花も嵐も踏み越えろ
ここからおよそ五キロほど離れた上空に、闇に包まれた米花市を真昼のように照らし出すサーチライトの光を撒き散らしながら、十機ほどのヘリコプターが旋回している。
いくら凶悪犯罪の発生率が高い東京と言えども、これほど厳重な警備が行われる事件はひとつだけだ。
つまり、この物々しい警備は全て怪盗キッドのためだけに用意されたステージなのだった。
存在こそしているものの、事実上解散させられた対策本部でこれほどの警備が行えるのも、偏に長年キッドを追い続けてきた中森警部の熱意と強引さがあってのことだろう。
その彼との追いかけっこも今夜が最後なのだと思えば、不思議と名残惜しさを感じる。
目的を果たすための手段でしかなかったはずの怪盗業が、いつの間にか自分の生活の一部になっていたのだ。
それでも、父の残したこの衣装に一抹の寂しさは感ずれど、全てを終わらせて彼≠フもとへ行くことに何ら躊躇いはなかった。
(見てるかな…しんいち…)
次第に高まってゆく鼓動はこれから行おうとしている最後のショーに向けての緊張なのか、それとももうじき彼≠ノ会えることへの喜びなのか。
それは快斗にも分からなかったけれど、緊張を解すように、気持ちを高めるように、胸の奥にいつも大事に仕舞い込んでいる携帯電話をぎゅっと握り締めた。
chapter 14-3 : ねじれた感情
毎年この時期に米花博物館で開かれる「世界の宝石展」に、今年はフランスの貴族、マリー・アンヌ・ド・モンティジョ伯爵令嬢から、これまで門外不出だった家宝のビッグジュエル赤い涙≠借りることになり、米花博物館側が喜んだのも束の間、契約が決まった翌日に怪盗キッドから予告状が届き、館長は卒倒したという。
下手をすれば国際問題にも発展しかねない状況に館長は慌てて警察に届け出ると、その責任をさっさと警視庁へと押しつけてしまった。
「心配せずとも、我々日本警察が必ず宝石を守ってみせますよ!」
『有り難う御座います、ムッシュー・ナカモリ』
館長室の応接セットに腰かけながらゆったりと微笑んだパリジェンヌに、その場にいた者たちはうっすらと頬を染めた。
いつものようにキッドの捕り物に参戦している白馬はどこか浮かない表情を浮かべながらも、今はフランス語が話せない中森に変わって通訳をしていた。
「それにしても、キッドの奴は何を考えてるんだ? ワシや白馬探偵はともかく、モンティジョ嬢にまで同席するよう指定してくるとは…」
刻々と迫り来る予告時間に向けて万全の態勢を整えつつも、いつもと違う怪盗の様子に中森は首を捻った。
今回の予告状は暗号ではなく、単純に標的と犯行時刻が記されており、更に中森警部を始め捜査本部の警官全てと白馬探偵、それから宝石の所有者であるモンティジョ伯爵令嬢までもが同席するようにと記されていた。
しかし、まるで関係者全てを集めようとするキッドの指示に一抹の不安を覚えたのは、怪盗の存在理由を垣間見た白馬だけだった。
(黒羽君…もしかして君は今夜の犯行で…)
ぎゅっと握った拳を見つめ、白馬は唇を噛み締めた。
『――Ladies and gentlemen !!!』
と、唐突に館内全て、いや、博物館の周りに屯する野次馬にまで響き渡る大音量で、スピーカーからキッドのものと思しき声が流れ出た。
相変わらずの派手な演出に野次馬から大歓声が上がり、続いてキッドコールが始まった。
その声さえも掻き消す勢いでキッドは続けた。
『今宵は私の最大の、そして最後のショーにお集まり頂き、有り難う御座います。今日を限りに私はステージを降りますが、皆さんの心の中で永遠に生き続けられるよう、今宵は私の持てる限りの力を尽くし、最高の魔法をご覧に入れましょう!』
ドォン、という派手な打ち上げ音とともに、博物館の四方から一斉に花火が打ち上げられる。
色とりどりの火花を撒き散らすその中に、ふと、まるでヘリのサーチライトをスポットライトのようにその身に受けながら悠然と佇む怪盗の姿が博物館の屋上に浮かび上がった。
白いタキシードにシルクハット、そして風に靡くマント。
奇抜でありながらこれ以上なくその存在に似合ったスタイル。
人々はたった今怪盗が口にしたことが信じられなくて、けれどこの素晴らしいマジシャンの勇姿を一瞬も逃さず目に焼き付けたくて、呆然と屋上を見上げている。
キッドの発見とともに捕獲の号令を受けた警官たちが次々と屋上に押し寄せ、囲いの外のとても人が立つ場所とは思えない場所に佇む怪盗を確保しようと囲いを越えるが、彼らの手が届くよりも先に怪盗はその場を離れた――徒歩で、何もない上空を。
「凄い…! また、空中を歩いてる!」
警官が驚くのも当然だ。
