花も嵐も踏み越えろ






 キラキラと、月明かりを弾く欠片は不思議と美しく感じた。
 悲しみと憎しみの象徴だったはずの石。
 しかしそれもこうして砕けてしまえばただの礫に過ぎず、砂利に紛れてしまえば最早誰の目にも留まることなく踏みつけられる石くれでしかない。

 ――全ては、終わったのだ。

 この光を綺麗だと思えるということは、そういうことだった。
 快斗の中で重く冷たく凝り固まっていた復讐という名の楔もまた、この石とともに砕け散ってしまったのだろう。
 この日をどれだけ待ち望んだことか。

 それなのに。


 ――泣きたくなるのは、なぜ。















chapter 17 : 月光

















 カタリと、まるで小鳥が降り立つような微かな物音がベランダから届き、新一は伏せていた顔を上げた。
 現在、夜の九時を五分ほど回ったところだ。
 特にすることもなく手持ち無沙汰になった新一は、枕元のテーブルライトをつけただけの部屋の中でベッドに横たわって本を読んでいたのだが。
 こんな高層マンションのベランダに、それも夜目の利かない鳥が降り立つとは考えがたい。
 となれば、思い当たるのは高さも夜目もものともしない希有な鳥だけだ。
 新一は読みかけの本を放り出すと、ベッドから降りた。
 心なし、ベランダへと向かう足取りが速くなるのは仕方ない。
 なにせ、この時をずっと心待ちにしていたのだから。

 新一はベランダを覆い隠していた分厚いカーテンに手を掛けると、躊躇いなく引いた。
 思った通り、そこには白い鳥が佇んでいた。
 薄暗い部屋の中、しかし月明かりにくっきりと浮かび上がるその姿は新一が待ち望んでいたままの姿。
 自然と口元が綻んでしまう。

 新一はベランダの窓を開け、ようやく戻ってきた白い鳥に向かってただ一言。

「おかえり」

 白い鳥は歯を食い縛り――倒れ込むように腕の中に飛び込んできた。
 衝撃でシルクハットが転がり落ちる。
 支えきれずに尻餅を付いた新一の胸に顔を押しつけ、膝をつきながらも縋り付いてくる白い鳥の――快斗の頭を抱え込む。
 食い縛った歯がなにを堪えようとしているのか、新一には分かる気がした。
 少なからず同じ気持ちを新一も抱いている。
 彼には遠く及ばずとも、それでも身を切るような切なさを感じている。
 だから彼にも負けじと強く抱きしめ返しながら、噛み締めるように言った。

「よく頑張ったな。お疲れさま、……怪盗キッド」

 快斗の肩が震えた。
 そしてすぐに嗚咽が漏れた。

 快斗は――泣いていた。

 怪盗キッドはただの泥棒ではない。
 義賊だとか、愉快犯だとか、人々に愛される奇術師である以前に、黒羽快斗にとっては、血を分けた肉親なのだ。
 それも、既にこの世を去った父親が残した、最期の忘れ形見とも言うべきものだ。
 それを、今一度己の手で命を持たないただの幻影に戻さなければならない彼の悲しみはどれほどのものか。
 新一には想像もつかない。

「なん、で……っ」

 嗚咽の合間に絞り出される言葉に、新一は懸命に耳を澄ました。

「なんで……、もっと嬉しいと思った、のに……」
「うん……」
「ちっとも嬉しくないんだ……っ」
「……うん」

 ふわふわの癖毛をくしゃりと撫でる。
 自分にできることは少ない。
 それを悔しく思いながらも、新一は精一杯優しく髪を撫で続ける。

「パンドラを壊して、親父を殺した奴らを捕まえて。そうすれば新一に会いに行けると思ったから、あんなに頑張ったのに……いざ全部が終わったら、どうしたらいいのか分からなくなった……」

 後はただ衣装を脱ぎ捨てるだけだった。
 それで全てが終わる。
 それだけで――怪盗キッドは消える。

 それはなんという喪失感。

「分かってるのに……窃盗が罪だなんて、そんなの分かり切ってるのに……キッドがいなくなるくらいなら、ずっと罪人のままでもいい、なんて、俺、思っちまって……!」

 まるで途方に暮れた子供のように泣きじゃくる快斗に、新一はかける言葉を持たなかった。
 罪を犯すのはいけないことだ、なんて、そんな当たり前のことももう言えない。
 新一もまた、数え切れない罪を犯してきた。
 でも、お前の好きにしたらいい、なんて無責任なことも言えない。
 彼はもう分かっている。
 どうすべきか、どうしなければならないのか、彼はもう選んでいる。
 だから、苦しんでいる。
 苦しむ自分に戸惑っている。

 けれど、ふと見上げた先に煌々と輝く月を見つけ、新一は息を呑んだ。
 なんだ、そうだったのか――と。

 新一は髪を撫でていた手でそっと快斗の頬を包み込み、やんわりと顔を上げさせた。
 その目は見たこともないくらい真っ赤になっていた。
 いや、いつだったか、新一が死んだと勘違いした時にもこんな風に目を腫らせるほどに泣いてくれたけれど。
 新一は笑った。
 少し、泣き笑いのようになってしまったかも知れない。

「怪盗キッドはいなくならねーよ」
「……え……?」

 促すようにふいと顔を上げれば、つられた快斗の目にも月が映る。

「月を見る度、俺はキッドを思い出す。月がある限り、世界が偉大な魔術師を忘れる日はこない」

 だから、キッドがいなくなる日はこない。
 きっぱりと告げれば、快斗は目を見開き――くしゃりと破顔した。

「すげえ、しんいち……もの凄く納得しちまった」
「当たり前だろ? なんたって、俺は真実を見抜く探偵だからな」
「ああ……その名探偵が見つけた答えなら……きっとそれが真実になるよな」

 それでもまだ不安そうにしている快斗に、新一は不敵に笑ってみせる。

「八年経っても誰も忘れなかった大怪盗だろ?」
「……そうだな」

 ステージ中の事故という形でこの世を去った初代怪盗キッド。
 その事実を知らず、それでも世間は彼のことを忘れなかった。
 その筆頭は長年彼を追い続けてきたという中森警部だろう。
 そして八年の沈黙を破って復活した怪盗を、代替わりしたという事実は知らずとも以前と変わらず追いかけてくれた。
 世間もまた、怪盗の復活を喜んでくれた。
 それは、彼らの中で怪盗の記憶が色褪せることなく存在し続けたことの証明に他ならない。

 快斗は覚悟を決めるようにぎゅっと目を瞑った。
 まだ苦しそうに眉は寄せられていたけれど、口元には紛れもない笑みが浮かんでいる。
 そして顔を上げた時、そこにはもう頼りない子供の面影はなかった。
 ばさりと眼前をすり抜けていったマントが翻り、真っ白に埋め尽くされた視界が晴れれば――不敵な笑みはかつて何度となく対決した怪盗のものなのに、そこにいるのはもう怪盗ではない黒羽快斗だ。

 新一は微笑んだ。
 そして最初の言葉をもう一度告げた。


「おかえり、……快斗」


 もう、魔術師は泣かない。
 今度は笑って、その腕の中に飛び込んだ。





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