花も嵐も踏み越えろ
chapter 14-2 : ねじれた感情
『盗一様はこの宝石を狙う者から私を守るため、そして父を殺した者たちを誘き出すため、かつてフランスの偉大な作家が生み出した怪盗紳士に自ら扮して下さいました』
このまま宝石を彼女の手元に置いておいては、再び賊がそれを奪いに来るかも知れない。そうなれば彼女の命も危うい。
その危険性を憂慮した盗一は、大胆な行動に出た。
自ら盗人となり宝石を盗むことで、賊の目を自分に向けさせたのだ。
そうすることで彼女を危険から遠ざけ、尚かつ彼女から父を奪った者たちを誘き出した。
そしてその日から、黒羽盗一と石を狙う組織との戦いが始まったのだった。
父らしいと言えばあまりにらしすぎる理由に、快斗は唇を噛み締めながら俯いてしまった。
たったひとりの少女を助けるために怪盗となることを決めた父は格好いいと思う。
全てを警察に委ねることもできたはずなのに、自分の手で、力で、誰かを守ろうとする父は心底誇らしい。
けれど――たとえどんな理由があったとしても――もう二度と会えないという事実は変わらない。
それが、ただ、哀しかった。
『…ひとつだけ、恨み言を言わせて貰っていいですか』
快斗の囁きに口元を引き締めながらも、マリー・アンヌは毅然と頭を下げた。
『覚悟しております。貴方がたご家族から盗一様を奪ったのは私も同然です。いえ、危険を承知しておりながら自らの私怨のためにあの人を止めなかった罪は何よりも重いものであると存じ上げて』
『――笑ってよ』
遮るように言われた言葉にマリー・アンヌは瞠目した。
顔を上げれば、ぎこちないけれどそれでも笑った快斗が優しい眼差しを向けてくれている。
その面影はやはり彼の父とよく似ていて、彼女の視界は徐々に歪み始めた。
『貴方、笑う時に眉が下がるんだ。俺やおふくろや親父への罪悪感でいっぱいで、もうずっと笑ってないんだろ? 親父は貴方の笑顔を守りたかったはずなのに、それじゃ報われないよ』
なぜ、彼は笑いかけてくれるのだろう。
辛くないはずがないのに。苦しくないはずがないのに。
それでも人を許し、愛せる強さを――自分も持てるようになれるだろうか。
『私、…盗一様のお墓にお参りさせて頂いても宜しいでしょうか…? この八年間、ずっと貴方や千影様に申し訳なくて…それ以上に、私と関わることでお二人を危険に曝すことが怖くて…ずっと、行けなくて…』
怪盗キッドの正体が黒羽盗一であると組織に気付かれたのは、宝石の所有者であったモンティジョ伯爵と盗一の関係に気付かれたからだ。
たとえ有名マジシャンの墓参りだろうと、これ以上彼女が盗一との関わりを仄めかせば、組織は盗一がキッドであったことをより強く確信し、残された家族にまで害が及ぶかもしれない。
そうなることを恐れて、彼女は千影との交友も断ち切り、まるで隠れ住むように暮らしてきた。
そうしていつの間にか心から笑うことなど忘れてしまった。
『いつでもおいで。きっと母さんも気にしてるはずだから』
静かに涙を流す彼女にハンカチを差し出せば、彼女は泣きながらもにこりと笑みを浮かべた。
『――ところで、その宝石は今どこにあるの?』
怪盗となった父が盗み出したと言っていたが、快斗の部屋に仕掛けられていたあの隠し部屋の中にそれらしいものはなかった。
第一、そんな大変なものをそこらへんに転がしておくとは思えない。
まさか父が死んで在処が分からなくなってしまったのだろうか。
『いえ、今は私の手元にあります。盗一様がスイス銀行に預けてらしたのを、先日私が出して参りました』
『スイス銀行!?』
プライベートバンクにおいて世界一の伝統と実績を誇る、あのスイス銀行に預けていたというのか。
それは如何に組織の者であっても、たとえその情報を手に入れたところでそう易々と手は出せないだろう。
それどころか、下手をしたら二度と世に出ない可能性もある。
『探しても見つからないわけだ』
すっかり仰天してしまった快斗だが、不意に居住まいを正したマリー・アンヌにつられ姿勢を正した。
『実は、貴方にお話したいことというのはその宝石についてなのです』
彼女が視線を向ければ、脇に控えていた老紳士が心得たように部屋のセーフティボックスから木箱を取りだし、彼女に手渡した。
両の掌に丁度載せられるくらいの木箱だ。
そう――ビッグジュエルと呼ばれる宝石を保管するには、丁度いい大きさの。
『これがその我が家に伝わる家宝のひとつ、la larme rouge≠ナす』
そう言って彼女は木箱をテーブルの上に置き、丁寧に蓋を開け、快斗の前に差し出した。
la larme rouge=\―英語に直訳すればthe red tear=Aつまり赤い涙≠ナある。
その名の通り鮮やかな紅色の宝石だった。
(これが…パンドラ…?)
