どれほど心に傷を負っただろう。
「でも、そいつは笑うんだ。傷だらけの手を隠して、誰にも何にも気付かれないように」
それさえも、守られている≠ニ気付かせないためであることを知っている。自分の幸せが誰かの犠牲の上に成り立っていることを知り、悲しませないためであることを知っている。
だからこそ、快斗は彼の側に在りたいと思った。
誰も知らない彼の傷を、自分だけは知っていたいと願った。
誰にも守られることを望まない彼だけれど、ともに傷付くことを快斗にだけは許してくれたから。
「白か黒でしか物事を計れないおまえには、理解できねーだろうな」
光と影。善と悪。白と黒。
それは、決して交わることのない、対極に位置するもの。
だが、光から影が生まれるように、悪を知って初めて善を知るように、白と黒が交わる境界で均衡を保つもの、それこそが世界を支えているのだ。
彼と快斗がいる場所は、まさしくそう言った場所なのだ。
白馬にそれを理解しろとは言わない。
だが、彼の傷を知らない者が、彼によって守られている者が、彼を否定することは許さない。
「おまえは一生、そのちっぽけな正義を貫いていればいい」
それだけを言い残し、快斗は白馬の横を通り抜けて展望室を後にした。
取り残された白馬はまるで凍り付いたように動けない。
かなり失礼なことを言われたはずだ。それなのに、ひと言も反論できなかった。それはおそらく、無礼な発言に反し、それを口にする快斗の眼差しが終始羨望に満ちていたからだろう。
誰かを守るためなら罪を犯してもいい、などとは思わない。法とは秩序を守るべくして制定されたものであり、つまりその法さえ順守されるのであれば秩序も守られるはずだからだ。
けれど、法を無視する者たちにその理論が通用しないことも分かっている。だからこそ違反者は罪を罰せられるべきなのだ。それに例外を作り出したらキリがない。
自分のその考えが間違っているとは思わない。
けれど、ふと、思ってしまった。
法で裁かれることを望む者が、その法で裁かれなかった時――
罪を償う方法を示されなかった咎人は、何を以てその罪を償えばいいのか。
その答えを見つけることは、白馬にはできなかった。
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