これは以前鈴木財閥の相談役、鈴木次郎吉がキッドのために用意したビッグジュエル、ブルー・ワンダーを盗みに来た時にも見せたマジックだ。
だが、以前のようにキッドを吊り上げるヘリが真上にあるわけでもなく、ワイヤーを引っ掛けられるような建物が左右にあるわけでもない。
同じマジックは二度繰り返してはならない、その原則に従い、一度タネを見破られたマジックは二度と用いない、ということだ。
どれほど歩きにくい場所でも足場があるならまだしも、上空では手も足も出ない。
どうすることもできず屋上で右往左往している警官たちに向かって、怪盗は優雅に一礼した。
「皆さま、ご機嫌よう」
ぽんっ、と煙が吹き出したかと思えば、それまでキッドがいたはずのところから大量の鳩が飛び出し、夜にも拘わらず四方へ飛び去った。
キッドの姿が見えなくなってから後も、観客の口からキッドコールが止むことはなく、あちこちに施された仕掛けから飛び出す数々のイリュージョンに歓声が止むこともなかった。
その、数分後。
展示場から一時館長室へと保管場所を移された赤い涙≠ニその持ち主を守るように立ちはだかっていた中森警部と白馬探偵を前に、キッドは常と変わらない飄々とした態度で対峙していた。
既に宝石はキッドの手の中にある。
「キッド…! 今夜が最後の犯行だと!?」
犯罪者が犯罪を辞める。
喜ばしいことのはずなのに、驚愕の中にどこか悲しそうな色を滲ませた中森に、キッドは苦笑するしかない。
彼は父の代からキッドをずっと追いかけ続けてくれた、言わば旧友のようなものなのだ。仕方ないだろう。
キッドにとって、警察諸君を含むギャラリーは全て大切なファンだった。
だから、これまで追い続けてくれた警察に、応援し続けてくれた観客に、感謝の気持ちと礼儀を以てショーの幕引きと為すのは、キッドの中では当然のことだった。
「ええ、中森警部。私が私のために盗みを行うのは、今夜が最後です」
「馬鹿な…!」
狼狽える中森の前に一歩進み出た白馬が、きつい、けれど縋るような目で睨み付けながら言った。
「つまり、この赤い涙≠アそが貴方の目的の宝石だった、ということですか…?」
「……そういうことになりますね」
怪盗はくっ、と口角を吊り上げると、この状況の中椅子に腰かけたまま静かにこちらの様子を見守っていたモンティジョ嬢に向き直り、一礼した。
『マリー・アンヌ・ド・モンティジョ伯爵令嬢。そういうわけですので、この宝石はお返しできません。もう二度と…誰の手にも渡ることはないでしょう』
突然フランス語で話し始めたキッドに何を言ったのか聞き取ることができず、中森は隣にいる白馬に「奴は何と言っているんだ!?」と怒鳴るように問い掛けた。
イギリス留学が長い白馬は、英語の他にもEU加盟国の主立った言語であれば多少は喋ることができる。
「この宝石は返さない、と…」
「何だと!?」
当然だ。
この宝石がこれまでキッドが探し続けていたものだとすれば、それ以外の宝石は必要なかったから返却していたのだ。
けれど、あまりのことに息巻く中森と青ざめる館長を余所に、モンティジョ嬢は動揺することなく静かに立ち上がった。
『――構いません。貴方に、お譲り致します』
キッドを除き、この場で唯一フランス語に堪能だった白馬は、彼女の発言に目を瞠った。
『なっ、何を言っておられるんです!?』
『所有者である私が構わないと言っているのです。こちらの博物館への違約金でしたら、言い値をお支払い致します。ですからこの宝石は、今より怪盗キッドのものです』
『――Merci Beaucoup, mademoiselle』
いつの間にか警官の波を飛び越えてモンティジョ嬢の目前に迫った怪盗は、彼女の前に跪きながらその白い手を取って優雅に口付けた。
モンティジョ嬢は怪盗の奇行に驚くことなく、甘受している。
どこか作為めいたものを感じた白馬が何かを言うより先に、怪盗はこの部屋を飛び出していた。
中森を筆頭に一斉にキッドに向けて駆け出す警官の群れを見送り、白馬はモンティジョ嬢へと振り返った。
『…始めから、彼に譲渡するつもりだったのですか?』
『仰っている意味が、分かりかねますが』
花のような笑みで煙に巻こうとする彼女は、どことなく怪盗と似ている。
おそらく彼女から真実を聞き出すのはとても骨が折れるだろう。
『――白ではなく、黒でもない場所。貴方もそこにいるんでしょうね』
何かを知っているような口振りの白馬に、彼女は嬉しそうに破顔した。
* * *
遠くに感じる警察の追跡の他に、執拗にまとわりつく嫌な気配を、米花博物館を出た時から快斗は感じていた。
おそらくは――組織の残党。
獲物が掛かったことに薄笑いを浮かべ、快斗は敢えて対峙しやすい人気のない場所へと向かってグライダーを飛ばした。
