花も嵐も踏み越えろ






 目が覚めたら、大好きな人の寝顔が目の前にあった。
 その近さに心臓が止まりそうなほど驚き、無防備な寝顔にショートしそうなほど鼓動が跳ねた。

 そっと手を伸ばしてその柔らかい髪に触れてみる。
 思った通り肌触りのいい、滑らかな感触に笑みが零れる。
 そのまま頬に手を滑らせても彼は目を覚まさない。
 それほどまでに許されている。己の存在を。

 堪らなくなって、シーツの上を芋虫のように這い寄って、吐息さえ盗めそうなほどの距離まで顔を近づけた。
 緩やかな腹式呼吸を繰り返す、慎ましく閉じられた唇に引き寄せられる。
 けれど、盗んだりはしない。
 もう泥棒からは足を洗ったのだから。

 だから快斗は、触れるか触れないかギリギリの距離で、ただ囁いた。

 「大好きだよ」――と。















chapter 18 : 長い夜が明けて

















 快斗の父、黒羽盗一が亡くなって八年が経ったあの日――快斗の部屋に仕掛けられた秘密の扉が開かれたあの日――全ては始まった。
 死して尚尊敬してやまない偉大な魔術師、黒羽盗一と、世間から姿を消して久しい月下の奇術師、怪盗キッドとの奇妙な繋がり。
 それを知った快斗は、残された衣装を纏うことを決意した。
 そしてその日から、快斗の長い長い夜が始まった――。

 父の死の真相も、怪盗となった理由も、なにも分からないまま走り出して。
 徐々に明らかになっていく真実に傷つかなかったと言えば嘘になる。
 尊敬する父が泥棒だったことも。
 父の死因が事故死ではなく殺人であったことも。
 そして何より、父を殺したという連中の存在にこそ深い憎悪を感じ、その心のまま復讐を誓った。

 それはとても暗い道程だった。
 誰かを憎むということは己の心までもを削ることなのだと初めて知った。
 それでも感情とはどうにもならないもので、これまで通り屈託なく昼を過ごす一方で、父を殺した連中と出会した夜などは、所構わず当たり散らしてしまいたくなる衝動に駆られることも少なくなかった。
 そんな時、快斗の世界はとても狭く、暗くなる。
 ほんの一寸先さえ見えない闇の中に閉じ込められてしまう。
 そこから這い出ようという気力すらなく、ただ朝が来るのをじっと待つだけ。
 もしかしたら朝など永遠に訪れないのではないかという絶望の中、ひどくゆっくりと流れていく時間をひたすら耐え続けるしかなかった。

 けれど、あの日、快斗は出逢った。


 ――江戸川コナン…探偵さ…


 どきどきした。
 いや、はらはらした、と言った方が正しいかも知れない。
 確保不能の怪盗をたった一人であそこまで追い詰めた、探偵を名乗る小学生。
 あまりの怪しさと悔しさに「テメーは何者だ」と躍起になって調べた、けれど分かったのは通っている学校と両親が海外在住であること、そしてとある探偵の家に居候しているということぐらいで。
 何も不自然なところなどない、どこにでもいるごく普通の小学生。
 けれど快斗は知っている。
 あの目が犯人を追い詰める時の鋭い輝きを。
 理路整然と真実を暴いていく、冷厳な声を。

 気づけば、彼を目で追う自分がいた。
 ストーカーのように彼を追うような真似はしなくても、なにかの拍子に仕事がバッティングしてしまった時などは、不必要なちょっかいをかけたりして。
 そうして彼のことを少しずつ知っていく度、なぜか惹かれていった。
 時に怪盗の手を借りてでも殺人犯を追おうとする子供は、多分どこかがおかしいのだと思った。
 なぜ追われる立場にある怪盗が、追う立場にある探偵を助けるなどと思えるのか。
 なのに彼は一度事件が起これば後の一切を視界から取り除いてしまう。
 下手をすれば怪盗の存在すら忘れている時もあるくらいだ。
 まさか他の犯罪者を相手にも同じことはするまいと思う反面、自分だけだと思うとその特別扱いが有り得ないぐらい嬉しく感じたりもして。

 おかしいのは自分の方なのだと気づいた。
 怪盗が、探偵相手に有り得ない信頼を抱いていた。
 そしてそれが自分だけではないのだと証明されたあの日から、快斗の世界は変わった。

 少しずつ、少しずつ、闇に差し込んでゆく微かな光。
 それは星明かりとなり、月明かりとなり、いつの間にか闇は闇でなくなった。
 日毎夜毎に訪れる、それはそう――ただの夜。
 闇を夜に変えたのは彼だ。
 そして光量を増していく光はやがて太陽となって、とうとう朝をつれてきた。

 長い、長い夜が明けたのだ。



 朝の光の中、快斗は目に焼き付けるように新一の姿を一心に見つめる。
 大して広くもないベッドで二人、ひとつの布団にくるまって夜を明かした。
 昨夜盛大に泣きじゃくった快斗を慰めるように握り締められた右手は朝になっても繋がれたままで。
 目が覚めた今尚、決して離すものかと握り締めている。

(だって――…ないと、もう生きていけないんだ)

 大切すぎて。
 心の奥底、魂にまでも根付いてしまうほど、快斗の命の深いところに入り込んでしまったその存在は、もう絶対に引き裂けないものになってしまった。
 無理に裂いたなら死んでしまう。
 そして今度こそ、明けない夜に世界は閉ざされてしまうだろう。

「しんいち……」

 こつんと額を軽く合わせれば、睫が微かに震えた。
 それさえも見落とすまいと快斗は目に焼き付ける。
 ゆっくりと持ち上げられる瞼の奥から綺麗な青色の瞳がそっと覗く瞬間を、夢心地で見つめた。
 重そうな瞼がぱちぱちと瞬きを繰り返し、微睡みにとけていた碧玉が徐々に冴えていったかと思うと。