その石を目にした瞬間、それこそが自分がずっと探し求めていた宝石であることを快斗は確信した。
ホテル特有のオレンジ灯の光を受け、深い紅の輝きを放っている。
それは想像していたような禍々しいものではないけれど、確かに人の心を魅了する不思議な力を持っていた。
『この宝石には逸話があります。十八世紀にとある錬金術師が生成したものだと伝え聞いているのですが、満月の光に翳すと赤い滴を零すと言われているのです』
やはり、パンドラの伝承と合致する。
しかし嘘か誠か、一万年に一度地球に近づくというボレー彗星と関連づけるには、この宝石が作られた時期が十八世紀だと歴史が浅すぎる。
それとも、その錬金術師とやらがこの宝石を生成する原料として用いたものこそがパンドラだったのだろうか。
とは言え快斗にはパンドラどころか、ボレー彗星と呼ばれる彗星が実際に存在するのかどうかも、正直なところ分からなかった。
特定の周期で地球に接近する周期彗星の中で現在確認されているのは、最長のものでもおよそ三七〇年。
一万年もの周期を持つ彗星があるとは思えない。
いや――そもそも、パンドラが不老不死を与える石なのだとしたら、一体誰がそれを証明したというのか。一万年も生きてきた人間が、どこにいるというのか。
『…失礼だけど、貴方はこの石が不老不死を与えると信じてるの?』
この宝石を家宝として受け継いできた人に対してその宝石の真偽を確かめるようなことを尋ねるのは失礼なことだろう。
そう思いながらも遠慮がちに尋ねれば、彼女は緩く首を振った。
『いいえ。そもそもこの宝石にそんな伝承はありません。考古学者だった父の手元に、たまたま古い伝承の一部と類似した逸話を持った宝石があったために、誰かが勝手な憶測を立てたのだろう、と…盗一様は仰いました』
石があったから考古学者となったのか、考古学者となったから石の価値に気付いたのか。
そんなことは彼らにとってどちらでもいいのだ。
ただ過去の遺物や伝承の研究に携わっていた男の手元に曰く付きの宝石があった、その事実が、彼らにその石が自分たちの探し求めていたものだと思わせてしまったのだろう。
『伝承にある命の石≠ェ本当に存在するのか、それは私にも分かりません。ですが、父を殺し、盗一様を殺し、そして貴方の命までをも奪おうとしていた者たちがパンドラ≠ニ呼び探していたのは、間違いなくこの宝石です』
信じて頂けましたでしょうか、と尋ねる彼女に、快斗はしっかりと頷いた。
この宝石が確かに組織が探しているパンドラであることは分かった。
だが、では、この宝石を砕けば全ては終わるのだろうか。
人々の心の中から不老不死などという馬鹿げた夢が消えることはなくとも、少なくとも母を苦しめ、彼女を苦しめ、自分を苦しめてきた者たちからその愚かな願望を奪うことができるのだろうか。
この衣装を脱ぎ捨て――彼≠フもとへ行くことが、できるのだろうか。
感情の見えない眼差しでじっとパンドラを見つめたきり微動だにしない快斗を見て、マリー・アンヌは胸に秘めていた決意を口にした。
『快斗様。どうかこの宝石を受け取っては頂けないでしょうか』
『…え?』
『私は、もう二度とこの宝石を世に出すつもりはありませんでした。愛する人たちを苦しめた宝石に憎しみこそ抱けど、愛着など微塵も持ち合わせておりませんでしたから。ですが、今、貴方にはこれが必要なのでしょう? 八年の沈黙を破って甦った怪盗の目的は、この石の破壊なのでしょう?』
全てを見透かされていることに戸惑ったのは一瞬で、彼女も同じ憎しみを抱いたことのある復讐者だったのだと思えば、敢えて自分を繕う必要はないのだと、快斗は肩の力を抜いた。
『…いいの? 俺はパンドラを塵も残さずこの世から葬り去るつもりだよ』
『そうして頂くことが私の望みでもあるのです』
一片の迷いもなく言い切ったマリー・アンヌに、すっかり根負けした快斗は苦笑を漏らした。
『分かった。折角の厚意だし、有り難く頂いておくよ』
『よかった…!』
安心したように両手を胸の前で握り締める彼女に、「ただし」、と快斗は人差し指を口元に宛いながら、まるで夜を駆ける気障な怪盗が如く冷涼な気配を一瞬にして纏った。
それだけでまるで室内にあの涼やかな、背筋をすっと這い昇る静かな冷たさを持った夜の気配が充満したように感じる。
少年の背後に広がる夜景がスポットライトとなり、黒いスーツが純白のタキシードに変わる。
その、圧倒的な存在感。
今彼女の目の前に座るのは少年でもマジシャンでもなく、夜の支配者たる月下の奇術師――怪盗キッドだった。
『ただし、ステージはこの私が用意します。貴方はどうぞ、怪盗キッドの最後のショーをごゆるりと堪能下さい』
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