組織が長年探していた赤い涙=Aその宝石を大々的に狙えば、こそこそと隠れていた連中を誘き出せると思っていた。
だからこそわざわざマリー・アンヌに米花博物館に宝石を出展するよう持ちかけ、更に博物館側に迷惑が掛からないよう、正式ではなかったとしても彼女の口から「宝石をキッドに譲渡する」旨を証人の前で話させたのだ。
これで、捕らえ損ねていた残党も粗方拿捕することができる。
つまり、新一の更なる安全が確保されると言うことだ。
所詮快斗の行動のベクトルは全てが新一を中心に働いているのだった。
適当な廃墟を見つけ、快斗は翼を折り畳むと静かに舞い降りた。
向こうも気取られていることに気付いているのだろう、隠す気など毛頭ない殺気を露わに非常階段を駆け上る耳障りな音を撒き散らしながら次々と姿を現した。
「…宝石をこちらに渡してもらおうか」
拳銃を片手にお決まりの脅し文句を口走る男たちに、快斗は嘲笑を浮かべた。
「この宝石を手に入れたところで、今更どうするつもりだ? おまえらの組織はもう跡形もない。投げられたボールを拾ってきても、それを受け取る飼い主が監獄の中じゃ無意味だろう?」
だが、男たちも負けじと笑みを浮かべた。
「貴様はその宝石の価値を理解していない。それを欲しがる者はいくらでもいる。それを手に入れてどうするか、それは後でじっくり考えるさ。餌さえちゃんと与えてくれるなら、飼い主なんざ誰でもいいんだ」
事実、組織が瓦解し、野放しになった残党どもをこれ幸いと懐に抱き込もうとする別の組織が存在する。それも、二つや三つどころでなく。
組織の跡地とともに瓦礫に呑み込まれていった男が遺した言葉を思い出し、快斗は不愉快そうに顔をしかめた。
――不老不死。
そんなものに、どれほどの価値があるというのか。
いや、この際、そんなことはどうでもいい。価値観の問題ではないのだ。
問題は、それを欲する者たちが、他人の犠牲の上に己の願望を満たすことを厭わない、最低の人種ばかりだということだ。
その歪んだ願望のもとに、一体どれほどの人々の命が踏みにじられてきたことだろう。
マリー・アンヌが――父が――新一が、どれほどの傷を負ってきたことだろう。
「おまえらみたいな奴らがいるから…」
ふつふつと腹の底から湧き上がるこの暗く冷たく重たい感情は、紛れもない殺意だ。
分かっている。
この想いもまた、歪んでいることは。
けれど、では、歪みを正すにはどうすればいいのか。
「おまえらみたいな奴らがいるから、俺みたいな人間が手を下すしかねえんじゃねえか――!」
快斗の絶叫と、撃鉄を起こす金属音とともに周囲がライトアップされたのは、ほぼ同時だった。
気付けば、キッドを囲んだ男たちを更に取り囲むように、完全武装の警官が拳銃を構えている。
おそらく、警視庁の特殊急襲部隊だろう。
残党どもの気配と混ざって気付かなかった快斗だが、懐の携帯が振動を伝えてきた瞬間、全てを理解した。
「君たちは既に包囲されている。観念したまえ」
そう言った男は、警視庁の刑事部部長、小田切敏郎警視長。日本警察の指揮官として組織壊滅プロジェクトの一端を担った男だ。
彼がここにいるということは、間違いなく彼≠ェ関わっている。
腹の底から凍えきっていたはずの快斗の体に、血が巡ってゆくように温かさが広がってゆくのが分かった。
確保されていく男たちを後目に、あれほど抑えがたかった衝動を静めた快斗は、小田切だけが見守る中、静かに夜の闇の中へと沈んでいった。
そうして彼らが気付いた頃には、彼の怪盗の姿はこの世のどこにもなくなっていた。
もう二度と怪盗は――復讐を果たすために甦った罪人は、現れない。
たとえこの先愚かな人間どもが幾度となく同じ過ちを繰り返したとしても、彼らを止めるのは復讐者ではない。
その歪みを正してくれるのは――真実を映すあの蒼い双眸。
彼だけだ。
彼だけが、自分を導いてくれる。
たとえどれほどの激情に流されようと、どれほどの苦痛に押し潰されようと、彼の存在がこの捻れた感情を解きほぐしてくれる。
(しんいち、しんいち…!)
どことも知れない路地裏に駆け込み、快斗は胸を押さえて蹲った。
そこには大事な、大事な彼とを繋ぐ唯一の絆が仕舞われている。
その、今の快斗にとっては命ほどにも掛け替えのない重みを抱き締め、快斗は嗚咽を噛み締めた唇の間から何度となく彼の名前を囁き続けた。
止まらない想いが胸の中をめちゃくちゃに暴れ回っている。
その想いが、自分を生かしてくれる。
(しんいち…こんなにも、俺はおまえを…)
――愛してる。
それだけが、快斗の真実だった。
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