「……はよ……」

 その青が、ふわりと笑み綻んだ。
 寝起きで掠れた声と相俟って、それはもの凄い衝撃だった。
 一際高く跳ね上がった鼓動、それに押し出された血が勢いよく体中を巡ったせいで、うっかり赤面してしまう。

「かいと……?」

 しかも心配してくれたらしい新一が空いている方の手で窺うようにそっと頬に触れてきたりするものだから、快斗は更に追い詰められたように息を詰まらせた。
 今更だけれど。
 ひとつの布団で眠るどころか、やむを得ない事情で唇を合わせたことだって一度や二度じゃないというのに、本当に今更、こんなことで動揺できる自分をどうしようもないと思うけれど――…


 …――想いが、溢れて。


「しん、いち……」
「うん? どうした?」
「……お願いが、あるんだ」
「うん?」

 瞬きで問い返す新一の髪にそっと指を差し込んで緩く撫でた後、縫い止めるように項に添える。
 新一はくすぐったそうにするだけで逃げもしない。
 快斗はこくりと唾を飲み下した。
 なぜかひどく口の中が乾いていた。
 たったそれだけの言葉を口にすることがこんなにも大変だなんて、きっと彼には想像もつかないのだろうけれど。

「……一緒に、いたいんだ」

 口にすれば、もう止まらなくて。

「新一の戦いがまだ終わってないことは分かってる。……もしかしたら、終わらないかも知れないってことも。でも、俺はこれからもずっと新一と一緒にいたいんだ。黒羽快斗として工藤新一の傍にいられないなら、姿や名前を偽ったって構わない。それでも新一の傍にいたい。もう一秒だって離れたくない。そんなの、――もう一瞬だって耐えられない……っ」

 新一の秘密を知っている。
 いつとも知れない、もしかしたら明日かも知れないいつか、彼が自分をおいてどこか遠くへ行こうとしていることを、快斗は知っている。
 もちろん置いていかれてやるつもりはこれっぽっちもないけれど、本気を出した新一の手強さは身に染みて知る快斗だ。

「快斗……」

 戸惑ったように新一が名前を呼ぶ。
 困らせているのは分かっている、でも、絆されてなんかやらない。

「俺の戦いは終わったけど。他になにも持たない、ただの黒羽快斗に戻ったけど。ただの俺じゃ、お前の傍にいられないのか?」
「……」
「キッドじゃない、なんの役にも立たない俺なんか、もう新一には必要ない……?」
「…――快斗!」

 怒ったように怒鳴る新一に嬉しくなる。
 もちろん彼がそんなつもりで快斗と手を組んだわけじゃないことは快斗にも分かっていた。
 叶うなら快斗との未来を彼も望んでくれただろうことも。
 けれど、もう待つのはやめたのだ。
 叶わないなら叶えるまで。
 自分たちはずっと、そうやって不可能を可能に変えてきたのだから。

 腹を括ってしまえば、不思議なほど快斗は落ち着きを取り戻すことができた。
 たとえ新一が逃げようと追いかけることはできる。
 もしかしたら捕まらないかも知れない、けれど追い続けている限りずっと新一と繋がっていられる。
 そして、そんな風に追い続ける快斗を無視できるほど新一が冷徹に徹しきれないだろうことを快斗は知っていた。
 型破りな性格に反して、誰かを守ろうとする時の彼は驚くほど繊細な優しさを見せる。
 その優しさにつけ込もうとする自分は卑怯この上ないが、なんと罵られようとも使えるものは全て使って、欲しいものを必ず手に入れるだけだ。
 思えば、自分はなんと根っからの怪盗だったことか。

 快斗は――笑った。
 それは幾日もの孤独な夜を乗り越えてきた、無敵の魔術師の笑みだった。

「そんな風に突き放すこともできないなら、もう諦めて俺を受け入れろよ、新一」
「……おまえ、分かってて……」
「怒る? それでもいいよ。それでも俺は、俺のために怒ってくれる新一が好きだから」

 快斗の告白に気づいているのかいないのか、怒ったように見上げてくる新一をぎゅっと抱きしめる。

「離さねーからな、新一。絶対、離れねーから」
「……かい、」

「俺さえ置いていかなきゃ、どこに行ったっていいから」

「――っ」


 それはなんて、甘い誘惑。


 堪えきれないとばかりに、新一は快斗にしがみついていた。
 離したくないのは――離れたくないのはどっちか、なんて。
 そんなのは、新一だって同じだ。
 ずっと一緒にいた。
 誰よりも近いところに立ち、誰にも言えない秘密を共有し、誰にも見せられない汚さや弱さだってこの相手になら晒すことができた。
 なぜなら、彼は、

(もうひとりの、おれ、だから……)

 どうして彼を置いていくことができようか。離れることができようか。
 ともにいるなら、連れて行くなら、新一は間違いなく快斗を選ぶ。

「馬鹿だ、おまえ……せっかく普通の生活に戻れるってのに……」
「誰が普通の生活に戻りたいなんて言ったよ。俺はおまえと一緒ならなんだっていいんだ」
「バーロー……」

 小さすぎる悪態は降伏宣言でもあった。
 満足げに笑う快斗を悔しそうに睨みつけながらも、新一は、この背中に回した腕を自分から離すことなんてとてもできそうにないと思った。
 この選択の先にどんな未来が待ち受けているのかは分からないけれど、そう思った心は偽りのない真実だから、と。
 今は暫し、幸福な夢を見る。


 そうして、二人の新しい朝は始まった。





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